パラレル・平成・グラフィティ

火之元 ノヒト

第1話 ノイズ・イン・ザ・シティ

 チャイムの音が、西日に染まる廊下に長く響いた。気だるい解放感に満たされた教室で、私はゆっくりと息を吐く。平成二十年、十月。高校に入学して半年が過ぎ、制服のリボンの結び方にも、この時間特有の空気にも、すっかり慣れてしまった。


「美月ー、mixi見た? ユカの昨日の日記、超ウケるんだけど」


 前の席の早苗が、パタン、と音を立てて折りたたみ式の『情報携帯』を閉じながら振り返る。光沢のあるピンク色の筐体には、キラキラしたラインストーンが器用に貼り付けられていた。私の机の上に置いてある、シルバーのシンプルな『F-08μミュー』とは対照的だ。


「まだ見てない。あとでコメントしとく」


「絶対見て! 写真のタカシ、事故だから!」


 くすくす笑う早苗に曖昧に頷きながら、私は自分の情ケーを開いた。待ち受け画面には、先日撮ったばかりの、近所の猫の写真。指紋認証でロックを解除し、iモードボタンを押して、ブックマークの最上段にある『mixi』にアクセスする。数秒の読み込みの後、見慣れたホーム画面が表示された。新しい日記の通知がいくつか点灯している。


 私たちのコミュニケーションは、いつも少しだけタイムラグがある。リアルタイムで短い文章を投げ合うような性急なツールは、この国では流行らなかった。基本はメール。少し長めの文章ならmixiの日記。相手からの返事を待つ、穏やかで、少しだけじれったい時間。私はそのテンポが嫌いではなかった。


「あ、そうだ。これ聴いてよ」


 早苗が、自分の情ケーから伸びるイヤホンの片方を差し出してきた。耳に当てると、クリアな音質で、いきものがかりのキャッチーなメロディが流れ出す。たしか、人気アニメの新しい主題歌だ。


「この曲の『着うたフル』、昨日ダウンロードしたんだ。音質マジやばくない?」


「うん、すごい綺麗。私のF-08μよりスピーカー性能いいかも」


 私たちはそうやって、最新のヒット曲や、昨日のドラマの感想や、誰かのmixi日記の話題を、途切れ途切れに話しながら校門を出た。空は燃えるようなオレンジ色と、深い藍色が混じり合っている。思わず足を止め、スクールバッグから情ケーを取り出す。搭載された8メガピクセルのカメラは、そこらのコンパクトデジカメよりずっと高性能だ。


 カシャ、という軽いシャッター音を立てて、空を切り取る。今日の写真は、あとで自分の日記に載せよう。タイトルは「今日の夕焼け」でいい。


「美月ってほんと写真好きだよね」


「そうかな」


「そうだよー。あ、そういえばさ、昨日ネット見てたら面白い動画あって。なんか、つべに……」


 その時、早苗はハッとしたように口ごもり、不自然に言葉を続けた。


「……あ、いや、えーっと、公式のお笑い動画サイトで見たんだった。うん。外国の、猫のやつ」


「つべ?」


 聞き慣れない単語に、私は首を傾げた。早苗は「なんでもない、なんでもない!」と慌てたように手を振る。その仕草に少しだけ引っかかったけれど、深く追求するほどの興味も湧かなかった。きっと、何か新しいサービスの略称か何かだろう。


 駅前のロータリーで早苗と別れ、私は一人、ホームへと向かう。夕方のラッシュが始まる少し前。電車はまだ空いていた。窓際の席に座り、ぼんやりと外を眺める。ガタン、ゴトン、と規則正しいリズムを刻み、電車が速度を上げていく。


 その、瞬間だった。


 電車が大きな鉄橋に差し掛かり、視界が一気に開けた、まさにその時。


 ――ジジッ、ザザザッ!


 窓の外の風景が、古いテレビのように、一瞬だけ激しく乱れた。ノイズが走った、と思った。目の錯覚? 貧血?


 息を呑む私の目に、信じられない光景が飛び込んでくる。ノイズの向こう側。そこには、見慣れたはずの川沿いの風景ではなく、ガラス張りの、もっと鋭角的で、見たこともないデザインの高層ビルが建ち並んでいた。道路を走る車は、流線型で静かに滑るように動いている。そして――川沿いの遊歩道を歩いている、大勢の人々。


 彼らが手にしていたのは、私の知っている『情ケー』ではなかった。黒く、薄い、一枚の板。誰もがその板に視線を落とし、指で表面を滑らせるように操作している。それはまるで、SF映画の小道具のようだった。


「え……?」


 思わず声が漏れた。瞬きをする。強く、一度。

 再び目を開けると、そこにはいつもの風景が戻っていた。くすんだ色の雑居ビルと、土手、そしてゆっくりと流れる川。さっきまでの光景は、まるで幻だったかのように跡形もなく消えている。電車の連結部が立てる、単調な金属音だけが耳に残った。


 心臓が、ドクドクと嫌な音を立てている。


 疲れているんだ、きっと。最近、少し寝不足だったから。


 私は自分にそう言い聞かせ、ぎゅっと目を閉じた。


 自宅に帰り、夕食を済ませ、自分の部屋のPCを立ち上げる。情ケーから写真データを取り込み、『今日の夕焼け』というタイトルでmixi日記を更新した。コメント欄に「綺麗だね」「どこの空?」と、すぐにマイミクからの書き込みがつく。私は当たり障りのない返事を打ち込んだ。


 日常は、何も変わらずに続いていく。


 けれど、私の胸の中には、小さな石が一つ、確かに投げ込まれていた。


 あの鉄橋の上で見た、ノイズの向こうの世界。


 薄い板を操っていた、名も知らぬ人々の群れ。


 あれは、本当にただの幻だったのだろうか。


 私はPCの電源を落とし、静まり返った部屋で、じっと窓の外の暗闇を見つめていた。完璧に静かな、いつもの夜。その静けさが、なぜか少しだけ、怖かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る