第4話

 三上はバイトが始まる前に昼食を食べると言って二つの店でセットメニューを注文し、それを持ち出すと俺達に渡した。

 俺と河野は割引された額にプラス五十円を支払っていくらか安くなったハンバーガーセットを手に入れた。

「お前は食べないのか?」と俺は三上に尋ねた。

「うん。二人前も頼んだら怪しまれるし、もうハンバーガーは飽きちゃったから。家でおにぎり作ってきたし、休憩室でそれを食べるよ。クーラーも効いてるしね。じゃあ」

 三上はそう言って手を振り、モスの方の店へと戻って行く。つまりこれはただの小遣い稼ぎってことだ。たったの百円だけど、こうしたことを続けられる奴に金が貯まっていくんだろう。

「じゃあ先にスーパー行くか」

 河野の案内されたスーパーはいつも行く所よりも少し高かったが、その分おいしそうだった。俺は妹の好きなハンバーグと自分用にカツ丼を買った。レシートもきちんと取っておく。でないと後で母さんに請求できない。一度なくして大変な目に遭った。

「昼飯はどこで食うんだ? また店に戻るのか?」

「買ってもいない物を持ち込めるわけないだろ。来いよ。良いところがある」

 河野に連れられてエレベーターに乗るとビルの五階で扉が開いた。さっきまでの喧騒が嘘のように静かなフロアだ。

「こっちに小さな休憩所があってな。テーブルも椅子もあるし無料でWiーFiも使える。誰も知らない穴場だよ」

「お前よくこんな所知ってるな」

「休み時間に付近をうろうろしていたら見つけたんだ。いつも予備校で食べてると気が滅入るからな。特に三年はピリピリしてる。だからここに避難するんだ」

 そこは確かに穴場だった。窓際にテーブルと四つの椅子が三セットあり、それらは全て空いていた。クーラーも効いてるし、眺めもいい。おまけに紙コップの自販機まである。

 俺達は一番眺めが良い真ん中のテーブルに陣取り、袋からハンバーガーセットを取り出して食べ始めた。安くなるということでいつもより高いセットを頼めたので中々おいしい。

「受験って大変なんだな」

「まるで他人事だな。お前も来年するんだろ?」

「まあ、多分。就職するにもやりたい仕事ってないし。大学に行けばそれも見つかるかも」

 河野はナゲットを食べて呆れ笑いを浮かべる。

「そういう奴はいつまで経っても見つからないんだよ。見つけようとしないからな」

「……かもな。お前は?」

「うちは三上んちほどじゃないけど金がないし、だから国立行って稼げるところに就職するよ。勉強も面白いしな」

 勉強が面白い? お前がやってるのは本当に俺と同じ勉強なのか? 俺は人生で一度もそんなことを思ったことがないぞ。

 俺の顔を見て河野は笑った。

「そんな顔するなって。なんでもやり込めばそれなりに楽しくなるもんだ」

「……そういうもんか?」

「そうだよ。勉強でもスポーツでも、多分犯罪だってそうだ」

「犯罪って……」俺は苦笑した。

「冗談だよ。三上は就職するって言ってたな。大学は出といた方が良いって言ったんだけど、そのお金がないからって。あいつはちょっと優しすぎるな。バイト代もほとんど家に入れてるみたいだし」

「偉いな……」

「偉すぎる。でもだからこそ心配だよ。誰かの為の行動は尊いけど危ういからな」

「危うい?」

「なんでもできるってことだ。大切な人の為なら尚更な。ほどほどに利己的な方が安全だよ。大抵の人間は自分の為に大きなリスクは取れないからな」

「まあ、そうかもな」

「そうだよ。その点お前はいいよ。見ていて安心できる」

「……馬鹿にしてるだろ?」

「まさか。お前は分かってないけどやることがないのが悩みなんて相当贅沢だよ。でも贅沢な悩みを持てるってことは余裕があるってことだ。余裕は大事だぞ。それがある限り馬鹿なことはしないからな」

「ありすぎても暇だけどな」

 俺は苦笑した。たしかに余裕はある。小遣いもそれなりに貰ってるし、家のために働けとも言われない。好きなことができる環境だ。問題はそれがないことだが。

 それにしてもこいつは大人だ。三上もそうだけどやるべきことがちゃんとある。

 考え方が大人びてるのはきちんと次のステージを見据えているからだろう。俺にはそれがないからやりたいこともやるべきこともない。だから焦ってる。

 河野には悪いが今の俺はなにもない平穏より多少の刺激を求めていた。変わらない俺を見ていて安心できるかもしれないが、変われない本人からすれば周りがどんどん先に行っているにも関わらず、自分だけその場に立ち尽くしているもんだからぽつんと取り残された気分になる。

 そうなったら周りにいくら人がいても意味がない。結局のところ誰も自分を分かってくれないんだと知っているから益々孤独が大きくなった。

 そうはなりたくないものの、じゃあなにをするかと問われればなにもないわけで、なら俺はやはり河野を安心させるしかなかった。

 まあ、そのうちどうにかなる――――

「今じゃなきゃダメなのッ!」

 それは責めるようで、そして祈るような若い女の叫び声だった。

 突然のことに俺と河野はぴたりと動きを止める。

 目線だけ動かすと声の主は俺達が降りたエレベーター前の通路にいた。

 声から感じた力強さとは逆に白いセーラー服から伸びる手足は細い。一方でここからでも分かるほどの目力と迸る生命力に圧倒された。

 黒髪をなびかせたその子の瞳は目の前にいる大柄で太った男を睨み付けている。殺気立つそれは見ているこっちが怖くなるほどだ。

 しかし対するスーツを着た男もまた違った強さを持っており、太い眉の下にある大きな目で小柄な少女を偉そうに見下ろしていた。

「こんなところまで駆けつけて、言いたいのはまたそれか」

「そうよ! あんたがいいって言うまで何度だって来てやるわっ!」

 よく分からないが揉めているらしい。それにしても男の方は五十歳は優に越えてそうなのに、女の子は臆することなく吠えていた。

 それを見て河野は背もたれに腕を乗せ、疎ましそうに眉をひそめる。

「なんだあれ? パパ活の代金が支払われないとかか?」

 なるほど。そういう解釈もあるのか。でも女の子はそんなことをするようには見えない。

 男は鬱陶しそうに踵を返した。

「帰れっ! あれは俺のだっ! 俺が金を払って手に入れた物をなんで他人に見せないといけない? 社会のルールってのが分からないのかっ!?」

「なにがルールよ? どさくさに紛れて人の物盗っていったんじゃないっ!」

「人聞きの悪いことを言うなっ! あれにいくら払ったと思ってるっ!?」

 あまりにも大声での言い合いに近くの部屋からスーツを着た男が二人出てきた。その内の一人が太った男に尋ねる。

「どうしたんですか?」

「どうもこうもないっ! この子に言いがかりをつけられてるだけだっ!」

 それを聞いてスーツの男達は顔をしかめて少女に告げた。

「君。困るんだよね。こんなところでトラブル起こされちゃ。ちょっとこっち来てくれる?」

「触るなっ!」

 少女は触れようとする男の手を払った。そのせいで男達は強引な対処に出る。後ろから少女の肩を掴んで無理矢理移動させようとしていた。

 少女はそれを体を力強く揺すって引き剥がす。すると予想してなかったのかスーツの男は転けてしまった。それを見てもう一人が怒り出す。

「暴力はやめろ! これ以上すると警備の人を呼ぶぞっ!?」

「そっちが勝手に転けただけじゃない!」

 たしかにその通りだが、大人に恥を搔かせて正論を言えば怒るに決まってる。

 そこに騒ぎを駆けつけた警備員がやって来た。

「ああもうっ! 大人って本当にっ!」

 少女は諦めたのか悔しそうに踵を返し、エレベーター横にある非常階段へと飛び込む。

 そのすぐ後にスーツの男達が追おうとするが、やってきた警備員とぶつかった。痛そうに声を上げながら尻餅をついたり、壁にぶつかったりする後ろで太った男の怒号が飛んだ。

「なにをしてるんだっ! さっさと捕まえろっ!」

 スーツの男と警備員達は渋々追いかけていくが、さっき見たあの子の早さじゃすぐに追っても捕まらないだろう。

 その様子を俺と河野は遠巻きに眺めるだけだった。

「あそこってなにがあるんだ?」

「たしか画廊だよ。高そうな絵を売ってる」

「絵? それでなんであんなことになるんだ?」

「俺が知るか」河野は腕時計を見た。「あ。もうこんな時間だ。早く食べないと自習室埋まっちゃうよ」

 河野は急いでハンバーガーセットを食べ始める。もうあの子のことは興味がないみたいだ。

 だけど俺は違った。いなくなってもまだこのフロアにはあの子の熱量が残っている。そんな風に思える女の子は初めてで、しばらく彼女が消えた非常階段から目が離せなかった。

 なんて言えばいいか分からないけど、あの子は生きていた。

 恐ろしいほどの力強さで、確かに。

 それこそが自分の人生に足りないものな気がして、俺はただただ圧倒されていた。

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