第4話 保護された静寂
PCルームの硬い椅子に座ったまま、私はどれくらいの時間、画面を眺めていただろう。アキラが映し出した『YouTube』という名の奔流は、私のちっぽけな日常の堤防を、いとも簡単に破壊していった。
そこには、私が知る限りどんな公式サイトにも存在しない、海外アーティストの生々しいライブ映像があった。プロが編集したものではない、ファンが撮ったであろう手ブレの激しい映像。けれど、その揺れやノイズこそが、圧倒的な「本物」の熱量を伝えてきた。
政治家が失言する瞬間を切り取ったニュース映像、無名の若者が自室で哲学を語る動画、ただひたすら雨音を流し続けるだけのチャンネル。
良いものも、悪いものも、意味のあるものも、ないものも。あらゆるものが等価に並べられ、誰かの評価を待っている。それは、完璧に整えられたiモードの公式サイトとは真逆の、混沌とした、しかし生命力に満ち溢れた世界だった。
「……どうして」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「どうして、私たちの世界はこうじゃないの? どうして、こんなに面白いものを、誰も知らないの?」
隣で静かに画面を見ていたアキラが、ゆっくりとこちらを向いた。彼の目には、いつものような冷たさはなかった。どこか、同じものを見てきた者同士の、共感のような色が浮かんでいる。
「あんたの親父さんがメモに書いてた通りだよ。『保護』のためだ」
「保護? 何から?」
「『
アキラはそう言うと、YouTubeのウィンドウを閉じ、代わりに古いニュース記事のようなものが保存されたフォルダを開いた。英語と日本語が混じった、いくつかのテキストファイル。
「1990年代の終わり。俺たちのいた『向こう側』の世界で、大規模なデジタルパンデミックが起きた。それが『浸食』。正体不明の自己増殖型プログラムが、世界中のネットワークに感染を拡大させたんだ。金融システムは麻痺し、インフラは暴走し、あらゆる個人情報がネットの海に垂れ流された。世界中が大混乱に陥った」
画面に映し出されたのは、暴動が起きる海外の都市の写真。日付は、1999年。私がまだ小学生だった頃だ。
「その頃、この国では何が起きてたと思う?」
「……iモードの、サービス開始」
「正解」とアキラは頷いた。
「世界がオープンなインターネットの脆さに打ちのめされている時、この国は偶然にも、完全に壁に囲まれた『庭』を完成させた。そして、選択したんだ。『浸食』の及ばない安全な庭の中に留まることを。グローバルネットワークとの物理的な接続を、最低限のものを残して、ほとんど遮断した。それが『グレート・ウォール・オブ・ジャパン』の始まりだ」
父のメモにあった『接続』と『保護』という言葉の意味が、パズルのピースがはまるように、すとんと腑に落ちた。
私たちの平和は、守られたものではなく、孤立することで得たものだったのだ。私たちが知らない間に、世界は一度壊れかけ、そして、私たちの知らない形で再生していた。
「じゃあ、私が見たあのノイズは……」
「二つの世界が離れすぎたせいで生じる、現実の歪みだ。タイムラインのズレが大きくなるほど、世界の境界線は曖昧になる。俺の親父……世界分岐を研究してた物理学者は、それを『世界間干渉』って呼んでた」
アキラは、初めて自分の父親の話を、少しだけ詳しく語った。彼の父親は、この世界の異変に早くから気づいていた数少ない一人だったらしい。そして、頻発する『世界間干渉』を調査している最中に、姿を消したのだという。
「親父は、ただの事故や失踪じゃないと俺は思ってる。きっと、向こう側に行ったんだ。あるいは、干渉に巻き込まれて……消えたか」
彼の声には、抑えようのない感情が滲んでいた。彼は、ただ達観した傍観者なのではない。彼もまた、この歪んだ世界の当事者だった。
「だから、俺は親父を探しに来た。手がかりは、この『ノイズ』だけだ」
アキラはそう言って、ノートPCでまた別のプログラムを起動させた。それは、日本地図の上に、赤い点がいくつも明滅している、レーダーのような画面だった。
「これは、世界間干渉の発生をリアルタイムで記録するプログラム。親父が作ったものだ」
赤い点は、日本中に散らばっている。だが、その中でもひときわ強く、そして頻繁に点滅を繰り返している場所があった。
「ノイズは、ランダムに起きてるわけじゃない。頻発する場所……『ホットスポット』がある。そして、最近になって一番活発なのが、ここだ」
アキラが指差した場所。それは、私たちが今いる、この街だった。
「ここに行けば、何か分かるかもしれない。もっとはっきりとした『窓』が、開くかもしれない」
アキラの目が、私をまっすぐに射抜く。それは、誘いであり、同時に問いかけでもあった。
お前は、どうする? 安全な庭に留まるか、それとも壁の向こうを覗くか。
もう、迷いはなかった。私が今まで感じていた違和感、世界の薄っぺらさ。その理由を知ってしまった今、知らないふりをして生きていくことなんて、できっこない。
「……行くよ」
私は、はっきりと頷いた。
「私も、知りたい。この世界の、本当の姿を」
アピラは、ほんの少しだけ口の端を緩めた。彼が初めて見せた、笑みに近い表情だったかもしれない。
PCルームの窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
私の平成が終わった、と心のどこかで思った。そして、本当の意味での私の物語が、今、始まろうとしていた。
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