第2話 選択されなかったページ
あの奇妙な幻覚を見た翌日、私は世界から一枚、薄い膜を剥がされたような気分で目を覚ました。通学路の風景、教室のざわめき、友達の笑い声。すべては昨日までと同じはずなのに、その輪郭が妙に際立って見える。まるで、ピントが合いすぎた写真みたいに。
「おはよ、美月。昨日、ちゃんとmixiにコメントくれたんだ。ありがと」
「うん、おはよう」
席につくと、早苗がいつもの調子で話しかけてくる。もちろん、彼女が昨日の電車での出来事に気づいているはずもない。私だけが、見てはいけないものを見てしまった。その事実が、教室の賑わいの中で、私を静かに孤立させていた。
放課後、いつもならまっすぐ帰るか、友達とカラオケにでも行くところを、私は一人、図書室に向かった。何か明確な目的があったわけではない。ただ、あの「ノイズ」の正体について、何か手がかりが欲しかった。
古い本の匂いがする静かな空間で、私は書架の間をさまよう。科学雑誌のバックナンバー、哲学の棚、そして『未解明の現象』とラベルが貼られた一角。手に取ったのは『世界の都市伝説』という、少し埃をかぶった本だった。ページをめくると、ドッペルゲンガーや異次元への扉といった、ありきたりな話が並んでいる。馬鹿らしい、と思いながらも、私は「
“……歴史の分岐点において、選択されなかったもう
一方の可能性が、別の世界として存在し続けている
という仮説。我々の住む世界は、無数に存在する可
能性の一つに過ぎないのかもしれない……”
選択されなかった、可能性。その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
その週末、海外にいる父から国際郵便が届いた。薄いブルーの封筒。いつも通り、美しい街並みの絵葉書が数枚入っている。今回の出張先はドイツらしい。「元気でやっているか」と、当たり障りのない父の文字。
だが、その絵葉書の束の中に、一枚だけ、ホテルのロゴが入った小さなメモ用紙が挟まっているのを見つけた。
走り書きされた、父の筆跡。
『選択は正しかったのだろうか。あの日、我々は
『接続』ではなく『保護』を選んだ。だが、時々聞
こえる向こう側の喧騒が、この静寂を揺さぶる』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
選択。図書室で読んだ言葉が、頭の中で反響する。接続と、保護。一体何のことだろう。父に情ケーでメールを送ってみたが、『古いSF小説のメモだよ。気にするな』という、素っ気ない返事が来ただけだった。はぐらかされている。それは明らかだった。
もやもやした気持ちを抱えたまま、私は自室のPCの前に座る。
そして、ふと、あの日の早苗の言葉を思い出した。
「……つべ」
ほとんど無意識だった。私は、普段使っているiモードの検索窓ではなく、デスクトップの隅にあった、あまり起動することのない地球儀のアイコン――『Google』の検索エンジンを立ち上げた。真っ白な画面に、カラフルなロゴと検索窓だけが表示される、無機質なページ。
検索窓に、ひらがなで「つべ」と打ち込み、Enterキーを押した。
表示された結果は、ほとんどが意味をなさなかった。「つぶ貝の美味しい食べ方」とか、「〇〇県の
やっぱり、聞き間違いだったんだ。そう思い、ブラウザを閉じようとした指が、止まる。
検索結果の2ページ目、3ページ目と進んでいくと、いくつか異質なものが混じっていることに気づいた。
・ y■ut■be.c■m - Br■adcast Y■urself
・ [動画] 猫がピアノを弾いてみた - Dailym■ti■n
・ Cómo usar Y○uTube - Guía para principiantes
タイトルやURLの一部が、■や○で文字化けしている。そして、そのどれもが海外のサイトのようだった。恐る恐る、一番上のリンクをクリックしてみる。
画面が切り替わり、そして、すぐに真っ白なページに変わった。
『ご指定のページは表示できません。サーバーが応答しないか、アクセスが許可されていない可能性があります。』
iモードの公式サイトで見る「ページが見つかりません」とは違う、冷たい拒絶のメッセージ。まるで、分厚い壁にぶつかったような感覚。他のリンクも試してみたが、結果は同じだった。
この世界は、何かを意図的に「見せない」ようにしている。
父のメモにあった『保護』という言葉が、重い意味を持って迫ってくる。だとしたら、私があの鉄橋で見たものは――。
週が明けた月曜日の朝。ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響く。
ざわついていた教室が静まり返る中、担任の先生が教壇に立ち、少しだけ弾んだ声で言った。
「えー、今日は皆に転校生を紹介する。アメリカからの帰国子女だ。さ、入ってくれ」
教室の後ろのドアが、ゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、少し着崩した制服に、どこか面倒そうな、それでいて鋭い光を宿した瞳を持つ男子生徒だった。色素の薄い髪が、窓から差し込む光を弾いている。
「……アキラ。相葉、アキラです。よろしく」
彼は、教室全体を値踏みするように一瞥し、そして、ほんの一瞬、私と目が合った。
その瞬間、私はなぜか、彼が「向こう側」の人間であるような、奇妙な感覚に襲われた。この静かな世界に、まったく異質な音が混じり込んだような、鮮烈な違和感。
私の日常が、もう後戻りできない場所に来てしまったことを、予感していた。
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