第2話



月天宮げってんきゅう】に徐庶じょしょに送られてやって来ると、曹娟そうけんが迎えてくれた。

 事情を話せば、すぐに部屋を用意しましょうと瑠璃るりを預かる。


佳珠かじゅ殿、瑠璃殿は私が……先程司馬懿しばい殿より使いの方がいらっしゃったので、今日はお戻り下さい」


「分かりました」


「では、佳珠殿は紫苑宮しおんきゅうにお送りしましょう」

「あ、いえ……ここからは……」

「よろしくお願いします」


 一人で大丈夫だと今度こそ断ろうとしたのだが、曹娟が徐庶に一礼してしまったので、徐庶が承ってしまった。


「佳珠殿、徐庶様、今日はありがとうございました」


 鬱々とし始めたところを瑠璃に呼び止められ、そんな風に声をかけられると、陸議は振り返り、優しく笑んだ。

 少しだけ、瑠璃の表情がさっきよりも明るいように思えた。


 少しは、心が晴れたのだろうか……。


「また、様子を見に来ます」


 陸議が声を掛けると、瑠璃は頷いた。


◇    ◇    ◇



 徐庶じょしょが前を歩いて行く。 

 陸議りくぎは俯きがちについて行った。


 許都きょとの城に夕陽が差し込む。

 回廊を照らした。


 

「良かったですね」



 しばらくして、徐庶が何かを言った。

 顔を上げると夕陽の中で、少し前にいる徐庶がこちらを振り返っていた。


瑠璃るり殿の表情が、さっきは明るく見えました。

 どうなるかは分かりませんが、打ち明けたことでも少し心が晴れたのでしょう」


 何を言ったのかと思い数秒後、頷く。


「はい。私も……そのように思いました」


 この人には男の姿をよく見られているから、あまり間近で女の姿も見られるのはまずいのだ。自然と俯きがちになる。


 徐庶はあまり自分から言葉を発さない人だった。

 相手の話はよく聞くし、意見を求められれば普通に話すのだが、なんとなく話すということはない印象だ。


「……郭嘉殿は出陣を留まって下さるでしょうか……」


「……。」


 徐庶は押し黙った。

 彼も恐らく、そうはなるまいと思っているのだろう。


「……病に伏せって弱っている人をずっと見守っているというのはとても辛いものです」


 不意に、徐庶が言った。

 そういえば、洛陽らくようにいるという徐庶の母親は今では快癒したようだが、少し前まで具合は良くなかったようだと、どこかで聞いた気がする。


「瑠璃殿は五年も、郭嘉殿を側で看病なさった。

 心の強い方です」


 死を傍らに、

 死を見つめながら、

 五年も。


 そして願いは叶って、郭嘉は命を取り留めた。


(その命を大事にしたいと思うのは、当然のこと)


 陸議は夕陽の方を見た。

 明るい夕陽だ。

 目に染みるような黄金色の光。


 その光の中に、死んでいった人たちのことを想った。


 あの人たちがもし生きて戻ってくるのなら、

 自分だって命を懸けて、それを今度こそ、生涯大事にするだろうと思う。


「……はい」


 陸議にとっては、郭嘉の苦しみを側で見つめ、支え、そして今も彼を守ろうとしている瑠璃の姿も、この光のようにまぶしいものだった。


 やはり最近光を見ると、心が疲れる。


 日が落ちてくると、やっと心が落ち着いてくる。

 

 星のように儚い光が浮かび上がって、生きなければと思うけれど司馬懿しばいに抱かれていると、その一つ一つの光が喰われ、砕かれていくのを感じる。


 喰われているのは命というより心なのかもしれない。


 命は一つだが、心は一体幾つあるのだろう?


(幾つ喰われて、壊れたら心が無くなるのか)


 飄義ひょうぎの心を隠した表情を思い出す。

 




(……いっそ私も、心を失いたい)





 いつの間にか足を止めていたらしく、徐庶が立ち止まって、またこちらを見ていた。

 一人で先を歩いていたことに気付いたのだろう。

 このままここに、置いていってくれたらいいのに。

 陸議はそう思ったが、徐庶はこちらに歩いてきた。


「……すみません。……先程から少し、追ってきてる者がいますね」


「えっ?」


 後ろを見ようとした陸議の腕を、咄嗟に徐庶が取った。


「いや……今は」

「あ……すみません」

「いや、すまない……つい掴んでしまった」

「いえ……大丈夫です。そのままの方がいいなら、どうぞそのままで」

 振り返りそうになったのを堪えたが、つい徐庶の顔を見上げてしまった。

 徐庶が陸議の手を押さえ見つめ合っているので、傍から見れば男女が親密に話しているようにしか見えないだろう。

 だが二人は別のことを話していた。

「……追って来ている……敵、ですか?」


「こちらを窺ってはいるようです。

 何か心当たりはありますか?」


「いえ……私は……特には……」

 徐庶は頷く。

「……いや、貴方は甄宓しんふつ殿付きの女官です。そうだと思います。

 となると、連中の狙いは私かなと思うのですが……しかし今更私を狙って得するような人もいないと思うんだが……」


 最後の方は独り言のようだった。


「どう……しましょうか」


「そうですね、……とにかく今は……」

 徐庶じょしょはゆっくりと、不自然にならないよう気をつけながら、陸議の腕を放した。


「……ここで、私は一度この場を離れます。

 貴方はここから【紫苑宮しおんきゅう】に戻って下さい。どうか回廊は離れず、人気のある道を。

 私は裏手に回って奴らの行き先を確かめます。

 貴方を追うのなら隙を突いて打ち倒しましょう。

 私を追ったなら……」


 徐庶ともう一度目が合った。

 彼は一瞬瞳を伏せるような仕草を見せた。


「……それならば、貴方にはこの先一切関わりのないことなので、どうかお気遣いなく。

 ……後のことは私が自分でなんとかします」


 徐庶が一礼し、彼は回廊の分かれ道を南へと歩いて行った。

 

 なんとなく普段見ない徐庶の暗がりを見た気がして、少しの間彼の背をそこから見送った。

 人を殺めて逃げていた時期があると、朧気だがそんなことをあの男が話していた気がする。

 あまりそういう人間には見えないのだが、何か事情があったのだろう。

そこまで考え、やはり心が疲れてくる。

 何にせよ、自分には他人に分け与えてる心などないのだ。



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