第3話 彼岸の窓

 転校生の相葉アキラは、良くも悪くも、すぐにクラスの中で特別な存在になった。彼は、まるで違う惑星から来たみたいに、私たちの世界の「当たり前」にいちいち躓いた。


 まず、彼の手には最新の情ケーがなかった。担任に言われて仕方なく買ったという、数世代前の真っ白な中古品。休み時間にクラスメイトがデコメールやmixiで盛り上がっていても、彼はその輪に加わらず、ただ窓の外を眺めている。


「相葉くん、マイミク申請していい?」


 クラスの女子が勇気を出して聞くと、アキラは面倒そうに「あー……まだ使い方がよくわかんないから」と答えた。その一言で、彼は「空気が読めないヤツ」のレッテルを貼られた。この世界でmixiをやっていないのは、自己紹介を拒否するのと同じ意味を持つのだ。


 彼の異質さは、授業中のふとした発言にも表れた。現代社会の授業で、メディアリテラシーの話になった時だ。先生が「iモード公式のように、認可された情報源からニュースを得ることの重要性」を説いていると、アキラがぽつりと呟いた。


「情報なんて、誰かが選んだ時点で偏るだろ」


 しん、と静まり返る教室。先生は苦笑いを浮かべて話を逸らしたが、私はアキラの横顔から目が離せなかった。彼が見ているのは、私たちとは違う風景なのだ。


 私は、アキラの中に、あの鉄橋で見た「ノイズ」と同じ種類の何かを感じていた。だから、昼休み、中庭のベンチで一人、分厚い洋書を読んでいる彼に気づいた時、足が勝手にそちらへ向いていた。


「……その本、英語?」


 我ながら、ありきたりな質問だと思った。アキラは本から顔を上げ、私を値踏みするように見た。先日のホームルームで目が合った、あの鋭い光だ。


「そうだけど。何か用?」


「ううん、別に……。アメリカにいたんだよね。こっちの生活には、慣れた?」


「見ての通り。全然」


 アキラはそう言って、ぱたんと本を閉じた。「日本のケータイって、何でこんなにボタンが多いわけ? メール打つのに指がつりそうになる。アメリカなら、こういう時、ツイートすれば一発なのに」


 ツイート。また知らない言葉だ。


「……アメリカって、情ケー、違うの?」


「情ケー? ああ、こっちの携帯のことか」アキラは鼻で笑った。「全然違う。もっと平たい板みたいなやつで、画面に全部出てくる。シンプルなんだよ。音楽だって、いちいちダウンロードしなくても聴き放題だし」


「聴き放題……?」


「そう。Spotifyとか、知らない?」


 知らない。私が知っているのは、一曲ずつ購入する「着うたフル」だけだ。アキラの口から次々と飛び出す単語は、まるで魔法の呪文のように聞こえた。それは、私が検索エンジンで見つけた、文字化けしたページから漂ってくる匂いと同じだった。


 私は、唾を飲み込んだ。心臓が早鐘を打つ。聞くなら、今しかない。


「ねえ、アキラくんは……『つべ』って、何か知ってる?」


 その言葉を口にした瞬間、アキラの目の色が変わった。面倒そうだった光が消え、鋭い警戒の色が浮かび上がる。彼は私の目をじっと見つめ、何かを探るように黙り込んだ。


 沈黙に耐えきれず、私が何か言おうとした時、アキラが口を開いた。


「……放課後、PCルームの弐号機。パスワードは俺の誕生日。〇八一五」


 それだけ言うと、彼は立ち上がり、教室の方へ戻ってしまった。


 約束の時間、私は恐る恐る放課後のPCルームを覗いた。幸い、中は誰もいない。私は一番奥にある弐号機の前に座り、震える指でパスワードを打ち込んだ。


 画面には、見慣れない英語のソフトがいくつかインストールされている。彼が来るのを待っていると、背後で静かにドアが閉まる音がした。アキラだった。


「本当に来たんだ」


「だって……」


 アキラは私の隣の席に座ると、自分のスクールバッグから、使い古された黒いノートPCを取り出した。SONYのVAIOだが、私が知っているモデルより薄くて、デザインが少し違う気がした。彼は慣れた手つきでPCを起動させると、LANケーブルを壁の端子に直接接続した。


「あんた、見たんだろ。『ノイズ』を」


「え……」


「普通のやつは『つべ』なんて言葉、知らない。あんたがあの日、電車で見たみたいな『世界のバグ』にでも遭遇しない限りはな」


 なぜ、私が電車でノイズを見たことを知っているの? 驚きで言葉が出ない私を尻目に、アキラは特殊なソフトを立ち上げ、コマンドをいくつか打ち込んでいく。画面に、緑色の文字が滝のように流れては消えていく。


「この国のネットには、巨大な壁がある。通称『グレート・ウォール・オブ・ジャパン』。海外からの不要な情報、文化、価値観……そういうのを全部シャットアウトして、国内の『保護』された生態系を守るための壁だ」


 アキラは淡々と説明しながら、ブラウザを立ち上げた。そして、アドレスバーに、私が先日、拒絶されたあの文字列を、直接打ち込んだ。


 www.youtube.com


 Enterキーが押される。


 真っ白だったページに、赤い再生ボタンのロゴが現れた。


 次の瞬間、私の目の前に、混沌の海が広がった。


 世界中の人々が投稿したであろう、無数の動画のサムネイル。猫がピアノを弾く映像、外国の街をドローンで撮った映像、知らない言語で何かを早口にレビューする若者、ゲームをプレイしながら絶叫する男。再生回数を示す数字が、リアルタイムでくるくると回っている。


 それは、私があの鉄橋のノイズの向こうに見た、活気に満ちた、猥雑で、そしてどうしようもなく魅力的な「向こう側」の世界そのものだった。


「これが、YouTube。そして、あんたのいた世界が『選択しなかった』可能性だ」


 アキラが、静かな声で言った。


「ようこそ、『接続』の向こう側へ」


 私は、ただ呆然と、画面に広がる無限の喧騒を見つめることしかできなかった。


 壁の向こう側には、こんなにも広大な世界が広がっていたのだ。


 私の知っていた静かな平成は、この瞬間、音を立てて崩れ去った。

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