ハレルヤ

雪無

救済と破滅


 ガタン、という大きな揺れに、落ちかけていた意識がはっきりと息を吹き返した。


 緋色の遮光がバスの窓を通り抜け、吊り革に掴まっていた男子生徒の顔の上を滑る。彼は蝿を嫌がるかのように眉を潜めて、読んでいたA5サイズの本の角度を変えた。光沢のある真っ赤な表紙が一瞬だけ白く光って、『センター漢文出題』という部分だけが露出して見えた。

 前に座っている女子生徒も、後ろに座っている中学生もみんな目的地に着くまでの時間を惜しんで参考書や暗記シートを覗き込んでいる。


 窮屈な圧迫感と焦燥感から逃れるようにして、藍田薫あいだかおるは手元にある美術の見開きを見下ろした。凶器を振り上げるアベルに、恐怖するカインの顔、その手はまるでこちらに救いを求めているようで、掌にじんわりと汗が滲み、その不快な熱は手元にある教科書のページを湿らせた。

 暗記する必要のない美術史の教科書を、ロザリオのように握りしめる。今では、どのページに誰の作品が載っているか、すっかり諳んじることができるようになっていた。

 それは余裕があるからでもないし、誇らしいことでもなにもない、自傷行為に近かった。


 ──十月。受験シーズンも本格化してきたこの季節では、下校、登校、通学路、バス、電車で参考書を開いていない生徒を見る方が珍しい。


 とくに、この進学塾前で止まるバスの車内で教科書や単語帳、過去問を開かない学生はいなかった。

 バラバラな学生服、同じ制服の生徒を見かけても大抵は見て見ぬふりを貫く。同じ日本人で同じ国に住まう人間だというのに、制服をきているというだけで異教徒のように振る舞い、猫背になって問題集を睨みながら、その実、それぞれがそれぞれを敵愾的に見ていた。


『次は『栄華指導学院前』、次は『栄華指導学院前』、お降りの際はバスが完全に停車してからお足元にご注意ください、……』


 くたびれたアナウンスが無機質に響く。

 万引きでもしたかのようなやましさで、藍田は教科書をスクールバッグの中に仕舞い込んだ。そうやって降りる支度をしているのは彼だけで、他の生徒は問題集を貪ったまま、視線を上げることなどしなかった。

 ただ一人、顔を上げ、藍田はバスの窓に映る自分を見た。色素の薄い肌色の髪、緑色の瞳──日本人離れした髪や瞳は、面接で真っ先に怪訝な目で見られる。入試のときには髪を黒に染めるよう、両親からしつこく言われていた。色素が薄いならせめて北欧然とした顔で生まれたかったけれど、藍田の容姿は髪と瞳の色以外、どこをとっても平坦そのものだった。

 身体的発達も遅く、高校三年間で丁度いいサイズに収まるべきだった学ランは今も裾を持て余している。今更背筋を伸ばしたところで、美しくはなれない。


 流れていた景色は緩慢になり、胃が繊細な悲鳴をあげ始める。あちらこちらに見える奇抜な表紙の色や問題と書かれた文字が、彼を静かに蝕んでいく。

 ほつれた学ランの袖口から覗く指先はうんと冷たくなっていた。



 バスを降りれば、『栄華指導学院』という看板を掲げた五階建てのテナントビルが口を開けて生徒を待っている。一階から三階までの全てが塾の教室であった。

 藍田はIDカードをバッグから取り出し、靴箱の横にある入室装置にかざした。教科書のほかに過去問や参考書の入ったバッグは、リュックであってもスクールバッグであっても嵩張り、狭い入口では生徒がぎゅうぎゅうにごった返している。押すな、とは言わないが、鋭い視線でみんな自分以外を責め立てていた。たった一人の心にも安寧がないのだ。


 今日は先月に行われた小テストの結果が貼られているせいで、より酷い混雑具合だった。


 人混みに揉まれながら、ようやくエレベーターの横に貼られた成績順位表に辿り着く。

 藍田薫。その名前は上からより下からの方が比較的早く見つかった。


「藍田っ」


 肩に僅かな衝撃と重さが加わり、同じクラスの小野田と目が合う。韓流アイドルのスタイルを真似た髪型に、好感触な顔。男としては癪に触る雰囲気だが、周囲のそうした視線ですら彼は優越感に変えられるらしかった。「妬まれるって、最高の褒め言葉じゃないか」とわざとらしく語っていたのを思い出す。


「藍田、お前、どうだった?」小野田が話を続ける。教養とは無縁な軽薄地味た笑顔は、爽やかとも皮肉らしいとも取れた。

「どうって……」

「順位だよ。順位」

「調子は良くなかったかな、……」


 そっちは? とは聞いてやらなかった。どうせ、上から数えた方が早いところに小野田はいる。

 小野田は自分から訊いたくせに「ふうん」と興を削がれたような声を出して──実際、面白くなかったに違いない──視線を順位表に移した。小野田にとって自分という人間がどんな人間なのか、藍田は頭の浅いところで考えた。少なくとも、対等な友人でないことは確かだ。


 エレベーターが三階から少しずつ下がってくる。


「ところでさ、今回も一位は二葉だったな。あいつ、ほんとに気に食わないよ。五教科の平均点が九十九だぜ? あとの一点はなんなんだよ、嫌味かってさ。なあ?」


 同意を求めるようにぼくの顔を覗き込んでくる小野田に、下手くそな微苦笑で返す。それから滅多に見ない上の順位を見上げた。


 ────二葉命ふたばいのち


 彼が中学一年にしてゲノム医療を理解し、大学病院に貢献したニュースは、この塾に通う者なら知らない人はいない。ハーバードから飛び級の推薦状ももらったという噂だが、ここに残っているのを見る限り、推薦は蹴ったかそもそも受け取っていないかのどちらかだろう。

 高校一年の時分から彼はずっと栄華指導学院の玉座に座っている。


 この進学塾に入会するために行われる選抜試験は、そこらの入試を遥かに凌ぎ、実倍率も凄まじいものだった。

 他の生徒が合格ラインギリギリだったのに対し、二葉命だけが称賛に値する成績を残していたのだ。彼は二年もの間、他の生徒と嶄然頭角を現した存在として敬遠されている。

 当時の試験結果を想起すると、藍田の脳はぐんと重たくなった。彼の点数は、ほんとうに、ほんとうに際どかった。採点した講師が寛大でなかったら、とっくに落とされていたに違いない。

 同じ場所にいながら、二葉命と周囲の凡才とでは天と地以上の差がある。

 それでも、まだ、講師の口から満点をとった生徒を聞いたことはない。九十九なんていう一つ欠けた奇跡の点数は、小野田の言うとおりどこかわざとらしかった。


(嫌味とは思えないけど)


 贅沢な悩み、潤沢な選択肢。それらを享受するに彼は相応しい人間なのだと思う。この道しかないなんてそんなことにはならない。同じ人間でありながら、違う世界に住んでいる人間。


 肩にのしかかる重みが小野田の腕によるものなのか、スクールバッグの重さなのかわからなくなってきた。頭の左側が鈍く痛む。


「お前、そろそろ大丈夫?」


 小野田の声に視線を戻すと、他人事の目が藍田を見ていた。大丈夫? と訊く声のどこにも憐憫や配慮は見当たらない。肩の心配をしているわけでないことは、よくわかっている。

 乾いた口の中に無理やり唾液を滲ませて喉を潤すが、唇は余計に水分を失った。今朝はマフラーも忘れてしまって、首元に温度がない。

 “そんなに順位が低くて大丈夫?”“こんなに成績が悪いのでは、そろそろ家族から何か言われるのではないか?”“大丈夫?”“だいじょうぶ?”

 安全地帯にいる人間の言葉はそうでない人間の背中を無造作に押してくる。


「……なんとかなるよ」


 無意識に出た声は自分のものじゃないみたいだった。“なんとかなる”そう発した言葉が、透明な文字となり白い虚空を彷徨っている。藍田はそれを茫然と眺めた。


 エレベーターの扉が開く。


 肩に存在していた重力が一つ減る。後ろにいたくせに、小野田は藍田のことをとっとと追い越して我先にと狭いエレベーターの中へと入っていった。降りる人などいないとわかっていながら、藍田は癖で端に避けてしまった。あっという間に定員オーバーとなった箱の中に彼の居場所はなかった。

 簡素なチャイムが鳴る。エレベーターの扉がゆっくりと閉まり、表示灯の数字が上がっていく。

 まだ間に合う。このあとのエレベーターに乗ればいい。


 表示灯の色は白。白熱灯の、白。ここがもっと暗ければ、よく映えた色だったろう。


 それだけを考えながら、エレベーターが三階で止まるのを見届けた。



 教室に並ぶ席順は三か月に一回開催される小テストの成績順によって決められている。最前列は言わずもがな成績上位、最後尾にいくほど劣等生だということだ。

 引き戸を開けて、真ん中の最後尾席。そこが藍田の席であった。よたよたと、凶器的に重いスクールバッグをようやく自分の机の上に下ろす。他の生徒ももう着席して教科書を開いているが、授業は始まっていない。


(スイッチの時間にも間に合ったみたいだ)


 “スイッチ”。授業が始まる五分前に設けられるその時間は、集中するための切り替え作業みたいなもので、何をしようとも許されるのだ。ゲームをしようが、同意の上なら雑談をしたっていい。

 五分間の安らぎは藍田にとって貴重な時間だった。


「なあ、二葉。今回のテストさ、……」


 最前列の方で遠慮のない声が聞こえる。二葉命、彼はこのクラスの一番前に君臨している。

 ちょうど、真ん中の列。藍田も同じ列に座っているけれど、地位は雲泥の差だ。二葉の後ろには小野田が座っていて、スイッチの時間になると、二葉と小野田はいつも──主に小野田の声ばかりが目立つが──テストや授業内容についてこれみよがしに話をし始める。

 ここの塾に対等な友人関係を築こうとする人間など誰一人としていない。小野田も別して児戯に媚を売りたいわけでないのは、明確だった。


「天才の友達です」と言うより、「僕は、私は、天才のよきライバルであり、かつて互いに切磋琢磨し合った唯一の戦友です」と言う方が箔がつく。同じ土壌に立てる人間であると矜持を保ちたがっていた。ここに通う生徒はそれぐらい自尊心が高い。誰もが自分を非凡であると自負してやまない。


 みんな、天才と二人三脚する権利を得たいのだ。


(……おれにとってはこの五分間の自由時間が全てだというのに)


 藍田はスクールバッグから無地のメモ帳を取り出し、筆箱の奥に埋もれていた短い鉛筆を掘り出した。カッターで削られた鉛筆は通常の鉛筆より歪に芯ばかりが剥き出しになり、持ち手の方が短くなっている。2Bぐらいの濃さがあれば充分で、それ以外の鉛筆は持っていない。練り消しも本当は使ってみたいが、そんなことは許されない気がした。実際、画材店に行ったことが両親に知れたら、今度こそ自分に価値などなくなる。


 制限時間は五分……いやもう四分ぐらいだ。周囲を小さく見渡して、なんでもいいからすぐに描けそうなモチーフを探した。

 ふと、前の席に座る男子生徒の背中が目に入る。彼は、体育系の高校に通う生徒だった。志田、と言っていた気がする。

 最後尾にいると誰がどんな顔をしているのかぼんやりしてくるけれど、志田の後ろ姿はいつも凛としていた。わずかに撫で肩の曲線は強張った緊張感もなく、伸びやかな背筋にブレザーの皺が浮き出ている。リラックスしているせいか、どことない寂寥感みたいなものも感ぜられた。

 

 藍田はやましい猫背のまま、メモ帳を隠すようにひたすら鉛筆を動かした。大雑把な輪郭と陰影と、それぐらい描ければ上出来だろう。

 メモ帳に伸びていく黒い曲線は迷いもなく、歓びに満ちていた。幼稚園で描かされた絵を皮切りに、藍田にとって絵を描くことは一種の麻薬として機能している。楕円すら描けなかった当初に比べ、今ではフリーハンドで図形の大半は操れるようになり、見たものを自由に紙へと描き残せるようになっていた。


 なにもなかった白い空間に、志田の頑丈な背中が生き写されていく。このきれいな姿勢を永遠に残せるのだと思うと、代え難い充足感に満ち溢れるようだった。彼がいつか歳を重ね、痩せ衰えても、ここにはかつての彼が生きている。それは、なんだかすてきなことのように思えた。

 簡素なチャイムが鳴る。それと同時に教室の引き戸が開き、講師が入ってくる。

 絵の完成もまともに見ないまま、藍田は慌ててメモ帳を机の隅に追いやりノートと参考書を取り出した。小野田の声もすっかり鳴りを潜め、無機質な時間がやってくる。


「それでは、授業を始めます」


 安らぎを得られる時間はあまりに短い。



◻︎



「……あれ」


 メモ帳を塾に忘れたと気づいたのは、帰宅してすぐのことだった。


 スイッチの時間でメモ帳を出したあと、仕舞った記憶がないから、おそらく今もまだ塾の席にある。そこまで思い出して、藍田は自分の部屋の机にひっくり返そうとしていたスクールバッグを落ち着かせた。ベッドに腰をかけ、深呼吸をしながらゆっくりと肩の力を抜く。

 学校でなくてよかった。あの塾に通う人たちは仮にメモ帳の内容を見たとしても、さして興味など湧かないはずだから。揶揄われたりすることもないだろう。自分より頭の悪い人を心のうちで見下そうと、そういう常識だけはきちんと兼ね揃えた人たちだ。


 父が推薦したたくさんの医学書、薬学、動物医学、名だたる医大の赤本。

 信号機のように並べられた本棚の下段へ、バッグに入っていた教科書を全て戻し、藍田は現実から目を逸らすようにして机の下を覗き込む。一番奥にある四角形の黒い金庫を確認して、静かにダイヤルを回した。中には嵩張るほどのメモ帳と、小学生の頃に支給された十二色の色鉛筆が入っている。


(おれの、おれだけの、不可侵領域)


 余った鉛筆の在庫を探ってみたが、手元の筆箱にある余命わずかな2Bの鉛筆が最後のようだ。鉛筆一本だけなら近場の画材店で買ってもさほど証拠は残らない。木炭やチャコール鉛筆、チョーク、ほしいものは他にもあったが、それは流石に言い訳が思いつかなかった。


 ドン、と隣の部屋から壁を叩かれる。


 その振動に体が強張り、藍田は軍人のようにすぐさま立ち上がった。──兄が帰ってきている。


 壁を叩くのはすぐに来いという合図だった。兄も藍田が帰ってきたことを悟ったのだろう。この合図に少しでも遅れれば、問答無用に叩かれる。腕か足か、もしくは腹か。

 ズキズキと痛む眉間を指先で押さえて、腹痛がおとずれぬように鳩尾あたりを押さえ込んだ。学ランの硬い感触だけが、彼を支えてくれるぬいぐるみの役割を果たしてくれている。

 藍田は金庫に鍵をかけ、窮鼠のように慌てて自分の部屋から出た。深呼吸をしながら隣の扉をノックする。一度目のノックで半裸の兄の正が出てきた。痩せているわけでもないが、贅肉が目立つでもない、のっぺりとした体つき。硬そうというより、柔らかそうな印象ばかりを与える正の体も、人を寄せ付ける相貌のおかげで相殺されている。「おせーよ」と言われ、藍田は今目覚めたかのように「ごめん」と返した。


「レポート、来週中に頼むわ」


 面憎い目で見下ろされ、正から分厚い解剖学書とノートをぶっきらぼうに押し付けられる。ページのいくつかに付箋が貼ってあった。罪を背負ったような重さを自覚しながら、今に乱暴しそうな兄の顔を見上げる。

「あ、あのさ」喉が渇く。震えたままの唇が無意識のうちに開く。


「来週、は、おれも自分の勉強に専念したい、というか……」言ってから藍田は後悔した。兄の目を見ていられなくなって、視線を下げる。許してほしいという気持ちが先走り、声は勝手に出続けた。「小テストの結果がどうにも芳しくなかった。その、これ以上は、いけないと思って。成績を上げなくちゃ」


 右の側頭部に鈍い衝撃が走った。


 殴られたのだと理解するのにさほど時間はかからない。ぐわんと揺れる視界に、それでもまだ優しい方だと実感する。血は出ていない。


「それだけか?」

「……うん」

「お前の要領の悪さは自業自得だろうが。とっとと戻れ」


 正の背後で「正ぃ〜」と媚を売る甘い声が聞こえた。扉が閉まる寸前で、下着姿の女性がいたことを知る。滑らかな肌だ、と思った。肉厚そうで、触れれば吸い付くようなんだろうと想像できる。下着より白い布を纏って寝そべってほしい。そうして、白い紙にその曲線を引けたらどんなにか。彼女は正の通う大学のサークル仲間なんだろうから、そんなことは口が裂けても頼めはしない。この前も違う女が彼の部屋に来ていた。


 門前払いされる勢いで強く扉を閉められる。中で笑い合う媚びた声が、暗い廊下に肌寒く木霊した。


 今日は両親も総医学会の集まりで帰ってこない日だ。だから、兄も好きにできている。

 父は首都に設立された五十年の歴史を誇る白金総合病院の理事長、母はそこの外科医。兄の正は櫻田医大という全国の医大でも三本指に入る難関大学に入ってもう三年になる。

 無駄に広い洋館のような一軒家に、家族らしい温度はない。この冷え切った家で、藍田薫という存在は親にとっては幽霊、兄にとっては奴隷だった。

 縋るようにノートと解剖学書を抱き込んで、これらを燃やしもできない自分を苛んだ。燃やしたら、どうなるんだろう。いよいよ殺されたりするんだろうか。

 滲んだ手汗をノートに擦り付ける。まだ、死にたくはない。


(要領の悪い弟に大学の課題を任せるというのは安全なんだろうか。正兄さん)


 頭痛が、殴られたものによるものなのか単なる偏頭痛によるものかも曖昧なまま部屋に戻った。明日は土曜日で、早めに塾に行けば滞りなくメモ帳は回収できるはずだ。


 滞りなく。滞りなく。


 ────“二人”の人生が狂いだすのも、滞りないことだった。





 授業は十時始まりだったが、藍田はその三時間前に教室へと足を運んだ。


 誰もいないエレベーターに乗って、三階に上がっていく数字をぼんやりと見上げる。

 三階の教室は主に大学受験を間近に控えた三年生が割り当てられていて、自習は何時からでも大目に見られているが、それが内申に響くわけでもなし、ほとんどの生徒は自宅か他の落ち着ける場所で予習復習を済ませてきてしまう人が多い。藍田もその類だった。


 静寂だけが息をする無機質な廊下を歩き、一番端の教室を覗く。すると、引き戸越しに人影が見えて、「えっ」と思わず吐息まじりの声が漏れた。

 朝の七時に他の生徒がいるとは想像もしていなかった。

 藍田は首元の赤いマフラーに口元を埋めた。寒くない、寒くないと言い聞かせる。胃がキリキリと呻き始めている。

 なるべく慎重に引き戸を開き、そっと中を窺うと、確かに誰かが教室にいた。立ったまま、何かを熱心に読んでいるようだった──それがなんなのかはもうわかっている──。

 雪原が広がる教室の無音に、心臓の鼓動ばかりが立ちこもっている。


 意を決して引き戸を完全に開いてしまうと、一人の男子生徒が藍田の机の目に立っていた。


 濡れたような黒髪に、少し長めの前髪が屈み気味の姿勢に沿って垂れている。毛先に少しクセがあるようで、白い頸にかかる襟足は香り高いほど瑞々しい。背は百七十を超える高さがあり、紺色のブレザーから伸びる皺と、すらっとした足に流れる重力だけで、黒い隕石みたいな引力がある。

 横顔のシルエットすらはっきり見れないのに、“彼”が誰かは、一目見れば直きにわかった。


「……二葉、くん」


 ────二葉命。彼はまるで取り憑かれたようにして、あるいは人類で初めて遺跡を見つけたような形相で藍田のメモ帳を開いて見ていた。

 藍田の掠れた声も静寂にある教室では鈴の音ぐらいの存在感はあっただろうに、二葉はそれにすら気が付かない。凄まじい集中力だが、その矛先が自分のメモ帳だという事実に藍田は困惑した。誰に見せるつもりなどなかった絵、墓場まで持っていくつもりだった拠り所。今すぐにでも返してほしいし、取り上げて、誰にもなにも言わないでほしいと交渉したかった。


 硬い唾を飲み込んで、袖口のボタンを強く握る。


(誰に見せるつもりはなかったけれど、誰かがおれの絵を見ているというのはこんなにも緊張するものなんだ)


 返してと言いたいのに、それをためらうほど、彼は藍田の絵に魅入っている。緊張の中に妙な期待が萌芽していた。

 藍田と二葉は今日、初めて会話する。


「二葉くん」


 二度目の呼びかけで、二葉の小さな唇がわずかな痙攣を見せた。眼球だけが真っ先に藍田を見て、それから彼の顔がこちらに向けられる。下睫毛まで十全に伸びた睫毛に、悪魔に化けた天使のような顔が美しく藍田を見る。黒い瞳孔のどこにも光は見当たらないのに、なぜだかその網膜の奥に鮮烈な星のような輝きを感じた。冷たい風が喉を撫でていった気がする。

 こわい。そう思うとそれ以上声が出なかった。


「ねえ、これ、誰のものかわかる?」


 先に言葉を続けたのは二葉の方で、藍田は咄嗟のことに伏せていた顔をあげた。彼がいるのは藍田の机で、おそらくメモ帳もその机にあったものだ。なら、メモ帳の持ち主は藍田以外にいない。

 彼はそこまで考えてから、ハッとした。二葉は、自分がどこに座っているかなんて認識すらしていなかったのだ。

 顔面の血管が膨れ上がるように熱が集中する。マフラーに顔を埋めて、藍田は二葉からメモ帳を引ったくってしまいたい衝動を必死になって抑え込んだ。


「……れ、が」思ったように声が出ない。

「え?」

 肩を押さえつけるような声に気圧される。肺に力を入れていなければ立っていられなかった。

「おれ、の。おれの、それ……」

「え!?」

 二葉の目が驚愕に見開かれる。藍田と、そこに描かれている彼の絵とを交互に見比べている目には、なにが浮かんでいるのか、二葉の感情の彩度がわからない。ただ、そこに嘲笑は含まれていないように思えた。


「藍田君、だよね?」

 名前を覚えられていたことに背筋が伸びる。二葉の足が藍田の方向に向いた。

「う、うん」

「これ、ほんとに藍田君が? 藍田君が描いたの? ぜんぶ?」

「そう。そうだよ」

「ぜんぶだよ? ぜんぶっていうのは、メモ帳にあるだけのことだけど」

「だから、そうだって、……」


 いつの間にか、二葉は目睫の間まで迫っていた。メモ帳を両手で握り、大きな目が狼狽した藍田の顔を映している。

 彼の歩調は勇ましく、藍田は一歩と距離を縮められるたびに半歩ほど後ろに下がらねばならなかった。

 膨張したような沈黙がって、爆発的な感動が二葉の顔の上で弾けた。


「すごいっ! すごいや!」


 晴天の声が白い教室に響く。二葉はもう一度メモ帳のページに視線を落とし、それからこちらを見たかと思うと、興奮冷めやらぬ様子で藍田の右手首を掴んだ。

 堰を切ったみたいな勢いに、抵抗も許されない。藍田は彼から言われた「すごい」という言葉を咀嚼するので精一杯だった。お世辞なんだろうか? 今まで親にもすごいなんて言われたことはない。こういうときはどんな返答をしたらいいのか、誰も教えてくれなかった。

 手首を引かれるまま、自分の席に誘導される。袖口の上からでも二葉の力強さは充分に伝わった。振り解けない強制力はないが、振り解かないでほしいという意思はしっかり感じられる。藍田のメモ帳は──拠り所は──彼の胸に赤ん坊のように抱きしめられていた。


(返してくれるといいんだけど)


 置き去りにされた心だけが曖昧に彷徨っている。

 二葉はなんの躊躇もなく志田の席に座り、藍田が着席するのを待たずに手の舞い足の踏むところを知らず話を切り出した。


「ほんとうに、ほんとうに感動したんだ。藍田君は美大を受けるんだろうね、きっとそうなんだろ?」

 心臓が痛む。天才と一目置かれた人から出る斜陽の無邪気さは、ひどく重たい。藍田の口角が窮屈に上がった。

「いや、違うよ。これは、その、趣味みたいなもので」

「それなら藍田君は稀代の画家になれるってことだ!」睫毛に守られた目が大きくこちらに向けられた。「あのさ、よければ話を聞かせてもらえないかな。たくさん訊きたいことがあるんだ。俺は、こういうのにとんと学がないから、きみには笑われてしまうかもしれないけれど……とにかく藍田君の絵に惹かれているんだよ。ほんとうだよ」


 “学がない”。どうやら彼はこの塾の成績順位表を見ていないらしい。思わず笑ってしまいそうになるが、それでも彼の言わんとしていることは頭の片隅で理解できた。画用紙を触ったこともない、数式だけと生きてきた人間が唐突に鉛筆を渡されて、目の前の花瓶と林檎を写実的に描けと指示されたって描けないのは自明の理である。体と脳に染みつかせていく学問、芸術とはそういうものだ。

 緊張で始まった心臓の呻きは、今やすっかり膨張した期待によって動いている。藍田はやっとマフラーをほどいて、スクールバッグを自分の机に置きながら着席した。


 最前席にいる天才と最後尾にいる凡愚。二葉の顔をまともに見たのもこれが初めてのことだった。


 ずるい、と思う。天は二物を与えないのではなかったのか。二葉の体も相貌も、誰もが目で追いかける造形をしている。聡明英邁でなくたって、彼は生きていけただろう。モデルにもなれただろうし、そうでなければ俳優、どの会社でもある程度のミスは目を瞑ってくれるはずだ。

 彼が、こんなところにいないでもっと馬鹿であってくれたらよかった。とんでもない性悪で月の虧盈にすら無頓着な人で、救いようのない人間。天は二物を与えない、それを知らしめてほしかった。


(もしくは、おれが、もっとちゃんと純粋に彼を僻めるような人間であったならよかった)


「雪の日に遠くを眺めると、景色がどう見えるか知ってる?」


 二葉の声に、視線を上げた。叙情的な言葉はこの教室に到底相応しくないのに、彼が口にするとあつらえたみたいにしっくりくる。訝しむという余地を人に与えない。

 藍田は正気を保つように膝の上で拳をつくった。


「……どうって?」

 二葉の薄紅色の唇が弧を描く。頬はすっかり紅潮し、藍田を見るその眼差しは桜の木漏れ日のようだった。

 汝の隣人を愛せよ。彼のそれはまるで隣人を愛さずにはいられないといったふうだ。

「輪郭は明瞭なのに、どうしてか遠くの山や空はどこまでも透けて見えるんだ」

 今、二葉の隣にいるのは、藍田の他に誰もいない。


(彼は、こんなふうに笑うのか)


「俺は、今でこそ上京してこっちにいるけど、もとは盆地の地方出身だし、楽しみって言ったらそういう広い空を眺めることぐらいで……藍田君の描く絵はそんな光景に似てる。すっと雪が積もって透明になっていくようなさ」

 メモ帳を大事そうにめくり始めた二葉の手元を見る。皮膚を一枚一枚剥がされていくような感覚がした。痛くて、哀れなほど恥ずかしい。顔を見られないように、深く俯いた。

「大袈裟だ。そこに描いてあるものなんて、筆箱とか教科書とか、ハンカチとか、そんなものだよ」

「“そんなもの”をこうやって描けるのが奇跡的なんじゃないか!」


 藍田の頬に熱が沸き上がる。自惚れてはだめだ。こんなのは下手の横好き程度の実力で、それ以上に上手い人は億万といる。絵を人に見せたことがないから、慣れない賛美に酔わされているだけだ。藍田は自分にそう言い聞かせ、「それならさ」と、スクールバッグのポケットから携帯を取り出した。


 絵画はなにもかも独学でやってきたものだが、“学ぶ”のだから当然私淑している“先生”はいる。画像欄を開き、藍田は一枚の静物画を二葉に見せた。

「この日本画家さんなんてどうかな」

「……どうって?」二葉は画像を見ているのか、藍田を見ているのだかわからない抑揚で視線を上げていた。その機械地味た声にヒヤリとした。

「いや、えっと、この人、もうプロの画家で……おれも憧れている人なんだけど」

「へえ!」


 二葉の黒目がちな目が輝いたのを見て、心が仄暗さと共に軽くなる。そうだ。そうやって、他の素晴らしい作品を見れば、彼だってその絵が大したことはないものだと知るはずだろう。彼は、藍田だけの理解者というわけではない。大抵は同じ称賛を投げかける“神様”みたいな存在がいくらかいるに違いないし、これからできるかもしれないのだから。

 この、たった一回の称賛、賛美、傷はそれだけで充分だった。筆を折る要因はこれ以上作りたくない。


 端末を握る藍田の手指に、違う体温が被さる。顔を上げると、二葉の手が藍田の手と画面を覆っていた。

 天国行きのチケットを手に入れたみたいな彩度で、彼は溶けるように綻び、


「なら、藍田君はその人の筆を折れるぐらいの画家になれるよ」


 確信めいた二葉の黒い瞳に、背筋がゾッと粟立つ。そんなことを言われたいがために画像を見せたわけではなかった。藍田は意思疎通を図るようにしてかぶりを振った。


「ち、違くて。二葉くん、こういう画家の絵も好きなんじゃないかって思ったんだ。なんなら、この人のSNSも教えるし……」

「どうして?」二葉の声が鉱物的な抑揚に変わる。「その人のSNSを見れば、藍田君の絵が見られる?」

「そういうわけじゃ、……」

「じゃ、仕様がないね」


 彼の言葉も柔らかい笑みも、全てオブラートに包まれたものだが、言外にそんな画家の絵など興味がないと言っているようなものだった。二葉の手が端末から離れる。その視線はもう画面にはなく、手元にある藍田のメモ帳に注がれていた。見せ場のなくなった端末の画面を閉じて、机の上に置く。

 二葉の思考が読めない。芸術が好きな人だから、この絵にも過大評価をしてくれるものだと思っていた。


(まるで八月の積乱雲だ)


 美しい青空の下で、いつ、なにが急に降り出すかわからない。

 二葉の伏せられた睫毛に、柳のような影が落ちている。組まれた脚に粗暴な雰囲気はなく、身に纏った麗質を惜しみなく発揚させていた。深い紺色のブレザーに、臙脂色のネクタイ、彼の通う高校は進学校でもなんでもない公立の工業高校らしいと噂で聞いた。


「どの絵も甲乙つけ難いけど、とくに、俺は一番新しいページの絵が好きだな」


「ほら、このページ」と言って、二葉は志田の後ろ姿の描かれた絵を藍田に見せた。二葉の網膜の奥に輝きが戻っている。目に見える光はないのに、彼には異様な光明があった。


「他のは静物画なのに、この一枚だけ人物画なのは、思い入れがあるから? とても素敵だ」

「それは、……」志田くんの。そう言いかけて、藍田は口を噤んだ。思い返せば、自分がしたことは盗撮と同等ではないのか。実際、絵に描いたと言えば聞こえはいいが、デッサンは描くことよりも“観る”作業の方が圧倒的に多い。むしろそのものを“観る”ために描いていると言ったとて過言ではない。

 “思い入れがある”。その言葉の重さと自分の軽率さに嫌な汗が滲む。誰に見せる絵でもなかったが、こうなったときのリスクをもっとよく考えてモチーフを選ぶべきだった。


 一拍ほどの沈黙の後で口を開く。「て、手頃なモチーフがなかったんだ。なにせ、スイッチの……五分間のうちに描かなくてはならないから。思い入れというか、志田くんの背中が目に入っただけで」

「スイッチ?」二葉の声が裏返った。「あの時間で描いてるって?」

「……うん」

「そう、──」


 海面を貫く光が、二葉の網膜の裏に覗く。濡れたような黒髪も小さな唇も一際強い艶を帯びて、無邪気というにはあまりに危うく、喜色というにはあまりに色の多い、そんなふうにして彼は笑った。

 そのあともしばらく、二葉は興奮のままに称賛と質疑とを交互に繰り返した。九時近くになれば、ほつほつと他の生徒も教室に入ってくる。志田の席に座り、藍田と向き合って話す二葉を誰もが二度見する。懐疑的な視線は免れないが、それ以上、話しかけてくるような人はいなかった。みんな、余裕がない。席につくなり、背中を押されるようにして参考書や教材を開き始める。

 気楽におしゃべりしているのは二葉ぐらいだった。


 ────もちろん、藍田を道連れにして。


「こういう絵はなにで描いてる? シャーペン?」二葉が訊く。

「ううん。鉛筆だよ……2Bの一本だけ」

「一本でこんなに濃淡がつけられるんだ」

 二葉の表情に歓声が覗く。それにくすぐられて、藍田ももう少し語っていいような気になった。

「ほ、本当は、もう三本ほど濃度の違う鉛筆があればと思うんだけどね。木炭とかも使ってみたいし……」

「えっ」科白らしい声で、輝かんばかりの顔が藍田に吸い寄せられる。「使わないの?」

「買ってもいないものを使えないよ」


 二葉は彼の言葉にわかりやすく眉を下げた。

「見てみたいなあ」と呟いてメモ帳を見つめている二葉の様子に、血管が疼く。誰かから期待されるというのは、こんなにこそばゆい心地なんだ。藍田は努めて愛想良く笑ったが、それがうまくいっているかわからなかった。

 けれど、これが最初で最後だ。これ以上彼と関わるつもりもないし、絵も誰かに見せることはない。SNSなんかにあげて、誹謗中傷でも受けたあかつきには今度こそ生きていけない気がした。


「そうだ! 藍田君はSNSとかやってない? 教えてほしいよ」

「やってない」首を緩く振って、「そもそも、誰かに見せるつもりもなかったから」

「あ、……」


 二葉は初めて──ようやく──バツの悪そうな顔をして、ずっと抱えていたメモ帳を優しく藍田の机に置いた。その手つきがあまりにも名残惜しそうだったので、藍田は思わず「それ、あげようか?」と言ってしまいそうになるのを必死になって堪えねばならなかった。

 手持ち無沙汰になったのか、二葉は白い指先をやましそうにいじって唇をもにもに動かしていた。良く見れば、綺麗な手指の爪はどうしてか所々割れているようだった。


「……怒ってる?」

「え?」

 予想していなかった彼の反応に、瞼が持ち上がる。

「勝手に見てしまって……誤解されるかもしれないけれど、俺は普段からこんな節操のない人間ではないんだよ。本当だよ。ただ、それだけは見れずにいられなかったというか、おかしな話だと思ってくれていいんだ」


 寂しそうに肩を落とす二葉に、なんて声をかけてやればよかっただろう。


「あれ、藍田に……二葉?」


 頭上から降ってきた声に顔を上げると、目を丸くさせている小野田と困ったような顔をした志田が立っていた。

 小野田の顔には喫驚と困惑が迷彩色に入り混じり、二葉と話している人物が藍田だと認めたくないようでもあった。

 重力が肩に戻ってくる。凪ぎに立っていた足元が、泥濘にハマったみたいに沈んでいく。上げたはずの顔も少しずつ下がり、パサついた毛先が視界でわずかに揺れる。


「あ、その、実はさ」妙な空白が生まれる前に藍田はもっともらしい言葉を探した。「偶然、朝早く鉢合わせたんだ」

「それにしたって……」

 小野田の声に疑念が渦巻いている。それはそうだ。最後尾と最前列。凡愚と天才。接点なんてどこにもない。

 とにかく、二葉に余計なことを言われる前にこの場を切り上げなければならなかった。藍田は半ば奪い去るようにしてメモ帳へと手を伸ばす。


 その手に、二葉の白い手が大きく覆い被さった。


「“薫”っ!」


 豊満な睫毛に、隠隠と黒く輝く瞳が藍田を月のように見据える。今日初めて話しただけだというのに、彼の突発的な気安さは互いを一瞬にして知友にさせた。

 藍田の「えっ」と開いた口を遮るようにして、二葉は彼の手をメモ帳ごと両手で祈るみたいに握り締めた。柔らかそうだと思っていた掌は、意外にも固かった。日頃からなにかを強く掴んでいるような、作業慣れした手だ。


「どうかな? 俺の頼みは聞いてもらえそう……?」

「え……え? 頼み?」

 そんな話をしていた覚えはない。短兵急な話題転換に吃っていると、教室中の視線が集っていることに気付かされる。小野田も志田も注目していた。

「頼みってなんの話だよ。藍田にしかできないことか?」小野田の詰るような声が割って入る。

 なんの話かはこちらが訊きたいぐらいだった。

「そう。ずっと頼みたかったことなんだけど、なかなか言い出せなくて……今日ようやくって感じだったんだ」

 二葉が答える。


 話の奥行きも掴めないまま、退路だけが確実に閉ざされていっている。握られた手は手錠のように離されず、ただ、ただ、二葉の少女のような顔が美しく光を放っているのを眺めることしかできない。

 心だけが取り残されている。その焦燥感と緩急差のある二葉の声に呑み込まれていく。


「ね? 薫、聞いてくれる?」


 二葉の雪意のように冷えた手の温度は、彼の感奮とした明度を歪なものにさせている。


「……うん」


 無理に引き上げた口角が、筋肉痛のような鈍痛を訴えた。

 ──天才の頼みを断れるような資格を持つ生徒はこの塾にいない。わかっているはずだろう、二葉。


「本当っ? よかった、とっても嬉しい。詳しい話をしたいから、明日、塾の後で話をしよう」


 きゅ、と二葉の手が藍田の手を引き寄せる。神聖さすら感じられる彼の瞳には、外連味もなかった。こんな事態を引き起こしても、むしろ切迫した切実さが勝っているように見える。彼にもなにか事情があるのかもしれない。

 藍田は自分でも呆れるほどに、彼を憎みきれていなかった。怒りを覚えられなかった。どうしてこんなことをと問責する気すら起きない。二葉の手が離れ、メモ帳を隠すようにして胸の前で握り締める。


 席を立っても二葉の調子は潔白なままで、「志田君の席、取っちゃってごめんね」と志田に笑いかけて、何事もなかったかのように最前列──玉座へと戻っていく。小野田も彼に続いたが、怪訝そうな視線は最後まで藍田に向けられていた。

 二葉の後ろ姿が完成されたもののように映るのは、多分、制服のデザインが彼に合っているからなんだと今更ながらに思う。まるで、彼のためだけにあるようにあの高校の制服は格好いい。例えば、小野田と同じ進学校に行っていれば、彼は白い学ランを着ることになっていたろうしもっと野暮ったくなっていたことだろう。彼は、わかっている。


 自分で選んでいる。


「……まさか二葉に覚えられているとは、思ってなかったな」


 遠くなっていた鼓膜が、志田の声によって膨らんでいった。

 一分前まで二葉が座っていた席に、志田が座る。体育系の大学を第一志望にしている彼は、そのとおり上背も高く、体幹を感じられる体つきをしている。昨日描いたのだから、その筋ばった体は安易に想像ができた。志田の顔はそれに反して平和を好むように穏やかで、学校ではきっとみんなから慕われているのだと肌で感じる。

 志田の目がこちらに向く。プリントを渡される以外で、彼が自主的に振り返るのは初めてだ。


「いつの間に二葉と仲良くなったんだ?」

「仲良くっていうか……」喉から出る声が掠れた。「たまたまだよ。話の旨が合ったっていう、それだけ」

「そっか」


 志田はそれ以上を訊こうとはしなかった。しかし、その沈黙は藍田を逃してくれるものではなく、志田はまだ奥歯にものが挟まったように藍田を見ていた。目は口ほどにとは言い得て妙だが、思えば、二葉の目はどこまでも直情径行だった気がする。睫毛に守られているせいか、光の入りにくい黒目は、けれど湖のように澄んでいた。

 小野田や志田のように目で裏を語ろうとはしない。

 志田の視線に耐えかねて、顔を俯かせる。それを見計ったように志田は口を開いた。


「俺も、薫って呼んでいい?」


 ぐん、と重たい汗が藍田の背中に滴る。志田が、どういうつもりでそんなことを言い始めたのか、さっぱりわからなかった。いや、わかりたくなかったという方が大きい。二葉と話をしてしまったばかりに、身の回りの状況が奇妙に胎動している。

 返答に困っていると、志田は慌てたように「あ。そういうことじゃなくて」と言った。


「悪い、こんなタイミングじゃ、嫌な気持ちするよな。二葉が声をかけたからとかではないんだ。本当は前から話してみたかったんだけど……なにを話したらいいのかわからなくて、後ろの席なのに」

 嫌味なのか善意なのか察しにくい。“後ろの席”というのは、つまり劣等生の証以外何者でもないのに。

「おれとなにを話したって、金にもならないよ」

「友達になりたいって、それだけの理由じゃいけないのか?」


 ハッとして、顔を上げた。藍田を真っ向から見る志田の眼差しには同情や下心なんてものはなく、真摯な力強さだけがそこにある。捻くれた思考ばかりを選ぶ自分が恥ずかしくなった。

 二葉のような唐突さもなく、激情もなく、思考が察せないことに気を揉む必要もない。友人がどうしてもほしいわけではなかったが、それでも選べる贅沢が許されるのなら、志田の手を取れば。彼を選べば────


「……ごめん」

 思わず知らず滑り出た自分の言葉に、神経が強張った。

「えっ、やっぱり友達も無理ってこと?」

「あ、いや、違くて」藍田は急いで首を振り、無意識に溢れた自分の言葉の後始末を必死になって探した。「さっき、捻くれたこと言っちゃって」


 志田の顔に緩やかな笑みが溢れる。──のどかな青畳に似た表情のどこにも、二葉のような強烈な引力はなかった。

 その日、なにを描いたのか覚えていない。スイッチが始まって、もう一度志田の背中を見た。彼は喋らず、顔も向けず、立ち上がらず、その剛健な背中にこそ価値があるような気がした。


 この時、志田の手を取っていたら、果たしてどうなっていただろう。


 わからない。今となってはもう誰も知り得ない。




 翌る日、よほど行くかどうか迷ったけれど、藍田の足は必然的に塾へと向かっていた。


 朝早くに行けば二葉に会えるかもしれなかったが、今は二人でいることを避けたかった。生徒が登校してくる時間帯に合わせて教室に入る。

 何人かの生徒が振り返って藍田を見た。今まで無意味だった視線に、灰色の曇天が燻っている。ただでさえ居心地の悪い空間がいよいよ牙を剥いてきている。

 二葉の周りには普段以上に多くの生徒が群がっていた。直接的に話さなくとも、二葉の興味を惹きそうな話題を躍起になって探っている。“藍田”でも彼の関心を引けたのだから、自分たちが劣るわけがないと、プライドが彼らを動かしたのだろう。


 昨日のことがなかったかのように、二葉からこちらに意思表示はない。藍田はそれに安堵しながら、どこかで落胆も覚えていた。


「薫!」


 その声にドキッとして、視線をずらすと、志田が席に座ったまま藍田に手を振っていた。

 掌を丸め、その内側に爪を立てる。今まで一言も話そうとしなかった人間が、昨日を皮切りにして他人に愛嬌を振りまいている。

(前から話してみたかったと志田くんは言っていたけれど、おれのなにを見てそう感じたのだろう? 二葉なら、おれの絵を見た二葉なら、まだしも)


 ──笑え、笑え、笑え。


(笑えるはずだ。贅沢を言うな)


「……おはよう、志田くん」

「おはよう。マフラー、今日は暑くないか?」


 そう言われて、初めて赤いマフラーの内側が湿っていることに気づいた。「たしかに」と口にして、スクールバッグを机に置き、マフラーをほどく。白熱灯の光が、藍田の朧げな足取りを影として揺らした。閉鎖的な空間、換気のできていない憂鬱な空気、医療施設のように色彩のない光景。

 席についても不安定な膜の上にいるようで、地に足がつかない。スイッチが始まる前にメモ帳を取り出したかったが、志田がいる手前、下手に動くこともできなかった。


「志田くんは、二葉くんと話さないの」

「混雑したところは苦手なんだ」

 大袈裟に肩を竦める彼に、体の緊張が少しばかり緩和される。

「おれもだよ」

 志田の顔が綻んだ。「そういえば、二葉になにか頼まれてるんだろ? あの天才でもできないことってあるんだなあ」

「……そう。そうだね」

「教えられない?」


「え?」と間の抜けた声が藍田の喉から落ちる。


 志田は藍田の机に頬杖をついて、悪戯っぽく微笑んでいた。戯れだろうか。それとも、遠回しに詮索されているのか。視線だけを右に逸らした。


「なにを教えるって、……」

「なにって、わかるだろ。二葉からの頼まれごとだよ」

「それなら、おれもさっぱり知らされていないんだ」


 座に堪えなくなって、誤魔化すようにスクールバッグを下におろした。その瞬間、背中に軽めの衝撃が二回ほど走る。屈めていた上半身がより深く弾んで、机の引き出し部分が見えた。


「なんだ、二人だけの秘密か? 俺たちだって友達なのに」


(おれたち、本当に親しい間柄だとでも?)

 鈍い頭痛が神経を蝕んで、左目の瞼が短く痙攣した。


「……二葉の願いをおれが叶えてあげられるかどうかは、果たしてわからないし。これでなにもできなかったんじゃ恥ずかしいだろ。きちんとできたあとで、そのうち教えるから」

「え?」志田の目が不意を突かれたみたいに丸くなった。「いや、いや、おれはそういう意味で聞いたんじゃなくって、──」


 ジーッ! と低いブザー音が教室に木霊する。スイッチの時間だ。志田はまだなにか言いたそうに憂色を示していたが、藍田が口を閉じたままでいるとやがて前へ向き直った。

 彼が振り向かないのを確認して、机の引き出し部分の空洞に右手を差し入れる。指先に軽い感触が触れた。それを誰にも気づかれないよう、そっと取り出す。


 折り畳まれた簡素な白い紙、それが手紙だということは中身を見ずともわかる。誰から誰に宛てたものなのかも、安易に予想がついた。そしてその予想はきっと外れていないだろう。

 紙を開きかける指先に、心臓の鼓動が乗り移る。掌にはじんわりと手汗が滲み、紙を湿らせないように神経を張った。


『薫へ

 昨日は驚かせちゃってごめん。でも、頼み事があるというのは本当なんだ。今日、塾が終わったあと、三階の廊下にある一番端のトイレで待ち合わせよう。

                                       二葉命より』

「二葉、シャーペン落ちたけど」


 最前列から聞こえてきた声に、意識が誘導される。


「ああ、ありがとう。俺が取るよ」


 濡れたような黒髪が机の列からズレる。その端正な横顔で、二葉は確かに藍田を見ていた。

 

(行きたいと、思うか?)


 けれど、行かないという選択肢も、もとより存在していなかった。

 昨日の今日で彼に頼みごとがあるとするなら、それは十中八九、絵に関することだろう。蟻走感を否めない不安はあれど、そう思うだけで、知る術のない心が踊るようでもあったのだ。

 他校だが、もしかすると文化祭の手伝いかもしれないし、学校案内のパンフレットでも制作するのかもしれない。どちらにせよ、作者の名前が出ることはないだろう。それで構わない。好きなことができる。今まで心を支えてくれていたものが、必要とされている。無駄だとも恥だとも言われず、価値がないとも言われない。それは、どんなにか素晴らしいことだろう。


 どくん、どくんと、抑圧していた希望が藍田の中で飢えを訴え始めていた。




 授業を終え、三階の端にあるトイレに向かう頃には時計もすっかり六の字を指していた。


 周辺に二葉の姿は見当たらず、このまま外で待つべきかを悩んだが、結局はトイレに入ったところで待つことにした。ここを待ち合わせ場所に指定するあたり、誰かに聞かれたくない話であることは明白なのだ。

 二年前に新しいトイレが増築されてから、三階の東にあるトイレは使用禁止になった。電球も抜かれ、日当たりも悪ければ、ここだけ数十年の時を経たような廃れ具合だった。下水から上がってくるアンモニア臭がしないという点だけが幸いだ。

 灰色のタイルに、人の声すら届かない閉鎖感。半開きになった個室に洋式のトイレは見当たらない。世間話をするには最悪な場所だが、秘密を共有するならここ以上に最適な場所もないだろう。


 赤錆の亀裂が走った鏡に、藍田の姿が映り込む。

 暗がりでもわかる色素の薄い髪に、頼りない背筋、遅れた体格、疲弊したような相貌。そのわずかな部分に、諦めきれない欲望が遠雷のように明滅している。

 みっともないと嘲笑えば、鏡の中に映る自分も嘲笑った。


 その鏡に自分のものではない手が残像を描いて映し出された。


 ゾッとして振り返ると同時に“それ”が藍田の頸動脈を捉える。首筋に凄まじい痛みが走り、火花の散るような電流音が炯々と轟いた。


「ゔっ」自分の声が鼓膜の奥で漏れる。炎が脳裏で燃え上がる。脳から心臓へ血の気が下りていく眩暈と、唸りを上げる耳鳴りの酩酊感に、体を支えていられなくなった。

 この痛みの正体を知っている。人体実験と称して、兄である正から散々受けた痛みだ。しかし、正と違い、“彼”はその扱い方をよく熟知している。殺傷力の低いスタンガンで相手を気絶させるには、脳に大きなショックを与えるほどの不意打ちが必要だった。


(なにが……)


 すべての景色が鈍重になる。視界が暗くなっていく寸前で、傍にいる人影を見た。怒りも疑問も困惑も通り越して、藍田は、不思議と清々しい気持ちでいた。

 痛めつけるだけなら誰にでもできる。けれど、故意に人一人をどうにかできてしまえるのは、一つの才能だろう。それが狂気であれ、正気であれ、正よりも、あるいは両親よりも頭のいい人がいる。彼らを馬鹿みたいに崇めなくていいと思えた。認めてもらおうとしなくてもいい。


 黒目がちな瞳孔と目が合う。


「二葉、……」


 予想されていた冷たい衝撃はおとずれず、代わりに、柔らかい体温が藍田を迎え入れた。




◻︎



 ドンッ! と叩きつけられる痛みに、藍田は目を覚ました。


 節々の至るところが軋み、船酔いのような気怠さに瞼も開かない。「ううっ」と喉を鳴らして身動ぐと、唇になにかが張り付いた。足が、思うように動かせない。

 青々とした混じり気のない匂いが鼻をつき、上半身は外気に触れているようだった。腕も自由に動くようで、藍田はようやっと重い瞼を持ち上げることが叶った。


 膨らんだ土の香りと、湿った枯葉の感触が頬や掌に密着している。息を吸うと、死を彷彿とさせるほどの寒気が肺を支配した。


(おれは、どうなったんだ? ここは一体どこなんだろう)


 粒子のような暗がりが広がり、時間の感覚さえ掴めない。ぼんやりとする視界の中で少なくとも一日経っていないことを祈った。上半身を捩り、下半身を見てみると、膝から下がスーツケースに挟まれていた。動けないのはこのせいだ。だが、縛られているわけでもない。

 ──まさか、今の今までこのスーツケースの中にいたということだろうか?

 頬を擦れば、張り付いていた枯葉が落ちる。黒土の香りが鼻から離れず、目を凝らしながら辺りを概観した。暗くて細部までは見て取れないが、深い森林に囲まれている。あるいは、山の中かもしれない。しかし、塾の近辺は都市化していて自然など近場の森林公園ぐらいしかないのだ。公園にこんな鬱蒼とした山道が存在しているとは考えにくい。

 首筋に手を当てると、柔らかい痛みが広がる。包帯が巻かれていた。


「薫……?」


 少し離れた前方に懐中電灯の淡い光源が広がり、その中央に、黒いウィンドブレーカーを着た二葉が光を浴びて立っていた。スタンガンの強烈な破裂音が目の裏でリフレインされる。藍田は恐る恐る視線を上げて、二葉に注意を向けた。

 手には、頑丈そうなシャベルが握られ、地面に転がっている懐中電灯は一本だけのようだったが、業務用の工具なのか、一本で林立する木々の輪郭まで照らすほどの白熱を放っていた。光と濃い影のコントラストに浮かぶ二葉の白い顔は、天使のようでも悪魔のようでもあり、藍田は、次の瞬間に殺されてもおかしくはなかった。

 声を出すこともままならず、背中には冷たい汗がじっとりと滴る。二葉はこちらへと駆け寄り、藍田の呼吸は心電図の速さで跳ね上がった。

 今にシャベルが振り上げられ、その鋭利な先端が頭蓋を割る。……しかし、そうはならなかった。


「薫、大丈夫? ごめん、もう少し安定した場所を選んであげるべきだったな」


 気づけば、視界には二葉の綺麗な顔がいっぱいに広がっていた。うっかり転んでしまった友人を心配するように、二葉は藍田の顔を覗き込む。

 藍田は寒さでカサついた唇をハクハクと動かして、必死にかぶりを振った。なにを否定し、なにから拒絶したらいいのか、彼はとにかく二葉から視線を外せないでいた。


「こ、こんなの……」やっとの思いで、声が放り出る。「こんなの、一体どういうつもりで!」

「どうって?」

 二葉の声は秋の夜長みたいに落ち着いていた。

「頼み事があるって言うから、おれは、おれは、そのつもりでいたのに。こんな、気絶させられて、挙句にはスーツケースに詰め込まれて!」


 精一杯に張り上げた声が、木叢に喰われていく。藍田の怒号は辺りに木霊しているはずなのに、どうしてか虚しく擦り抜けていくばかりであった。

 嵐の日に声を上げるように、雪の日に泣くように、音という音が消されていくようだ。藍田の場違いな声だけが、ツララとなって、自分自身の頭上に降ってくる。助けを求めることは無意味な気がした。

 二葉は藍田の感情を不思議に思っているのか、前髪より上に眉を上げて、目を丸くさせていた。眼球には膜があり、どうしたって濡れているはずなのに彼の黒目がちな瞳孔には一寸の光沢もない。


(それなのに、輝いている)


「ううん、頼み事があるっていうのは本当だよ。ただ、説明するのに難しくてさ、体験してもらった方が早いと思ったんだ」

 二葉の冷静な声。温暖な抑揚。反比例した藍田の態度がまるで幼稚なヒステリックといったふうに映っていた。彼を糾弾することは決して間違っていないはずなのに。

 二葉は姿勢を起こして、彼に背を向けた。すぐ横に置いてあったスクールバッグから、何かを取り出す。藍田のスクールバッグもそこに置いてあるようだった。

「……それは、なに」

「ふふ」二葉は照れたように笑った。夢想に耽る午前二時のようだった。「薫へのプレゼント……必要になるかと思って」


 『吉野画材店』と表記されたビニール袋が目の前に置かれる。

 ──ガシャンと乱雑な音を立てた袋に、ひとまず肩の力が抜ける。少なくとも得体の知れないナマモノではないみたいだ。上半身を恐る恐る起き上がらせると、二葉は藍田の脇に手を差し入れ、彼をスーツケースから出した。二葉は緩やかに微笑んで、静かにビニール袋を藍田に促す。プレゼントを早く開けてほしくてたまらないらしい。


 立ち上がらず、そのビニール袋をそのまま膝に袋を乗せて、中にあるものを一つ一つ取り出した。


 十二色の色鉛筆、6Bから2Hまでの鉛筆、A4サイズのスケッチブックとクロッキー帳、そして練り消しに木炭が藍田の両手に溢れんばかりに乗っかる。

 唖然とした。藍田は宝石のようなそれらを現実として受け止めきれなかった。サンタクロースでさえくれなかったもの。手に取ることを許されなかった希望……色鉛筆も鉛筆もドイツの有名なブランドメーカーで、かなり値が張るものだ。体中の力が空気みたいに抜けていく。


「なんの間違いもないといいんだけど……」二葉の燦然とした抑揚が耳に滑り込んできた。両手でシャベルをギュッと握りしめる。彼はどこまでも正気だった。「店員さんに聞きながら選んだんだ。鉛筆っていうだけでいろんなブランドがあるんだね。画用紙一枚に細目や荒目なんてものがあって、ワトソン紙だとかケント紙なんだっていうのも、全部初めて知った……」

「……二葉くん」

「あ、いや、どうか、負担に思わないで。これは、俺が薫に必要だと思ってあげたかっただけだから。それに痛い想いをさせてしまったし」


 両腕に感じられる画材の重さが、負担なのか脅迫なのか、あるいは歓びなのか。愚かにもすぐに答えは出せなかった。

 二葉は藍田の返答を待たないで、後ろからもう一つのスーツケースを引きずってくる。彼はそれを乱雑に藍田の前に置いた。あの時の、体が叩きつけられるような衝撃が想起される。ジーというチャックの音が聞こえてくる。これ以上、なにが出てきても驚かない。驚かない気がしていた。まだ、この瞬間は。


「これから俺は“バイト”をしなくちゃならないんだ。一人でやるにはとても孤独で、大変な……薫には、その記録を描いてほしい」


 スーツケースが開いた瞬間、強烈に饐えた匂いが鼻を劈いた。まるで関節人形でも取り出すような緩慢さで、二葉はそれを藍田に差し出す。


 ────腐りかけた人間の頭が、彼の前で揺れた。


 「う、うえッ」


 下水と血の混じったような腐敗臭が鼻腔を貫き、嘔吐反射をもたらす。藍田は咄嗟に口と鼻を掌で塞いだが、そのせいで込み上げてきた胃酸が喉を焼いた。

 医者の家系といっても、藍田自身は本物の死体など見たことがない。しかし、彼の掴んでいるそれが偽物でないことぐらい、刹那にわかった。

 男性、歳は中年ぐらいだろうか。かろうじてわかる情報といえばその程度だ。は、は、と指の隙間から青息吐息が漏れる。悲鳴すら上げられない。悚然と見開かれた瞳の奥で黒い潮が満ちていく。故障したジェットコースターに縛りつけられているみたいに、恐怖と驚愕で脳の処理が追いつかないでいる。

 二葉だけが、星の上にでも立っているかのように軽やかだった。頭をスーツケースに戻し、彼はそれとシャベルを抱えて懐中電灯が照らす場所へと歩いて行く。思えば、そこは随分と拓けていた。


「地面を掘らなくちゃいけない」二葉の声は藍田の声より遥に遠く響いた。「そうだなあ……三十分はかかると思うよ。その間に、記録を描いてほしいんだ」


 スーツケースがひっくり返される。ボトボトと生々しい音を立てて、かつては一人の人間だった部位が腐葉土の上に落ちていった。光に照らされた頭が、寝そべるようにして藍田の方を向く。窪んだ眼孔からはこびりついたなにかが蠢いていた。変色しかけた肌、爛れた首に赤い血が固まっている。無言の絶叫が死体から発せられ、藍田はそれを全身で浴び、そうして隅々まで、余すことなく、観た。

 “観ずにはいられなかった”。

 涙で視界が歪んでも、瞬きをすればそれは直きに解消される。逸る心臓に呼吸が上がり、藍田は息をしろと必死に耳鳴りの奥で叫んだ。フーッ、フーッと意識的に息を吐いて、吸って、掌は汗や涙や湿気でぐしゃぐしゃになっていく。


「き、記録……って」

 蚊の鳴くような声でも、二葉の耳にはしっかりと届く。彼は間髪入れずに「これの」と死体を指したあと、途端にしおらしく肩を落とし──場違いにも──恥ずかしそうに俯いた。その奇妙な違和感が真冬に咲くひまわりのようにも似て、藍田の心を騒々しくさせる。

「もちろん、依頼料は払う。当然だよ、俺は恐れ多くも藍田薫という一人の画家を独占しようとしているのだから……いくらだってね」

「いらない、欲しくない」

「そういうわけには……薫の絵には価値がある。その価値を扱うにはお金が一番わかりやすい方法なんだ。もしくは、きみがほしいものでもいいのかもしれないな。薫、俺はなんだって差し出せるよ、君が描いてくれるなら……」

「そんなの、おれじゃなくてもよかったはずだ、……」

「薫じゃなきゃ意味がない!」

 それは、興奮というより激昂に近い声だった。彼の美しくしなやかな毛先が広がって、黒い瞳孔に燃え上がるようなある種の劣情を見る。

 波浪にも勝る感情の起伏に、藍田はわずかに後ずさった。冷たい風に、涙が乾く。


「薫の絵が見たいんだ……」シャベルのエッジが濡れたように反射する。二葉の目には本物の畏怖が蕩揺していた。「叶うなら、薫の絵になりたい。君の絵として産まれていたなら、俺は、きっともっとすてきになっていたのに……そうに違いないのに、でもそこ“まで”は望めない、そんなのわかってる。……だから、薫が描く絵で俺がここにいることを、生きていたことを証明してほしいんだ」


 奇矯者みたいなことを言うな。そんなことも迂闊に口には出せなかった。藍田は喉が引き攣るような痛みを自覚しながら、死体を見て、それから二葉を見上げた。


「おれに、拒否権は」

「ある」

 意外な返答に眉根が寄る。「あるだって? おれがこのまま逃げて、お前のことを警察に言うかもしれないのに!」

「わかっているはずだ、薫は賢いのだから」二葉の目に穏やかな日差しが戻ってくる。「なにをどう、警察に言える? ここから下山するのにも危ないし、仮に降りられたとして、本当に安全だと思う?」


 ここがどこかも、死体の正体さえも知らない君が。


 脅迫にしては優しい声音だった。天使の羽毛みたいに柔らかい声が、藍田の呼吸だけを奪っていく。選択肢は、ないように思えて、実際のところはきちんと差し出されているかのようにも思えた。必要なのは、覚悟と度胸と決意だけだった。


(……今なら、どうとにでもできる)


 ──こんなこと、まともじゃない。

 火をつけるのと同じだ。この紙に、鉛筆に、木炭に、彼に、火をつけろ。


(兄の教科書に火はつけられなくとも、今ならできるはずだ。できなくては)


 指先がクロッキー帳の紙に当たった。藍田はそれを死にかけの赤ん坊を撫ぜるように擦る。柔軟で薄く、ほのかに荒い紙質は普段使っているメモ帳とはまるで比べものにならない。筆を滑らせるための舞台だ。白い世界に色を落としたものだけが、神様になれる。六日でも六時間でも六分でも、世界は作り上げられる。

 ──火をつけろ。火をつけろ。


「今日……今日だけって話でも」

「毎日ってわけじゃないさ!」二葉の顔色が打って変わって輝いた。「俺のバイトがある日でいい……いや、それも贅沢なお願いだっていうのはわかってるんだけど」


 今まで、絵を描くことは行き場のない慰撫であり、蜘蛛の糸を離さないでいるための祈祷だった。誰かに求められて描いたことなど一度もない。

 懐中電灯の光を背にした二葉は藍田の顔を不意にじっと覗き込んだあと、悪魔の真似事をする天使のように微笑んで、土を掘り返すための場所まで踵を返した。


 ここで逃げようが、彼の提案を真っ向から断ろうが、藍田には明日を生きられる確証があった。二葉は藍田を殺さない。それは、彼の絵がある限り約束された未来だった。今日起きた惨状を見て見ぬふりをしていれば、それだけで平穏な明日がやってくる。

 木々の寒さも、冷徹な空気も、死体から発せられる腐乱液の匂いも、湿った枯葉の感触も、シャベルを振り上げる彼の綺麗な姿勢も。すべて忘れてしまえば、燃やしてしまえば、なかったことになる。いつもどおりの日常に戻れるのだ。

 藍田は震える膝を叱咤させてゆっくり腰を浮かせた。頬から汗か涙かもしれない雫が伝い落ちる。逃げなければ。


(神様、神様、おれに祝福を。しあわせを、どうか)


 立ち上がる寸前に、膝に乗せていたクロッキー帳や鉛筆、木炭が落ちそうになって、無意識にそれらを屈んで抱え直した。膝が地につき、それっきり気概を見せてくれない。肩に伸し掛かる重力に耐えかねて首を垂れれば、抱えた画材たちが藍田を見上げていた。

 ぐわんぐわんと脳の奥で錆びた室外機が、音を立てている。血のように出てくる涙を拭う気力もなく、目の前に広がる光景を額縁の外で眺める。

 変わらない明日。逃げた先にあるものは平坦な日々。成績に追われ、進みたくもない進路を歩き、兄には奴隷のように扱われ、親の関心さえ買えない人生。なにをしても、努力をしても、清く生きても、見向きもされない。


 白い光に当てられて、生き生きとシャベルで土を掘り返している二葉は逆光を背負い、表情のほとんどが強いコントラストで見えなかった。それでも目だけは異様に輝いている。呪いのように悍ましく、最愛のように美しかった。傍に転々と散らばっている人間だったものと、それらの影が悪夢のように長く伸びている。木々の木目だけが明瞭で最奥は暗闇さえも呑んでいた。


(神様、神様、神様神様神様)


 かみさま。


 ──藍田は地面に跪き、クロッキー帳を開いた。


 ケースに入ったままの新品の鉛筆は削らねばならなかったが、そんな時間はない。木炭もまだ芯を抜いていないから準備不足だ。鉛筆の黒と焦茶を出して、土下座のように這いつくばる。

 白い世界に色を落としたものが神様になれる。

 藍田は茫然自失まま、まっすぐに死体を観て、一枚目の雪原に黒い線を引いた。

 色鉛筆の摩擦音、土にシャベルが食い込む雑音、残りはあと何分だろうか。描き始めが遅かったから、全てを緻密に観察するのは難しいかもしれない。一心不乱に手を動かし、たまに全体のバランスを見る。紙を見る時間は目の前のモチーフを見る時間より少なかった。


 小さなメモ帳の上、たったの五分間でしか許されなかった歓びが、今では心臓に達するほど大きく膨らんでいる。


 地面に転がったままの頭は爛れていて、まるで腐った木みたいに見えた。苦痛に満ちた眼孔がどうやって死んだのかを十全に物語っている。もう少し、きちんと観ておくべきだった。懐中電灯に当てられた死体から藍田までは、距離がある。

 悴むようであった手の内側に汗が溜まっていった。掌をズボンに擦りつけ、乱雑に拭うと手の側面が真っ黒に染まっていることに気づかされる。藍田は鉛筆のケースを手の下敷きにして余分な汚れが紙につかないようにした。

 ぐわん、ぐわんと頭の中で逆波がうねっている。手、よりも腕に疲労が蓄積されている。白い余白は意味のあるものだけに絞られていく。


 呼吸をすれば凍えるようで、息を止めれば体中が熱くなった。ふと、クロッキー帳に描かれた死体の頭に、赤い血が落ちる。出血している、と思考の外で思うが、それが誰の血なのか、あるいは絵から出血したのではないかとも感ぜられた。それを拭う時間さえ今は惜しかった。痺れてきた指先で何度か色鉛筆の側面を握り直し、最後の微調節に入る。描き始めでは絵のとおりだった首も、現実の方ではよく知れない虫が食い漁りに湧いていた。

 呼吸が鼓膜の内側で蠢き、血液が目の奥を熱くさせる。人生で初めて絵に触れた瞬間と同じぐらい、高揚していた。

 唇の隙間で味わう鉄の味が現実かもわからない。


「薫! 大変だ、鼻血が」


 二葉の声が唐突に藍田の耳鳴りを堰き止めた。頬に彼の手が触れて、視線を上げると、狼狽したような彼がいつの間にか目の前にしゃがみ込んでいた。その手にはしっかりと黒いゴム手袋がつけられている。


「ごめん、ごめんね、俺がもっと気遣ってあげればよかった。寒かったろうに、時間もたくさんとってあげるべきだった……」

 肩に二葉のウィンドブレーカーが被さる。先ほどまで土を掘っていたせいか、服から伝わる彼の体温は存外温かった。

「いや、……」鼻下に指を添えると、血がついた。鮮やかな赤だった。

「ところで、その」二葉の顔に少女の起伏が蘇ってくる。「絵は、どう?」


 つまりは完成したのか、ということだ。絵に完成なんてものがあるのだろうか。大抵は、見切りをつけたといった方が正しい気がする。

 視線をクロッキー帳に移し、ぼんやりと──冴えた思考の中で一分前に描いていた絵を見下ろす。完成かどうかは評価し難いが、“良い出来”だ。そうだと言える。

 力無く頷いて、血が膝に垂れそうになったのを二葉の手が掬い上げた。彼の目には流星の渦が膨張していたけれど、決してクロッキー帳を触ろうとはしなかった。それどころか、絵には視線もくれず、冴えざえと藍田を見つめていた。


「……見ていいよ。二葉くんがおれに頼んだことじゃないか」藍田は喉を引き絞った。

「そうなんだけど、俺ってば、こんな泥だらけだし。よければ掲げて見せてほしいんだ」


 もうどうにでもしてくれ。藍田はクロッキー帳を両手に持って彼に見せる。


 期待していた反応は返ってこなかった。代わりに、凪ぐような沈黙が訪れる。

 世辞でも称賛が飛んでくるかと自惚れていた分、その静けさは毒々しい重さをもって藍田の疲労した体に枝垂れてきた。クロッキー帳をかざしているせいで、二葉の表情も窺えない。初めて親に絵を見せたときのような息苦しさが、急速に思考を現実へと引き戻す。

 目頭にじわじわと汗が滲み、視界が不可解に歪んだ。視線を下に落とすと、虚しさが込み上げてくる。

 差し出したじゃないか。肉を、絵を、望まれたと思ったから差し出したのに。今度こそ、絵すらも描けなくなっては、なにもかもなくなってしまう。絶望に似た泥濘が足元から湧き上がってくる。

 このまま、死体と一緒に埋まってしまいたかった。蛆がわき、腐敗臭のする土の中で、このまま、このまま。


「最高だ……」


 黒いゴム手袋が地面に落ちて、クロッキー帳が掬い取られた。それとともに藍田の視線が上がる。

 二葉は至上の悦びを叫ぶように、クロッキー帳に描かれた絵の隅から隅までを眺め、少しでも地面に落としそうになったら子猫を抱き抱えるようにしてそれを抱きしめた。その両手はわずかに慄え、眼球には涙が表面張力を保っていた。

 藍田は暫しの間、ポカンと気力を手放して彼の堰くような姿を見つめた。喜ばれているのだろうか、期待には応えられたのだろうかと他人事のように考えながら、学ランの袖を握りしめる。


「それで、よかったと、……」

「よかった、なんてものじゃないさ!」

 快哉を叫ぶ声が木々に反射した。

「薫は自分がどれだけのものを描いたのか、自覚がないの?」そう言うと絵を見せて、「史上最高の画家だよ! かつてのフィレンツェにいる画家たちに見せて回りたいぐらいだ!」

「……、はは」


 乾いた一笑を漏らしたが、確かにあの時代の人たちにこの絵を見せたら彼のように認めてもらえる気がした。もしくは、興味を持ってもらえるかも知れない。「この絵の題材はどこで見つけたのかな?」と問われ、それに対し藍田は「知人が用意してくれた死体です」と答える。


(嘘みたいな話だ)


 二葉は花畑を走り回る子供のようにはしゃいでいた。絵を抱きしめたまま突然立ち上がったかと思うと、それをわざわざ事切れた男の頭の前にまで持っていって、絵を見せていた。そこらを歩いている蟻にでも見せた方が、よほど有意義だろう。

 二葉が命を消費する輝かしさを纏って振り返る。


「この絵を全世界の美大やアカデミーに提出したら、大金を払ってでも薫を入学させようと躍起になるだろうね。そのうちの何人かの教員や新入生は筆を折るだろうけど、それは致し方ないことだよ。人は、天賦の才に魅せられたとき、もっとも無力で愚かな生き物になるものだから」


 美辞麗句にしては気宇壮大な科白を聴きながら、藍田は未だぽっかりと空いたままの心地で二葉の腕の中にある絵を眺めていた。

 彼があんなに賛嘆するものだから、藍田は自分の目で自分の絵の不出来なところを探さなくてはならなかった。コントラストが弱い、モチーフに対して劇的ではない、タッチが荒く、運筆の迷いが見て取れる。画面との構成がイマイチだ。すべてにおいて力みすぎていて、遠近もあったものじゃない。


(もっと、上手くなりたい。上手くなって、彼に見せたら……)


 いったい、どんなふうに喜んでくれるだろう。


「ありがとう、薫」


 視界の焦点が合い、藍田の体は小さく強張る。頬を紅潮させた二葉は、名残惜しそうにクロッキー帳を彼に差し出していた。教室でメモ帳を返したときと全く同じ表情であった。

 藍田は面食らったようにクロッキー帳を見下ろしたあと、慎重にそれを受け取った。


「お、おれが持ってるの?」

「俺が預かっていてもいいけど、万が一にでも汚したりなんかしたら生きていられなくなっちゃうから……それに、このクロッキー帳はもう薫のものだよ」

「でも……これからもこのクロッキーに記録していくんだろ。おれが好きに練習してうるさくなったらどうしよう」

「……請け負ってくれるの? 俺の頼みを」


 あっと思った頃には時既に遅く、訂正しようと二葉の顔を見れば、彼はまさか静かに泣いていた。藍田はついに言葉を失った。彼の流す涙は本物だった。

 水滴によって束ねられた睫毛からほろほろと透明な涙が流れ、熱が上に集中しているのか、彼の半開きになった唇からは白息が濃く燻っている。それは、絵画になれない絶景のような美しさで、彼に抱き締められるまで藍田は呼吸をすることも忘れていた。

 二葉の腕の中に包まれると、体の力が抜けていく。どうしてか、その人肌に泣きたくなるほど安堵した。


「二葉くん、──」

「呼び捨てでいいよ……嬉しい、俺はまるで今日誕生日を迎えた気分だ。どうして薫の絵として生まれてこれなかったのか、悲しくてたまらなかったけど、それはきっと今日のためにあったんだよ」

「おれは、でも」


 言い終える前に、二葉のズボンからピピピピというアラームが鳴った。彼はそれを聞くや否や藍田を解放し、「いけない、さっさと埋めてこなくちゃ」と手袋をはめてシャベルの元へと歩いていった。抱き締められた体温だけが両腕に残り、薄らいでいく。

 埋める作業は掘る作業よりも比較的に早く終わるようだ。藍田はその何十分間かのうちに画材をスクールバッグの中に詰め込んだ。ウィンドブレーカーを脱ぐと一気に冷気が擦り抜けるようであったが、いつまでも彼の私物を貨りるわけにもいかない。

 帰りはどうするのだろうかと思っていると作業を終えた二葉が小走りにやってくる。今しがた死体を埋めてきた人間とは思えない無邪気さだった。

 腕を広げた二葉は抱擁を期待していたようだったが、藍田は条件反射に包帯の巻かれた首筋を守った。彼の眉が侘しい谷を描く。


「そんなに怯えないで……」

 そう言われながら、口を開けたスーツケースに促される。人間としての尊厳を失うような行為に二の足を踏んだが、ここで駄々を捏ねてもどうにもならないことは自明の理である。死体の入っていた方かと身構えたが、中は綺麗で、連れてこられたときのスーツケースのようだった。

 藍田は土の中で眠る幼虫のように身を丸めて、再びスーツケースの中へと身を横たえた。二葉は彼を慈しむように見つめると、臙脂のネクタイをほどいて彼の目を覆った。


(結局、目隠しはされるのか)


 第二の暗闇で今度は酸素が籠ったようになる。あとは、振動。荒い揺籠がガタガタと藍田の体を刺激し続けた。痛いなと思うこと五十回目で何人かの声が聞こえ、最大級の衝撃と痛みが体を襲った。車の扉の音が聞こえる。


 どのくらい経ったか、次にスーツケースから出された場所は、塾より少し離れた公園だった。


 二葉はごめんねと言いながら目隠しを取る。街灯の光に目が眩み、体のあちこちが痛んだけれど、精神的疲労に勝るものはなかった。肩をぐるぐる回して二葉を見れば、彼は彼でまた気を揉むように俯いていた。


「あの、もう一度だけ、絵を見せてくれる?」

「好きにしなよ、もう……これも持っていたらいいのに」

 彼は恐ろしげにかぶりを振って「汚さないっていう確証がない」

「おれだって汚すかもしれないし」

「作者本人が作品を汚すのと部外者が汚すのとでは罪の重さが段違いなんだ」


 クロッキー帳を渡すと、二葉は破滅を見るようにして絵に取り憑かれた。

 藍田はその様子を脳の遠いところから見つめていたが、今回は早い段階でクロッキー帳を返された。「いいの?」と訊くと長い沈黙のあとで「うん」と返答がある。


「俺が美術史家だったら、きみをもっとも理解できる美術史家になれたろうね。きっと、そうに違いなかった」


 そう言って、二葉は笑った。




 公園で解散し、家に着くと、時計は午前二時を回っていた。携帯の電源を入れて、画面を見ても両親からの連絡は入っていない。重たいドアを開く。無人の冷たい空気だけが藍田を迎え入れた。力の抜けた足取りで暗い玄関を抜け、そのままリビングに向かう。

 仄かにカレーの香りが鼻腔をくすぐった。しかし、キッチンの電気をつけてもそこには鍋の一つさえない。冷蔵庫を開けるとタッパーに残り物が詰められていたが、付箋で『正へ』と書いてある。テーブルの上には千円札が置かれていた。そのどちらにも手をつけず、藍田はスクールバッグを床に下ろし、中からクロッキー帳を引き抜いた。

 それをシンクの上に置き、下の大きな引き出しからガスバーナーを取り出す。


 頭の中は雨晒しにあったかのように真っ白だった。


 クロッキー帳を開くと、死体の顔が“生き生き”と藍田を見上げる。二葉に褒められているうちはこの絵の粗を探したが、客観的に見て、おおよその出来は良いと言える。そして、今後、もっと良くなる。

 ガスバーナーのつまみを捻る。シュゥゥゥゥとガスの抜ける音が細く息をした。親指を点火スイッチに添える。


『薫、……』


 脳裏で声が聞こえた。優しくて、温かくて、宗教的な声だった。


『俺は今晩にでも薫の絵の夢を見るよ。大きな美術館いっぱいに薫の絵がある夢。貸切でね、案内をしてくれるのは薫で……きみは何も言わないだろうけど、手を引いてくれる』

 背後からゆっくりと腕を回される。愛情という名の体温が残り火として燻っていた。


『これから、特等席で薫が絵を描く姿を見られるんだね』


 こんな歓びは他にない────


 滲んだ視界に、二葉の顔が揺らぎ、藍田は堰き止めていた喉へ思い出したかのように酸素を入れた。足の力が抜けて、冷たい床に膝から崩れ落ちる。重く脈を打つ心臓には、感情が伴っていた。

 漣漣と溢れる涙を見つめながら、藍田は空虚に笑い声を漏らした。今になってようやく気づく。


「うれしかったんだ……」


 嬉しくて、楽しかった。絵を描いている間の歓び、賛嘆されたときの高揚感。生きていてよかったと、思えた。間違いない。ただ一つ、問題があるとすれば──……この絵のモデルが本物の死体だということだ。


 それ以外に問題はない。なに一つとして。


 クロッキー帳を仕舞い、代わりに正から預かっていたノートを燃やした。この押し付けられた授業ノートを燃やすには、不思議となんの抵抗もなかった。


 絵を燃やすより、遥に簡単なことだったのだ。



◻︎



 藍田は寝不足になるまで塾にいる間の身の振り方を考えていたが、二葉との距離感は奇妙なほどなにも変わらなかった。


 二葉は相変わらず最前列の席に座り、小野田の話に付き合わされている。藍田も変わらず最後尾に座り、たまに話しかけてきてくれる志田の相手をしていた。藍田と二葉が話す機会はほとんど訪れず、変わったことはと言えば、スイッチの時間になると前から見えない視線を感じること、そして、“バイト”のある日は机の中にメモ用紙が入っていること、スクールバッグの中身がさらに重たくなったことぐらいだった。

 授業終わりに三階のトイレで待ち合わせをする。決まって、二葉は抱擁で藍田を迎えた。

 目隠しをされ、スーツケースに誘導される。体の痛みに耐えて、次に目を覚ますのは山の中というのが覆らない行程であった。


 死体は毎回同じ状態というわけではないようだった。溶かされていたもの、体だけミンチになっていたもの、二葉がスーツケースから出していく死体を、藍田は工夫を凝らして──嘔吐反射を飲み込んで──スケッチしていかねばならなかった。

 絵を見せるたび、二葉は下降を知らない勢いで藍田を称賛し続ける。絵を見ては抱き締め、見ては抱き締めを飽きもせず繰り返す。彼の欣喜雀躍たる姿だけが、藍田の救いだった。

 依頼料を払うと言って聞かない彼に、それならばと近場のコンビニで夕飯を奢るのを条件として提示した。最初こそ納得のいかない様子だった彼も、藍田が心から望んでいることだと説得すれば、すんなり受け入れた。


 そんな日々を繰り返して二週間が経つ頃には、藍田にもわずかな心の余裕が生まれてくる。


 「殺してはいないんだよな?」


  小太りの男の死に顔を描きながら、土を掘り返している二葉に声を投げかけた。今回の死体はバラバラ死体で、前のような腐りかけでもなく、比較的新しいものだった。苦悶に満ちた顔を描き写すのにも少しずつ慣れてきた。

 暗がりの中、懐中電灯に照らされた大きな影が一度だけ動きを止める。


「え?」

 二葉の紅潮した顔が藍田を見た。

「お前のバイトは、こういう死体を埋めることだけで、直接手は下してないんだよな?」

「もちろん」

 彼はなにを当たり前なことをといった調子で笑っていたが、死体を埋めている時点でここでの当たり前は世間一般の価値観として通用しない。

「お金がないの? こんな闇バイトに拘うなんて」

「え? まさか」


 なにを否定した言葉なのか判然としない抑揚だった。

 突き立てられたシャベルの柄に、二葉は両手をついて顎を乗せる。藍田の描く手は止まらなかった。


「じゃ、どうしてこんなこと、……」

「ただの娯楽だよ」と、彼は悪怯れる様子も見せず「いろんなことをやり尽くしたら、こんなのしか残らなくなっちゃった。今のところ、この派遣バイトが一番刺激的なんだ。闇バイトよりもしっかりした組織からの斡旋だし……警察も介入できないから」

「警察も?」

「そういう仕事だからね」


 そう言い終えると、再び土を掘り返す音が聞こえてくるようになった。警察も動けない案件ならば、この作業も決して法には触れないのではないか。


(違う。そういうことじゃない、こんなのなんだろうとまともではないんだ)


 迷いのなかった鉛筆が、少しずつ勢いを失っていく。酩酊していた脳がシラフに戻っていくようだった。最近はこうしたレム睡眠と覚醒の繰り返しであった。だらんと転がる死体がご馳走に見えるときもあるし、悍ましい化け物に見えるときもある。気違いになりそうで、恐ろしくもあったが、その恐怖が藍田の正気を正気たらしめてくれる唯一の命綱のようでもあった。

 まだ、大丈夫。大丈夫。

 完全に止まってしまった手を置いて、彼は二葉の一心不乱にシャベルを振りかざす姿を探るように見据えた。

 いろんなことをやり尽くした、と言う彼の口振りは、確かに燃え尽きたといった虚しさを引き連れてくるが、それがどれほどの規模なのかは測りかねる。

 傍に置いてあったブランケットを肩に手繰り寄せた。それは、寒かったらと二葉が預けてくれたものだった。


「本当は、絵も描けるんじゃないか? 自分でさ」

 口から滑るように出た言葉は、意外にも嫌味っぽい響きにならなかった。彼は、おそらく絵が描けない。どういう理由かは知れないが、そういう確信めいたものが藍田の中にあった。

「……今のは、冗句?」


 顔を上げて藍田を見る二葉の表情には、感激と書いてあった。思えば、こうした雑談も二週間目にしてようやく交わし始めたものだ。

 藍田は軽く躱すように「そうかも」と言って死体の頭に視線を移した。


「俺は、ゼロから一を生み出せない」二葉が言う。「周囲の人間は、俺のことを秀才だとか言って持て囃すけど、それは違う。俺にはまったく創造性というものが欠けているんだな。一パーセントの霊感っていうものがないんだ」

「じゃ、小説も書けなさそうだ」

「そうだね、きっと書けない」

 藍田は静かに眉を寄せた。“やり尽くした”と言っていた中に小説や創作は含まれていなかったのか。シャベルが土に深く食い込んだ。

「書いてみたらいいのに」

「興味がない」その声音に抑揚はなかった。「というより、わかってしまうんだ。俺は書けないって。絵も、そうだったから。真っ白の紙を見ると、なんにもできなくなってしまう。一を十にも百にも千にも発展させることはできるのに、ゼロから一だけが俺にはできない。俺は、人より少し要領が良いだけのつまらない人間だから、神様にはなれないんだ」


 脂肪を乗せた男の死に顔を通して、彼の声が聞こえてくる。懐中電灯の溢れ火に濡れた男の髪が光を放つ。直接の死因は溺死なんだろうなと頭の片隅で考えると、酩酊感が再びやってきた。そこらに散らばった手足や胴体、弛んだ首の皮膚は青紫色がかっている。“青紫色”。せめて、変色していることがわかるように描かなければならない。

 ご馳走を貪るように描いている時間は、嫌なことをすべて忘れられた。

 描いてしまわねば。ガーゼでぼかしながら、2HやHBを使い、情緒を描き足す。目頭の窪みに木炭を擦りつけると画面にメリハリがついた。


 面前にあった悍ましさはすっかり消えている。

 相槌も共感もせず、動かしている手に集中ながら、藍田はなにも考えないまま口を開いた。


「創造性なんて……おれだって、こうして目の前にあるものを描いているだけだし、あってないようなものじゃないか」

「ええッ?」

 素っ頓狂な声が辺りに木霊する。二葉はシャベルを後ろ手に回すと、大きく足を撥ねさせて、藍田の背後までやってきた。

 癖のある毛先を耳に引っ掛けて、二葉は藍田の手元と前にある死体とを何度も交互に見比べたあとその場でしゃがみ込んだ。下瞼に二葉の親指が触れる。ひんやりしたゴム手袋が歪に皺を描いた。彼は、悪戯っ子のように微笑んで藍田の顔を覗く。


「薫の目に棲んでみたいよ」


 彼がそうしたように、藍田も手元の絵と死体とを目だけでなぞった。背中に毛虫のような汗が伝う。彼との距離は目睫であった。


「……なにを、……」

「薫には天性の創造性があるってこと。その視神経が他の人とは違うってことを、きみはもうすでに自分の手で証明できてる」

「買い被りすぎだってば」

「ほんとうだよ!」

 二葉はおおらかに笑って、いそいそと立ち上がった。今更、なにも見てないふりをして前を向く。

 完成前に絵を見ない。それは彼が彼自身に課した掟のようなものであったのに、今しがた、その制約を本人がいとも簡単に破ったのだ。彼は、感情の起伏に従って行動を起こす節があった。整った輪郭に、スッと繋がる耳は赤くなっている。

 しかし、多少の羞恥はあっても、二葉は後悔というものをしない。


(いや、後悔なんて知らないんだろう。彼の目の奥には消えない孤灯が光り続けている)


「描いてみたら? そうしたら、良い結果になるかもしれない」

「そんな残酷なことを言わないで」彼はゆっくりと前へ歩き出す。「……今が一番の幸せなんだって、薫ならわかってくれるはずだよ」


 “しあわせ”。確かに、幸福感はあった。それは決して勉強しないで絵を描けているからではない。やりたいと思ったことを誰の批判も気にせずに思い切りできているから、そして、それを心待ちにしてくれている誰かがいるから、満たされる心地がある。

 黒く汚れた両手を見下ろして、鉛筆と木炭を握りしめた。あとは仕上げだけだ。もう二十分もかからない。


「あとどのくらいでできる?」と訊いてくる彼に、「もうすぐ」と大雑把に答えれば、彼はそれでも嬉しそうに破顔した。桃色の唇が撓み、涙袋の膨らみが下瞼を押し上げる。遠くからでも睫毛がキュッと密集するさまが見えた。

 描いているうちに彼と目が合う。そうすると、彼は無意味に指を立ててピースを形作るのだが、その指はいつも歪だった。親指が押さえているのは薬指だけで、小指も一緒に上がりかけているのだ。恐竜の足みたいな形のピースサインは、まるで二葉のトレードマークでもあった。


 二葉の等身大を描いたことは一度もない。それは彼の望むところであったろうし、これから先も彼を描く選択は取らない気がした。“生き生き”とした彼を描くには、あまりに眩しすぎる。


 絵を描き終えたのは、それから十分後のことだった。




「き、今日っ、今日はね、薫にプレゼントがあるんだ……!」

「プレゼント……?」

 藍田は鉛筆を筆箱に仕舞いながら怪訝な顔をして、肩で息をしている二葉を見た。

 絵を見せたあとの二葉はいつも発作かと思うぐらいに興奮するため、すべてが終わると、彼は会話もままならないぐらい汗をかいて肺呼吸をヒイヒイ繰り返す。彼のこうした状態には三日で慣れたし、今となってはこのあられもない感情を見ることだけを救いにしている。

 だからこそ、イレギュラーな事態には耐性がなかった。プレゼントと言ってまた死体が出てきたらどうすればいいのか。


 しばらくは身を固めて二葉の動向を窺っていたが、千鳥足の二葉が持ってきたのは二つの大きな弁当箱だった。


 片方は高級料理亭のロゴが印刷されたプラスチックの弁当箱、もう一つはどこにでもある家庭的な弁当箱。


「えっとね、こっちは買ってきたやつで、こっちは手作りのやつ……内容は一緒のものを作ったから、どっちでも同じだと思うよ」

 想像もしていなかった不測の事態に、藍田は目をひんむいて驚倒した。

「な、なんで、そんな突然……というか二葉が作ったの?」

「だって薫ってばコンビニでいつも安いものばかり選ぶし、やっぱり、それじゃ割に合わないと思って」

「どうして二種類も」

「店のものでもない、他人の手で作られた料理が苦手って人もいるから……あ、アレルギーとかあった?」


 それは本来作る前に訊く礼儀である。藍田は緩く首を振って二つの弁当箱を見比べた。もちろん、二葉が作ったものに一寸の懐疑もないかと問われれば違うと言える。だが、彼が藍田に薬を盛って得することもないのだ。


(だって、彼はおれを一番に理解する美術史家なんだろう? 美術史家は画家を殺したりなんかしないじゃないか……)


 二葉は藍田の隣に腰を下ろし、弁当箱を並べた。落ち着きなく揺れる黒い瞳と手遊びには、手作りを選んでほしいという願望が隠れもせず顔を出している。

 横目で二葉の表情を窺いながら、藍田はそっと手作りの弁当を膝に抱えあげた。彼の限界まで丸くなった大きな目が、藍田に向けられる。


「え!」

「なんか盛ってたりする?」

「そんっ、どうしてそんなひどいこと、……」

「………冗談だよ」


 目に見えて機嫌を良くした二葉の様子に、口角が上がる。一人の人間が、たった一人の人間の一挙一動に左右されている。これほど愉快な状況もない。

 彼が喜ぶこと、そしてがっかりすることは大凡把握できている。裏を返せば、“それしか”知らないということにもなるのだが。


 弁当箱を開けると、遠足を思い出させる匂いが林の匂いに混じって充満した。茶色いご飯には牛肉の時雨煮が織り交ぜられ、ほうれん草の煮浸し、切り干し大根の煮物、唐揚げと卵焼き、鮭の塩焼き、トマトやおしんこなどがいっぱいいっぱいに詰め込まれていた。

 一介の男子高校生が作ったとは思えない出来栄えである。

 隣で胡座をかく二葉から割り箸を受け取り、ご丁寧に水筒も差し出された。

 外で食べるには指先も悴む時期だが、清涼な風は寒さより懐かしさと心地よさを連れてくる。懐中電灯のおかげで、手元もはっきり見えた。


「どれかはお母さんに作ってもらった?」

 児戯にそう訊くと、彼も割り箸を開けながらひだまりのように微笑む。

「母は家にいないんだ」

「ああ、お仕事?」

「ううん。交通事故でね、もう長いこと植物状態で病院に入院してる」


 トマトを掴もうとしていた箸が滑る。「え?」と漏れ出た声は、聞き返すというよりその言葉の重さを反芻するためのものだった。

 二葉の箸が唐揚げの衣を貫く。


「お、お父さんは」

「ずっと前に絶縁したきり。今は親戚の人から仕送りとかもらってるけど、家では一人暮らしでさ。料理とかもあんまりしないから、うまくできているか……」

「ごめん、おれ、なにも知らないで家族のこと」

 踏み込んでおきながら、こういうときなんて声をかけたらいいのかわからない。俯いたまま彩りのいいおかずを凝視していると、隣から重力のない声が聞こえてくる。

「ああ、そっち? 別に気にしないでいいよ、俺は今が幸福なんだから。それより、どう? 美味しい?」

 そう言われて、藍田は慌てたようにほうれん草の煮浸しを口に押し込んだ。

「うん、おいしい」


 二葉は「やったあ」と言って大いに喜んだ。口に含んだ直後で、味などわかりはしなかったが、咀嚼を繰り返すとその味が本当に芳醇であることを知る。嘘にならなくてよかった。

 パクパクと大雑把に食べていく二葉を見て、藍田も急いで口に唐揚げやご飯を詰め込んでいく。華奢に見える二葉の口は存外に大きく開くらしかった。真っ赤に熟れた舌、白い歯が見え隠れする。


「薫、今日は時間を多めに取ってもらってるから、ゆっくり食べて」

「え、あ、わかった」藍田は一生懸命に咀嚼していたものを嚥下して、「あのさ、よければお母さんの入院してる病院を教えてほしいな。いつかお見舞いに行けたら、……」

「白金総合病院ってところ」


 あっさりと出た答えに、藍田の心臓が悲鳴を上げる。両親の顔が脳裏に浮かび、現実が急激に迫っていく。胃に詰め込んでいたものが嫌な音を立ててぐるりと回った。

 間もなく「いや、でもそこまでしなくていいよ」と二葉の声が聞こえてきて、藍田は不覚にも荷を下ろしたような心地になった。水筒からお茶を汲み、湯気が燻るそれを口に含んで、不安と一緒にじっくり飲み下す。


「お母さんの絵を描いて、見せられたらよかったんだけど」

「母にはもったいない贅沢だ」感情の乏しい声だった。


 大切な人の事情を話すに相応しくない表情は無関心という言葉がよく似合っていた。彼の取捨選択の境界線は限りなく極端だ。まるで、審判のように物事を見る。


(……自分の親にも? わからない、二葉の考えていることはおれの想像の範疇を超えているだろうから)

 

 両親の話題には飽きたのか、二葉はとっとと食べ終えると身を乗り出して、そばにあったクロッキー帳を手に取り、アルバムを見るようにページを捲り始める。夜のような瞳に、星がいくつも輝いている。藍田は鮭の塩焼きを箸でほぐし、それを地道に食べ進めた。


「薫の絵は毎日見ていても飽きないよ。ほら、見て! この日は光の反射が印象的だけど、次のページの日付では陰に焦点を置いているのがわかる」そう言いながら、彼はわざわざページを開いて藍田に見せた。「こういう過程が上達してるっていうことなのかな? 俺にはよくわかんないや……全部が好きだから」


(兄のレポート作業を放ったらかしにしてまで練習してるんだ。少しでも上達していてくれなければ、意味がない)


 しかし、そろそろ正に頼まれたレポートを完成させなくてはまずい。彼のバイトを休ませてもらうか、絵の練習を取りやめるかどちらかをしなくてはならない。学校の期末、そして塾の小テストも近かった。せめてレポート作業がなければ、どうにかできるのに。


「薫は本当にSNSをやらないの?」

 唐突な話題に、藍田は視線を彷徨わせた。「……やったところでどうにもならないし」

「そんなことはない。SNSに薫の絵を載っければ、いろんな人がたちまちに称賛してくれるよ、俺にはわかる。とにかく、とにかくさ、俺はたくさんの人に薫の絵を見てもらいたいんだ。俺だけがこんな感激を知っているなんてなんだか申し訳なくて……美術史家って本来はそういうものだろ? 画家の絵や生涯を後世に残していくんだって」

「……、考えておくよ」

 上辺の返事にも、二葉は快く頷いた。

「前向きに、考えて」


 残りのご飯とおしんこを最後に食べて、「美味しかった、あるがとう」と藍田に空の弁当箱を渡す。彼は軽くなった容器を愛おしそうに抱きしめてゆっくり立ち上がった。レポートのことを彼に言うべきかとも逡巡したが、結局、その選択はできなかった。彼が興味を持っているのは、藍田の絵であって、藍田自身ではないという猜疑心が拭いきれない。

 肩に羽織っていたブランケットを畳み、藍田も立ち上がる。向かう先はスーツケースだが、その途中で二葉に手首を掴まれた。振り返ると、二葉の目が惑うように揺れていた。


「あ、あの、その、俺も薫も最近はなんだか、とくべつにいい感じだよね? お話もして、一緒に食事をして、気兼ねがない……?」


(塾ではそんなに話したりもしないくせに)


 それは、席が遠いという所以もあるのかもしれなかった。死体を埋めていること、その死体を描いていること、ある程度の例外を除きながら藍田はぎこちなく頷いた。


「そうかも」

 二葉の頬が赤らむ。彼は藍田の手首から手を離し、崇むように両手を組んだ。

「そっ、そうだよね! ほんとに……俺たちとってもいい感じだ。だから、たとえば、俺が君の家に遊びに行ってみたいっていうのも、……」

「おれの家に?」茫然と声が裏返る。「どうして?」

「薫のことをもっと知れたらって」

 疚しそうな彼の反応に、ハッとした。彼は藍田の家にあるであろう過去の絵が見たいのだ。藍田は熟考して自分の腕を片手で支えた。あの無機質な家に来てほしくない、けれど、昔の絵を見せて彼の反応を窺いたいというのも事実であった。

 選択肢は用意されている。


「親の予定とかあるし、おれも都合が」

「ならっ、なら、──」彼はズボンのポケットから携帯を取り出す。


「連絡先を交換しとくべき。そうだよね?」


 二葉は口角に愛溺をたっぷりに含ませた。そこに纏わりつく陰影はすべて彼のためにある。


 用意された選択に自由があるか、果たして、藍田にはわからなかった。



◻︎



「正、お母さんたち、ここ一ヶ月は忙しくなるから。冷蔵庫に作り置きがあるからきちんと食べるのよ。貴方なら大丈夫だと思うけど、よろしくね」


 下のリビングから両親と正の声が聞こえる。氷のように温度がない広い空間では、いくら声を潜めようともほとんどが筒抜けになる。


「わかってるよ、母さん。……それで、小遣いのことなんだけど、薫の面倒も見なくちゃいけないし少し多めにもらえることってできる?」

 母の声がワントーン明るくなった。「当たり前よ! 本当に、出来のいい子に育ってくれて嬉しいわ。私の子育ては間違っていなかったんだって、正だけが証明してくれるもの。あの子も、貴方の邪魔をしないだけまだいい方なのかしら……」


 父の「もう行くぞ」という威圧的な声を最後に、玄関の扉が閉じた。藍田は自室の扉に欹てていた耳を離し、十一月に差し掛かったカレンダーを見据える。両親が多忙であることは今に始まったことではないが、ここ最近は顕著に余裕がない。

 炎症が広がっていくような胸騒ぎが藍田の心臓を重たくさせる。二葉と行動しているとき、そして絵を描いているうちはそんな憂鬱を背負わずに済むのに。誤魔化してしまえる痛みなら、そうしていたい。


(そうやって誤魔化し続けた先に、いい結果が待っているとでも?)


 兄の階段を登る音が近づいてくる。藍田は必然的に自室の扉から身を離した。岩のような足音が廊下に響き、どうか通りすぎてくれという願いは、祈る前にドンというノックで砕け散った。

「おい」という正の脅迫に、藍田は小さく扉を開く。レポートの進捗を聞きにきたのかとも思ったが、無関心そうに携帯を見ているあたり、そうではないようだった。


「なに、……」

「明日の夜まで、俺、泊まりだから。万が一にでもあのババアとクソジジィが帰ってきたら、大学の研究室に泊まり込んでるとでも言っておけ。いいな」

「……わかった」


 正が隣の部屋に入ったのを見届けて、静かに扉を閉める。

 五秒ほど待って、正が電話をし始めると藍田は急いで携帯を手に取り、二葉とのメッセージ欄を開いた。

 連絡先を交換してからメモ帳でやり取りをすることはなくなり、バイトがある日は二葉からメッセージが入るようになった。しかし、彼との会話はそれ以外にない。頻繁にメッセージが来るかもしれないという期待もあっさり裏切られ、よほどの用がなければ、メッセージを送り合うことなどしなかった。

 その割には、塾で落ち着きなくこちらを見てくるし、絵を称賛しているときも二葉は藍田の「あ、明日、遊びにこない?」を待っているかのように物欲しそうだった。


 最初のうちは、このまま有耶無耶にして終わらそうかと考えていたけれど、二葉の焦れたような視線を浴びてしまえば意思は簡単に移ろった。

 『明日、いつものトイレで!』『了解』というメッセージを最後に一週間。藍田からなにかを送信するのは今日が初めてだった。変に緊張して、手に汗が滲む。打った言葉を何度も推敲して誤字がないか、文章が崩壊していないかを確認する。居心地の悪さを紛らわすために、うろうろと部屋の中を歩き回った。

 今、今だ。今送ればいい、時間としても土曜日の昼で悪くない。今日と明日で塾が休みというのも都合がいい。

 送信を押そうとして、やめての反復横跳びの末に、目を瞑りながらぐっと親指を画面に押し当てた。


『都合が悪ければ断ってくれていいんだけど、明日とか家に来る?』


 爆弾の導火線を切ったかのような静寂に恐々と薄目を開けてみると、もう既読がついていた。送ってから五秒以内に彼はこのメッセージを見たということになる。


『何時に行けばいい?』

 返信も一分以内にきた。行ける前提で話が進んでいる。断るという選択肢はもとよりなかったのだろう。

『お昼ぐらいなら』既読をつけてしまった以上、藍田も直きに返した。

『じゃあ、十二時にそっちに行くね!』


 生き急ぎすぎだ。まだ住所も送っていないのにここで問答が終わりそうである。藍田は曖昧な笑みを口角に浮かべて、深呼吸を繰り返した。こちらが落ち着かねば、必要なことも送れない。


『住所送るよ。最寄の駅まで迎えに行くから、改札に着いたら連絡して』

『すっごくたのしみ!』


 話を聞いているのかいないのか、不安になる返答だが、画面の向こうにいる二葉の表情は容易に想像できた。住所を送り、画面を閉じる。誘ってよかったと心が軽くなるようだった。

 携帯を机に置いて、部屋を概観する。特に散らかっていない部屋は、掃除の必要もなさそうだ。


(正兄さんのレポートだけでも進めてしまおう)


 正のノートは燃やしてしまったが、あれも誰かに板書を頼んでいたもので大した資料にはならない。ノートを失くしたと伝えたとしても正は意にも介さないのだ。

 机に向き合い、レポートに必要な資料と範囲がわかる教材を取り出す。いつもなら重くなる気分も、明日を想うだけでなにとなく晴れやかになった。


 鳩尾に蟠っていた胸騒ぎにも、すっかり鎮痛剤が打たれている。しかし、その効果がいつまで続くのかはわからない。あるいは、永遠かもしれなかった。


 取り返しがつかなくなっても、気づけない。





 朝起きると、正はすでに家を出た後だった。


 藍田は簡単な朝食を済ませ、手頃な白いニットとデニムに着替える。肌色の髪を梳かし、鏡台に映る自分の緑色の瞳を見る。休日に友達と遊んだことがない。どれぐらい身だしなみに気をつければいいのか加減が掴めなかった。意識しているとも思われたくない。

 しばらく鏡に映る見飽きた自分と睨めっこをしていたが、結局、藍田は髪を梳かすだけにとどめた。

 冷蔵庫に麦茶があることを確認し、コップをあらかじめテーブルに出しておく。菓子を出そうかと逡巡して、やめた。彼は遊びに来るというより、藍田の絵を見に来るのだ。手作りでもない限り、おやつを出したところで食べようともしないだろう。


 時計は十一時半を指していた。


 そろそろ駅に向かっていた方がいい、と思っていたところで携帯が鳴る。二葉からメッセージが届いていた。


『薫の家に着いたかも! インターホン鳴らしてみてもいい?』


 思わず知らず二度見した。藍田は直前のトーク履歴を遡って、自身の発言を見返す。『最寄の駅まで迎えに行くから、改札に着いたら連絡して』きちんとそう表示されている。

 もう一度二葉から送られてきたメッセージを確認し、藍田は急足で玄関へと向かった。ドアノブに手をかけると同時にインターホンが鳴り、藍田は重いドアを押し出した。開いた隙間から陽射しが白く目を焼く。


 変わることのない美しい顔を携えた二葉が、上機嫌に手を振っていた。黒いスリッポンに、同じ系統色のテーパードパンツ、袖口の広い白のシャツが揺れる。


「来ちゃった」

 鈴の音が鳴るような笑みを向けられ、藍田はドアに寄りかかった。

「迎えに行くって……」

「待ちきれなかったんだ。地図アプリを利用すれば難しくない道だったよ。……いけなかった?」

「いけないことはないけど、びっくりするから」


 二葉を家に入れ、スリッパを出してやる。彼は靴の踵を揃えて礼儀正しく「お邪魔します」そう呟いて、年季の入ったフローリングを踏みしめる。彼の目が彷徨ったのは一瞬のことで、その足取りは勝手知ったるといったふうに堂々としていた。

 後ろにピッタリとついてきている二葉を瞥見し、リビングに差し掛かるところで一度足を止めた。壁沿いには鞣した色の木造階段が備わっている。

 振り返ると、真っ直ぐにこちらを見据えた二葉と目が合う。


「二階におれの部屋があるから、先に行っていて」

「わかった!」浮き足立つような、いい返事だった。


 雀躍とした足取りで階段を上っていく二葉を見送り、藍田はリビングに向かって、用意していたグラスに麦茶を注いだ。両手に重さを感じながら、ゆらゆらと揺れる薄茶色の水面を見つめる。誰かのためにお茶を汲む、それだけの行為が、長年の孤独を埋めてくれた。

 兄も両親もいない家。誰もいない方が息のしやすい家であったのに、今は二葉がいてくれることで地に足をつけていられるようだった。

 グラスの表面に汗をかく水滴が、指の隙間から伝っていく。ビスケットの破片を落としていく童話のように、藍田の後ろには水滴の跡が続いた。鈍く軋む階段を上り、手前にある部屋を肘で開ける。


「二葉、──」


 しかし、そこに彼の姿はなかった。


 トイレにでも行ったのだろうか? そう思う間もなく、隣の部屋からバサバサと何かが落ちる音が聞こえ、頭の中が真っ白になった。思えば、どちらの部屋が藍田の部屋なのかを彼に教えていない。

 グラスを机に置き、藍田は倉卒として部屋を飛び出す。そうして、半開きになっていた正の部屋の扉を勢いよく開けた。

 予想どおり、二葉はそこにいた。扉を開けた音にも関心を示さず、彼はなにかを熱心に読んでいる。二葉の周りには紙や資料が散乱していて、そのうちの一枚が藍田の足元まで滑り落ちる。声を上げる前に視線を下ろした。


 手書きの文字が書かれていたそれは、去年に藍田が作成した正へのレポート課題であった。


 ゾッと肌に鳥肌が立つ。見られた。隠していたものが、よりにもよって彼に。


(いや、いや、落ち着け。そのレポートをおれがやったという証拠なんてない。二葉は“正兄さん”の部屋にあった“正兄さん”の私物を読んでいるに変わりないのだから)


 深呼吸をしながら大股で二葉に近づくと、藍田は彼の肩を強く掴み、無理矢理にでも振り向かせた。

 俯いたまま、まだ手元にあるレポート読んでいる彼の表情はよく窺えない。藍田を見ようともしない沈黙が、さらに焦燥感を急き立てる。なんとか視線をあげてくれないかと、両手で二葉の肩を掴んだ。まず、なにを言うべきか、彼はどこまで思考しているのか。喉の奥に空気が溜まって、うまく第一声が発せられなかった。


 二葉の口元が小さく動く。それに触発されて、藍田の口もようやく動いた。


「あ、あの、二葉……この部屋は、」

「……やっぱり」

「え?」

 二葉の顔が勇んで持ち上がった。その目には光を浴びるような嚮往きょうおうが瞬いていた。

「俺の思ったとおりだ! 薫はわざとあの点数をとって、今の席にいるんだろ! 前の席にきたら、スイッチの時間で描ける要素が少なくなるもんね、だから後ろの席ってわけだ。おかしいと思っていたんだよ、薫は決して後ろの順位に行くような人ではないのに、俺、なにかあるんだろうって」

 堰を切った饒舌さに、藍田は気圧された。その口ぶりは、信仰を語るようで、二葉の目に映る藍田の姿が本物なのかどうか、藍田自身もわからなくなっていく。

「ま、待って。二葉、違うんだ」

「いいや、いいや、薫、俺には隠し事なんてしないで。俺は薫のこと、なんでも知っておいた方がいいと思う。もちろん、誰かに言ったりなんてしないし、他意はないよ。でも、ほら、俺はさ、俺は薫の、──」

 藍田は声を上げた。「ここ! おれの部屋じゃなくて、兄の部屋なんだ」


 底の見えない空洞に声を張り上げた後のような、反響する静寂が二人の間に沈降する。「……?」と二葉は眉を寄せ、理解し難い様子を惜しげなく晒していた。

 言わなければよかったという後悔と、考えていたとおりここが藍田の部屋だと勘違いしていたのだという安堵が交互に押し寄せてきた。このまま押し通せば、レポートは兄のものとして片付くだろう。

 藍田は二葉の肩から手を離し、息をついて彼の手にあるレポートを取り上げようとした。

 グ、と紙に大きな皺が寄る。引き上げようとしたそれはびくともしなかった。


「でも、これは、薫の字だよね」


 上目に藍田を見る二葉の瞳孔には、巨大な確信が執念深く宿っていた。間違いを決して認めない小さな子供のような、ねめつける意識がある。厄介なのは、二葉に“間違い”がないことだ。

 唇の内側を噛み締め、心臓の狼狽を聞く。鎌をかけられている。そうに違いない。動揺してはいけないし、動揺を隠していることを悟られてもいけない。この場合、愛想を振り撒くのは逆効果だ。

 藍田は不快感を表すかのように顔の筋肉を顰めた。


「ここは兄の部屋だって言ったろ。その紙もここにあるもの全部、兄のものだよ。おれの字なんて見たことないくせに」

 表情を悟られないよう、身を屈めて散らかったレポートを回収することに専念した。正がこれらを取っておいた事実には驚いたが、捨てるのにも億劫だったというだけに違いなかった。たとえ、両親がこの紙を見たって藍田の字だとは思わない。

「……塾でプリントが後ろから回ってくるとき、最後に受け取るのは俺だよ」

「それがなに」

「薫の字には癖があるんだ。数字は斜めよりだし、さ行とた行だけ達筆に近い。漢字は明朝体みたいな抑揚があって、けれど、機械的ではない字」


 藍田は腕に抱えたレポートの束をぎゅっと抱きしめた。

 失念していた。塾では二葉と同じ席の列で、最終的な枚数と内容の確認は最前列にいる生徒に一任されるのだ。彼が藍田の字を知っているのは至極当然のことだった。そこまで綿密に見られているとは思っていなかったが。

 床に散らばっていた紙はもうどこにもない。俯いたまま、藍田は苦し紛れに口を開いた。


「兄の字もそうだよ」

「ううん、違う」二葉が鋭く遮った。「さっき、薫がここは兄の部屋だって言ったとき、ちょっと安心したんだ。だって、この手帳に書いてある字は薫とは似ても似つかない字だったから」


 そう言って二葉は体を逸らし、正の机に置かれた手帳を指先でなぞった。


 プライバシーもなにもあったものではない。礼儀を欠かれたことに対する瞬発的な怒りで、藍田は二葉の胸ぐらを片手で掴み寄せた。二葉の目は驚くわけでもなく、いっそ泰然自若としている。その凪のような目に違和感を覚える。


(そうだ。二葉はよほどのことがない限り、“自分勝手に”おれの絵やそれの可能性があるものを見ない。その掟はあのメモ帳を見た日を境にして彼が決めたことだ)


 ようやく、藍田も確信めいたものを掴んだ。レポートはなにかの拍子に落ちてきたとして、彼はその内容を不自然に思ったはずだ。レポートは高校生が触れるような範囲ではなく、学校や塾の課題でも到底選ばれることのないような問題定義ばかりである。彼が手帳を見たのは、“確認”のためだった。いくつかの可能性を考慮した、確認。

 正の部屋に入られ、レポートを見られた時点で、藍田の言い訳は最初からどれも意味をなさなかった。

 虚脱感が神経を緩め、掴んでいたシャツの襟元が弛緩する。しかし、その手が離れることを二葉が許さなかった。レポートを置いた二葉の手が藍田の手を両手で包み込んだ。二葉の襟がさらに持ち上がる。


「薫、俺はもっと君について知っておくべきことがたくさんあると思うんだ。すっかり、知る必要がある」

「……美術史家のように?」

 二葉の瞼が潤んで弧を描いた。

「そう。“薫だけの”美術史家として、ね」



 藍田の机に置いてあったグラスの周りには、小さな水溜りができていた。


 正の部屋から本来の部屋に移動し、二葉は初めて物珍しそうに藍田の部屋を見渡す。そんな彼の様子を見つめて、藍田は頭痛のする眉間を人差し指と親指で押さえた。痛みが、これ以上外に出ようとしないように。


(気楽でいいもんだ。こっちは兄の不正を手伝っていることがバレたばかりだというのに)


 苦悩の中には、しかし解放感もあった。彼を信頼しているわけではないが、少なくともどうにかしてやろうという奸策は見当たらない。これらは、好奇心、探究心から行動している結果に過ぎないのだ。

 彼の黒い瞳孔は忙しなく動き、絵を探していることが一目瞭然にわかる。

 壁はもちろんのこと、この部屋の見えるところに絵の痕跡などはない。そうやって徹底しなければ、藍田は自分自身をこの家から守れなかった。

 遠くを観察し始めた二葉を眺め、藍田は回転式の椅子に腰をかける。机の隣、部屋の脇にあるベッドを指して、麦茶を差し出した。


「座りなよ」

「……うん」

 その返事が落胆なのかただの首肯なのかわからない。どこから話すべきか、藍田は麦茶を飲むうちに考えた。一番理想的であるのは、先に絵を見せてしまって、そのあとに兄との関係について話す流れだ。

 口に溜めていた麦茶の最後の一滴を嚥下し、喉の滑りを良くする。二葉も同じようにグラスに口をつけていた。彼の、男らしく筋張った首が躍動する。小さな喉仏の隆起が上下に婀娜めいて脈打った。

 グラスを机に置く。その隣に置いてあったメモ帳に手の甲が当たって、それはあっけなく床に落ちた。去年のスイッチに描いた絵を詰め込んだメモ帳だった。


 二葉がそれを抱いて拾い上げる。彼の目には光が戻ってきていた。

「見てもいい?」と訊かれ、藍田は鷹揚に頷く。ちょうどいいタイミングだ。寂然とした空間に、パラパラと紙をめくる音が響く。青白い照明の下で二葉の睫毛は氷のように煌めいていた。

 口元は弧を描き、ページをめくる指先に熱が籠っている。藍田は二葉の様子をよく観ながら、忍び足で彼の隣に腰を掛けた。スプリングがギシリと軋む。こちらに気づかないのではないかと思われたが、彼はパッと顔を上げて藍田を見ると、愛おし気に微笑んで、人一人分空いていた距離を縮めた。肩と肩が触れ、寄り添い合うかたちになる。

 初恋にも似た憧憬が、二葉の横顔に滴っていた。


 彼のこうした行動や表情を見るたびに、この男をどうしてやればいいのかわからなくなる。いっそ、傲慢な態度で恫喝でもしてくれたら幾分か楽な気がした。

 彼を憎めない──自分の描く絵を愛してくれているから──彼の首さえも絞められない──彼がいなくては、絵を描き続ける行為が正当化されないから──。


 けれど、二葉の手の内から逃れたいのも本心だった。


「……おれが絵を描いていなければ、おれたちは関わることもなかったろうね」

「そうかな? そうかも……どうだろう」視線はそのままに、彼は譫言のように言葉を繰り返す。「でも、薫は絵を描いてる」

「まあ、今は。いや、つまりさ、おれには絵がなければ、──」

 言いかけて、不意に鼻腔の奥が熱を帯びた。瞼の裏で黒い感情が液体に変わる。それを表に出さないよう、藍田は膝を抱え、奥歯を噛み締めなければならなかった。

「絵を描いていないときの薫は、なんだか、いつも悲しそうだ」二葉がそう呟く。

「……なにそれ」


 膝に埋めていた顔を上げると、いつの間にか二葉も藍田を見ていた。悲しそうだと言う同情を孕んでいそうな口振りとは裏腹に、二葉の表情はまるで瞳孔が開いているかのようでもあった。彼の存在以外の全てのものが黒くぼやけている。それは、不気味とも神秘的とも言える。


「薫には絵がある。それは、誰しもに与えられた才能ではないんだ、わかる? とくに、薫のような天賦の才は神様がお与えくださった下賜であり願いに違いないんだよ」

「いったい、なんの……」

「だから、逆らわないでほしい。薫にしか描けない絵があって、その絵はたくさんの人に歓びを与えてくれる。薫はどう生まれても、きっと、絵を描く」

 藍田はわずかに躊躇ってから乾きはじめの唇を舐めた。「いつか、筆を折るかもしれない」

「それでも、そのまたいつかに薫は新しい筆を取るだろうね。俺にはわかる」


 二葉は大事そうにメモ帳を閉じて、藍田の肩へともたれかかった。幼稚で、純粋で、どうしようのない男──今も、慰められたのか、崇拝を説かれたのか、彼はどこのなにを見ているのか、わからない。

 沈み込みそうな重さを嫌がるようにして、藍田はベッドから腰を上げた。二葉の体が傾く。


「二葉、お前って変だよ。とてもじゃないけど、……」

「正気じゃないって思うの?」

「……」

「薫にもいずれわかってもらえたらなあ。俺たちはどうあっても巡り合っていたと思うし、俺はきみの一番の理解者になりたいと思う」

 夢を見るような声に怖気付いて、彼を見れなかった。

「どうして、そこまで」

「薫の絵は俺に歓びを与えてくれたんだ。生き続けるに等しい、ううん、もしくはそれ以上の歓びを」二葉は緩慢な動作で立ち上がり、藍田の背中にそっと指先を添えて「君はもっと自由に飛んでいける人なんだってこと、他でもない俺が、教えてあげたいんだよ」


 背中に触れていた二葉の指先は、微かに震えていた。額が肩甲骨あたりに押しつけられる。縋るような感触は、小さな子供が非力な能力を必死に示して自分の価値を証明しようとしているかのようだった。「そんなことしかできないから」そう言っている。過去の自分と重複して、藍田は堪らず二葉から離れた。

「薫、……」という置き去りにされた声だけが、地に落ちる。

 二葉命という人間は、こんなに自信がないような男だったろうか。

 互いに関わり合う前の二葉は、誰に対しても平等で、無関心で、誰とも分かち合えないほどの異彩を放っていた。大人よりもずっと大人っぽく、同じ人間かどうかも疑わしい。それが、今はまるでどうだ。自分にはなにもないみたいな接し方をする。


(なんでも要領よくできる人にとって、たった一つの“できない”という感覚はそれほどのものなのか)


 二葉の場合、それがたまたま創作物だったというだけ。そして、その唯一にたまたま当てはまった人物が藍田だったというだけだ。


(それだけだ)


 藍田は一度も振り向かず、机の下を覗き込んでその場にしゃがんだ。背後では静寂が続いていたけれど、それはすぐに足音で埋まる。隣にしゃがみ込んできた二葉が藍田の顔を覗く。突き放したはずなのに、彼は傷ついた素振りもなく温暖なままだった。

 弛んだ瞼の奥にある黒い瞳孔が小さく呼吸している。二葉の視線は藍田の指先にある金庫に向けられた。


「それは、なに?」

「……今まで描いてきたもの」

「見ていいっ?」あからさまに表情が明るくなる。

「見たかった。その間違いじゃない?」

「もちろん、薫のことならなんだって……」

「わかったってば」


 ダイヤルを回す。四桁の数字を一つ一つ合わせる。三、七──……


 ガチャン、と音が聞こえてきたのはダイヤルではなく、玄関の方からだった。


 藍田はすぐさま身を起こした。瞼の裏でハザードランプが一瞬のうちに点滅し始める。その場で二葉だけがポカンと白痴らしく口を半開きにして、藍田を見上げていた。


「……薫?」

 藍田はすかさず「黙って」とだけ言った。


 階段を登ってくる音。この時点で両親の可能性は潰えた。ど、ど、と固い足音は心臓の音と重なって、一つの化け物みたいに鼓膜を震わせる。

 足音は藍田の部屋で止まった。ノックが二つ、しかしその音はいつものがなりたてる様子ではなく、慇懃なものだった。


「薫」優しい声が聞こえる。「薫、いるのか? 誰か他にも」


 魔物がいるみたいだった。それは兄の声に変わりなかったのに、羊の皮を剥いで被ってきたかのように不気味に柔らかく、血生臭い。そしてその血生臭さは藍田にしかわからないものだった。掌に滲んだ汗を恐怖と共に擦り潰す。

 湿った掌を二葉に向けることで、制止の意図を示した。混乱しているに違いないのに、彼はすんなり頷いて口を噤む。

 深呼吸の合間でドアノブを掴み、小さな隙間を作った。

 兄の足は靴下を履いていても鈍器のように思える。その掌は、鋼鉄のハンマーで、爪は剃刀。見下ろす目は銃口だ。玄関に置かれた靴を見て、藍田の他にも誰かがいることを察したのだろう。こういうところでは本当に賢しく頭の回転が早い人である。憎らしくてたまらなかった。


「正兄さん……今日は泊まりって」

「ああ、うん。ちょっと、忘れ物を取りにきたんだ」


 ドアのほんの狭隘な隙間から、正は部屋の奥へと視線を彷徨かせる。隙間をさらに細くしようとしたところで、正の指がドアにかかり、藍田はその引力に逆らえなかった。

 二葉はいつの間にか立ち上がっていたようで、まっすぐな姿勢を保ったまま正に会釈をした。正は口元だけで「なんだ、男かよ」と不満を垂れ、興醒め半分に愛想笑いを浮かべる。二葉も口を開かず、故意に作られた無音には有刺鉄線が巻き付いていた。まったく生きた心地がしない。体裁を崩さないように笑顔を作っている正の顔が、嫌な引き攣れを起こした。


「……愚弟がいつもお世話になってるね、薫の兄です」平然を装いながらも、その声の温度は低かった。

「二葉命です。薫とは同じ塾のクラスメイトなんですよ」

 その瞬間、氷点下にいた正の機嫌は跳躍するように立ち直り、「二葉命っ?」と叫んだ。

「あの、ゲノム医療に携わった? つい一昨日もSNSに載っていたよね、西大の位相幾何学研究に選抜されたって。俺たちの大学にも来てくれた……」

「木之下大学ですか?」

 正は焦れたように首を振り「いいや、櫻田医大ってところ」


 藍田を押しやり、正はズカズカと部屋に足を踏み入れた。こんなに鬱勃とした兄は初めて見る。あからさまな媚を売る様子に、頬が熱くなった。塾にいる生徒でもこんなに見え透いた品は作らない。

 藍田は掌に爪を立てて、慙愧に堪えなく顔を俯かせた。兄の隣にも行けず、ドアと廊下の境界線を呪いのように見つめる。塾にいるときと違って、二人の会話は否が応でも鼓膜に入ってきた。

 どこの大学に進学するつもりなのか、自分たちの学部に来ないか、課題の相談に乗ってくれないか。友人たちにも紹介したいから、連絡先を教えてくれないか。二葉はすべての質問を曖昧に受け流していた。会話はまるで成立していないのに、水のように湲湲と流れていく。


「ところで」

 正の質問攻めを遮った二葉の声は、指先を抜けて遠く響いた。

「なんだい?」

「愚弟というのは、なんですか」

 馬鹿みたいな質問返しに、正の目が丸くなる。それから、噴飯物だと言わんばかりに瞼を弛め、藍田を瞥見した。堪え難い視線だった。

「俺の弟のことだよ。あいつは頭も足りなくて、蟻一匹分の才能もないから、二葉君には色々と迷惑をかけているんじゃないかな。そればかりが心配だ。まさかあいつが二葉君と友達になれるなんてね」

「謙遜の続きをおっしゃってます?」


 二葉の抑揚には夜が訪れていた。「は?」という間の抜けた返答が正の口から漏れる。


「身内同士での建前はわかりますが、俺の前では必要ないですよ」

 ここで初めて微笑んだ。一足早い彼の春の色に、正の喉が詰まる。

「そ、そうなんだね。あいつは君の前でよく礼儀を尽くしているみたいだ」

「薫はこれ以上にない、すばらしい……すばらしい友人です。そう、友人……俺の友人です」二葉の頬に場違いな紅が浮かぶ。「ご存知ないですか? 薫は────」


 そこでようやく、藍田は二人の間に割って入った。


「正兄さん! 二葉はこのあと用事があるんだ。ちょうど帰るところだったんだよ。彼の時間がどれだけ貴重かってことはわかるだろ?」


 正は横やりを入れられたことに片目を眇めたが、渋々引き下がってドアの前まで踵を返した。相手が二葉でなければ、ここまで潔くできなかったろう。藍田は愁眉を開いて、二葉の隣に落ち着いた。

「それじゃあ、二葉君、これからも薫をよろしくしてくれると嬉しいよ。連絡先はまた今度会ったときにでも、ぜひにお願いしたい」そう舐めるように粘ついた視線を残して、正は藍田の部屋から出ていった。

 隣の部屋の扉が閉まって、やっと藍田は半開きになっていた扉を閉めた。バタン!と閉められた音は殺人鬼から逃れるように逼迫していた。


 酸素を吸って、吐く。吸って、吐く。肺を収縮し、助骨を開閉させる。重力を足先まで巡らせる。生きていくために必要不可欠な行為を、大袈裟に、そして緻密に織り続ける。なにも失われていないことを認識する。


(神様、神様、どうか、どうか)


 ドアノブを握りしめたままの掌は出血を彷彿とさせるほど、危うく濡れている。


(歓びを、おれに、どうか)


 短い睫毛の先から汗の匂いが滴った。


 フーッと細い息を薄い唇に霞ませて、顔を上げる。なにも反射しないドアの漆に、自分の酷く窶れた顔色を思い浮かべた。舌先で何度も上唇を舐め濡らし、正気であることを呪文のように言い聞かせた。問題ない、問題ない、至ってまともである。足元には倫理のレールが敷かれている。その上に立っている。目の前には黒いドア。その向こう側は見えない。

 背中に小さな感触が這って、藍田は振り払うようにして振り向いた。


「薫……?」

 困窮に暮れたような二葉が後ろに立っていた。彼は「俺、よくなかったかな……」とやましく手指を揉んでいた。

 彼に非はない。あるとすれば、死体を埋めていることぐらいだ。しかし、それも、兄の存在以上に悪どくはないように思えてきた。

「なにも、二葉は悪くないよ。悪くないけど、今日はもうお開きにしよう。兄が帰ってくるとは思わなかったんだ」

「あ、あ、でも」吃った目は先ほど開けられなかった金庫に向いていた。「ち、ちょっとも、見れない?」

「ごめん。兄が隣にいる」

「じゃあ、また今度に、……」

「今度もない」


 乱暴に言い放った声は、二葉の頬を打つのに充分な役割を果たしたようだった。

 今まで機嫌を崩すことなどなかった彼の表情に、初めて裂け目が現れる。彼は胸元で握っていた手指を悄然と下げた。藍田は鋭くなった言葉を自覚して、その途端に厭な罪悪感に襲われた。


「家族がいつ帰ってくるかもわからないから」と言下に付け足して、寂寞とした二葉の顔を横目に見る。彼はまったく上の空で、うん、うんと宙に浮いた返事しかしなかった。虚な黒い瞳孔が、積乱雲のように蠢く。目だけで金庫を覗き見る視線は、音のない後悔にも復讐にも似ていた。

 藍田は意識のないような二葉の手を取り、小走りに階段を下りた。二人分の体重を支える階段の悲鳴は、無機質な家によく轟く。靴も履けないのではと心中穏やかでなかったが、二葉は自動的な動きで靴を履き、藍田に続いた。


 扉が閉まるまで、二葉の意識は藍田の部屋に縫いつけられていた。



 家を出てから最寄駅の道のりを鈍重な空気と共に歩む。藍田は後ろ髪を引かれる思いで先導に立っていたが、実のところ、悩みの腫瘍は二葉ではなく、兄のことだった。

 二葉に会わせてしまっただけでなく、正は二葉のことを知っていた。これから、二葉に関して橋渡ししてくれとせがまれたり、最悪の場合には自分を利用して二葉から金を巻き上げたりすることも考えられる。今も、部屋に入られていやしないか気が気でなかった。

 金庫のダイヤルをゼロに戻していない。ダイヤルはあと一桁揃えてしまえば、簡単に開いてしまう。そうして、積み上げてきた罪を見つけるはずだ。燃やされる程度ならまだ良い。けれど、それらは親のもとにいくだろう。


(その後は? もちろん、終わりだ。終わりといっても、おれが失うものは家族や財産ぐらいだろうけど。そう、それだけ。それだけの問題なんだ、そのはずなんだ……)


「……薫のご家族は」後ろを歩いていた二葉は、やおら口を開いた。「薫の絵を認めてくださらない?」

 重怠い曇天がわずかでも動いたことに安心すべきなのか、彼の口調がまだ晴れやかでないことを懸念すべきなのか。藍田は瞼を両手で強く擦ってそれらの蟠りを押し潰した。

 黒いノイズが細胞のように広がっていく。

「絵を描くこと自体、おれの家では御法度だよ。医者になれない奴は家族にもなれない」

「医者になれば、薫の絵も世に出せる?」

「知らない。とにかく、おれの家族はそういうのに価値を見出してないんだ。絵は、ろくに出世もできない奴が行き着くだらしない逃げ道だと……そう言っていたし」


 十七時の鐘が近場の公園からここまで木霊する。電柱に垂れかかる黒い電線は蜘蛛の糸のように複雑で、冬の遠い空をキャンバスとして機能させていた。レールが敷かれている。どの線を辿れば、報われるのか、もしくは健全な自由を手に入れられるのか。

 真っ直ぐ道なりを進んで、藍田は突き当たりのガードレールに花が添えてあるのを見つけた。半分に切ったペットボトルの中に、菊や細草が縛られたまま生けられている。それを見て、藍田の指先はほのかな疼きを覚えた。

 水はほとんどが濁っていたけれど、花だけが新しく、ペットボトルは緑のワイヤーに支えられている。誰かが誰かの死を忘れずに弔っている。事故があったことは想像に難くないが、ここで起きた悲劇を藍田は養ってきた想像力で補った。どんなふうに車はひしゃげ、どんな最期を遂げた人がいるのかを、鮮明に脳裏のキャンバスへスケッチした。

 本物の死に顔を見たら、もっと上手く描けたはずだった。本物の血を見れば、もっと鮮やかに。


(道を外れない。外れない。おれは大丈夫だ、まだ、正気だ。このままいけば、いつかは神様がチャンスをくれる)


「二葉、バイトの記録のことなんだけど、おれはしばらく──」

「俺っ、俺、良い提案があるんだけど」

 その続きを止めるように、二葉は藍田の声を遮った。

 足を止め、藍田は辟易と小さく振り返る。

「……お前の提案はいつでもどこでもすばらしいよ、そうでなければいくつも賞を取らない」

「そう……」にわかに、二葉の瞳が輝き出した。「そう、そのとおりだ! なんたって、俺の得意分野だからね」

「二葉?」


 二葉の光を吸収したような黒い瞳孔の奥に、新しい煌めきが生まれていた。終焉の空に天国の橋がかかったような救いが、そこにあった。良い前兆ではない。藍田の心臓は逆立つほどの静電気を帯び、身構えるようにして右足を半歩後ろに引く。二葉はすかさず彼の手を両手で掬った。


「薫、お兄さんのレポート課題は君がやっているんだよね」

 肯定する他に道もなかった。それなのに、自分の口から情けない結果を言い渡すのに、藍田は血管を握るような勇気を放り絞らねばならなかった。

「……」

「いや、いい。言わないでも……俺はしっかりわかっているから。だからさ、薫、お兄さんのレポートを俺に任せてもらえないかな」


 青天の霹靂のような提案に、藍田はしばらく言葉を失った。困惑の波浪に晒され「そんなことをして」と途中までこぼれた声を拾う前に、二葉がその先を続ける。


「課題のテーマと範囲を教えてくれれば、あとは俺がなんとかする。薫はさ、一度好きにやってみたらいいんだよ、自由にやりたいようにさ」

「やりたいように……」


 生まれてから独房暮らしだった人間の足枷を急に外し、突然外へと放り出す。二葉の綺麗な言葉はそれとほぼ同義だ。藍田の心は置き去りにされていた。

 二葉は何を企んでいるのか、彼に託して間違いがあったらどうすれば、これ以上悪い状態になりたくなかった。様々な不安と懐疑と掻痒感が藍田の中で吹き荒ぶ。

 独房から大平原へ、後ろにはその足を使って立ち上がる姿を心待ちにしている人間がいる。独房から完全に離れてしまえば、身の安全は保証されない。けれど、用意された大平原では何をしても許される。駆け回ってもいいし、野花を引き抜いて回ってもいい。


 藍田は自分より幾許か背の高い二葉を見た。真っ赤な夕陽が二葉の皮膚を透かす。仰ぐように見ているのは藍田の方であるのに、彼の目は藍田を見下ろしたことはなかった。これまで、ただの一度も。

 二葉は希望を数えるようにして微笑んだ。


「“なにもかも”上手くいくよ。滞りなく……俺にはわかるんだ。俺は、薫の……薫の友人、だからね、これぐらい当然だ」


 結局、彼の提案は“提案”ではなく、最初から決定事項として差し出されているのだ。


 それを手に取る他ない。拒むために必要な痛みが、どこにも見当たらない。

 藍田は音もなく頷いた。



◻︎



 塾での小テストまであと一週間、学校の期末まで二週間を切った。


 あれから、藍田の睡眠時間は兄のレポートを任されていたときよりも削られたが、その分、彼は“やりたいように”なにもかもを順調に進めていた。この一ヶ月で寿命が尽きてしまうかと思われるほど、勉強も絵も自分のことになるものは、惜しまず力を注いでいた。

 しがらみがないというだけでこんなに手足を動かせたのは、初めてのことだった。

 バイトの記録も変わらず続けられている。レポートの状況を訊きたかったが、二葉は「万事上手くいっている」としか言わない。ここまできて、後戻りなどできるはずもないのだ。


(上手くいっていなかったら、“終わり”。それだけ、それだけの話なんだ)


 簡素なチャイムが鳴って、藍田は机に置かれた新しいメモ帳を見下ろした。スイッチの時間が始まる。白い世界。そこに飛び込むことにはもう慣れた。


「おまえがハマってるゲームってこれだろ?」

「そうそう、俺にはゲームセンスっていうものがないみたいで、ランクに入れないんだ」


 前方の席で小野田と二葉の声が聞こえる。そんなゲームを二葉がしていたろうか? 思えば、二葉の私生活をよく知らない。知ろうとも思わなかった。仮にゲームをしていたとして、彼が上手くできないなんてことはあるのか。

 そこまで考えて、二葉が小野田とまともに会話していることに初めて気がついた。今までは小野田の一方通行であったのに。

 重たい瞼が微かに痙攣する。鈍重に眼球を動かして、色のない教室の中をゆっくり見渡した。見下ろした先には白い海、教室にあるものは描き終えてしまった。志田の大きな背中も、諳んじられる。


 今まで描いてきたものはすべて頭の中にある。


 藍田は黒い芯を剥き出しにした鉛筆を手に取った。二葉からもらった鉛筆たちも今ではすっかり短くなってしまっている。新しいものを買わなくてはならない。

 両親の顔が呪いのように脳裏に浮かんで、藍田は芯の側面を人差し指で撫ぜた。なだらかに近い凹凸、指紋に黒い鉛がつく。それを何度か繰り返して、頭の中が黒い粒子で塗りつぶされたのを自覚した。鎮痛剤が効いてきた証拠だ。もう少し多くしてもいいかもしれない、余計なことを考えられなくなるまで。最近はそんなことの繰り返しだった。


 鉛筆を紙に押し付ける────白い海に飛び込む。黒い衝撃が、波紋を描いた。


 この瞬間だけは、なにも、考えずに済む。



「薫?」


 頭上から降ってきた声で、藍田はようやく手を止めて、顔を上げた。

 惚けたようにプリントを差し出している志田と目が合う。今しがた息を吹き返したかといったふうに、藍田の心臓は蒸気を噴出し、どくんどくんとその心拍をあげていった。息を短く吐きながら、咄嗟に時計を見やる。──十時五十分。


「一時限目、終わったけど……」志田が言う。

「あ、あ、う……そ、そっか。ごめん、プリントを」


 古文のテスト範囲が載った紙を受け取り、この一時間は古文の講義だったのだと教材もなにも置いていない机を見て唖然とした。

 血の気が引いていくのと同時に、藍田はプリントをメモ帳の上に敷いて鉛筆を筆箱の中に突っ込んだ。なにをしているんだ!という自責の念と、見られたのか?という焦燥感が脳を撹拌させる。プリントが皺になるまで握りしめ、藍田は断頭台に立たされた心地に晒された。志田の顔を見れない。


 見られた。見られただろう、彼の目はメモ帳を見ていた。嗤うなら嗤え。馬鹿にするのならそうしろ。「そんなことをしているから、おまえはいつまで経っても後ろの席にいるんだよ」と嘲笑えばいい────


「……すごい」

「……え?」


 恐々と視線を上げる途中で、志田の肘が机の上に乗る。不可侵領域を容易く乗り越えてくる無遠慮さは二葉とよく似ていた。


「ごめん、見るつもりはなかったんだけど……それ薫が描いたんだよな? すごい上手だった。上手っていうか……宗教画みたいで、なんかのコンクールにでも出せるんじゃないか? 薫って美大志望だったっけ?」

「いや、その、美大志望ではないけど……ありがとう」矢継ぎ早に迫る称賛を聞きながら、藍田は自分の耳を疑っていた。

「よければ、もう一度見せてくれない?」

「もう一度?」

 懐疑的な目で志田の顔を見上げたが、志田の活発な顔は感服の色に染まっているようだった。彼の眼差しは日差しのように明るく照りついて、離れる気配を見せない。

「じっくり見たくって。あんなに上手いんだ、SNSとかやってないのか? フォローするからさ!」

「や、やってない、……」

 奇妙な背徳感と罪悪感に揉まれる。見せていいのだろうか。二葉以外の他人に絵を見せたことはなかった。プリントの下に隠したメモ帳を取り出して、人に見せていい具合かもう一度推敲する。

 背中を向けた天使が倒れているだけの、宗教画だ。白と黒の陰影はレンブラントを模倣したとも捉えられるし、筆のタッチはダヴィンチにも似ている。素描としてこれ以上の出来はない。


 ──初めて、ゼロから一を創作した作品だった。


「やったらいいのに。アカウント作ったら、俺が最初にフォローするよ! きっとすぐにバズるって!」


 頬に熱が集中する。煮沸されたような高揚に、背中を押され、藍田はゆったりとした動きでメモ帳を差し出し──その短くも長い時間の中で、ガタンッ!という騒音が勃然と鼓膜を打った。

 藍田の手は途端に止まり、音の震源地へ意識が吸い寄せられる。教室にいる誰もが、突然立ち上がった二葉を見ていた。亡霊のような足取りでこちらへと歩を進める二葉の様子を、藍田も志田も呆けたように見つめることしかできなかった。

 それは、巨大な不吉にも似ている。雨雲が近づく、そこからなにが降ってくるかは、起こってみなければわからない。

 志田の席を通り過ぎた瞬間に、二葉は見えないなにかに突き飛ばされたかといった勢いで藍田の机に倒れてきた。あまりに唐突な行動だった。


「二葉くんッ!?」と悲鳴が左右で上がり、藍田の机は二葉によって横なぎに雪崩れる。もちろん、メモ帳も一緒に。


 藍田はなにが起こったのかを瞬時には嚥下できず、ただ自分の筆箱や消しカスが散乱した床を呆然と見つめることしかできなかった。

 志田の方が先に反応して、倒れ込んだ二葉の元へ血相を変えながら駆け寄る。そうやって初めて、藍田は床に突っ伏した二葉を認識した。背後から銃で撃たれたと言われても過言ではなく、藍田の視界に赤い血が明滅する。彼の背中から流れる血。


(描かないと……記録しなくちゃ)


 右手がメモ帳を探そうとして、空気を撫ぜる。「大丈夫か」と言う志田の問いかけで、藍田はようやく我にかえった。介抱されそうになっている二葉は未だぐったりと項垂れたままだ。

 何拍も遅れて、藍田も二葉の元へしゃがみ込んだ。彼の背中を支えたところで、メモ帳が彼の手にあることを悟る。


「……二葉、大丈夫?」

 志田の声にはなに一つとして応答しなかった二葉が、藍田の声で身を起こす。発熱を疑うほど彼の顔は真っ赤に上気していて、それが、怒りなのか羞恥なのか判然としない。

「ご、ごめん、なんだか急に立ちくらみがしてっ、ほんとうに……」

「休憩室に行った方がいいんじゃないか?」

 志田の言うことに、藍田も同意した。「そうだよ、どこか痛めているかも。ほら、立って」


 二葉の腕を掴んで起き上がらせようとするが、彼は両腕を藍田に寄り掛からせて、藍田の鳩尾にメモ帳を押しつけた。その手はブルブルと震えていた。

 泣きそうな、ともすれば笑いを堪えているような声が、俯いた先から聞こえてくる。


「ごめん」舌がおぼつかない。「俺、どうかしちゃったみたいだ……」


 そうとだけ言い残して、二葉はそぞろに立ち上がった。夢遊病患者のような心許ない背中を向けられ、それと同時に講師が入ってくる。なんの騒ぎかと咎める目つきで睨まれてしまえば、騒然とした事態は強制的に収束せざるを得なくなった。受験生にとって、このぐらいの渺たる問題に拘うことは時間の浪費以外のなにものでもない。


(このぐらいのこと? そうかな。少なくともおれにとっては放置していい問題ではない気がする)


 小野田が神経質に二葉を気にかけ、志田は藍田の机を元の位置に戻してくれた。「ありがとう」というと、彼は曖昧に肩を竦めて、自分の席に座る。

 その後の講義も、藍田の混乱した頭にはまったく内容なんて入ってこなかった。


 ただ、ひたすら、雪崩の前兆のような音が心臓の奥で軋んでいるのを聞いている。



 その日の夜はメッセージを打とうとして、未発達な言葉たちを何度も消すことになった。どれだけ勉強しようと、どれだけ芸術に秀でていようと、人の情緒を左右する配慮は養われない。

 無理に慰めを用意するぐらいなら、いっそ黙っておいた方がいいだろう。藍田は沈黙が雄弁になることを祈りながら携帯を枕に投げたが、それは放物線を描き、壁に激突した。


 兄の不興を買うような音に、ゾッと不整脈が起きる。けれど、壁を叩き返されたり兄が乗り込んでくる気配はなかった。思えば、ここ最近の正はおそろしく機嫌がいい。

 藍田が勉強や絵に没頭するのに比例して、正は日中でも女を連れ込むようになり、いつ大学に行っているのかもわからなくなっていた。帰ってきて、女のよがり声が廊下にまで響いているなんてことは、今ではもう日常茶飯事になっている。

 そんな調子であるから、一度だけ両親にバレそうになったときもある。


(実際、バレていたろうな。認めたくないから、口論になっていた。正兄さんについて父さんと母さんが喧嘩するなんて初めてだ……)


 正は両親にだけは自分の素行が露見しないように細心の注意を払う人であったのに、いったい、どういう風の吹き回しだか見当もつかない。寄生虫にでも寄生されたみたいだった。ハリガネムシだとか、そのあたりに。

 藍田の体にあった青痣も、徐々に薄れていっている。

 喜ばしいことだ。

 歓ばしい、果たしてほんとうに?


 枕元に寝そべった携帯の画面が光る。メッセージには、明日バイトがあるとだけ記されていた。夕方の五時に塾の前で。

 明日は日曜で、塾は休みだった。




 便宜上、待ち合わせは塾の前とされているが、スーツケースの中に詰め込まれる場所はそこから少し離れた小さな公園だ。


 蜜を焦がしたような空の下で、二葉は心を手放したまま藍田を待っていた。なにも描かれていない真っ白なキャンバスに似た表情は、しかし藍田がやってくることによって波紋を描く。申し訳なさともどかしさを固結びしたみたいな顔色だった。

「体、大丈夫?」と藍田が小さな労いの言葉をかけると、二葉の表情筋は涙腺に引っ張られる。それでも、彼は「だいじょぶ」と言葉少なに言って、スーツケースを引きながら歩き出した。休日でも互いに制服を着ている。それが一番、目立たず、安全な選択だったのだ。異教徒を思わせる他校の制服、二葉の様子がおかしいことだけはわかるのに、彼自身については知らないことが多すぎて、どういう言葉をかけたらいいのか、わからない。


「大丈夫」そう二度目にこぼした二葉の声は、地面に擦れるスーツケースの車輪に轢かれていった。


 突き当たりの角を曲がった先にある公園は、公園と呼んでいいのか怪しいほど貧しく、遊具は砂場以外になにもない。当然、人は一人も見当たらず、公衆トイレに至っては汚い落書きときついアンモニア臭で埋め尽くされていた。

 二葉はスクールバッグから青いビニールシートを取り出し、それをトイレの床に手際良く敷く。その中央にスーツケースを広げて置くと、藍田は飼い慣らされたような従順さで体を丸めながら中に寝そべった。


 藍田は暗闇がおとずれるより早く瞼を下ろす。注射を打たれる瞬間を待ち侘びるように、キツく。しかし、一向に瞼の裏側は赤いままで、二十秒が過ぎたあたりで彼はいよいよ薄目を開けた。


 柳のように前髪を垂らした二葉と目が合った。


 彼の黒い瞳孔には数多の宇宙がある。糠星のように散りばめられているのは渇仰であり、信仰であり、熱衷だ。それが何層も重なって、煮詰まっている。どろりとした表面張力が今に落ちてくるのではないかとも思われた。


「二葉?」突如として芽生えた不安に、藍田は乾いた唇を動かした。

 薄い肌色の髪は二葉の目に満月のように浮かんでいる。深く長い呼吸があった。

「昨日は……」

「ああ」藍田はすぐさま答える。「気にしてないよ」

「志田君は見た? その、絵を」

「一瞬だけじゃないかな。わからないけど」

「そっか」


 ジィィィィとチャックが閉まっていく。無防備にやってきた暗がりに、藍田は慌てて目を閉じ直した。「あとで、俺にも」という声が隙間から入ってきたように感じたが、閉じ切る頃には末尾の言葉など聞こえはしなかった。

 一足早い夜が訪れる。ビニールシートが片付けられる音、スーツケースが傾き、振動が体全体に伝播されるようになる。藍田は舌を噛まないよう唇を固く閉ざした。死人の真似をして、息を殺す。


「薫の絵を、多くの人に知ってもらいたい。その想いに嘘はなかったんだ」


 籠って聞こえてきた二葉の言葉に、藍田は少しばかり喫驚した。こんなとこは今までに一度もなかった。

 いつもよりも優しい振動に、彼が気を使ってスーツケースを引いていることがわかる。ガタガタと騒音がないおかげで、彼の声もよく聞き取れた。

 事実、二葉は両手でスーツケースを押しながら陽の落ちる道を辿っていた。塾より先に黒いワゴン車が停まっている。いつものように早足で行けばあっという間に着く距離を、彼は果てしない歩幅で歩く。ジョギング中の通行人、帰宅途中の学生、人がいなくなるにはまだ早い時間帯だ。藍田は声を出せない。

 

 それでも、二葉は話を続けた。


「嘘はなかった、今も、嘘ではないと信じてる。でも、どうなんだろう、薫の絵を知ってもらいたいけど、薫が描いた絵だということは誰にも知られてほしくない。こんなの、俺は薫の友人に相応しくないじゃないか……」


 締めきれていない蛇口から延々と水滴が落ちていくように、二葉の言葉は漏れ続ける。藍田はさらに身を固くしながら、告解室のような暗闇を味わった。返答は必要ない。外では大きなスーツケースを引いて、独り言を呟き続ける美しい奇矯者がいることになっているのだ。


「薫の絵はすぐに世界中に知れ渡るようになる。わかるよ、わかるんだ、俺には……」あと少しで消えそうな微温火の声だった。「そうすると、人は絵だけでなく薫のことも知るようになる。SNSをやれば、君がいつ新作を上げるのかと誰もが心待ちにする。それで、それで、いつか、俺じゃない誰かが一番初めに、薫の絵を見るんだ」


 二葉の声は独り言から慟哭に近いものへと色を変えていく。微温火は風に煽られ、いつしか山火事を引き起こす火種となる。

 どこにも逃げられないという現実が、突然に藍田の鳩尾を煽った。例えば、次の瞬間にスーツケースをひっくり返されたっておかしくはない。それほど、二葉の情緒は落ち着いていなかった。酸素の乏しい空間で、じんわりと汗が滲んだ。


「人は、誰だって一番星を一番に見つけたがる。次第に、薫の絵の古参だって宣う連中が出てきて、アカウントの最初に載っけた絵と現在の絵なんかを勝手に比べたりする。「私はこの時分から彼を知ってます。こんなに成長したんだと思うとなんだか感慨深いな」なんて言うんだ。馬鹿みたいに最悪だ……」

 藍田の尾骶骨を刺激していた振動が止まり、二葉はスーツケースを抱きしめるようにして座り込んだ。

 その声は、もはや叫びに等しい。

「薫に大勢の数字がつけば、みんなが薫の一番だって顔をする。一番初めにフォローした、一番初めに良いと思った、一番初めに感想を送った、一番初めに彼の才能を感じていた! 本当の一番は俺なのに、薫が描いた絵を一番に見るのが俺じゃなくなるなんて! 新しい惑星や新種の花には第一人者の名前が付けられるけど、薫に俺の名前はつけられない。そうやって、俺が知っている藍田薫は、みんなが知ってる藍田薫になるんだ」



「……俺だけの救いだったのに」



 燃え上がって、最後に残るのは静寂という残滓だった。藍田は左耳に彼の声を反響させ、右耳で自分の鼓動を聞いた。

 見えない。見えないけれど、二葉は泣いているに違いないと思えた。それぐらい、静かだったのだ。たまに車の通る音が腹に響いたが、足音は確認できない。藍田は暗闇の中で無意味に辺りを見渡し、通行人がいないことを祈った。

 息を吸うと、唇は画用紙みたいに水分を吸収する。


「……二葉がそう言うなら、別に、SNSもやろうとは思わないし誰かに絵を見せるなんてこともしないよ」

 細やかな息遣いがチャックの隙間に入り込む。

「本当に……?」

「もともと、描ければなんでもよかったし、誰に見せるわけでもなかったんだ。二葉にだって、おれは見せるつもりもなかった」

「俺……俺は、でも、心から薫の作品に傾倒しているんだよ。君の絵はほんとに素晴らしくて、それで」

「わかってる」


 心臓の音は鼓膜に届くほど大きかったけれど、脈拍は落ち着いたものだった。藍田は二葉の心情をどこまでも他人事のように聞いていたが、しかし、意識は無関心とはほど遠いところにあり、あと一歩行けば爽快感に変わりそうな、けざやかな気分でもあった。彼は、決して、決して藍田の絵を汚さず、貶さず、ただ一途に愚直に藍田が絵を描き終えるのを待っている。

 藍田は二葉に海を臨むような同情心を抱き、「はは」と乾いた一笑を口元にくすぐらせた。ひどい言葉で、彼を殴ってみたくなった。そんなふうにして扱っても、彼は自分を見限らない。


「わかってる」念を押して口に出すと、「うん」という安堵の吐息が聞こえてきた。


「俺が、薫の一番目だよね。そうだよね?」

「そうなったらいいよ」それは、二葉にとっての精神安定剤の役割を果たしてくれる返答だった。「この先も」




 ワゴン車に乗ってから、二葉の機嫌は目に見えなくとも良くなっていた。気を揉んでいたのが嘘だったかのように、藍田は車の振動に二葉の鼻歌を聞く。彼は、そもそも悩みを引きずらないタイプなのかもしれない。


「おい」野太く、煙草に焼けた男の声がくぐもって震えた。「スーツケース、荷台にやれよ」

「俺の膝の上じゃいけないですか。落としたりなんかしないので……」


 人の快感を刺激する二葉の声に、男は舌打ちを一つしてそれ以上なにも言わなかった。満足そうな吐息に、衣擦れの音が藍田を包み込む。二葉はスーツケースを宝物みたいに庇うようにして抱き締めていた。


 藍田の頭の中にぼんやりと進路や両親の顔が浮かんでは、油のようにこびりつく。


 一番最初に絵を見せた人間は、両親だった。幼稚園の先生に褒められたスケッチを、両親に見せたのだ。同じように絶賛してくれるのではないかと、子供なら誰しもが抱く愛情を期待していた。

「そんなことをしている暇があったら勉強をしろ」「どうして兄を見習わない」そう言った父の顔を今でも鮮明に覚えている。母に至っては溜息をついて、「そんな人工知能に取って変われるようなもの」とそれ以上見向きもしなくなった。

 幼い心がくしゃくしゃに潰れるのには、それで充分な打撃だった。


 両親の呆れたような、傷つけられたといったふうな顔が忘れられない。兄のように人を殴ったわけでもないのに、誰かを傷つけたわけでもないのに。兄は両親の期待には応えている──それがどのように下劣な方法でも。藍田は両親の期待を先に裏切った。ただそれだけなのだ。


(でも、今なら? 今の画力なら申し分ない気がする。もちろん完璧ではないけれど、良いと言えるものを描ける自信は充分にある)


 テストの点数次第では見せてみてもいいかもしれない。一つの妙案が浮かぶと、それは目標になり、人生における一筋の希望にもなった。

 上手くいく。何事も、滞りなく、救いは訪れる。心臓が期待に大きく膨らむ。今なら、なんでもできそうな気がした。なんだって、できる。


 車が停車し、山道に引きずられている間は、振動を避けられなかった。砂利や木の幹、枝葉にスーツケースの車輪が巻き込まれると立て付けの悪いジェットコースターみたいな衝撃が内部で起こる。藍田はさらに体を丸めて頭を守った。

 それでも、やはり普段より随分と丁寧に運ばれている印象がある。

 スーツケースが横になり、二葉と何人かの会話が聞こえると、一つの足音が近づき、あとの足音は遠退く。三十秒ほど経ってからチャックが開いて、森林の清涼な香りと冷たい外気が雪崩れ込んできた。


 破片のように美しく輝いている二葉の顔が、藍田を覗いた。


「寒くない?」

「うん」

「よかった」


 互いに白い息を燻らせて、藍田は体を起こした。両腕や足を伸ばし、関節をコキコキ鳴らす。四つん這いになってスーツケースから出ると、スクールバッグまで這って移動した。二葉はもう一つのスーツケースの方へ小走りに向かっていく。

 何冊目になるかわからないクロッキー帳と、筆箱をスクールバッグから取り出した。色鉛筆は必ず二色に絞って使っている。今日はまだ何色を使うか決めかねていた。

 背後で、ドサ、という重量感のある音を腐葉土が吸収し「うわ」と小さな呻吟をこぼした二葉の声だけが、輪郭を描いて響く。

 藍田はどうしたことかと重い腰を上げて、二葉の隣に身を寄せた。


「なにかあった?」

「今日の、五体満足だ。解体作業があるし、少し時間かかるかも」


 見下ろしてみると、うつ伏せになった男が服からなにもかも生前のまま寝そべっていた。高級感のあるスーツに、大きな背中。サラリーマンか役員にも見えるが、はっきりした体格はスポーツの経験者とも受け取れる。

 毒で死んだのか、遺体の損傷もない。体内に駆け巡っていた熱量が、音を立てて萎んでいく。藍田は靄がかかったような落胆を覚えた。

 酔っ払いみたいに寝転がっている男は二葉ほど美しい四肢を持っているわけでもなく、かといって惨状を物語っているわけでもない。しかし、その背中には妙な既視感が宿っていた。一度、“描いたことがある”ような感覚が指先に小さな電流を流す。

 死体を観ることにすっかり慣れてしまった目を擦り、服の皺でもスケッチしようと藍田は男の横に腰を下ろした。


(……がっかり。“がっかり”? なにに対して? もちろん、そこにある死体に対して、……)


 なにかが麻痺したような違和感を抱いたが、麻痺しているのだからどこが痛いのかもなにが自分の体に起こっているのかもわからなかった。

 男の顔はやはりどこかで見たような造形をしている。知り合いというほどではない、テレビか何かで見たような第三者の勘だ。


「あれ? なんだろこれ」


 男の顔を見ていると、その襟近くにピンク色のラムネみたいなものが落ちていることに気づく。藍田は少し身を乗り出して、それを手に取った。桜の形をしたそれはまるで和三盆のようでもあったが、視点を変えれば薬とも捉えられる────。


「薫、それ汚いよ」


 優しい影が被さり、藍田の手に二葉の手が添えられた。視線を上げると、瞼を伏せた二葉の顔がある。彼は藍田の指先を一つ一つほどいて、その中にあったものを取り上げた。まだ蕾だった花弁を無理に開かせるかのように、けれどそこに悪意はない。桜の形をしたものを、害虫みたいな扱いで彼は遠くに投げ捨てた。


「今の……」

「落ちているものは汚いじゃん。薫の手は大切にしないといけないのに」


 二葉は先に土を掘ってしまうようで、彼はスコップと懐中電灯を用意しにさっさと立ち上がって行ってしまった。それ以上、訊けることもない。藍田も元の位置に座を落ち着かせた。

 月光を殺す光が木々の肌を鮮明に照らし、最奥を陰森として暗くさせている。その中央に立つ二葉は額縁の向こう側にいるようだった。

 鉛筆を探して、筆箱に触れる。半分以下にすり減った鉛筆ばかりが指先を汚した。木炭とカッターを手に取り、藍田は男の顔を注意深く観察する。疲労した中年の皺、唇は青白く、目は穏やかに閉じている。──閉じている?


「二葉?」

 藍田の声は意外にもよく通った。

「なあに」

「この……この人ってどうやって死んだのかわかる?」

「どう?」スコップを持ったまま、二葉の顔が上がる。「いや……うーん。そうだな、たぶん、こう壮絶な……」

「知らないなら知らないでいいよ」

「絵で必要な要素じゃないのっ!? 俺、答えるよ、少し時間をくれれば、……」

「そういうんじゃないって。ただ、ちょっと気になっただけ」


 カッターの刃を寝かせて、木炭の側面に当てがう。二葉の仕事は死体を埋めることだけ。それ以外のことは知らないし、知らされてもいない。二葉がそうやって線引きしているなら、藍田も男の死因を調べようと思うほど熱心にはなれなかった。

 スコップが地面に突き刺さり、土が跳ね上げられる。その隙にも男の顔を窺ったが、石像のようにそのままだった。


「あ、そういえば、レポートの方は問題なく終わったよ」

 藍田は直きに二葉を見た。「本当にっ?」

「うん。提出も終わってるから、薫はなにも心配しないでね」


 どうやって? とは訊けなかった。それを訊ねるのが野暮ったく感じるほど、藍田の心は安堵に埋もれていた。肩を重たくする心配事も足枷もない。今度こそ、身軽になれた気がした。勉強もますます捗るだろうと、確立された未来が見える。

 “報われている”。今までの苦汁は神様が歓びをお与えするためにあったのだと、そう思わずにはいられない。穴掘りに勤しむ二葉の姿が一段とかわいく見えるほどだった。

 二葉は藍田の視線に気づくと、ウィンドブレーカーの裾で額を拭って、下手くそなピースサインを作ってみせた。無邪気で、どこか照れたような笑い方が光に照らされている。すっと通った鼻筋に、冷えた影が落ちていた。


 藍田はカッターを握り直し、木炭の肌を擦った。細かい粒子がハラハラと土に溶け込んでいく。鉛筆や木炭を削っているときはまるで彫刻を彫っているようで退屈しない。気を紛らわすのにも丁度よかった。

 今日の死体も、あまり劇的とは言い難いが、彫刻だと思えばそれなりの表現ができる気がしている。造形を探るために、藍田は男に視線を戻し────


 男と、目が、合った。


 それは、はっきりと意思のある目だった。男は、生きている。


 止まっていたかのような肺が動き出し、男はブルブルと痙攣する四肢で地面を押し返した。「うう」と獣みたいな声が切れた唇の内側から漏れ出ていた。

 藍田の三半規管の機能はあっという間に金縛りにあった。血の気が引くと同時に、耳の奥で耳鳴りが鼓膜を支配し、藍田の目だけが男の行方を歪んだように遅く追いかける。声が出ない。

 土や枯葉が舞い、男は立ち上がるや否やすぐに二葉の方を見た。二葉はこちらにまったく気づいていない。スーツの内側に手を入れ、それと同時に男の足が浮く。走り出すのだ、と思った。その手にナイフを持ちながら。


(ナイフ? あれが刺さったらどうなる。もちろん、死ぬだろう、二葉とその次はおれが? 事情を話せば見逃してもらえなくもない……もしくは今のうちに逃げ出すのもいい。二葉は死ぬだろうけど、それって、そんなに、……)


 気づけば、藍田の足も地を蹴って男のあとに続いていた。


 血液はびっくりするほど冷え切っているのに、汗は止まらず、体の筋肉は脳の信号より先走って動く。学校のリレーでこの速さが出たなら、一躍、有名になれたろう。男の狂気じみた走り方、ナイフの切先が白い光を眩く反射した。藍田は湿った手でカッターを強く握り締め、マバタキも忘れて男のスーツを掴んだ。

 男の体幹が揺らぐ。それでも止まらない。最後に、救いを手にしたいといったふうだった。スーツに固い皺が寄り、綱引きでもするようにして、今度は頸の襟を引っ掴む。二葉の視線が上がる。


 声を出せ、声を出せ、他者に救いを奪われるぐらいなら。


「二葉ッ!」


 力の限り振り下ろされたカッターの刃は男の頸動脈に深々とめりこんだ。カッ、という唾がつっかえるような声が男の口から漏れ、体が大きく揺れる。二葉の驚いた顔に真っ赤な血が叩きつけられた。

 頸動脈を損傷した場合、約十二秒で致命傷に到達できる。だが、十二秒だ。カッターを引き抜くと、力み過ぎたのか、裂傷には折れた刃が中途半端に残っていた。残った刃を擦り出し、今度は伸し掛かるようにして頸に二度目を打ち込む。目や口や耳に生ぬるい液体が飛散した。

 藍田のアドレナリンは最高潮に達していた。

 男の体は強く強張り、地面に打ちつけられる。うつ伏せに、元通りに。瀕死の魚みたいに大きく跳ねたあと、男は目を開いたままちょっとも動かなくなった。


 藍田は男の背中に跨ったまま、カッターから手を離し、震える手で男の口元に手をやる。息はしていない。鼓動も聞こえない。夥しい出血を垂れ流している首には計れる脈もなかった。


「……かおる」

 頭上から降ってきた声は、寿命を終える花のように枯れていた。

「二葉、おれ、……」肩で息を繰り返しながら、藍田は二葉を茫然と見上げて、それから両手を眺めた。

 絵の具に塗れたようでもあったが、水彩も油彩も岩絵具もこんなに糸を引かない。

 これは、誰の血だろう? 藍田は一瞬だけなにもかもを忘れた。しかし、男の姿を見ればすぐに思い出す。血は男のもので、自分は、人を。

「おれ、人をころ、──」

「殺してない」


 目睫の間に二葉の顔があった。その造形美はすべての罪をフィクションにする。白い肌に赤い血が滴る姿は、身の毛がよだつほど美しかった。藍田の頬をゴム手袋越しの両手が包み込む。二葉の睫毛が藍田の睫毛に触れて、彼の筆で描いたような鼻先が頬骨に当たる。


 唇にやわこい感触が重なった。


 歯の硬さが上唇に伝わり、二葉は投身自殺でもする勢いで藍田に伸し掛かった。ガクンと肘の力が抜け、地面に着く間際の後頭部を二葉の掌が支える。おかげで衝撃は免れたが、重なった唇に酸素の入口もいよいよなくなった。

 二葉の手は藍田の頬を揉み込むようにまさぐり、息継ぎをするその呼吸ごと口に含んで、藍田の歯列を舌で塞ぐ。土と鉄の味がして、花弁が縺れ合うような感触に支配される。

 慰めにしては苛烈で、その場凌ぎにしては鮮烈な体温が、二葉の劣情を生々しく伝えてくる。なにもかもが非現実的に感じられるようだった。前頭葉に鎮痛剤を直接投与されるような酩酊感に襲われる。そして、その効果は絶大だった。


 互いの唾液が氾濫して、初めて口を離した。顔を真っ赤に上気させた二葉を見上げると、藍田は自分の体温がひどく冷え切っていることを嫌でも自覚せざるを得なくなった。


「……ありがとう、薫」二葉の吐息は芳醇に熟れていた。「俺のこと、助けてくれて」

「助けた……?」


 そうか。助けたのか。


(おれは、二葉に死んでほしくなかった? いや、少なくとも、“今”死ぬのは違うと思ったんだ)


 二葉を助けたのは、純粋な好意によるものではなかった。どちらかといえば延命治療に近い……。

 互いに血まみれの顔を突き合わせながら、藍田は自分の上から退こうとしない二葉を見つめた。彼は白昼夢にでもいるみたいにうっとりとしたままだった。口紅を拭ったような口元に白息が吹雪く。


「幸せだな、俺、……」

「二葉は」

 喉が詰まる。男の首から噴出した血が、自分の喉にも逆流しているかのようだった。行き止まりだ。指針であるレールはどこにもなく、自分がどこにいるのかもわからない。

 それなのに、どこかへ導かれている気分だった。藍田は“救い”に近づいていた。とてつもなく大きな、陽の光がもうすぐ頭上に降り注ぐ。あと、もう少し。


「おれのことが、好きなの?」


 二葉は目を落ちそうなほど丸くさせて、今更後ろめたそうに辺りを見渡したあと、唇に指先を当てがった。愛欲に溺れた蝶みたいな眼差しで、彼は唾液に残った温もりを思い出していた。


「うん……俺、薫のことがすき……世界でいちばん、好きなひと」


 場違いに凍えそうな風が木の間に抜けた。カサカサと枯葉の衣擦れが辺りでそよぎ、二人の周囲にある枯葉だけが血の重みで地面に縫いつけられていた。

 痛みはもうどこにもない。

「はは」と、藍田の鳩尾から沸々と出どころのない哄笑が溢れ出す。それは少しずつ助走をつけて大きくなっていく。ついには林立した木の群れにまで反響するほどにまで到達した。

 二葉はわかっていないような顔をしていたが、次第に藍田と一緒になってあどけなく笑い始める。それがまた歪に愉快で、涙が出るまで笑った。


「そっか」


 今日、二葉と鉄臭いキスをした。


 その感触だけが、藍田の記憶に足跡を残した。



◻︎



 家に着く頃には深夜二時を回っていた。


 死体の後処理、汚れた制服の管理などを二葉と話し合っていたせいだろう。それでも、携帯には誰からの連絡もない。

 目の前にあるドアノブに触れた瞬間、滑ったような湿り気を自覚して藍田は咄嗟に手を離したが、掌は白いままだった。当たり前だ。そんなこと、あるはずがないのだから。


 家の中に入ると、久しぶりに静かな空間が藍田を迎え入れた。正が誰も連れ込んでいないというのは珍しい。靴を見る限り、両親も帰ってきているようだった。

 リビングの灯りが暗い廊下に漏れている。その中央にブレザーを着た男が立っていた。──二葉だ。

 藍田は妙に落ち着いた精神で、どうして彼がここにいるのだろうと疑問を片隅に置きながら靴を脱ぐ。こちらが声をかける前に二葉の方が先に振り向いた。

 その腕には藍田のクロッキー帳が抱き締められていた。藍田は自分のスクールバッグを確認しようとして、自分が拳銃を握りしめていることに気づく。


『今日の絵は今までよりとくべつに見えるよ。描き方を変えた? タッチが違う? 薫の絵にはいつも驚かされてばかりだ……』


 これは夢なのだと刹那に認識した。あの夜以降、こうした夢を毎日のように見る。藍田は無機質に拳銃を握り直し、無邪気に笑う二葉の元へ足を踏み出した。

 彼の目は藍田だけを見据えて、拳銃には見向きもしない。抱き締めたクロッキー帳から黒い油田のような液体が漏れ出ている。


「クロッキー帳に血がついちゃって、燃やそうかどうしようか悩んでいたんだよ」

『今すぐに? そんな、そんなことはしないで……いつか俺が燃やすよ。藍田が亡くなったあとでも』二葉は今にも泣きそうになった。『こんなこと、考えたくはないけどさ』

「ううん。それだと、ちょっと難しいかも。おれは二葉の絵を描いてから死にたいんだ」


 拳銃を視線の先に構える。二葉の丸くなった瞼が見えた瞬間に、引き金を引いた。無音に発射された弾丸は二葉の右脳を吹き飛ばす。赤い花びらが飛び散って、二葉の体は後ろに倒れた。

 ギシ、と呻く廊下を歩いて、藍田は二葉の死に顔を覗き込む。割れた頭蓋から夥しいほどの花弁が溢れており、虚ろな目にはまだ光があった。しかし、この空間に現実味はなく、これだと思った二葉の顔も次第に無数の蝶になって飛んでいってしまう。

 藍田は家を埋め尽くす黒い蝶を撫でるようにして見つめた。


「二葉、お前は誰よりも眩しいよ。生きていると、どうやって描いたらいいかわからないぐらいに」




 ガタン、という大きな揺れに、藍田の意識ははっきりと息を吹き返した。


『次は『栄華指導学院前』、次は『栄華指導学院前』、お降りの際はバスが完全に停車してからお足元にご注意ください、……』


 緋色の陽光がバスの窓から目を痛めつける。横に立っている男子生徒も単語帳で陽を遮っていた。藍田は美術史をスクールバッグに入れ、席を立つ。

 学生の誰もが数字や文章、問いや答えに夢中になって俯いている。前を見ているのは、藍田だけだった。バスが停車し、初めて生徒たちは顔を上げる。後ろで降りる準備をしている音を聞きながら、藍田はバスを降りた。

 目の前に聳える五階建てのテナントビルは重厚な監獄のようにも見える。


 あの夜から二週間。今日は塾の小テストの結果が張り出される日だった。


 生徒たちがひしめき合う入り口に身を潜らせ、IDカードをバッグから取り出し、靴箱の横にある入室装置にかざす。緊張は足元にあった。それ以外は冷静そのものだ。

 もし、これで酷い結果であっても、悔いはない。それが、自分の実力だったというだけの話だ。押すなよという無言の抗議をくぐりながら、藍田はエレベーターの横に貼られた成績順位表の前に躍り出た。

 今日で席も変わっているはずだ。前か、後ろか。救いのある地獄か、ただの地獄か。

 血液が指先に集中する。意識が遠退いていくような気もしたけれど、まだ、地に足はついている。深呼吸をして、顔を上げる。


 いつもの癖で下の順位から自分の名前を探した。九十位から五十位の間に藍田薫という名前はない。それだけでも肩の荷が下りた。藍田は薄く酸素を吸って、鈍色の憂鬱が黄金の緊張に変わっていくのを感じていた。


 五十位から二十位の中にも彼の名前はなかった。

 二十位から十位、そこにもいない。圏外だったらどうしよう、そんな不安が不意によぎる。もしくは、塾側のミスで記載漏れしていたら? 硬い唾を飲んで、藍田は恐る恐る視線をあげた。


 九、八……七、六、五。まだ、いない。足の力が抜けそうになったのを、なんとかして堪える。


 四……三……


 ────二位、藍田薫。一位、二葉命。

 

「……は、……」


 魂の抜けた声が、藍田の口から情けなく滑り出た。

 群衆のどこからか、「藍田薫ってだれ?」という声が聞こえてくる。藍田は慌てて肌色の髪で緑の目を隠した。発達不足の体を余計に縮こまらせて、もう一度順位表を見上げる。何度も二位から下を見た。どうあっても、二位には自分がいて、一位には二葉がいる。

 誰もが認める天才と名前を並べている。二葉の全体平均点は不動の九十九だが、藍田の平均点も九十七と遜色ない。

「初めて見る名前だけど……」「いつも小野田君がいたじゃない」「カンニングしたんじゃ?」


 先ほどまでは意にも介していなかった周囲の雑言が、耳を塞いでも聞こえてくる。


(わかるよ。おれも、おれはカンニングしたんじゃないかって思う……でも、どれだけ考えても、おれはカンニングなんてしていなかった。テスト用紙の光景しか思い出せないのだから)


「というか、カンニングしてたのって小野田君でしょ? ここも辞めさせられたらしいよ。最近ゲームばっかりしていたし、自滅じゃん」


 藍田は思わず振り返って、会話の出所に意識をやった。二人の女子生徒と目が合って、髪の長い女の方が怪訝に眉を潜める。ここで吃ってしまってはますます怪しまれる。目を合わせたまま、藍田は二人に体を向けた。


「ごめん、話が聞こえたんだけど、それは本当? カンニングって?」

 二人のうち、警戒心を和らげたポニーテールの女が先に口を開く。

「そのまんまだよ。あの、藍田君だよね? 私、同じクラスの佐藤。小野田君の斜め後ろの席に座ってたんだけど、あいつ、すごかったよ。もろに隣の席の子の回答見てるんだもん。この世の終わりみたいな顔色してさ。そんなことならゲームに時間を費やさなければよかったのに……講義終わりに先生の呼び出しくらってたの、知らない?」

「……知らなかった」

「藍田君も、なんだか必死そうだったもんね」それから彼女は遅れた同情心をあらわにして、「二位、おめでとう」と言った。


 ありがとう、と言ったが、そこに感情が伴っていたかどうかは明瞭でない。それと同時に佐藤といった女子生徒がまたぞろ「あっ」と口をこぼした。


「志田君の話も聞いた?」

「志田くん? いや、なにも」

「志田君も塾辞めちゃったみたい」

「それは……」ショック、というより膨大な疑問が藍田の頭を埋め尽くした。「どうして?」

「なんでも、お父さんが失踪したんだって」

「そのお父さん、やばい薬をスポーツ選手とか医大に配ってたらしいよ」長い髪の女が口を挟む。

 佐藤は軽い相槌を打っていた。どうやら、事実に齟齬はないらしい。

「そう、そうなんだ、……」


 それ以上、言葉も見当たらなかった。


 エレベーターが到着する。藍田は後ろから押されるようにしてエレベーターに乗った。大器晩成と手放しに喜び難いのは、まだ実感していないからなのか、それとも頭が起きていないせいなのか。今回のテストには、もっと大きな別の意図が隠されているように思えて仕方がなかった。なにかを一掃するような、人為的な機転を感じる。

 思い返せば、藍田が勉強に集中できるようになったのも、この点数を取れたのも、全て、二葉が舞台を整えてくれたおかげだった。


 三階でエレベーターは停止し、ほとんどの生徒がゾロゾロと降りる。

 藍田は自分のクラスにある席順の張り紙を見つめた。二葉の後ろの席に自分の名前がある。その名前を指先でなぞる。印刷ミスでもなければ、夢でもなかった。

 教室に入ると、一瞬だけ視線が藍田に集まる。しかし、それはマバタキほどの時間で、教室にいる生徒たちはすぐに手元の単語帳やノートに移っていく。ただ、一人を除いて。


「薫っ!」


 いつもの最前列、真ん中の席で、二葉が大きく手を振っていた。


 少年の日を見るような眩しさだった。真冬だというのに、二葉の周辺だけ満開の温暖がおとずれている。藍田は右目を眇めて、場違いな足取りで二葉の後ろの席まで行った。スクールバッグを置いていいのか、わからない。ここが本当に自分の席なのかも、半信半疑だ。

 二葉は椅子の背もたれに肘をかけ、空いている手で二葉の手を優しく引いた。藍田はその引力に従って、腫れ物でも扱うみたいにスクールバッグをそっと机の上に置いた。教卓が近い。ホワイトボードが近い。背中に大勢の気配がある。


「……なんだか、不思議な感じだ」ポツリとそう言った。

「わかるよ! 俺なんてさ、順位表が張り出されるまで出待ちしちゃった! ほんとに、ほんとに今日という日を楽しみにしてたんだよ」

「いや、うん……」プラスチック素材の椅子を引いたまま、藍田は座ることをせず、「あのさ、小野田くんのこと、二葉がやったの?」

「やったって?」

「いろいろ……カンニングのこととか、そもそもゲームだって二葉が彼に持ちかけた話だったんじゃないの」

 二葉は藍田の指先を少しばかり強めに握った。まあ、まずは、席に座りなよと言うように。

「さあ、そんな気もしてるけど、俺はゲームをやれよとは強制してない。カンニングだって、あいつは今回が初めてってわけじゃないんだ、自業自得だろ」

「二葉は前の席に座っているのに、どうして小野田くんがカンニングしてるって……」

「テストの解答用紙を見せてくれるから。頼んでもないのに、テストが終わるたびに解答用紙を俺に見せてきて、これはどう思うかとかそっちはどう答えたんだとか、訊いてくるんだよね。パッと見ればちゃんと回答してあるんだけど、一つ一つを照らしてみるとね、カンニングの癖があるんだ。わかりやすいったらない」


 それでも、今までは見逃してやってきたんじゃないのか。今回の小テストで、二葉は小野田を告発したのだと思うと、言い知れないやましさが募る。この席は、彼を蹴落として勝ち取った席なのだろうか? もし、小野田がいたら藍田の席は違っていたかもしれない。

 藍田は席に座れずにいた。ぐしゃぐしゃに丸めたやましさが胸の奥でどす黒く燻っている。余計なことをしてくれたな、こんなのじゃ喜べない。癇癪を起こしそうになる喉は、下唇を噛み締めることで塞いだ。

 そんな様子の藍田に痺れを切らしたのか、二葉は中腰に立ち上がり、藍田の両手を握った。


「小野田は今まで、九十七なんて点数を取ったことはない。両隣の人の回答をカンニングしてるから、点数もそれに引っ張られるんだ。これまでの順位表を見てない?」

「あんまり、興味がなくて」

 二葉は和やかに微笑んだ。「小野田と五位まではみんな誤差程度にしか変わらない。見てよ」


 そう言って、二葉はポケットから携帯を取り出した。画面には今日の順位表が映し出されている。「興奮して写真撮っちゃった」と彼は笑う。


「薫が九十七、三位から下はみんな九十か八十そこらだ。こんなに周囲を突き放しているのは薫しかいないんだよ」


「薫は、薫の実力でこの席に来た。頑張ったんだ」念を押されるように言われた言葉は、どんな慰めよりすとんと藍田の懐に落ちた。そう、頑張った。今までも、ずっと、頑張ってきたのだ。画面に映し出された九十七という数字をようやく咀嚼した。どうしてもっと早くに自分の好きなようにできなかったのか。どうして、両親は自分の可能性を信じてくれなかったのか。どうして、兄が差し出すものばかりに目を向けるのか。

 堰き止めていた悔恨と鬱憤と後悔とが迷彩色に混ざり合う。しかし、それも今日で終わりだ。この結果を報せれば、両親は自分のなにもかもを認めてくれるに違いないのだ。


 後ろめたいことはなにもしていない。“なにも”。──二葉は、こうなることを予測していたのだろうか。どこまで?

 両手に二葉の高い体温を感じながら、藍田は体の緊張をほぐすのと同時に席へと腰を下ろした。二葉も自分の席に座り直し、真正面に藍田を見る。この無機質な空間で互いにじっくり見つめ合うのは、なんだか浮遊するような心地だった。唇がほのかにむず痒くなって、藍田はそれを誤魔化すように話題を探す。


「それでもさ、半分は二葉のおかげだと思うんだよね」

「俺の?」

「だって、レポートを引き受けてくれたし……」

「そんなこと言わないでいいんだよ、薫」

 二葉の白い指先が藍田の下瞼に触れる。テスト週間以降、寝不足はピークを迎え、藍田の下瞼には影のような隈が染み付いていた。藍田はそれを勲章のようにも思い、受け入れている。

「あれは、取り除かれて然るべきの障害なんだから」

「……ありがとう、二葉」


 二葉は蕩けるような笑みを咲かせて、藍田の机に頬杖をついた。周囲の他愛ない会話が、彼と話している時間だけ鳴りを潜める。夜と、死体と、二葉と、藍田だけのあの鳥籠の中に似ていた。


「俺の言ったとおりだ。なにもかも上手くいくって。薫はやっぱり他の人は違うんだよ、俺は、薫がすばらしい結果を出してくれるってわかってた。すっかりね」

 藍田はスクールバッグを机のホックに引っ掛けながら「それは、おれが好きだから?」そう児戯に問う。

 にわかに、二葉の目が遠くを望遠する。彼は、夢を見るように、朝日をのぞむように、少女の面持ちで頬に熱をあらわにさせ「うん……」と呟いて、すぐに雑念を払うように首を振った。


「それもそうだけど、前から薫は頭がいい人なんだって思ってた。俺、本当にね、薫はわざとあんな下の順位の点数を取っているんじゃないかって……だって、いつも同じ平均点を取っているから。確信を得たのは、薫のお兄さんの部屋に置いてあったレポートを見たときかな。どのレポートも完成度が高くて、関係ないのに、誇らしくなった」

「買い被りだって。おれは要領悪いし」

「要領の良し悪しで頭脳は測りきれないよ。基本をおさえてから応用に続くみたいにさ、要領をよくするのだって基本のことを順序立てるところから始めるし、慣れればあっという間だと思う。薫ならすぐにできるようになる。でなければ、あんなふうに絵だって描けない。そうでしょ?」


 意外だった。さほど長い付き合いでもないというのに、彼は心から藍田のことを理解しているように思えた。彼の目は、今、藍田しか映っていない。絵を引き合いに出してはいるけれど、それだけを盲信していた頃とは少し違っている。触れ合っていただけの縁が、遺伝子のように絡み合っていくようだった。

 二葉もそれを感じていたのか、頬杖をさらに深くして、沁みるように口角を緩めた。機嫌がいいのだ。彼は自白剤でも飲んだみたい饒舌になった。


「ずっと“志田君の席”が羨ましかった」

「え?」

「俺も、俺だって別に、自分が薫の隣に相応しい人間だって豪語できる器じゃないけど、じゃあ志田君は相応しいのかと言ったらそれはもっと違う気がしていたんだよね」

「はは、なにそれ……」

「だから、取っちゃった。彼には悪いことしたかも」


 二葉の穏やかな笑みに背筋が強張った瞬間、予鈴が鳴り、講師が入ってくる。スイッチの時間が始まろうとしていた。それ以上、言及することは許されなくなり、藍田も仕方なくスクールバッグからメモ帳と筆箱を取り出した。二葉は藍田の机の上で腕を組み、側頭部を寝かせて、その隙間で藍田を見上げていた。

 本鈴が鳴る。白い紙へ飛び込むのに深呼吸はいらなかった。ただ、二葉の仰望に応える。それは何十回と繰り返してきたことだ。

 二葉は藍田の手元を見て、静かに、人魚のような顔立ちのまま、運筆の音を聞いていた。


 五分という時間は一分にも、ともすれば一時間にも及んでいた気もする。アラームが鳴り、スイッチの時間が終わると、二葉も起き出した。

 描き終えたメモ帳の一ページを引き剥がして、藍田はその絵を二葉に差し出す。二葉はそれを反射的に受け取った。


「え、これ」二葉が驚いた様子で言う。

「あげる。お礼に」


 藍田はぶっきらぼうにそう呟いて、さっさとノートや英語の教科書を机の上に置き始めた。渡された絵を恐々と見下ろした二葉の目が、膜を張るように光沢を帯びる。


 そこには、三本指に近い下手なピースサインの絵が描かれていた。


 形のいい瞼から大きな涙が一つ、睫毛を伝って落ちる。ダイヤモンドよりも美しい、随喜の雫だった。「あり、ありがとう、……」と彼は切羽詰まったように口にする。

 藍田は二葉の様子を黙って見据えていた。マバタキも忘れた両目には表面張力がたっぷりと張り、祝福を受けた信者のように、口を半開きにして、背を丸めながら俯いて、絵を見つめている。それで、眼球が焼かれることになっても、彼はこの絵を直視し続けるのだろう。


「……下手くそなピース」

 藍田がそう言うと、二葉は力なく笑った。

「どこの国に行ってもできるポーズだと思って」


 将来という文字が見え隠れする。将来、彼は留学でもするのだろうか。やはり、オックスフォードだとか、ハーバードだとか、そういった道が確かに二葉には合っている。(なら、おれは?)藍田は急に自分の所在がわからなくなった。講師の一言一句、ホワイトボードに書かれた情報をノートに書き写す。そこに道はない気がした。be動詞、形容詞、接続詞、それはどこの道に続いているのだろう。


 二葉には、二葉の人生がある。今はこうして抗えない運命の上で手を繋いでいるが、結局のところその“運命”というのも喉元過ぎればただの日記の一ページに過ぎないのだ。年賀状なんかの絵で彼は喜ぶだろうし、そうやって、少しずつ関わりがなくなっていけば、彼も離れていく。絵があっても、細い関係に溶けていくかもしれなかった。


 憎らしいことこの上ないが、それでも関係が薄れていく分にはまだ構わない。唯一の懸念は、その先で彼が新しい“画家”を見つけ出すことだ。

 もし、無邪気に「最近、素晴らしい画家を見つけたんだけど、薫とぜひ合作してほしいんだよね」なんて言われたら。

 鳩尾がグッと重たくなる。視線の先には、二葉の背中があった。彼は猫背になって、熱心にノートをとっているふうであったけれど、その実、ずっと藍田の絵を眺めていた。皺のないブレザーに、動かない腕。藍田の目から見ても彼がなにをしているのかは手を取るようにわかった。

 シャーペンを握る手に、拳銃の硬さを想起する。

 講師の声が近い。ホワイトボードを見るのに、首を使う。後ろには他の誰かが座っていて、同じように講義を受けている。二葉が見ている景色とほぼ同じ場所に立てている。がむしゃらに勉強をして、全ての時間を自分に費やして、勝ち取った席。平均九十七点、九十人中の第二位。

 何度か噛み締めても、歓びに程遠い気がした。それどころか、どんどん遠ざかっている。噛みすぎたガムのように、味気がしなかった。

 なんのためにここまで頑張った? もちろん、両親に誇らしく思ってもらうため。そして、絵を堂々と描くため。


『藍田君はその人の筆を折れるぐらいの画家になれるよ』


(そうなったらどんなにいいだろう)




 バイトがなければ、二葉と一緒に帰ることもない。彼とは、帰り道が逆だった。


 講義が終わったあと、何人かの生徒に「どうやって成績を上げたのか」という質問を受けたものの、藍田はそのほとんどを「二葉に教わった」で切り抜けた。それは魔法のような言葉で、二葉に教わったと言えば質問者十人中十人が満場一致で納得していた。それなら、頷ける、といったふうに。

 二葉命──なんて利便性のある名前だろうか。藍田は笑いそうになったけれど、口から漏れたのは殺風景な吐息だけだった。

 今日一日、二葉が板書している様子はなかった。さすがに講師陣に目をつけられ、幾度か問題を当てがわされていたけれど、しかし彼はその問題を一つとして間違えず回答していた。


 バスを降りて、暗くなった住宅街を歩く。一軒家の多い道なりに温かい光が窓越しに連なっていた。電灯の下を通ると、自分の黒い影が現れる。光源がもう少し後ろになれば、その影はもっと大きく、そして長く伸びるはずだ。

 冷たい風が頬を刺す。藍田は肩を竦めて首を守った。


『ご両親に報告するの?』


 帰り際に二葉から言われたことを思い出した。彼の両手には絵が未だ握りしめられており、それをそのまま持って帰っているのだと思うとなんとも言い難い心地になる。指摘するのにも今更で、藍田は二葉の声にだけ首肯していた。


『……薫はああ言っていたけど、今回の結果を見せればきっとご両親も薫のなにもかもを認めてくださると思うんだ。絵を描く道も、きっと、きっと許してくださる。医者の道ではあまりに狭すぎるってことを、わかってくれる』


 そうだよねと言いたかったのに、口から出たのはそうかなという疑心だった。


『そうだよ。当たり前だ。そうでなければ……ちょっと、おかしいよ』


 少しは認めてもらえるだろうという手応えはある。だが、想像はできなかった。両親が、この結果と絵とを紐づけて認めてくれるのか、全く想像できない。二葉も、実際のところは想像できていないのだ。

 藍田が認められることは彼にとって決定事項であり、揺るぎない事実だった。蝋でできた盲信だ。藍田という存在が普遍的に世界へ認められなければおかしいと思っている。

 二葉の表情はどこまでも陶然としていた。朝焼けの海のように。


 洋館然とした一軒家が見えてくる。温かい光はなく、リビングの窓から薄く灯りが影を伸ばしているぐらいだ。玄関の前で足を止め、藍田は静かに神さまと唱えた。偶像に願う自分自身がドアノブに反射して魚眼のように映っている。愚かさでいえば、二葉とさして変わらない。そう思うと、満潮であった緊張は多少水嵩を減らした。


 ドアノブを引き、薄暗い玄関に入る。


 リビングの灯りに、薄暗く長いように感じる廊下。ふと、廊下の中央に二葉が立っているような気がした。それは所詮錯覚に過ぎず、二階から聞こえてくる女の笑い声によって現実に引き戻される。両親の靴に正と女の靴、環境としては最悪に整っていた。報告は今日じゃなくともいいのでは。なら、“次”の機会はいつ訪れる? もしくは二度と来ないかもしれない。

 木造式の床を踏みしめるたびに、毛虫や蜘蛛や蛆が足の裏に潰されていくようだった。奥でボソボソと聞こえる声が藍田の鳩尾を大きく煽る。視界に椅子の足と、母の脹脛が見えてくる。


「今更、問題にはならないわよ」

 母の声が聞こえて、藍田の足取りは自然と摺り足に変わっていた。


「どうして今になって二葉さんの話が出てくるの」


 藍田の全身の血が思考よりも早くサッと冷たくなる。


(“二葉”……? 今、母さんは二葉って言った?)聞き間違いか、同姓の他人だと思いたかった。けれど、聞き間違いとするには、あまりにはっきり聞き取れてしまったし、二葉の母親が入院しているのは両親の勤める病院で、二葉という名字を持つ人間が都合よく二人も揃っているとは到底思えない。


「あれは……お前が……」父の声だった。母の感情的な抑揚のせいで、うまく聞き取れない。

「私はなにも“間違えてない”ッ!」


 母親の癇癪と藍田がリビングの床を踏んだのはほぼ同時だった。両親の黒い形相が、銃口のように藍田へと向けられ、彼は言葉を失った。

 沈黙を埋めたのは二階にいる女の奇形じみた声で、それは救いにも幸いにも薬にもならない。藍田は舌の上の水分が枯れていくのを感じながら、形の悪い愛想笑いを浮かべた。「今、帰ってきたんだけど」と言い訳を口走る。目に見えない室温が下がっていく。

 両親の顔を見れない。二人ともひどく疲れているようだった。乱暴に丸めて広げたテスト用紙みたいな肌の色をしている。なんだか、知らない人のようでもあった。


「いつからそこにいたの」

 母の声は看守のように硬かった。

「いや、なにも……」聞いていないと言い出しそうになって、藍田は慌てて唇の内側を噛んだ。「ついさっき。ごめん、なにか、大事な話をしていた? 報告したいことがあったんだけど」

「そう。それじゃ、早く済ませて」


 太い血管が少しずつ縮んでいく。手応えを感じるどころか、今はもうなにも出さない方がいいような予感さえしている。ガスが充満しているのかもわからない部屋でマッチを擦ろうとしている行為に等しい。しかし、ここで「やっぱりなんでもない」と言える勇気も藍田にはなかった。

 藍田はスクールバッグから小テストの成績表を取り出し、それを両親に差し出す。顔を見てしまったが最後になるだろうと、視線は足元に縫いつけられた。


「じ、塾の小テストで、いい結果に……全生徒の中で二位になれたんだ。きゅう、九十七点で」


 数字を口にしてしまった瞬間に、藍田は後悔した。心の中で噛み締めている分にはよかったが、中途半端な点数は口に出してみると、たまらなく幼稚な結果に思えて仕方がなかった。まるで、みっともなく数字に縋っているみたいだ。

 言わなければよかった。言わなければよかった! 自分の選択した言葉の一つ一つが気にかかる。切ってはいけない導線ばかりを選んで、しまいにはなにが正解かわからなくなっていく。


 藍田の足元に濃い影が被さった。手元から成績表が引ったくられ、視線が上がる。父が白髪混じりの髪に似合う威厳さで、そこに書かれた分析欄をなぞっていた。

「九十七点」と復唱される。そこには、まぎれもない、確固たる嘲笑があった。脳に血液が凝縮され、体温は上がっているのに、藍田の心臓は氷柱で刺されたみたいに冷たく震えた。


「薫、お前、塾に通って何年だ」

「……今年で三年、です」

「それで? 一年目には取っておくべき点数をお前は三年目にしてようやくか。わざわざ自らの知恵遅れを報告しにきたってことだな?」

 罪人のように、視線が下がっていく。首筋の温度は消え、断頭台にかけられた圧迫感が藍田の生命線を握っていた。

「だ、だけど、だけど……」

「今がそういう状況ではないの、見てわからない?! 正もあんな、あんなふうに……きっと気を病んでしまったのよ。あの子は頑張り過ぎてしまうから、こんな弟の面倒も見させてしまって、私がもっと……」


 母が、一体誰のことを言っているのかわからなかった。


(気を病む? 気違っているの間違いだ。正兄さんは最初から、最初からキチガイだった。面倒を見ていたのは、おれの方なのに)


 藍田の体内に、怒りや悲しみや絶望が雪のように降っては消えていく。先に雨が降ってしまったから、それらが積もることもなかった。ただ、ひたすら、気力だけを奪っていくのだ。

 両親の髪も目も同じ焦茶色をしているのに、藍田の色素だけ違った。兄も含めて四人並んだとしても、誰も藍田をその家族とはみなさないだろう。リビングの中、同じ家の中にいても、藍田だけが異端で、無価値だった。

「ああ、そうだわ」と母がおもむろに立ち上がる。台所から卵のサンドウィッチの乗ったトレーを持ってきて、テーブルの上に置いた。藍田は上目にそれを見て、救いを求めるように手を伸ばした。

 その手を叱責するような溜息が頭上で漏れる。


「それ、正に渡してちょうだい。お腹を空かせているはずだから……ほんとに……きっと……」母の目は耳はなにも見ていないし、聞いていなかった。「それぐらいならできるでしょう」


 子供の悪戯を聞かされたといったふうに、母は額に手を当て、疲れ切ったようにリビングを出ていく。足音が遠ざかっていくのを藍田は耳の裏側で聞く。次いで、父も立ち上がり、手に持っていた成績表を藍田の足元に落とした。


「お前がくだらない落書きを自慢気に見せにきたときから、期待なんてするんじゃなかったな」


 二人の足音が完全に消えるまで、藍田はその場で首を垂れていた。女と正の嗤い声だけを聞きながら、成績表を拾い上げる。約四グラムの紙切れが、彼の提示した結果で、この有り様だった。金庫いっぱいに詰め込まれたスケッチを持ってくれば、話は変わったろうか。それらも、燃やされて灰となってしまえば、一グラムにも満たない。


 トレーを持ち上げ、少し乾いた食パンの表面を見下ろす。正は、卵サンドが嫌いだった。このサンドウィッチが好きなのは藍田の方で、昔、これが好きだと母親に伝えようとしたところを正に邪魔されたのだ。両親に媚を売ることに関して、兄に勝る偉人はいない。

 美味しそうだ、と思いながら、藍田は階段を一段一段上った。意識を失いそうなほど体が重い。階段の底が抜けたらどうしようと、馬鹿なことを考えた。


 正の部屋の前では、笑い声だけでなく色々な音が漏れている。ケミカルで淫猥な色彩ばかりが鼓膜を通して脳を彩る。

 ノックに躊躇はない。今までは祈るような心地になっていたが、藍田のどこにも複雑な感情はなかった。二度ほどドアを叩くと、しばらくしてドアノブが傾く。

 音は明瞭に漏れ出し、甘い人工甘味料の匂いが鼻腔を刺激した。そうして、下着一枚だけを履いた正が出てきた。その下着ですら、今さっき履いたと言わんばかりの粗雑さだった。


「これ……」といつぶりかに見た正の顔はまるで醜悪に様変わりしていて、藍田は自分の目を疑った。


 目は炯々と鋭く、頬はこけたようで、どこに焦点が当てられているのかわからない。正の課題をやっている中で薬物中毒者の写真をいくつか見かけたけれど、彼の様子はまさにその実例だった。

 異常なのは自分自身だと思い込んだ方が、いっそ楽なように思えた。あまりの嫌悪と先ほどの絶望で、実の兄を奇矯者に落とし込んでしまっているのでは。だが、仮にそれで幻覚を見たとしても、“匂い”は誤魔化されない。

 正は口元で何かを呟いていたが、どれも不明瞭で聞き取れなかった。両親はこの状態を見ても尚“気を病んだ”で済ませているのか。


「……正兄さん、ねえ、なんだってこんな、こんなこと。たまに大学に行っているのは一体なにをしに? 授業を受けに行ってたんじゃ」


 藍田の側頭部に閃光が迸る。鈍い音がして、痛みより先に熱が破裂し、左肩が勢いよくドアの開け口に叩きつけられた。サンドウィッチが肉塊のようにばら撒かれ、殴られたのだ、とは理解できたが、加減が普段の比じゃない。

 キーンと甲高い耳鳴りが脳を支配し、めまいに襲われる。藍田は立っていられなくなった。


「うるせえなあッ! 穀潰しが、俺を馬鹿にすんのも大概にしろよ!」


 脚が振り上げられ、藍田は無我夢中に頭を守った。脇腹や二の腕、太ももに爆弾のような打撃が何度も何度も降り注ぐ。言い知れない痛みだが、“まだ”知っている痛みだ。骨は折れていない、折れていないことを祈った。

 どろりとした液体が殴られた側頭部から顎に滴った。正は空き缶でも踏み潰すような勢いのまま、支離滅裂な罵声を吐き続けていた。部屋の奥では女の笑い声が狂ったようにやまない。

 これが現実だとは思えなかった。痛みに明滅する記憶に、二葉とのキスが蘇る。今はあの劣情がひどく恋しい。


 五分か十分か、しばらくすると電源を抜かれたように正の猛攻がピタッと止まった。


 鈍痛が少しずつ助走をつけて熱を帯びてくる。藍田は目だけを上にやると、正の様子を見た。彼は急に虚ろな目になって、「あー」と痴呆みたいに宙を眺め、脱力するばかりであった。その惨憺たる姿に、初めて怖気を覚えた。死体と目が合った恐怖が生き生きと芽生える。正には死の片鱗があった。

「あ、そうだ」と彼の目に歪な生気が起き上がった。藍田は条件反射に体を縮こまらせる。


「大学。大学なんだけど、お前、レポートのこと上手くやってくれたみたいだなあ。講師のやつから電話がきて……でんわ……きたよな? そう、きたんだよ」彼の声に芯はない。どこまでも疑わしい挙動だった。「電話が……なんて言ってたか、そう、まだ序盤しか読んでいないらしいんだが、それだけで、俺はS評価が確定したみたいなことを言われたよ。言われた……はは、この調子なら何もかも上手くいく、……」

「た、正兄さん、話を聞いてよ」


 正気を促してみたが、効果はまったくみられない。正はまた電源を切られたふうに動きを止めた。そして、呪詛のような言葉を繰り返しながらあっけなく踵を返す。

 ハリガネムシに寄生されたカマキリにそっくりな辿々しさだった。彼はサンドウィッチを足の裏で引き摺り、部屋の中に戻る。


 嘲笑う音を立ててドアは完全に閉められた。


 体中に痕を残す痛みが、これは現実なのだと喚き散らしている。内出血に脅される腕や足をゆっくり伸ばして、空襲が止んだことを今度こそ悟った。

 病院、という文字が脳に浮かんで、次に二葉の名前が思い浮かぶ。彼は、どこまで知っているのか。どこまでが彼の想定内なのか。

 藍田は指を曲げ、拳をつくり、絵が描ける状態かを試した。骨はどこも折れていないようだ。神様は唯一その願いだけは叶えてくれたらしい。あまりの皮肉に笑わずにはいられなかった。たったそれだけで、脇腹は悲鳴を上げる。壁に手をつき、藍田はゆっくりと立ち上がった。めまいはまだ続いているし、頭も痛かったが、これで死ぬならその時はその時だ。


 視線をもう一度下げると、視界の端に小さな欠片が落ちていることに気づいた。指先でそれを摘み上げると「あ、薫、それ汚いよ」背後でそんな声が聞こえた気がした。


 桜の形をした和三盆のような──ああ、今度こそ見間違うわけはない。これは、ドラッグだったのだと。




 翌る日。服のおかげで青痣は誰にも知られなかったが、頭の出血痕と腫れは両親に知られてしまった。なにも訊かれず、なにも言われず、ただ溜息だけを吐かれながら、藍田は病院で治療を受けた。それが優しさでも親の責務としてでもなんでもないことを知っている。彼らは“間違い”を恐れている。虐待を疑われるわけにはいかなかった。


 待合室で会計を待っていると、携帯の画面が光り、メッセージが表示された。


『今日、十七時にいつものトイレで!』


 学校には怪我の治療で休むことを伝えてある。同じ学友たちも藍田がどうして休んだかは知っていた。知らないのは、他校の二葉と塾の生徒たちだ。

 呑気な文字を指先でなぞり、『了解』と打ち込む。無垢に笑う彼の目に、この状況を見せたらどんな顔をするだろう。希望に満ちた確信も、盲信的な思考を捨てれば、そんなことにはならないとわかったはずなのに、あのときの藍田は盲目的だった。上手くいくと信じていたかった。綺麗な歓びに満ちるだろうと縋っていた。


 電源を落とした携帯の黒い画面に、包帯を頭に巻いた自分の姿が映り込む。人の体は脆いようで、存外に頑丈らしい。もしくは、神様がそうしろと指示したのか。


 藍田は無意識にでも手を開閉させ続けた。関節から錆びていくのを恐れるように自分の手指に力が入ることを頼りにした。腕はあまり高くには上げられないが、スケッチならいくらでもできる。まだ、“まだ”。


 治療を受けた病院が両親の病院であったこと、それだけが藍田の精神をこれ以上なく蝕んでいた。



◻︎



「薫……?」藍田が教室に入るや否や、彼は開口一番にそう言った。「それ、なに」


 スクールバッグを机の上に置くと、二葉は興奮を抑えるように座ったまま藍田を見上げた。塾のエレベーターを待っている時点で、すでに何人かのクラスメイトから「大丈夫?」と声をかけられていたが、その中でも二葉は窓に張り付いた血の雨でも見たかのような顔をして、教室に入ってきた藍田を迎えた。


「なんでもない」

「なんでもないってことはないだろ、そんな……」


 二葉の声は今にも咽びそうに震え、発音の一つ一つに驚愕が滲んでいる。肘を藍田の机に寄せて、身を乗り出す姿は足を悪くしたみたいだった。こんなはずではなかったという灰色の曇天が燻っている。絶望を味わった瞬間も、殴られている瞬間も、決して涙を流しはしなかったのに、二葉の惨めな眼差しを見てしまったとき、藍田は初めて泣きそうになった。


「なんでもないことだったんだ。おれがどれだけ頑張ったって上手くいかないことは、わかっていた。わかっていた、はずなのに」

 喉を引き締めたせいで、変に言葉が吃った。けれど、そうでもしなければ堪えられなかった。

「どう、どうして」

「ごめん、二葉。たくさん協力してくれたのにね、なにも変わらなくて」理性に亀裂が走る。それ以上言及するつもりはなかったのに、藍田は開いた口を閉じていられなくなった。「でも、二葉はこうなることをわかってたんじゃないの?」


 二葉は殴りかかるような勢いで立ち上がり、藍田の両腕を鷲掴んだ。ガタンと椅子の倒れる音で、雑談の少ない教室はさらに気道をなくし、視線は藍田と二葉に集中する。

 一触即発と見紛う睨み合いと沈黙が続く。二葉のその目がどれほど哀れっぽいかは藍田だけが知っていた。


「俺っ、俺は、薫が誰の目も気にせず家でもどこでも絵を描けたらいいって、思ったんだ。そうなるって……そうなるって思ったから」

「隠し事をしておいて? 二葉のお母さんとおれの両親に、なにかあるんだろ」


 そう言うと、途端に二葉の息が止まった。文字どおり、肺を膨らませて、三秒間ほど息を詰まらせたあと、不規則な呼吸をし始める。その目に星の輝きはなく、しかし同時に疚しさもなかった。懇願するような澱みがあるだけだ。彼は小刻みに首を振った。


「薫を傷つけたいわけじゃなかった」

 わかっている。彼の言葉に嘘がないことも、彼は本心から藍田が上手くいくことを信じてくれていたことも。だが、壊れた蛇口からすぐに水を止められないのと同じで、藍田の感情はとめどなく溢れ続けた。

「それはどうだろう。どうやら、おれの両親は二葉のお母さんについてなにかを隠しているようだし、なにか、おれに仕返ししたいことでもあったんじゃないの。あんなことを手伝わせたのも……絵しか取り柄のない凡人を言いくるめるのはさぞ簡単なことだっただろうし、おれ、思ったんだけど、きっとおれの親はとんでもない間違いをしでかしたんじゃないかって。そう、たとえば、医療……」


「────薫ッ!!」


 悲鳴と同じ色の怒号が藍田の眉間を貫き、垂れ流れていた感情がようやく堰き止められる。薄氷が張るような静寂が藍田の首を締め上げ、とても座に堪えれたものではなかった。唇を噛み締めて、藍田は二葉の手を振り払うと、スクールバッグを乱暴に掴んで教室を出た。出ていく間際にもう一度名前を呼ばれたが、走っているうちにそんな声も遠ざかっていく。

 非常用の階段を使い、いち早く外に出た。たったの一度も休んだことのない塾を、まさかすっぽかす日が来るとは。自暴自棄になっている自覚はあったが、そうすることでしかもう自分を守れない。今まで積み重ねてきた侘しい努力と我慢を蹴散らし、みっともなく縋ってきた命綱を手放してしまいたかった。

 死ぬ勇気はないが、自分という存在を見放すことはできる。死人のように生き、そしていずれ死人となれる日がやってくるのだ。


 救われないなら、報われないなら、なにもいらない。あと少しで陽を透かしそうだった空は、今や分厚い雷雲によって塞がれていた。


 体力がない上に痛めつけられた体は走るだけでも弱音を吐き続ける。頭痛が蘇り、思考の亀裂をさらに広げていった。感情の全てが怒りに変わり、大声をあげて暴れ回りたくもなったが、兄の姿が脳裏によぎってそんなこともできなかった。

 藍田は足を止めると、衝動的にスクールバッグを漁って一本の鉛筆を取り出した。削ったばかりの2Bはまだ寿命も長い。その生殺与奪を握っているのは、この手だ。

 はッ、はッと慄然たる呼吸を吐きながら、鉛筆の両端を握る。首を吊るよりも、高層ビルから飛び降りることよりもこれから至る行為の方がずっと恐ろしく感じた。けれど、それでも、いっそ────


「折らないでっ、折らないで、薫ッ!」


 鉛筆を持っていた手に、違う手が被さり、背中に衝撃が走る。足を止めてしまったのが悪かった。苦し紛れに振り向くと、そこには今に泣きそうになっている二葉がいた。

 振り払おうと身を捩っても、彼は藍田の手を両手で握りしめたまま離そうとしない。二人は縺れ合うようにして取っ組み合った。


「うるさいな! 関係ないだろ、離せよ!」

「嫌だッ! 離さない……絶対に、離さない。筆を折るぐらいなら、俺を殺してよ!」

「おれが筆を折ろうがなにをしようが、二葉には関係ない! どうせ絵が描けなくなったら、おれになんて興味もないくせに!」

「描けなくなってもいい! いつか薫が絵を描けなくなったとしても、それはッ、それは、美しい結末だと思うから。俺はそうなっても、その先まで薫を見ていたいよ。でも、今、筆を折るのは違う!」


 いつの間に足が向いていたのか、押し合いながら入った場所は待ち合わせに使う小さな公園だった。閑散とした公園に、二人の声が突き抜ける。藍田は何度も二葉の頬を引っ掻いたが、二葉は藍田を抱き締めようとするばかりでまったく反撃の意思を見せない。それにも関わらず、二葉の押しは獣のように強かった。

 藍田の体幹が崩れ、後ろにあった砂場に倒れ込む。砂埃が舞い、鉛筆は左手に握られるだけとなった。藍田はすぐに体を起こそうとするが、藍田の胴体に跨った二葉がそれを許さなかった。藍田の両手を砂場に縫い付けるようにして掴み、覆い被さるようにして彼を見下ろす。


 小さな水滴が藍田の頬を汚した。それさえも、拭えない。


「……期待なんてするんじゃなかった。二葉、お前があんまりにも知ったふうな口をきくから、お前が、手を、引っ張ってくれるから……。身の程知らずに夢を見て、求めて、おれにも才能があるなんて勘違いをして」

「薫……」

 二葉の瞼から雨が降る。藍田が流すべき涙を彼が請け負っているかのようだった。

「どうして、おれを惨めにさせるんだ」

「ごめん、ごめんね、薫」


 押さえつけていた手の力が緩んでも、藍田は抵抗しようとは思わなかった。体力は全て使い果たしてしまった。二葉は藍田の体を優しく起こすようにして、両腕いっぱいに彼を抱きしめる。

 二葉は藍田の肩口に額を押し付けて、嗚咽混じりの吐息をこぼした。


「それでも、間違えているのは俺たちじゃないよ」


 本物の雨が、二人の頬を執念深く濡らし始めた。




 傘を買おう、とはどちらとも言わなかった。小雨はすぐに霧雨に変わり、濡れた皮膚から体温をことごとく奪っていく。けれど、今はその凍えるほどの寒さが感情を慰撫してくれた。


 二葉は藍田を立たせると、そのまま狭いベンチに座らせ、彼自身は藍田の前で跪いてその膝の上に両手を乗せた。

 

 ああ、もっと、醜悪であってくれたらどんなにか楽になっただろう。藍田は二葉の効果的な美しさを垣間見るたびに茫然とした心地になった。顔が整っていることに驕り、傲慢に振る舞う輩はこの世に五万といる。すべての罪が許されるとでもいうかのように乱暴をするろくでなしだって、数多といるのだ。

 彼は、美しいという武器を一番効果的に使っている。振りかざすのではなく、許しを乞うためにその濡れた美醜を隠している。彼の愛眼を見てしまえば、まだ消費できるはずの激情は瞬く間に萎みきってしまう。あとに残るのは虚しさだけだった。


「二葉のお母さんは……」開いた口から疲労が滲み出る。「ほんとうに、植物状態になるほど、ひどい怪我を負ったの?」

 二葉はしばらく逡巡したあと、控えめに首を振った。

「いや。頭は確かに強く打ったみたいだけど、そこまで大ごとになる事故でもなかったんだ。植物状態になったのは……」

「手術のあとってこと」


 認めきれない事実が藍田の呼吸を遥に重くさせた。彼は両手で目を覆い、空を仰ぐ。霧雨が手の甲を満遍なく濡らした。


「そして、その手術をした病院はおれの両親が勤めている病院であり、おそらく執刀医は母で、そこでの医療過誤を隠蔽したのは父……間違えてないよね? こればかりは正しいはずだ」

「……薫は、その話をご両親から?」

 藍田は両手を膝の上に置いた。「ううん、話しているのを偶然聞いた。正直、なにかの間違いであってほしいと思ってる。おれの気宇壮大な思い込みであり、両親に対する愚かな妄想なんだって」


 薄く笑って二葉を見ても、彼は物憂げに視線を逸らすばかりであった。それは、肯定と変わりない。目頭が煮えるように熱くなる。被害者家族に自分はなにを言っているのだろう。謝罪すべきなのはこちら側だ。あの両親にとって変わり、頭を下げなければならない。

 土下座をしても許されるのかすらわからず、この事実はなんとしても世間に公表されて然るべきなのだ。たとえ、それが家庭の崩壊に繋がるとしても、それ以上の絶望を知っている身からすればなんてことはなかった。

「薫、……」と二葉はうっすらと切なげに微笑んで、膝の上に置かれた藍田の両手を握り締め、彼を見上げた。

 それは、恐ろしいほどに、完成された美貌と圧政だった。


「“そんなこと”は心底どうでもいい事実なんだよ、薫」


 頬に張り付いた黒髪から水滴が流れ、月光のような離れ難い光を反射する。


「誤解してほしくないんだ。俺は、薫を傷つけようと思って近づいたんじゃない。母のことだって、気にしていなかったから……そりゃあ、最初は薫の絵が見たくてあんな提案しちゃったけどさ。ただ、俺は薫が自由に空を飛ぶようにして描ける環境を作りたかっただけなんだ……ほんとうに……上手くいくはずだったのになあ」

 二葉は指の腹で藍田の指先を愛撫するようにして摩り続けた。

「薫、俺はやっぱり天才なんかじゃないと思うよ。薫の絵もあの成績も、讃えられこそすれ無下にされることはないって、それが普通だと思ってた。でも、違うんだなあ、世の中には頭のおかしな人が一定数いるんだ。想像力の欠片もない人たちが、生きてるんだ、そのことをすっかりすっかり忘れていた」


 あんなに輝いていた星が、二葉の目から消えている。藍田は手を引っ込めようとしたが、握られている手はびくともしなかった。二葉は、まるで独り言のように続ける。


「そういう気違いのせいで、神様から与えられた才能を持つ人たちが自ら才を手放していく。それって、あってはならないことだと思うんだよ。薫の絵を見たときにさ、気づいたんだ。……俺のこの頭は薫のような人たちを守るためにあるんだって……」


 二葉はそう言ったあとで小首を傾げた。「人たち? いや、俺は、薫しか守れないんだけどさ」彼は小首を傾いだまま、藍田の膝に側頭部を委ねた。砂で汚れたズボンの上に黒髪が柔らかく弛んだ。

 時間だけが、雨と共に過ぎていく。呼吸を落とすと、目の前が白く燻った。


「薫の絵はどうしてあんなにすばらしいんだろう。俺ね、ちょっと考えてみたんだけど」


 そんなことは考えなくていい。藍田が思わず嘲笑じみた笑みを浮かべると、二葉はそれを眼球だけで見上げ、途端に下瞼を三日月型に歪めた。同じようにして笑っただけなのに、その移ろいはむしろ藍田の心を騒がしくするものだった。

 藍田が笑ってくれたことで生気を取り戻したのか、彼は火がついたように喋り始めた。


「創作者というのは、得てして自分の内側にある一種の燃料を消費するために表現という手段を取っていると思うんだよね。自分自身を死なせないために……ああ、なんだか、恥ずかしくなってきた。こんなこと、俺が知ったかぶって話して良いのかな? とにかくさ、薫は、きっと、その執着が人一倍に強いんだ。いつも、なにかを求めるように描いてる」

「……」

「求めているものを手にしても、この先で薫はまた新しいなにかを求めるんだろう。そうやって、いつか全てを手にして、手放す日が来る。その日に、薫は筆を置くんだって思う。俺は、薫が死ぬ日まで、薫の世界に花を植える人でありたんだよ」


 その花が、血でできていたとしても。


「そんなこと、……」

 視線を逸らそうとしたところで、二葉の顔が勢いよく上がった。その黒い瞳孔には涙の膜がなみなみと張っていた。

「薫、信じて、信じて……俺は、自分の母さんのことで復讐したいだとかそんなどうでもいい感情で動いてたんじゃない。俺、俺はただ、薫とご両親が和解して、薫のために色々してくれるようになるって思っちゃった。それだけだったんだ。こんなことなら、最初からもっと最短で最善の方法を取るべきだったのに……ねえ、薫、俺たちは間違ってないよ。おかしいのは、彼らの方なんだから」

「いいよ、いいよ、もう。二葉が悪くないことは、わかってた。おれが正気でいられなかったんだ、──」


 藍田は遮るようにして二葉の手を握り返した。“最短で最善の方法”。それは、雨乞いに人柱を選ぶのと同じ響きがあった。しかし、深く考えようとする気力も今はない。体温は霧雨に奪われ、思考は暗闇に覆われている。二葉の目の奥で、星屑が一つ、また一つと息をし始めていた。

 鉛筆を掌全体で握り締め、鋭利な切先を虚ろに覗く。ぼやけたピントの中に二葉の指先が這い上がり、彼はその鉛筆に頬を擦り寄せた。


 ゾッとする。二葉は、こちらが求めているものを、望んでいるものを知っているのではないか。けれど、もう抗えなかった。


 正気でいられない。そもそも、二葉命という男に出会ってから、一度だって正気でいられた瞬間などなかった。

 雨はやまない。二人は塾をサボり、けれどなにをするわけでもなく、二葉の提案で近場のネカフェへ避難することになった。

 傘をさそうとは、どちらとも最後まで口にしなかった。



 仕事をおざなりにこなしている受付を通り過ぎ、閉鎖的で煙たい空間の奥に進む。塾の近場にあるネカフェは都会的でもなく、個室がいくつかあるだけでサービスは漫画喫茶より手薄いものだった。

 カラオケすら行ったことのない藍田は、ドリンクバーだけで空港の手続きみたいに緊張して戸惑った。隣にいる二葉は手際よく、慣れ親しんだ様子で温かいココアのボタンを押している。


 藍田は二葉の手元を見ながら、彼の後ろに並んだ。同じものを選んでおけば、やり方も失敗することはない。二葉の口元は抑えきれずに緩んでいた。


「同じのにする? そうするなら、俺が淹れてあげるね」


 うんともすんとも言う前に二葉はもう一つカップを用意して、とっととボタンを押し始めた。安っぽいチョコレートの匂いが、ドリンクバーに充満していく。それまでは珈琲の匂いがしていた。

「はい」と言って渡されたカップを、藍田は不安定な手つきで支える。個室に戻る道中で時計を見ると、十六時を回っていた。バイトはどうするのだろうと関係のないところで考えた。


 三人も入れない個室で膝を突き合わせ、冷めかかったココアを口に含む。水っぽい味がして、お世辞にも美味しいとは思えなかったが、そのぬるま湯は鎮痛剤の代わりにちょうどよかった。あのとき、交換し合った唾液と同じ温度だ。

 乾き切っていない濡れた髪、長い手足を余らせた体に袖を余らせた体、水分を吸って重たくなった靴下を脱いだ裸足。その爪先が啄むように触れ合った。二葉の足指は食虫植物のように丸まったが、藍田がなにも反応せずにいると蕾になっていた指はまた少しずつ伸ばされ、今度こそ親指の先同士が重なった。

 ブレザーの制服、学ランの制服。学校も違えば、生きている世界も違ったはずだった。

 目が合うと、二葉は沈むようにして笑う。藍田は上唇に張り付いたココアを一つ、舐めとった。


「二葉は満点を取れるはずなのに」チョコレートの吐息が燻る。「満点をとれるはずなのに、どうしてわざと九十九なんて点数ばかりとるの」

「母にそう言われたから。ずっと、どんな状況でもその場を自分で完璧に制御できるようになりなさいって。自分がどれだけの点数を取れるのか、どの問題をどう間違えれば狙った点数が取れるのか、まずは紙の上で計算して確実性を高めなさいって」


 彼の言葉が、一瞬だけ母の声と被さって聞こえて、彼の家庭環境が垣間見える。そうであってとしても、同情も共感も、なにもない。傷を舐め合うなんてことは、靴を舐めてでもごめんだった。藍田はただ、重い瞼を押し上げ、目の前にいる泥濘のように美しく恐ろしい男だけを額縁に押し込む。絵画に落とし込めるのは現在や経過、想像、風刺であり、歴史や過去の因縁なんかは誰かが後で付け足してくれる。


「二葉はよく「俺にはわかるんだ」って言うよね」

「そのとおりだから」

「じゃあ、おれたちのこと……“まだ”上手くいくと思ってる?」

「もちろん」二葉は間髪入れずに答えた。「こんなこと、言い訳がましくて言いたくないんだけどね、俺が変に理想を叶えようとしなければ、薫はもっと早くに自由に絵が描けるようになっていたはずなんだ。もう、間違えたりしない」


「そっか」とそれだけ相槌を打つと、関心のない話題が終わり、空気が和らいだ。

 誰かをこんなに長く見つめたことはない。それは、二葉も同じだったようで、彼はしばらく視線を泳がせて、上目に藍田を窺った。睫毛の隙間から網膜の光沢が見え隠れする。

 二葉の口が薄く開く。


「薫、俺と外国に行かない?」


 二泊三日の旅行に行かない? と同じ抑揚で、二葉は突飛な言葉を口にした。いつ? どこへ? なんで? 胃に逆流して消化しきれない疑問が藍田の喉元で渋滞を引き起こす。総括して「なんで?」という返事をしたが、訝しげに歪んだ顔は隠せなかった。

 二葉は膝を抱え、体を揺らした。電源を切られたままのデスクトップの画面が二人を大きく映し出していた。


「そうした方が、今よりもうんと良い気がするんだ。環境としても、選択肢はたくさんあるし……外国のどこか、自然豊かなところに行こう。薫は海と陸地だったらどこが近い方がいい……?」

「待ってよ。旅行の話? まさか、住むとかそういう」

「そうだよ、移住の話」

 夢のまた夢のような提案だった。

 藍田は頭を抱えそうになったが、しかし、それは存外、悪くない夢のような気もしている。どうせ、将来もなにもないのだ。それなら、なにもないところで白いキャンバスだけを埋める作業をしていたい。そうすることができたら、どんなにか幸せだろう。──目の前の、美しい被写体を連れて。

「おれ、英語しか話せないし、パスポートも……」

「言語は現地でいくらでも覚えられるし、パスポートのことは俺に任せて! 薫はなにも心配しないでいいんだよ。こんなふうに話していると理想を語っていると思われるかもしれないけど、ずっと考えていたことなんだ。ずっとっていうのは、薫の絵を初めて見た日からで……」

「じゃあ、おれがどう答えるかも、“わかってる”?」


 二葉はぽっかりと藍田を見たあと、祈るようにして手指を組み、首を横に振った。


「わからない……わからないから、ドキドキしてる。薫の絵を待っているときみたいに……わかる? 良い意味で緊張してるんだ。だって、どうあっても、俺は薫の第一人者でいようと思うからね」


 その事実だけは、どうあっても覆らない。藍田は堪えきれなくなって、息を吹き出した。大声を出さないように腹筋を丸めながら、肩を震わせて、膝を折ったまま倒れ込む。暗闇にいた心の、奥底から笑えていた。

 なんて愚かな男なんだろう。彼ならいくらでも人生を操れるのに、絵が描けるだけの人間のためにその全てを棒に振るのだ。自分より要領の良い天才が、自分より秀でた容姿に恵まれた人が、破滅的な選択をしている。


 取り返しがつかない。取り返しのつかない破滅は、どちらかが欠けていれば起こらなかった奇跡だった。


「……アメリカがいいな」

「ほんとうっ?」

「うん……田舎の、辺鄙なところがいい」


 想像してみるとまったく悪くない。銃規制のない国は日本より安全とは言い難いかもしれないが、誰もいない土地でキャンバスが入るくらいの古い家を買い、二人だけで過ごす日々はいつ終わりがおとずれても惜しくないような気がした。

 頬に色素の薄い髪がかかる。二葉は四つん這いになって藍田の髪を掬った。次第に彼の顔が近づき、不意に重なった唇からは、砂糖の甘さが広がっていく。どちらかが珈琲を飲んでいればよかった。そう思っても、もう遅い。


「薫、俺のこと、好き?」


 天使の翼を剥いでその羽を頭上でばら撒くような、そういうふうに破顔した二葉の顔は、いつか、殺してやろうと思えるほど、愛らしかった。


「二葉はおれの理由だよ」口にした途端、それが本心だとわかった。「描くための理由だ」


 学ランとシャツの間に二葉のしなやかな手が入り込む。決して素肌には触れず、彼の指先は丁寧に白いシャツの皺を伸ばし、時折、爪の先がボタンの隙間に引っかかって、彼はそのたびにおそろしいものでもみるような目で藍田を熱っぽく見つめた。

 氷の表面をじっくり溶かすような手触りを、そのまま素描できたらと思う。下腹から沸騰するように這い上がる性欲は指先にまで気泡を燻らせ、それは殺意的な意欲へと転換する。

 折ってしまいたいと掻きむしっていた情感は、どこにもなく、描きたいという膨大な欲が藍田の五臓六腑を埋めていた。


 右腕を伸ばし、二葉の首に手をかけると、彼は望んでいたように微笑んだ。


 とてもいいものが描ける。一等星に似た輝かしい確信が、細胞一つ一つを線香花火にして爆ぜていく。そのモチーフは、しかしうつくしい彼ではない。


 解像度をもっと上げる必要があった。銃が手元にあったらいいのに。頭痛がして、藍田は虚空を見た。



◻︎

 


 十八時になって、ようやく二人はネカフェを出た。雨は止み、底冷えする風ばかりが乾きたての髪や肌を鋭利に刺激する。


 バイトに行くつもりでいたが、二葉はなにかを考える素振りを見せて通りに出たところでふと足を止めた。後ろにいた藍田も必然的に立ち止まる。


「……バイトは?」


 痺れを切らしたふうに口を開いたが、藍田の声はかすかに上擦って跳ねていた。他を抜かしてもぜひに今日は描きたい気分だったのだ。いいものが描ける。高揚した意欲はぐつぐつと煮えている。この燃料を発散させたなら、どれほど爽快な心地になるだろうと今から楽しみで仕方がなかった。

 二葉に今日の絵を見せたら、きっと、絶句してしばらくはそのクロッキー帳を手放さないだろう。想像できる。想像できるなら、それは叶う。藍田は奥歯を噛み締め、落ち着かない心臓と口角を抑えた。

 彼は振り返り、監視するように藍田の頭から足先までを眺めて


「ううん、今日はやめておこうと思って」そう、言った。


 ずっと手を繋いでいた相手から、急に崖の下へと突き飛ばされたみたいだった。藍田の口から「えっ」と声が出た。まさか、よりにもよって今日を取り上げるなんて。二葉の突拍子もない言動は今に始まったことでもないが、それでもこれは予想できなかった。あの二葉が、自分の絵を見なくてもいいという選択を取るとは思いもよらない。

 藍田は無意味に口を開閉させて、学ランの袖を巻き込みながら拳をつくった。


「ど、どうして? おれならもう平気だよ。寒くもないし……」


 他になにがあるだろう。彼がバイトを諦める要因は、他になにが。時間だろうか、体調が芳しくない? わからない。藍田の視線は地面に伝う出血を辿るようにして下に向いた。

 ──もしかして、自分の他にも尊敬する画家でも見つけたのか。


(いや、誰の絵を好きになろうが、それは二葉の勝手だ。その画家の画風が、おれと似ていればさらに良い。でも、でも、おれ“より”才能のある誰かに心が向かれるのは、ああ、こんなに辛くて痛い)


 視界に彼の靴先が入り、顔を上げようとすると温かく柔らかい感触が首筋を包み込んだ。触れてみると、それはカシミア素材の上等な黒いマフラーで、面前の二葉は温容に藍田を見つめていた。

 彼は、藍田の燦然と照りつく高揚に気づいている。わからないはずがない。わかっていながら、手放そうとしている。


「薫はなにも問題じゃないよ。俺の都合が悪くなったってだけ。とても残念だけど……」濡羽の瞳の奥に強い力が凝縮した。「ほんとに残念だけど、……」


 その言葉に嘘はない。それがわかっただけでも妥協すべきだろう。藍田は「わかった」と早口に言って、物分かりのいいふりをした。こうなれば一刻も早く二葉とは別れてしまいたかったが、彼はまだマフラーを掴んでいて、藍田を解放する気配が見当たらなかった。期待を持たせるようなことはやめてほしい。

 藍田は「それじゃあ、またね」に繋がる言葉を探した。


「マフラー、貸してもらえるのはありがたいけど、そんなに寒くないし二葉が巻いたら」

「あ、いや、それ、薫にあげるつもりだったんだ。その……スタンガン使ったときに首に怪我させてしまったの、ずっと、なにか償いたくて」

 別に気にしていない。それでも、藍田はぐ、と堪えて「ありがとう」と句点を打った。

 それじゃあ、またね。それ以外が許されない空気を生んで、二葉を見据える。彼は名残惜しそうに眉を下げていたが、手はやがてマフラーから離れていった。


 その手はそのまま藍田の両手を掴む。二葉は藍田の両手を引き、すっぽりと胸の中に彼の体をおさめた。生乾きの匂いが藍田の鼻腔をくすぐった。


「うう、心配だよ。一緒にいてあげられたらよかったんだけど……家に帰って、もしなにかあったら俺に連絡して。必ず、ね、必ず」

「……うん」


 抱擁が終わると、今度こそ「それじゃあ」と言って互いに別れた。


 抱きしめられても、キスをされても、鮮烈に燻る熱は発散できない。家に帰って、なにを描こう。大きな作品のために構想を練ってみるのもいいが、今は手数を増やせる資料がほしかった。

 身を焼くような脳内に、一撃を与えたい。

 あと一歩、あと半歩の救いが掴めない。

 暗澹と冷え切った夜道を歩いているのに、網膜の裏は真夏の陽炎を映していた。青々とした草木、野花の咲いた庭、野生動物がたまに顔を出して、息絶えたうさぎが横たわっている。それを、窓辺からスケッチする。誰も自分の存在を知らない場所。

 夜になれば、空に星の群衆が見える。


(アメリカのカンザス州、ネブラスカ州、あとはどのあたりがいいだろう)


 閃光のような街灯の光が視界を覆い、コンクリートの砂利を踏んで、藍田は現実に引き戻された。は、と息を吐けば、白い靄が絹のように揺らいで立ち上る。洋館地味た一軒家が見えてきて、一度身なりを気にする。学ランのおかげで土汚れは目立たないが、靴下やシャツの汚れは隠せない。


 マフラーを口元に寄せ、その中でもう一度息を吐いた。温かい水蒸気が唇を掠め、新品のデパートの匂いがした。その温度は足の重さを軽減してくれるのに一役買ったようで、藍田は踵を引きずりながらでも家の前にまで歩いて行けた。


 見上げて見る我が家は洋館というより要塞のように重苦しく、奈落の底にも思えた。


 冷たいドアノブを握り、ドアを引く。その荘厳な木製の扉が今日に限って異様に重い。開けるなと言われているみたいに、ギィィィィと軋んだ音が鳴る。

 鬱蒼と暗い廊下に、奥に続くリビンングの灯り。家の中は死んだように静かだった。夢の中だろうか? と少しばかり惑うが、ここが現実であることは二葉が家の中にいないことでわかる。こんなに音が生きていない家の中は随分と久方ぶりな気がした。


 両親の分の靴だけがあり、正のものは見当たらない。誰もいないという肌触りと誰かいるという得体の知れない感覚が背骨あたりに同居している。靴を脱ぎ、床を踏み締めると建て付けの悪い音が大きく響いた。口を開けたままのリビングに少しずつ近づく。それは、巨大な額縁に近づいていくのと同じようでもあった。美術館ではここからここまでという敷居があるけれど、この家にそんなものはない。……あの金庫を除いては。


 視界の端に、母の後頭部と腕が見えた。椅子に深く腰をかけているのだろう。なにか、水滴が落ちる音も聞こえてくる。よく耳を澄ませていないと聞こえないぐらいで、その音は水より軽いものではない。


「母さん? 父さん?」


 迷子を自覚していない子供のような声が出た。はぐれたのは両親であって、自分ではいない。空虚ではあったが、地に足はついていた。

 返答はない。しかし、これはいつものことで、藍田は「また無視されちゃった」と気にせず歩を進めた。

 白いタイルが見える。椅子の背もたれにぐったりと後頭部を垂らして座る母の姿があった。右足をもう半歩ほど前に進めると、油を踏んだような不快感が靴下の裏に伝播される。

 藍田は緩慢に視線を下にやった。



 黒光りする血が、母親の座る椅子からダラダラと広がっていた。



 ぐで、と脱力した母の腕を伝い、五本の指から赤い雫が滴っている。虚ろに半開きになった目と目が合う。母の顔をまともに見るのはいつぶりだったか思い出せないほどで、こんなにシワがあったのだと場違いに驚いた。母の細い胸は真っ赤に染まっていた。藍田は白紙になった心で、ああ、この出血ではもう助からないなと漠然と思う。

 奥に進んでいくと、父も突っ伏して床に倒れていた。背中から血が広がり続けている。白いシャツを着ていたおかげか、肩甲骨、背骨、脇腹付近に刺し傷が見えた。

 父のそばにしゃがんで、耳を近づけた。隙間風より細い呼吸が聞こえる。父も、もう間もなく死ぬだろう。


(死ぬ、死んでいる。父さんと母さんが、親が、目の前で)


 藍田はゆっくり立ち上がり、遠近を測るようにして何歩か後ろに下がった。父が座っていたであろう椅子だけが倒れていた。激しく争った形跡はない。最初に殺されたのは母だったんだと推測できる。探偵よろしく、彼は口元に手を当てがって全体像を概観したが、それは探偵というよりかデッサンを俯瞰して見ているのにもっとも近かった。

 腕を伸ばし、両手の親指と人差し指で長方形の窓を作る。そこに二人の亡骸を入れた。片目を瞑り、照準を合わせる。


(……あと、もう一つあったら、とても“いい”。とても、とても)


 心臓だけが大声をあげていた。悲鳴をあげていた。錯乱していた。それらは痛みとして爪痕を残すのに、その痛みを藍田はまったく感じられていなかった。

 血で汚れていない四隅の端にスクールバッグを置き、浅い呼吸に急かされながらクロッキー帳と筆箱を取り出す。描かなければ、描かなければ。今日こそはいいものができる。描かなければ……


「────薫?」


 鳩尾が竦む。どれだけ無視したくとも、長年痛めつけられてきたこの体は、その声を無視できなくなってしまった。軍人のように、犬笛のように。


 藍田は音を立てないようにして、背後のリビングの入り口に立つ正を見上げた。


 ビニール手袋をしたその右手には、血がベッタリと付着した包丁が握られていた。くたびれた灰色のスウェットに、乱れた髪。「薫?」ともう一度呼ぶその冴えざえとした目には、正気があった。両親を殺したときも、正気だったのだろうか。わからない、わからないけれど、正は、正気のまま血まみれの包丁を握り締めている。靴を履いたまま、茫然自失と藍田を見つめ、彼は口角だけで微笑んだ。

 藍田はしゃがんだまま姿勢を崩さず、棘のような唾を飲む。心臓の鼓動だけは依然としてうるさかったが、感情それ自体は朝焼けのように凪いでいた。


「……正兄さん」

 そう呟くと、正の足が一歩前へ出た。

「薫、なあ、聞いてくれよ。この……このクソ野郎共、いったいなにをしでかしたと思う?」

「正兄さ、……」

「なにを、していたと思う?」


 一歩、一歩と正の影が大きくなっていく。(なにを? 医療過誤のことだろ)そうだとは思うが、藍田は調子を合わせるようにして「なにをしていたの」と無知なフリをした。

 しかし、これがいけなかった。

 正気だった兄の目にドラッグの手が伸び、瞋恚の炎が爆発した。


「てめえはとっくに知ってんだろうがよ! 長期的な医療過誤に、違法な実験をこいつらはしてたんだって、てめえがそう書いたんじゃねえか!」


 後半に続いた言葉を、藍田は咄嗟には飲み込めなかった。違法な実験など、なんのことだがちっとも見当がつかない。それが本当の話なのかもわからなかった。正の手に握られた包丁がブルブルと震える。混乱した頭で、藍田は踵を擦って後ずさる。


「し、知らない、なんの話だが、おれには」

「とぼけんじゃねえ」正は唾を吐きながら言った。「お前が書いたレポートのせいで、あの病院に調査が入ったんだよ」

「おれがなにを書いたって……」

「『クローン細胞の有用性と危険性について』実験方法やその成果、過程を詳細に明記して、挙句には馬鹿正直に出典元をあの病院と総医学会に絞ったろうが。まあ、見事だったよ、おかげでこいつらのやってきた悍ましい悪事が露呈したんだからな」


「俺も、俺だって、あんな、あんなレポートの質疑なんて答えられるわけない……」正の目に戦慄が浮かび上がる。包丁を持った手で頭を掻き毟り、額にビニール手袋の血が跡を引いた。

 もう、終わりだ。すべての状況がそう物語っていた。“こう”なることを、二葉は見越していたに違いなかった。。


『家に帰って、もしなにかあったら俺に連絡して。必ず、ね、必ず』


 藍田は反射的にスクールバッグへと手を伸ばしていた。「お前のせいでッ!!」というヒステリックな怒号が同時に降り注ぎ、藍田の体は反射的に強張り、身を丸めて目を瞑った。携帯が白い床に落ちる。けれど、予想していた痛みも、血も出なかった。

 視線を上げると、正は包丁を中途半端に振り上げたまま、ぼーっと虚空を見つめていた。電源プラグを急に抜かれたかといったふうに。

 しかしそれも一瞬のことで、正の目は直きに藍田を捉え、縋るように、あるいは、押さえ込むようにして正は藍田のそばにしゃがみ、彼の両肩に手を乗せた。凄まじい力が掌にこもっていた。


 喉が干上がる。正の目はまた正気に戻っていた。


「いや……違う、違うんだ。ああ、怖がらないでくれよ、だからさ、とにかく俺が言いたいのは……遅かれ早かれ俺たちは“こう”なっていたわけだ。こいつらの腹から産まれたのが運の尽きってことだよ、俺たちは被害者なんだ。薫、これからは二人で頑張って生きなくちゃあ、いけないんだよ」


 黒い髪、焦茶色の瞳、その目に映る肌色の髪、緑色の瞳。兄とも両親とも似ても似つかない相貌。それでも、今、正の目には初めて藍田が“弟”として映っていた。

 愚かにも、それがどうしてかとても嬉しかった。愚かにも────


「正兄さん、あのね、レポートの話なんだけど。あれは、本当は」

「だから、薫、俺たち逃げよう」


 そう言って、正は藍田の両手に包丁の柄を“握らせた”。


 真っ赤な刃に反射する自分を見据え、藍田は手元に視線を落とした。硬質な感触が、指先と掌を圧迫する。判を押すように、深く、深く。

 ビニール手袋が被さった正の手はもちろん、包丁の柄に指紋など残していない。この包丁に初めて指紋を残したのは、今しがた、自分だけとなった。


(ああ、俺“たち”なんて嘘だ)


 血液が音を立てて引いていく。

 この家から出れば、藍田はどこかの段階で警察に売られる。兄は、両親を殺し、弟を売っておきながら、被害者と名乗って生きていくつもりなのだろう。彼はそういう奸策に長けた人間だった。忘れていたわけではないが、懲りずに期待してしまった。夢を、見てしまった。

 腕を引っ張られ、藍田は引きずられるようにして立ち上がった。接着剤でも塗ったくったみたいに、包丁から手を放せなかった。椅子に腰をかけた母、床に突っ伏した父、デタラメのように広がる赤い血がワインの色にも似ていて、殺戮というより、酒池肉林のようにも見えた。


 廊下に続くリビングの口が近づいてくる。額縁の外に出てしまう。そうなってしまったら、戻れない。白い床、血の赤、視線誘導に最適な二人の人物、光源は一つ。この場所がキャンバスの上だった。

 キャンバスの上では、すべてが自分の望むとおりにできる。


 まだ、描けていない。完成されていない。あと一人足りない。


「薫、俺には、もうお前だけだよ。お前が、俺の唯一の弟であってくれてよかった」


 正は振り返って、兄の顔で微笑んだ。

 その落ち窪んだ瞼、削がれた美貌を見たとき、藍田は星が生まれたような衝動に呑まれた。なにもかも、上手くいく。雲間から降り注ぐ光は陽の光などではなく、さんざめく星々の光だったのだと、今になってようやく気づいた。二葉の目の奥にある光。凝縮した光輪。救いはずっと手元にあり、それを握り返せば、歓びはすぐに訪れるのだ。


 一際鋭い頭痛が神経を襲い、藍田は瞼を痙攣させたが、それはほんの一瞬の雷撃で、次に目を開けるときにはまるで晴れやかな心地に変わった。翼が生えたように、体は軽く、蟠りもない。これからのことを思うだけですべてを愛せた。

 掴まれた腕を振り払うと、正は驚いたように目を丸くする。暗い廊下を背にして、彼は空洞でも見るような顔をしていた。

「正兄さんっ!」藍田の声は、家の隙間を埋めるほど遠く響いた。


「おれも、兄さんがおれの兄さんでいてくれてよかった……!」


 心からの幸福を滲ませて、悪意を知らない少年のように相好を崩す。季節外れの桜が咲いていた。燃えるような色で、轟々と、咲き誇っている。


 両手を胸の前で力強く組み、藍田は正の腕の中に勢いよく飛び込んだ。


 二人分の影が重なる。あまりに勢いをつけすぎたせいか、二人は体幹を崩し、そのまま後ろに倒れた。「え?」という空白の声が漏れ、正はありえないものでも見るような眼差しで、自分の胸に深々と刺さった包丁と急速に広がっていく赤い染みを眺めた。薄い刃が上に向いているのを僅かに見て、それからついに彼は悲鳴にも似たひしゃげた声を上げて藍田を引き剥がした。


 ズル、と粘着質な糸が引いて、藍田は尻餅をつく。握り締めた包丁は真新しい血液で濡れ、藍田の手も墨汁を垂らしたようにてらついていた。

 正は芋虫のように体を蠢かしながら、空いた穴から溢れる血を掻き集め、自分の体内に戻そうと必死だった。藍田が立ち上がると、彼は「おまえっ……、おまえッ!」と目をひん剥いて後退る。両足をばたつかせてはいるが、夥しい出血の恐怖で上手く立ち直れていない。


「そんな人間じゃないって思ってくれてた?」空虚だった。平坦な抑揚で、蛹の抜け殻みたいな言葉ばかりが藍田の口から出た。「でも、正兄さんは被害者になりたかったんだろ? それじゃ、しっかりしなくちゃ……」


 血の轍が流れる。正は這いつくばって廊下に向かった。酸苦に喘ぎながら、その敷居に手を伸ばす。藍田は正の背中に跨り、それ以上の進行を引き止めた。両手で持った包丁を振り上げると、彼は赤ん坊のように「あーっ、あーっ」と喚き散らした。

 声を出し、暴れれば暴れるほど、血が見える。膝に生温かい感触が染み込んだ。


「……おれ、ちょっとも兄さんのこと恨んでないよ。ちょうど一人足りないなって思ってたところなんだ」


 包丁を、左肩甲骨の隣に振り下ろした。


 生の鶏胸肉にフォークを突き刺したときと似ている。一突き、一突きとするたびに力と体力を消費する。びくんと腕が跳ね、声はもう出せないようだった。粘り気のある液体が周囲に飛散し、正の灰色のスウェットが黒一色になるまで、藍田は手を止めなかった。

 肩に刃を埋め込んだとき、マフラーがするりと滑りそうになって、初めて藍田は包丁の柄から手を離した。もう少し体力を作っておけばよかった。肺で大きく呼吸をし、痺れた足を叱咤させて立ち上がる。体に這っているものが血なのか汗なのか、わからない。凍えるように震える手をズボンの側面に押し付け、乱雑に血液を拭き取る。


 藍田の荒々しい呼吸以外、音はなかった。静かな無音、この家のあるべき沈黙が蘇っていた。


 右足を引きずり、今度こそスクールバッグのそばにあるクロッキー帳と筆箱を手に取る。全体像を見て、藍田はもう一度正の元に行き、その亡骸から包丁を抜き取って彼の体を仰向きにさせた。見開かれた目、濁った瞳孔に、血の痕がある。最高の被写体だ。

 満足して、藍田は部屋の隅から隅までを概観し、今度はどのアングルがいいかを模索した。正の周囲には血痕と靴の跡が残されている。思えば、ここに入ったとき、靴の跡は見当たらなかった。藍田が帰ってくる前に拭いたのだろう。わざわざ、すべての責任をこちらに被せるために。


 両手の人差し指と親指で作った窓に構図を当てはめつつ、理想の角度で胡乱だった足を止めた。

 クロッキー帳を開き、藍田はその場に座り込む。このキャンバスをそのまま紙に落とし込めばいい。簡単なことだが、高揚と緊張と恐れが指先に宿っている。汗を拭っても、その心境は変わらない。

 深呼吸をして、白い世界に木炭の先を添えた。


 あとにすべきことは、体が覚えている。





 クロッキー帳から何枚も紙を切り離した。そうしないと画面に収まりきらなかった。


 血痕を避けながら、床に紙を継ぎ足し継ぎ足し繋げて、最終的にF20ほどのサイズにまで広げて描いた。四つん這いになり、時折、立って全体像を見比べる行程を繰り返す。

 藍田の手は今や肌の色と黒と赤に塗れていた。輪郭を引くたびに、巨大な充足感が胸をいっぱいにさせてくれる。しかしそれはほんの氷ほどの持続力にしか至らず、描いているうちは麻痺したように歓びに満ち溢れるけれど、ふとした瞬間になにかが物足りなくなる。


 なんのためにこんなものを描いているのだろう? そういう正気が間欠的に浮かんでは、描かずにはいられないからという酩酊に沈んでいく。


 生き絶えてはいても、両親の前で絵を描いているというのは奇跡のようだった。怒られず、怪訝な目で見られず、排斥もされない。溜息も聞こえず、否定も肯定もされない。死人は話さない。

 その沈黙こそが現実であり、絵の中の家族の姿だった。

 手首から上の節々はすっかり腫れ上がったみたいに鈍痛が付き纏い、頭と目の疲労は比例して重怠くなっている。藍田は力無く立ち上がり、兄の血を親指に付着させた。それを、絵の中で横たわる家族一人一人に擦り付ける。


「……できた……」


 この空間を丸ごと移し替えたような画面を眺め、これ以上にないという見切りをつけて藍田は鉛筆を置いた。

 初めて、思いどおりに描けたという手応え。体は熱帯夜のように煩わしかったのに、心は雪がれたように生き生きとしていた。指先が小刻みに震える。神様が授けてくださった愛が、ついに自分だけのものになったのだ。

 

 素晴らしい。素晴らしいと、言えるだろうか? 満足はしているけれど、自分の目では評価など到底できなかった。この“これ以上にない”という作品も、明日になれば貶したくなっているに違いない。


 藍田はぼんやりする頭で辺りを見回した。机、椅子、台所、死体、全てがあの森林に見える。強烈な白い光は懐中電灯の灯り、その先を見ると、そう、いつも二葉が下手なピースサインを向けてくるのだ。今も……


「二葉……?」カラカラに乾いた喉が擦れる。「二葉、描けたよ……見てよ、きっと、きっと驚くだろうから……」


 藍田の視界がぐるりと反転し、驟雨のような眠気が急激に瞼を下がらせた。藍田は膝を着き、寒くもないのに体が凍えていくような錯覚に身を横たえる。肌触りのいいマフラーを握りしめ、視線の先にある絵を見守った。

 何時間描いていたのかもわからない。歓びが果たしてこんなものなのか、救いはあるのか、手は温かな温度で汚れるばかりだった。


 次に目を覚ます頃には、地獄にいるだろうか。

 死にたくはなかった。人を殺しておいて、死にたくはないと思う。まだ、今は死ねない。二葉命、あの男の死に顔を描くまでは、決して、決して。


(……死ねない)


 意識がその糸を手放した。


◻︎



「連絡してって言ったのに」


 眠っていたのは、五分か一分にも満たないように感じた。スッと迫り来る灯りに瞼を押し上げると、絶景の美貌が藍田の目睫に広がった。

 長い睫毛に守られた黒い瞳孔が揺れている。藍田は肺に深く酸素を送りながら、目の前の男の顔を信じ難い気持ちで見上げていた。

 白い指先が藍田の前髪を優しく梳かす。


「……二葉」

「おはよう、薫」


 そう言って、二葉は嫋やかに笑った。いつの間に? どうやって家の中に? 混乱する頭に疑問は尽きない。

 柔らかいとはお世辞にも言えなかったが、後頭部は人肌の温もりに支えられていた。藍田は首を動かして右見左見し、自分がまだ家にいることを悟る。

 二葉は正座のまま上半身を折って、卵を守る鳥のように藍田を両腕で包み込んだ。その羽毛の体温に積み重なった懐疑的な思考はドロドロと溶けていく。彼は制服のままで、今に学校へ向かうといったふうだった。柔軟剤の香りがした。


「ボロボロになっちゃったね」と、彼が言う。「それでも、俺はこんなに君が好きでたまらないんだ。薫のためなら、なんだってしてあげられる」


「わかってくれるよね」その声に、無音の雫が藍田の頬を伝って滑っていく。透明だった液体は途中で淡い赤を拾い、二葉のズボンに丸い跡を残す。

 憎しみより安堵が勝り、両腕を伸ばして藍田は二葉を抱き締め返した。


「……おれ、描けたよ。ちゃんと、家族の前で」

「うん。知ってる。上手くいってよかった」

「絵は見た?」

「みっ、見てない。本当に、頑張って見ないようにした」


 二葉は上半身を起こし、慌てたように首を振ったあと「……見せてくれる?」と微笑んだ。藍田は頷いて、ゆっくりと体を起こす。それから二葉も立たせて、すぐそばにあった絵を見せた。継ぎ接ぎに重ね合わせた一枚の絵画。現実よりも惨状を物語る素描。

 二葉は口元に手を当てがい、ふらふらと絵のそばに歩み寄る。絵の中にある悲惨は目の前にあるというのに、二葉の目にはもう藍田の絵の光景しか映っていなかった。


「まだ、完成というわけではないんだけど」

 藍田は両手を組み、絵の前で跪く二葉の姿を見下ろした。

「これをベースにきちんと一枚の絵として描こうと思ってる、……」


 そう言うと、彼は震えた声で「これ以上に?」と呟いた。その言葉こそが、二葉からの絶大な評価なのだと充分に肌で感じられた。


(もちろん、おれの集大成は、二葉、お前で終わるんだよ)


 無垢で輝かしく、眩しいばかりの美しさ。そこには根拠も意味もなにも存在してほしくなかった。赤い血が、ただの赤血球の集合体であるかのように。けれど、二葉の美しさには宇宙のような意味が存在していた。

 月光の向こうには月があり、月には砂があり、その周りには惑星や星の欠片が浮遊している。彼の美しさにはそうなり得るための要素が息をしている。


 彼が、死ぬまでその輝きは失われないのだろう。


「一番に見られるよね?」

 視線を下げると、二葉がこちらを見上げていた。

「なに……?」

「薫の絵、これからも、俺が一番に見られるよね」

「二葉以外に見せる人も、もう、いないよ」

「うん……うん。ああ、でもね、薫が描いた絵はやっぱりいろんな人に見てもらいたい気もする。この絵が人を狂わせるなら、それは素敵なことだと思うんだ」


 魔性だからね、薫の絵は。


 彼はそう言って、血と木炭と鉛で汚れた藍田の手を引くと、兄の死体を跨いで廊下に出た。玄関のドアは開いていた。鍵は機能しておらず、靴箱の前にスーツケースとスクールバッグ、スーパーのビニール袋が置かれている。

「体、洗わないと」と言って、彼は廊下を左に曲がり、教えてもいない浴室の扉を開けた。藍田はなす術もなく唯々諾々と彼のすることなすことに従うしかできなかった。

 マフラーをほどかれ、学ランのボタンを丁寧に外される。シャツもズボンも無造作に床にばら撒かれた。ふと、洗面台の鏡に映る自分を見て、藍田はそのひどい顔に薄らと嗤う。水槽にへばりついた藻のような緑色の目、乾いた血に張り付いた淡い髪、隈は試験勉強前より酷なものとなっている。


 ブレザーだけを脱いだ二葉が背後から藍田の頬を包み込んだ。鏡に二人の顔が並んで写る。


「きれいだ」

「際立つね」

 二葉の賛美に皮肉を被せる。が、二葉は満足そうに口角を上げていた。鏡の中の彼はさらに極上の笑みを浮かべている。

「そのために、俺がいますからね」二葉が言う。「俺は、薫のスポットライトであり、鉛筆でもありたいんだよ」


 最後に頭の包帯を取り、浴室に入ると、藍田は全身をくまなく洗われた。

 兄しか使えなかったシャンプー、リンス、ボディソープ、全てを惜しみなく使われる。前に、使ってもないのに使っただろと責め立てられ、腹部を青くなるほど蹴られた思い出がある。リンスを必要以上に出し始める二葉に、「あの」と思わず声が出て、それから、ああ、もう気にしなくてもいいのだと口ごもる。泡まみれになりながら、二葉は藍田の指先に何度も唇を当てがった。


 殺人を犯すと、往々にして血のついた感触が忘れられなくなったり、包丁の硬さ、肉を刺した感覚が忘れられなくて擦り切れるまで手を洗う人がいるようだけれど、幸か不幸か、藍田にその片鱗はなかった。

 どちらかといえば、二葉が藍田の手を念入りに洗っていた。その手は驚くほど熱かったのに、当の本人は涼しい顔を装って藍田の体に触れている。


 跪いて足のつま先を洗う二葉の手を振り払い、藍田は足で彼の胸を軽く蹴った。「あ、いたっ」と言って、彼は後ろに転ける。


 なにもわかっていないような顔をした男の胸板から下腹までを足先でなぞった。爪先が通った部分の面積だけ肌に張り付いて、彼の肌色が透けて見えた。

 そのまま、下へ、下へ下げて、足の指先が股間に触れそうになったところで、彼は藍田の足に縋りつき、切実に顔を赤くしながら「……あいしてる」そう囁いた。


「愛してるんだ、俺は薫のこと、……」

 藍田はしばらく無感動に黙っていたが、水滴の落ちる音で口を開いた。

「おれが、ひどいことしても?」

「していいよ」

 あまりにあっけなく言うので、藍田は堪えきれずに笑ってしまった。笑うと、ささくれがようやく剥けたみたいな、痛みと爽快の狭間に揺れる。声が、浴室に小気味よく響いた。

「二葉は、こうなるってわかってたの?」

「……こうなってほしかっただけだよ。あの愚兄があそこまでしたのは驚いたけど、薫が絵を描ける舞台装置になってくれたんだったら、それでいいや」

「ごめんね」そう言って、藍田は続ける。「蹴って、ごめん。痛かった?」


 二葉は仰望するように藍田を見つめ、彼の膝に頬を擦り付けて静かに首を振った。


「ちょっとも、痛くなかった」



 髪を乾かされ、下着を履き、タオルに包まったまま着替えを自分の部屋まで取りに行く。厚手の黒いパーカーとジーパンを着て下に戻ると、台所では二葉が食パンやカットレタス、ハムをビニール袋から出しているところだった。

「今、何時?」と訊けば、「朝の五時。朝ごはん食べようよ」と返ってくる。


 全てを用意させるのも申し訳なくて、藍田も冷蔵庫から卵やマヨネーズ、マーガリンなどを取り出して二葉の隣に並んだ。「ありがとう」「うん」「卵、いっぱい使っちゃお」「うん」そうやって肩を並べたはいいけれど、家庭科の授業以外で料理などまるでしたことがない。

 木偶の坊みたいに立ちすくみながら、藍田は自分のできることを最大限に探して、六枚切りの食パンが入った袋をひとまず慎重に開けた。

 隣では二葉がIHのコンロをいじくっている。壁に引っ掛けてあったフライパンを乗せ、藍田はすぐに菜箸と器、それから卵のパックを二葉の目につくところに置いておいた。


「パン、トーストしてマーガリンたくさん塗りたい」

 鼓膜の外で二葉がそう言うのを聞いていた。なにも考えずとも、藍田はパンを二枚ほどトースターにかける。

「マーガリン、好きなの」

「つい最近にね、好きになった。母さんが、マーガリンは毒だからって食べさせてくれなくて。スーパーで売ってたマーガリン入りのパンを買って食べたとき、すごくおいしかったな」

「これ、高いやつだからもっと美味しいよ」


 ジーとトーストの音が唸り、二葉は卵とマヨネーズを合わせて溶いて、フライパンを温めていた。この空白に、役割を見つけられない。薄切りのハムやカットレタスの袋を時間をかけて開けながら、藍田は無為に台所の白い壁を見ていた。


「一週間後にさ、アメリカに行こう」

「え?」

 唐突な話の転換に、藍田は壁から二葉へと視線を移した。

「それまでは俺の家にいてもらうことになるけど、準備して、あとは現地に行けばなんとかなるよ」

「でも……」

「薫はなにも心配しないで。なんだって、上手くいくから」

 ジュウウウと卵が美しい黄色の襞を描く。トースターからも音がして、出来上がったトーストと新しい食パンを入れ替わりにセットした。

「バイトは? あれは、辞められるものなの?」

「事情を話したら、斡旋してくれたんだ。向こうでも同じバイトが続けられる」


 辞める気はないらしい。藍田は色々な懸念を飲み込んで「そっか」と細く呟いた。二葉に言われるがまま、標準以上のマーガリンをベッタリ塗ったくって、そこにレタスやハムや卵をふんだんに乗せる。香ばしい匂いが食欲を刺激した。麦茶をグラスに注いで、それを二葉にも持たせた。

 包丁のいらないサンドウィッチを両手に、テーブルへと移動する。血を踏まないようにするのに随分と苦労した。漆のダイニングテーブルの先端には母が座っていて、それを避けるような形で、二人は向かい合って座った。二葉の足元に突っ伏した父の指先が当たる。靴下に血がつかないよう、二葉は左足を組み、彼の表情は幸福そのものだった。


「あったかい」手元にあるサンドウィッチの香ばしい食パンを圧迫して、藍田は口をこぼした。

「出来立てが一番うまいよ。これから、朝食は出来立てを一緒に食べよう。テーブルは……」そう言いかけて、二葉は無味乾燥と三人の死体を見渡した。「もう少し狭い方がいいかな。こんなに、いらないや」

「二葉」

「ん?」

「……ありがとう」

「俺が薫のために生きるのは当然のことなのに。ああ、泣かないで、薫」


 ベトベトしたマーガリン入りのサンドウィッチを、二葉は早くに食べ終えた。美味しい、美味しいと言っていた言葉は存外大袈裟なものではなく、確かに軽く食べられてしまうものだった。こんな良いものが冷蔵庫にあったんだなと、ぼんやり思う。


 食事を終えてからは二葉が慌ただしく動いた。携帯で藍田の絵を撮り、藍田に「よく撮れてる。生で見た方が何倍もいいけど」と画面を見せてから駆け足で二階に上がる。藍田はその隙に両親の寝室にあるタンスから通帳と印鑑を引き出しておいた。

 しばらくして、黒い金庫を抱えた二葉が下りてくる。大事そうに金庫を抱きしめた彼の目は爛々と汗ばんでいた。


「それ、全部持っていくつもり? やめなよ、新しいやつを数冊だけ抜き取ってあとは置いていこう」

「えっ……? い、嫌だ。どうしてそんなことを言うの?」

「古い方なんて下手くそだし、失敗作ばかりだから。いらない、そんなの、恥ずかしくて見せられたものじゃない」

 辟易したように息を吐くと、彼は頬を強く打たれたような顔をしていた。

「……捨て、捨てないでよ……薫にとってはそうかもしれないけど、俺、俺は、薫の絵がなくちゃ生きていけない。一枚だって、手放したくない。いらないって言うなら、俺にちょうだいよ、俺、ずっとずっと大切にするよ」


 情熱でもあり、恋慕でもあり、憎悪でもあり、狂気のような、二葉の目には一種の白い炎が宿っていた。ともすると、その執拗は創作者をも超える強い光がある。守るように抱き締められた金庫は、自分の心臓のようでもあった。

 救われなかったあの頃の自分が、そこにいる。


「本当に持ってく? 重いよ、それ」

「持ってく。ぜったい、ぜったい、俺の宝物にするんだ……」


 ふうふう言いながら、彼はその金庫を丸ごと自分のスクールバッグに詰め込んだ。彼が、これからなにをしようとしているのかは、深く考えずとも予想がつく。

 藍田は絵を描くのに必要なものが入ったスクールバッグと、二葉からもらった黒いマフラーを浴室から拾い上げて玄関に向かった。しかし、マフラーだけは、二葉に取り上げられた。


「もっと良いもの買ってあげる。これは、置いておいて」


 なんで? と訊きたかったが、藍田は堅く口を閉じて二葉に従った。

 二葉が救世主のように自分のそばにいること、なにもかもを見越したように行動していることを、運命であればと願ってしまうが、事実はそうでないと気づいている。むしろ、すべては“必然”だったのだと。二葉は最短で最善の選択を選んだ。そのレールの上を歩いただけ。

 必要なものを一通り玄関の前まで運び終えると、二葉はスーツケースを引きずってリビングの方に向かった。兄のそばでチャックを開け、黒焦げのなにかを隣に置く。空になったスーツケースはそのままに、二葉だけが戻ってきた。


「あれ、なに?」

「業者の人に頼んでおいたんだ。世界に三人は同じ顔の人間がいるって言うけど、あんなの、嘘っぱちだよ。薫は特別だし……とくに同じ背丈、年齢のやつを見つけるのにかなり時間がかかっちゃった」

 なんでもないように話しながら、二葉はズボンのポケットに手を突っ込み、マッチを取り出した。

「おれって、今日、死ぬことになる?」

「そうなるね。病院の件でもマスコミはしばらく忙しくなるだろうし、そこに一家心中なんて、信憑性があるだろ……嫌だった?」

「ううん。でも、火をつけるのはおれがする」

「あぶないよ、……」

「ここは、おれの家だから」


 藍田はマッチを半ば引ったくるようにして奪い取り、二階に上がった。階段が低く軋み、遺言を述べる。無機質に暗く、血の通わないこの空間に感傷的な後悔など見当たらない。それでも最後に、この家で絵を無我夢中に描き、二葉に洗われて、朝食を一緒に食べた時間だけは、ここが、自分の家だったのだと実感できた。

 良い思い出を遺せた。

 藍田は自分の部屋を開けて、殺風景な四畳半を目に焼きつけた。本棚に並び、机に積まれた参考書、問題集、赤本、資料の束、様々な分野の医学書。そのすべては決して無駄ではなかったし、それらの知識はこれから先も自分を助けてくれるものになる。


 燃やしたところで、価値は揺らがない。


 マッチの箱からマッチ棒を引き出し、赤リンに強く擦り付けた。命のように灯ったとろ火を本棚に放る。一本、また一本と火が勢いを増すまで、藍田は小さな灯火を投下し続けた。


 灰色の煙が部屋に充満し始めたあたりで、藍田は部屋を後にして階段を下りた。玄関に荷物はなく、二葉だけが藍田を待っていた。二葉は藍田を見つけると、小走りに階段の下まで駆けていく。片手に、ブランドのロゴを強調した鍔付きの帽子を握りしめている。それは兄のものだった。もっとも、被っているところなど見たことはなかったが。

「これで隠して」と二葉に言われ、藍田はそのとおりにする。

 言葉は要らなかった。互いに頷き合って、手を取り、玄関の外に出る。黎明の光が瞼を覆う。冬の息吹を一身に浴びて、視界が瞬く間にひらけていくようだった。


 周囲に人はいない、スクールバッグを背負い、早足で住宅街を下っていく。後ろは振り向かず、これから学校に行くといったふうに一般人に紛れる。

 通学路に出ると、学生やサラリーマンがちらほら散見された。そのうちの誰かが「あれ、火事じゃない?」と言う。急かしていた藍田の足が、瞬間的に止まった。藍田を引っ張っていた二葉もかくんと蹈鞴を踏んで歩みを止める。


「火事だ」「黒い煙が出てる」「誰か消防車呼んだ?」「ええ、やばくない?」野次馬の声が気泡のように沸き上がってくる。振り向くと、住宅街の奥で焦げた黒い雲がもうもうと立ち昇っているのが見えた。少しは離れたはずなのに、積乱雲や入道雲のようにその黒煙は巨大だった。


 後ろから学生や大人も問わず、非日常の撮れ高を期待して、我先にと黒煙に近づいていく。携帯を空に向け、SNSに投稿するための刺激を探っている。

 誰かの肩が体に当たり、藍田は半歩ほどよろけた。今、この場で静止しているのは藍田と二葉以外に誰もいない。自分たちが障害物のようだった。


 心臓が奇妙に高鳴る。


 指の間に二葉の指先が絡まり、その温度に視線を戻す。二葉は、魔物がそうするように微笑んで、藍田の手を両手で優しく引いた。足が動き始める。野次馬たちとは真逆の方向へ、二人は逆らって歩き出す。


「……生きていて、よかった」


 夏の嵐のような、冬だった。



◻︎



 ガタン、という大きな音に、落ちかけていた意識がはっきりと息を吹き返す。


 長い夢を見ていたかのようだ。頭を持ち上げ、吹きさらしのベランダに広がる生い茂ったヤードを眺めた。小さな野花に、針葉樹の群れが微かに揺れる。新鮮な空気が、肌色の髪を梳かしていく。

 塗装加工された一枚板のダイニングテーブルには、一輪の黄色いサンフラワーが寂しく天井を見つめている。簡素なペルシャ絨毯が椅子の動きに合わせて歪に皺を描いた。


「カオルせんせ、鉛筆落ちちゃった」


 ハッとして足元を見ると、青い鉛筆が爪先に当たっていて、藍田は身を屈めながらそれを取ってやった。隣で算数の教科書とノートを開いている女の子はサリーという近所にある農場の娘であった。金髪のおさげを尻尾のように揺らして、彼女はにんまりと笑う。


 ────アメリカ、カンザス州東の郊外に引っ越してから、今年で二年目の夏だった。


 ビザや海外転出届、永住権の危ぶまれた問題も二葉がすっかり手を回していたようで、今は耕作地の広がる大地の端に打ち捨てられた一軒家を買い、二人で暮らしている。

 壊れた木のフェンスに、剥離した下見張りの白い外観、人が住んでいるとは思えない建築だが、近隣の住民とは良好な関係を築けている。

 藍田は家庭教師として働き、二葉はカンザス大学へ首席で入学した。医療専攻科、工学、気象学、起業学、とにかくいろんな分野に引っ張りだこで、去年のバスケットボールの試合でもとくに優秀な結果を残している。二年生になった今、二葉は大学の一等星として輝いていた。


「カオルせんせは、イノチとお腹の違う兄弟? なんだよね?」

 そういうことになっている。藍田の苗字も、ここでは“二葉”だ。

「そうだよ」

「みんなね、カオルせんせとイノチは似てないって言うけど、それはね、カオルせんせがきれいなせいだと思うの……」

「おれが?」


 サリーは花柄のワンピースの裾を握りしめながら、口を尖らせて頷いた。二葉が老若男女に好かれるのは当然のこと、藍田は子供によく好かれるタイプだった。家庭教師を始めたのも、二葉に「向いてると思う。薫は線引きができるし、それでいて子供に寄り添って考えられる人だから」と言われたからだ。

 そしてそのとおり、家庭教師という仕事で結構な収入を得られている。


 俯いたサリーのつむじを見下ろしながら、藍田はノートに書かれた問題の答えを覗いた。ケアレスミスが目立っている。


「サリーね、カオルせんせの目、とっても好きよ」

「そう言っても問題の間違いはおまけしないよ。ほら、面倒臭くても、きちんと筆算を用いて答えてごらん」


 彼女は唸りながら渋々ノートに張り付いた。時間がゆったりと過ぎていく。藍田は音を立てないように立ち上がり、台所に向かって、グラスにオレンジジュースを注ぎ入れた。冷たい温度が掌を染めていく。

 背後で「できたよー!」という声が聞こえて、藍田はテーブルに戻り、彼女のそばにオレンジジュースを置いてやった。

 今度は間違いもないようだ。藍田は赤ペンを持って、花丸とノートの端に猫の絵を描いてやる。サリーは黄色い声をあげて喜んだ。彼女はノートの端に描いてくれる小さな絵をいつも楽しみにしてくれている。


「カオルせんせの絵、大好き! お母さんがね、またお手紙欲しいって!」

「絵葉書のこと? うーん、彼に訊いてみる」

「もっと描いて!」

「今日はもう授業終了です。ほら、お母さん迎えに来るんだろ、お支度して」


 二葉も、もうすぐ帰ってくる時間だ。藍田は冷蔵庫の中身を確認しに行って、サリーの帰り支度が完了するのを静かに待った。サリーは時間を引き延ばすようにオレンジジュースをちびちび飲み始める。


「ねえ、せんせ。シカゴ、美術館? で、また名無しの作品が置かれてたんだって。いつ置かれているのかも、誰が置いたのかもわからないのに、みんなその絵を見ると、欲しくなっちゃうらしいの」

「そうなんだ」

「サリーのリュックに新聞あるよ!」


 よほど気を引きたいのか、サリーは椅子に引っかかっていたリュックから折り曲げられた新聞紙を取り出して、大袈裟に揺らしてみせた。藍田は苦しげに笑いながら、冷蔵庫から踵を返し、その新聞紙を手に取って、折り目を見失わないように広げる。


『薄暗い部屋に白いタイル、そこに横たわる三人の変死体。光を操る現代のレンブラントか、ダヴィンチの再来か。シカゴ美術館に展示された謎の絵画……侵入者の形跡など未だ掴めず……作者はボストン美術館に無断展示された画家の絵画と同一人物か。……その絵画を多くの市民が求め……』


 そこまで読んで、藍田は新聞紙を元の形に折りたたみ、サリーのリュックへと慎重に返した。「ふうん」と興味半分に相槌を打つと、彼女の顔に得意げな笑みが宿る。それを見届けて、藍田はもう一度冷蔵庫に戻った。

 古い冷蔵庫をバコンと開けると、鋭い冷気とブーンという低い音が垂れ流れてくる。


「一日経ったらなくなるみたい。絵を描いた人が誰かもわからないなんて。サリーも見てみたいなあ」

「……おれの絵が好きなんじゃなかった?」


「カオルせんせのが一番すきだもん」拗ねたように言う彼女に笑って、藍田は冷蔵庫を閉めた。

 鶏肉、牛乳、卵、チーズ、野菜室にはまだじゃがいもや人参、ブロッコリーが入っていた気がする。二葉にお使いは頼まなくてもよさそうだ。

 空になったグラスを確認して、アメリカのキャラクターがデザインされたリュックを彼女に背負わせる。椅子から飛び降り、彼女はおさげを跳ねさせて、玄関に向かう。


「カオルせんせ、この絵なあに? 変なピースサイン!」

 サリーは靴箱の前で一度足を止め、その上に乗っている額縁に飾られた絵を指差した。藍田はそれを一瞥すると、肩を竦めながら息を吐き出す。

「その絵にね、毎朝キスをしないと気が済まない奴がいるんだ」


 扉を開けてやると、フェンスの向こうには彼女の母親が手を振って待っていた。露出の高いキャミソールに、体のラインが見えるタイトなズボン。外はさほど暑くない。藍田は決して、フェンスの向こう側には出なかった。

 生い茂った道を走って、サリーが遠ざかる。母親に会釈されて、藍田も同じように会釈し返した。「バイバイ」と言い続ける声が完全に聞こえなくなってから、藍田も家の中に引き返す。


(絵葉書、送らなければよかったかな。二葉の言うこと聞いておけば……)


 ギシギシと建てつけの悪い床を踏む。リビンングに着くと、藍田はダイニングテーブルをずらしてペルシャ絨毯を剥がした。そうして、床下からイーゼルを引っ張り出す。

 二階の自室からボードとケント紙、筆箱を抱えてまた戻る。吹きさらしのベランダの前でイーゼルを組み立てた。


 黄昏の、燃えるような夕陽が辺りを赤く照らし、藍田の黒い影を引き延ばす。


 専用のスツールに腰をかけ、縁取られた世界を眺めた。望んだ環境、恵まれた時間、束縛のない生活。これ以上にない歓びに満ち溢れている。そのはずなのだ。


 木炭を手に取り、それを指先で摘む。自由に描ける。以前のような恐れを抱くこともなく、自由に翼を動かせる。それなのに、描いても描いても描いても、なにかが満たされないまま、ここにいる。生きている。

 水面に映った月を掬えない、けれどもあの月を掴んでみたくて、ずっと水面を掬い続けている。発狂したくなるような衝動が、いつも心の底で眠っていた。


 白い海。そこに飛び込むために落とす波紋。描いている間は、なにも考えずに済んだ。


 画面に木炭を押し付け、黒い輪郭を引く。その色は鎮痛剤の代わりになってくれる。


「──薫」


 耳元で咲いた声に、狭くなっていた視界が開ける。後ろを振り向こうとしたとき、生白い腕が藍田の肩に枝垂れかかった。ベランダの向こうはいつの間にかとっぷりと薄暗くなっている。彼が帰ってきたことにも気が付かなかった。睫毛の先が耳に掠める。


「二葉、ごめん。おかえり」

「ただいま。いいよ、続けていて」


 二葉はそう言うと、藍田の頬に口付けて、足元に座り込み、侍るようにして寄りかかった。

 変わらない毛先の畝った黒髪、光のない黒目がちな瞳、上向きに揃った長い睫毛。二葉は高校以降さらに身長が伸び、今では百八十五に近いほどの体格になっていた。

 輝かしい、二十代……彼は、その栄華をほしいままにしている。頭脳明晰、容姿端麗、彼はどこにいても“天使のような天才”と呼ばれた。古着屋で買ったただの黒いシャツは、彼が着るだけでブランドものになり、彼が口にする話題は魔術的に広がる。


 それでも、こちらを見上げて微笑むあどけなさは、出会った頃となにも変わらない。藍田は描きかけのキャンバスに視線を戻した。


「今日はサリーちゃんだっけ。あの母親、また来たんじゃない?」二葉が言う。

「うん」

「あの人も、いよいよいけないね。薫を見る目が異常だし、用もないのにうちに来すぎ。日に日に露出が高い格好してくるしさ、この間なんて、俺に普段は何時ぐらいまで大学にいるのか訊いてきたんだよ」

 二葉の両手と顎が藍田の左膝に乗って、藍田は困ったように眉を下げた。

「……いい人だったんだけどなあ」

「絵葉書、贈るのはいいけど、薫ってば「あ、はい、おれが描きました」なんて彼女の質問に答えるから……」

「それがいけなかったのか、おれにはわかんないよ」


 キャンバスの上に寝そべる双子の天使の寝顔に、睫毛を描き足す。どのくらいの長さにしようか迷ったところで、二葉の顔を見下ろした。彼はキャンバスを眺め、藍田の運筆を追いかけていた。キリンのような睫毛が眼球の粘膜を反射してきらきら光っている。


「どこの誰かも、生きているのかさえわからない作者の絵に恋をするなら、それは、もう偶像崇拝と同じだろ? でも、情熱的に焦がれた絵の作者が近くに存在していたら、そりゃ、お近づきになりたいって思うよ。それも、薫はこんなに若くて、才能があるのだから」

「じゃ、うちにある絵のどれかをあげる? 色々と条件を出して……」

「そういう問題じゃない」


 無関心の声が低く鼓膜を震わす。「……うん」とわかったふうに返事をして、口を閉じた。

 自分がそういう欲の対象になるということに慣れていない。そんなわけはないと、思っていたかった。被害妄想、自意識過剰、黒く汚れた指先のどこにも肉欲的な要素は見当たらない。


「薫の瑞々しい汗が、どんな味かを知りたいんだよ」


 機嫌を悪くしているのかと思いきや、二葉は含むように笑って藍田を見上げていた。そこには強力な優越があり、誰にも犯せない不可侵領域があった。

「薫の汗は桃みたいに甘い」そう続けて、二葉はおもむろにキャンバスの中で眠る双子の天使に掌を翳した。撫でるように、手首を動かす。


 藍田はひとまず鉛筆を置いて、背筋を伸ばし、絵の全体図を見ることに専念した。そうしたところで、白いシャツの内側を這っている蟻走感は誤魔化されてくれなかった。


「……次はこの絵を完成させてみようと思ってる」

 二葉の瞼が柔らかな山を描く。「死んでるの? この天使たち」

「死んでいるように見える?」


 少し咎めるような圧を込めて二葉を見つめると、彼はおっかなびっくりといったように目を見開かせて、藍田を見つめ返す。彼の喉仏が逡巡を飲み込んで上下に蠢く。黒い目の奥に数多の天体が渦を描いていた。


「見える」

「そ。それなら、充分だ」


 死んだように眠っている双子の絵で、死んでいるのか? という疑問を持たせるのはなによりも大切なことだ。二葉はそのことをよくわかっている。彼は、そのとおり、藍田の美術史家だった。

 練り消しや鉛筆、木炭を片付けながら、時計を見る。二十時を過ぎた頃だ。晩御飯はどうしようとまだぼんやりと麻痺した頭で考える。二葉は藍田が立ち上がってもなお、キャンバスの前から動こうとしない。


「この絵も、完成したらおれにちょっとだけ貸してくれない?」

「好きにすれば。絵の管理は二葉に任せているし、……」

「嬉しい。ありがとう、薫」


 台所で手を洗う。蛇口の乱暴な水の音に、サリーが言っていた美術館の話が想起される。

 二葉が自分の絵でなにをしているのかは知っている。バレたら大変な事態になるだろうけれど、承知の上だった。二葉命という男は、そんな過ちを犯すような人間ではない。

 二葉は藍田の絵が完成するたびに、それを持って各地の美術館を転々としている。額縁は二葉が自ら手配しているようで、持って帰ってきた絵はすべて、そのまま二葉の部屋に飾られている。

 寝室は一緒だが、各自に小さな作業部屋がある。二葉の部屋の壁は、もうすぐ見えなくなりそうだった。


 蛇口を止め、手指の先を伝う水滴を見据えて、藍田は排水溝に吸い込まれていく水流を網膜の奥で追いかけた。


「……二葉」

「なあに」

「その絵が完成するの、楽しみ?」


 シンクの上に、もう一つの影が重なる。柔らかいタオルが藍田の両手を包み込み、血を拭うようにして優しく皮膚を擦った。陶酔した吐息が耳朶を撫ぜる。


「心待ちにしてるよ。誰もが……薫の絵を、心待ちにしてる。きっと、あの絵を見た人たちは、みんな眠るような死に恋をするだろうね」


 ──二葉、お前にも、そうであってほしいんだよ。


 振り返って見上げる彼の顔は、今日も生き生きと輝いている。不意に唇が近づいて、藍田はその温度を受け入れた。柔らかな唇、舌、高い体温。セックスをするようになったのは、彼が死んだあとの感触を鮮明に感じたいがためだった。

 一度も描いたことのない二葉の顔。筆を置く予定は今のところはない。けれども、いつか、その瞬間はおとずれるのだ。彼を描く瞬間がおとずれる。それだけは、わかっていた。


(二葉、おれは、地球が終わる前には必ずお前を殺そうと思うよ)


 舌先が離れ、二葉が「あっ」と我にかえる。弾かれたように玄関の方へ向かったかと思えば、ガラガラとスーツケースを引いて戻ってくる。


「今日、久々にバイトなんだけど……薫も、その、行かない?」

 わかったような目で訊いているのに、二葉の声はそのほとんどが懇願だった。

「……そこにあるスケッチブックと木炭を取ってくれる」

「!、うん、うん、……もちろん」


 渡されたスケッチブックと木炭を抱え、抱擁を促す二葉の腕に、藍田は身を委ねた。ジィィィとスーツケースのチャックが開く。赤ん坊にそうするようにして、二葉は丁寧に藍田をスーツケースの中に横たわらせる。

 ここから見上げる景色は棺のようだった。二葉の高揚した微笑が藍田を見下ろす。藍田はゆっくりと腕を伸ばして、二葉の首筋を筆のように撫ぜた。


 二葉は純真無垢に瞼を弛め、チャックに手をかける。

 彼の血が赤いことを想像できない。桃やりんごの果汁でも流れているのだ。きっと。きっと。


「薫、今、しあわせ?」

 彼を描くまで、死ねない。救われない。この衝動は消えない。

「……幸せだよ」藍田はそう言って、微笑んだ。「おれを終わらせてくれる被写体が、いつもそばにいる」


 天使のような顔で、二葉が「明日、教会に行ってみようよ」と言う。チャックが少しずつ閉まっていく。


「神様に、薫が元気に過ごしているところを見せてあげなくちゃ。俺に神様の御子を授けてくださったことにも感謝して……そうだ、あの双子の絵も持っていってさ、……」


 やがて、暗闇がおとずれる。

 藍田は手に持った木炭を擦り潰すようにして握り締めた。





 ────ああ、神様、どうか、どうか、どうか、痛みを。この手に歓びを。





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ハレルヤ 雪無 @snow_noname00

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