第6話 統制された世界の目
あの錆びついた塔の下で誰かの視線を感じてから、世界は私に対して牙を剥き始めた気がした。気のせいかもしれない、と思おうとしても、一度意識してしまった「目」の存在は、じっとりと肌にまとわりついて消えなかった。
通学路の途中、ふと角を曲がった時に、今まで見たことのない黒いセダンが路肩に停まっている。私が通り過ぎると、静かにエンジンがかかる。駅のホームで電車を待っていると、向かいのホームに立つ、サングラスをかけた男が、こちらを観察しているように見える。考えすぎだ。自意識過剰だ。そう言い聞かせるたびに、私の日常は少しずつ削られていった。
「……やっぱり、追われてる」
放課後のPCルーム。アキラは、ブラインドを降ろした薄暗い部屋で、声を潜めて言った。彼もまた、同じ気配を感じているらしかった。私たちの間に流れる空気は、以前の密やかな冒険の匂いから、追い詰められた獣同士のそれに変わっていた。
「学校は安全じゃない。うちに来い」
週末、アキラは短いメールを送ってきた。文面には、彼が住むアパートの住所だけが記されていた。
初めて訪れたアキラの部屋は、彼の人間性をそのまま表したような場所だった。ワンルームの殺風景な部屋に、最低限の家具と、うず高く積まれた段ボール箱。生活の匂いはほとんどなく、まるでいつ逃げ出してもいいように準備された、仮の宿のようだった。段ボールには「A.I. Lab - Physics」と、アキラの父親のものと思われるラベルが貼られている。
「散らかってるが、気にするな」
「う、うん……」
私は部屋の隅に鞄を置き、小さな折りたたみテーブルの前に座った。アキラは慣れた手つきで彼のノートPCを開き、壁の端子から何本もケーブルを引き回していく。
「奴らが誰なのか、見当はついてる。だが、証拠が欲しい」
アキラはそう言うと、父親が遺したというプログラムの一つを起動させた。それは、複雑なネットワーク図のようなものが表示される、難解なインターフェイスだった。
「国内の公的機関が、特定の個人情報にアクセスするのを監視するプログラムだ。俺と、あんたのプロファイルに、異常なアクセスがないかどうか調べる」
「そんなこと、できるの……?」
「親父は、天才だったからな。……そして、それだけ用心深かったってことだ」
プログラムが走り出す。画面に、膨大な量のログデータが流れ始めた。ほとんどはノイズだ。しかし、数分後、いくつかのラインが赤く点滅し、アラートを鳴らした。
「……来た」
アキラの指が、キーボードの上を走る。赤いログの発信元を、幾重にもかけられた偽装を剥がすように、逆探知していく。そして、すべての経路が最後に収束した場所。そこに表示された組織名を見て、私は息を呑んだ。
『総務省 情報通信局 付置 情報統制保安局』
「……統制局」
アキラが、吐き捨てるように言った。
「表向きはサイバーテロ対策の専門部隊。だが、本当の任務は違う。親父のメモによれば、奴らはこの世界の『保護』システムの番人だ。浸食の再発を防ぎ、世界の壁を維持するために、手段を選ばない」
つまり、ノイズを認識する者、境界の存在に気づいた者、そしてそれを越えようとする者を、密かに監視し、時には「処理」する組織。私たちが感じていた視線の主は、国家そのものだったのだ。血の気が引いて、手足が冷たくなるのが分かった。
「どうしよう……。私たち、国に目をつけられてるってこと……?」
「ああ。だが、奴らに気づかれたってことは、俺たちの進んでいる方向が、少なくとも間違ってはいないって証拠でもある」
アキラは、恐怖に震える私とは対照的に、どこか挑戦的な目をしていた。彼は、さらにPCの奥深く、父親が遺した暗号化されたデータフォルダを開いた。
「親父は、統制局に追われていることを知っていた。だから、一番大事な情報は、簡単には見つからないように隠してあるはずだ」
いくつかのダミーファイルの中から、アキラは一つの研究日誌を見つけ出した。パスワードを解読すると、最後の日付で書かれたエントリーが表示される。それは、走り書きのような、短い文章だった。
『特異点は一つではない。塔は"出口"であり、"入
口"は別にある。鍵は"記憶"。旧K研究所。彼女を巻
き込んではならない。』
旧K研究所……? 聞いたこともない場所だ。入口と出口、そして鍵は記憶、とはどういう意味だろう。謎は、解けるどころか、さらに深まっていく。
だが、その謎以上に、私の心を凍りつかせたのは、最後の一文だった。
「彼女を、巻き込んではならない……」
アキラが、怪訝な顔で私を見る。
「この『彼女』って、誰のことだ……?」
私にも、分からない。
けれど、その言葉は、まるで今の私自身に向けられた、直接的な警告のように響いた。なぜだろう。私は、ただ偶然、世界のバグを見てしまっただけの、ただの高校生のはずなのに。
アキラの父親は、一体何を知っていたのだろう。
そして、私は、この物語の、一体何なのだろうか。
自分の足元が、突然、崩れ落ちていくような感覚。私は、ただアキラのPCの画面を、呆然と見つめることしかできなかった。
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