星界の灯火

灰檻

1 遭難

 ロゼッタは水筒を煽った。どんなに首を上へ向けても、水筒を上下にブンブン振っても、一滴の水も落ちてこない。仕方無く干し肉を齧ろうとして、やめた。水のない時に食べるのはダメだと、何かで読んだ気がする。


 彼女は水筒を放り投げた。それは岩肌が剥き出しの廊下に落ちて、硬い高音を響かせる。音は一度か二度反響して、それから聞こえなくなった。反響音だけでなく、なんの音もしない。誰かの話し声も、モンスターのうめき声すらも、何もだ。


 ロゼッタは壁を見上げた。冷たい魔法の灯りが、ぽつんぽつんと等間隔に掛けられている。

 彼女は立ち上がった。さっき投げた水筒を拾い上げる。むしゃくしゃして乱暴に扱ってしまったが、この水筒は中の飲み物を勝手に冷やしてくれる魔導具だ。結構、高かった。

 水筒を灯りに照らしてみるが、へこみどころか傷も付いていない。石の上に放り投げられたのに、たいした丈夫さだ。その丈夫さも、もはや何の意味もない。こんなことなら、非常時に空気中の水を凝縮して飲み水が確保できるという売り文句だった隣のやつを買っておけば良かった。そっちはこれの数倍の値段だったが、命には代えられない。いや、あれは隣の隣のやつだったかな――そんなことはどうだっていい。


「このままじゃほんとうに死んじゃうな」


 そう言ってからすぐ、声に出したことを後悔した。灯りの届かない廊下の片隅から、影がぬるりと伸びる。首の辺りに冷たい何かが滑り込んでくるような気がして、ロゼッタはたまらず歩き出した。


 どこへ向かってるのか、自分がどこにいるのかもわからない。この歳にして恥ずかしいことに、完全に迷子だ。

 歩きながら、さっきの干し肉を出す。少し迷って、齧りついた。


 冒険者専門誌の記者として失格だ。冒険者達が探索しているところをこそ取材するべきなのに、欲に負けてしまった。未発見の宝物庫を前にして、その誘惑に勝てる者がどれだけいるかは甚だ疑問だが。

 冒険者の彼らが探してくれていることを祈るしかない。すぐ戻るつもりで、持っていたカバンを入り口付近の部屋に置いてきてしまった。そのせいで、手持ちの水は肩から下げていた水筒1本分しかないし、食料はおやつ用にと腰のポーチに持っていたちょっと高い干し肉だけだ。迷子になってから二日も生き残っているのが奇跡のような気がしてきた。水が無ければ三日で死ぬらしいけれど……考えるだけで嫌になる。せめて、あのリュックさえ背負っていれば――

 何度目か分からない後悔を脳内に吐露しながら、誰か来ていないかと振り返る。そこには誰もいない。ただ、灯りに照らされた黄土色の壁があるだけだった。ロゼッタは、またすぐに歩き出した。


 ここは廃城の最奥だった。おそらくは自然の洞窟を利用した宝物庫だろう。元々自然の迷宮だったものが、魔法によってさらに複雑にされている。入ってすぐの場所には、部屋へと続く扉がたくさんあったのだが、ここまで来ると扉はほとんど見つけられなかった。その部屋の中も、壊れた家財道具なんかが雑多に置いてあるだけで、めぼしいものは何もなかった。


 一番の問題は、この宝物庫が罠だったということだ。


 廃城の地下にいる三頭犬。その怪物の守る扉は、巨大な宝物庫へと繋がっていた。冒険者達――城主からすれば盗人達――は、喜び勇んで宝物庫の中を漁る。手前の部屋にも金銀財宝はあるが、廊下はまだ奥へとつながっている。このまま進めばもっとすごいものがあるに違いない……

 そこまで考えて、ロゼッタはやっと干し肉を飲み込んだ。

 金貨や宝石の袋をいくつも抱えて、この広い宝物庫を歩き回る奴などいない。手前の宝物をも盗らせず、盗っ人共を奥へ奥へと迷わせ、殺す。だからこの宝物庫は未発見で、廃城の迷宮も完全に攻略されることがなかったのだろう。


 一口食べただけで、干し肉はまた袋へしまった。塩辛いものは唾が出るが、結局は喉が渇く。それに、どこかの部屋に(万が一にも)何か有用な魔導具があるかもしれない。まだニ日くらいしか経っていないだろうし、非常食はまだ温存しておきたい。


 何か口に入れたら、途端に眠くなってきた。今日だけでかなり歩いたし、次の部屋を見つけたら、少し寝よう。


 岩肌が剥き出しの廊下を歩く。少しは叩いて平らにしてあるようだが、疲労と脱水で目眩がする今となっては、下を見ながら歩かないと足をとられる。扉を見逃さないように、壁に手を滑らせていくことにした。

 少し進むと、手に人工的な段差が触れた。扉だ。ろくに顔を上げずに手探りでノブを探して、回す。

 ロゼッタは扉をゆっくりと開けた。今までの部屋でモンスターに出くわしたことは無かったが、もしものことがあるかもしれない。護身用のナイフに手を掛けながら、慎重に中を覗きこむ。と、彼女の口は勝手に開いた。


「……え?」


 部屋は書斎のように見えた。壁は木製の書棚で埋め尽くされ、一部には本を守るように鉄格子が嵌められている。床は赤色の絨毯が敷かれ、靴で踏みしめるとふかふかと足を押し返してくる。前方に置かれた書見台には魔法の灯りが灯り、読みかけの本が開いて置きっ放しになっていた。


 ロゼッタは書見台へと向かった。

 水自体は無さそうだが、水が出せるような魔導書でも置いてあるかもしれない。帰還の術が仕込まれていたら最高だ。

 埃を払い、書見台の本を持ち上げて、表紙を見る――文字が読めない。タイトルと、蔦と花の模様が箔押しされていて、とても価値の在りそうな本に見えるが、肝心の中身は何も読めなかった。

 一応、書棚の本をいくつか引っ張り出して開いてみたが、どれも読めない。使われているのが同じ言語だということは分かるが、こんな極限の状態で解読などできる気がしない――例え元気でもできる気はしないのだが。


「…………終わった」


 ロゼッタはか細い声を出した。絨毯の上へ座り込んで、書棚へ寄りかかる。視線は自然と、鉄格子が嵌められた書棚へ向かう。もし重要な魔導書があるとしたら、あの棚だろう。起きたら、ひとつ蹴飛ばしてみても良いかもしれない。


 ロゼッタは自分の靴を撫でた。爪先に金属が仕込まれた、特製の靴だ。


「父さん……」


 見た目は普通の革靴だが、父の打った鉄板が爪先に入っている。護身用にと、去年の誕生日に贈られたものだった。よく歩くから何度も調整しては履き心地を良くし、何年も使えるようにと丈夫に作ってくれた。ベテランの靴職人の父でも、こんなに手間のかかるものは作ったことがないと笑っていたものだ。


「はやく帰りたいなぁ……」


 助けに来てくれるとしたら、今回の取材対象だったザラス達のパーティだろう。自分が迷子になったことはすぐに気が付くだろうし、ただの記者がサバイバル技術を身に着けているわけがないことも知っているはずだ。きっと、探してくれている。


 ロゼッタは少し迷ってから、棚から特に分厚い本を引っ張り出すと、絨毯の上に置いた。本にハンカチを広げると、そこに頭を乗せて、目を瞑る。革表紙に包まれた紙束というのは、案外丁度よい硬さだ。

程無くして、彼女は眠りについた。







 ロゼッタは起き上がった。手を付いた地面は、真新しい石畳だった。手には土埃すら付かない。見上げれば、白い漆喰の壁が左右を囲む。その壁も、茶色いレンガの屋根も、この街のすべてが、たった今できたばかりのように見えた。


 寝起きの虚ろな頭で、しばらくその光景を眺めていたが、ふと周囲を見回した。


「……みず?」


 どこからか、水の匂いがするような気がした。

 ロゼッタはふらふらと立ち上がると、街の中を歩き始めた。頭の中で、水を浴びるほど飲む妄想がむくむくと膨らんでいく。


 歩き始めると、次第に大きな道に出た。水が流れるような音が聞こえる。そちらに顔を向けると、広場に噴水があった。


 大きな広場だった。四方に柱が立ち、表面にはとぐろを巻くように知らない文字が刻まれている。

 道に敷かれた灰色がかった石とは違い、広場には真っ白の石が敷かれていた。

 中央の噴水も、敷石と同じ石で造られているらしい。ひとりの男の像が中央に置かれ、その足元から水が湧き出ている。像はやたらに背もたれの高い椅子に座り、足を組んで開いた本をその腿へ載せていた。


 ロゼッタは噴水の前に膝を着くと、水の溜まっている中へ手を入れた。背筋が粟立つほど冷たい。そのまま掬って口へ入れる。清らかで、甘い水だった。


 袖や襟が濡れるのも構わず、夢中で手を動かす。

 水だ。お茶とか酒とかコーヒーとか、飲み物は色々あるけど、結局水が一番美味しい。


「それ、飲んで大丈夫なのか?」


 ロゼッタは手を止めた。服をビショビショにしながら水を飲んでいるところを、誰かに見られたらしい。


「噴水の水とか汚そうだが……」


 半ば呆れたような男の声がする。上から降ってくるように聞こえた。


 ロゼッタは顔を上げた。石像の男は、組んでいた足を降ろして、視線も膝に乗せた本から自分へと動いている。


 まさかと思った。いや、薄々変だなとは思っていた。大分水を飲んだ後でやっと気付いたのだが、自分はさっきまで迷宮の中を彷徨い歩いていた。どうしてこんなにひらけた、街の中にいる?


 腰が抜けたのか、石像を見上げたまま、へたりと座り込んでしまった。


「……顔色が悪いぞ。やっぱり変なバイキンでも湧いてたんだろ」 


 男は立ち上がって、椅子の上に本を置いた。石が、まるで柔らかい肉のように滑らかに動いている。


 石像が台の上から飛び降りた。その足が地に付いた途端、幻でも解けるように、みるみるうちに人の姿へと変わった。石だと形がよく分からなかったが、着ているのは古い型の礼服だった。足首まであるような黒いマントで体を覆い、高価そうなブローチで肩に留めている。髪は短く切られた金髪で、首を動かす度に金糸のように光を跳ね返した。薄い紫色の目がこちらを見下ろす。


「妙な格好だな……かなり経ったようだが、今、何年だ?」


 質問された。それも、簡単な質問だ。ただ、頭がたくさんの情報を一度に処理しようとしていて、今が何年なのか全く思い出せなかった。なぜか自分の誕生年は思い出せた。1202年。ここから逆算すればいい。今、私は――何歳だったっけ?


 目を白黒させているロゼッタを見ていた男は、眉を寄せた。


「言葉も通じないレベルか?発音が変わった?まずいな……数百年単位だ」


 彼は顔を背けた。考えるように爪先で地面を叩く。


 そうだ、16だ。誕生日に靴をもらったんだ。今、自分は16歳。つまり――何に16を足すんだっけ?

「おい、聞いてるのか?さっきから少しも動いてないが……」

 男がしゃがみこんだ。彼はロゼッタの顔を見てから、少し視線を下げた。

「え、なんだそれ。新しい魔導具か?」

 ロゼッタは顔を下げた。首からは写真機が下がっていた。慌ててそれを顔の前に持ち上げる。

「あ、こ、これは、写真機です……これは、その……写真が、撮れます」

 酷い説明だった気がする。ロゼッタはカメラを目の前からゆっくりと下げた。

 男が目を瞬く。

「なんだ、言葉は通じるのか」 

「あ、はい……」

「今年が何年か分かるか?」 

「は、はい」

 ロゼッタは1202足す16を一生懸命やろうとした。が、それは針に穴を通すようなものだった。何回もやり直すうちに、どんどん糸の端がばらばらに解けていく。繰り上がりができない。

「あ、あの……」

「どうした?」

「1202足す16は?」

 男は首を傾げながらも、答えた。

「……1218?」

「あ!そ、それです!今年は1218年です!」

「今のは何のクイズだ?」

「いえ、その……す、すみません」

 よく考えたら、1202足す16って繰り上がりなかった。

「まあ、良い。1218年……200年くらいか」

 男は立ち上がりながらそう言った。

 ロゼッタは顔を背けた。これが夢だったらいいなと思った。それともあの世だろうか。水が飲みたいと思いながら死んだから、すぐに水を飲めるようにしてくれたんだろうか。

「お前、ギィリア人ではないな?」

 男が突然訊いた。 

 たしかに、廃城から東の方へ降りるとギィリアという小さな農村がある。ロゼッタは南にあるセルニーに住んでいるので、"ギィリア人"ではないだろう。なんというか、ギィリアの町民をそういうふうに呼ぶのは大袈裟で、変な感じがした。

 ロゼッタは首を振った。

「……まだ立てないのか?」

 男は少し心配したようにこちらを見た。

 確かに、別に悪い人でもなさそうだし、さすがにビビリ過ぎだ。そろそろ立ち上がったっていいだろう。

 腕と足で体を押し上げようとするが、上手くいかなかった。急に、頭がふらふらしてくる。

「あ、そうか……あの、お腹が空いてて……一昨日からほとんど何も食べてなくて……」

 水を飲んだからだろうか。空腹だったことを思い出したという感じだ。急に体に力が入らなくなった……となると、あの世ではないのかもしれない。

「あの……なにか食べるものを持ってませんか?」

 小さいパンでも、豆ひとつかみでも、薄いお粥でも、何でも良い。

 ロゼッタが期待を込めて男を見上げると、彼は何かショックを受けたような顔をしていた。彼は突然しゃがみこむと、ロゼッタの肩を掴んだ。

「飢饉でもあったのか?ギィリアが崩壊して戦争でも起こったのか?外はどうなっている?」

「……く、あ、あ、あの!」

 顎をがくんがくんさせながら、必死でそれだけ言った。男は揺するのをやめた。

「なんだ?」

「何か食べ物をくれたら……話してもいいですよ」

 ロゼッタは頑張って悪そうな笑顔を作った。記者として、情報は取引でなければ渡せない。この情報は、でかいミートパイでも出してもらわないと割に合わないぞという顔をしてみせたつもりだった。

「そうか……なら一度出よう。ここには食べ物はない」

「え、で、出られるんですか!?」

「ああ。こっちだ。ついて来い」

 男は歩き始めた。ロゼッタは彼に続いた。さっきまでフラフラだったが、今は体の奥底から元気が湧いてくるようだった。

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