2 不明な状況
長い間ぼんやりとしていた視界が、ふいにはっきりした。目前には白紙の本がある。ただ見ているだけで、意識はまだない。
それから、下の方から水音がした。音を聞くと同時に、突然"自我"のようなものが芽生え、なぜここにいるのかを思い出した。
毒。何者かに毒を飲まされた。
解毒薬は作れなかった。あれは、様々な毒や呪術を駆使して作られた、必殺の毒だった。
解毒の魔術をかけ、効果を固定するため体を封じるしかなかった。毒が完全に中和される頃、封印は解けるだろう――
本から視線を外すと、噴水の水を一心不乱に飲んでいる女の子が見えた。そこは広場だった――あまりにも見覚えがある。
ギィリアの首都、トルドーンの中央広場。彼が長年国家顧問を勤め、魔物の脅威に耐え得るよう鍛え上げたギィリアの繁栄の証。
とはいえ、噴水の水はそこまで綺麗ではない。
「……それ、飲んで大丈夫なのか?」
外へ出る方法を教えると伝えると、彼女は何の疑いもなくほいほい着いてきた。警戒心が薄いのだろうか。治安が良い証だ。大して悪くなっては、いないのかもしれない。
「外の状況を聞いても?」
「はい。あ、でも、何から話せばいいのか……」
「ギィリアはまだあるか?」
「はい。ギィリアは冒険者たちがよく利用する宿場町です。この廃城のある丘を降りるとすぐですよ……まだって言うのはどういうことなんですか?」
「何でもない」
「えー、本当ですか……?」
ギィリアは、国であるはずだ。首都の名はトルドーン。街の名が残っていないのは妙だ。その宿場町の名がトルドーンである方が、国が滅んだ後の自然な流れだろう。
冷静に分析を始めた自分に少し呆れる。数百年も見守ってきた国が自分の見ぬ間に崩壊したんだぞ。もう少しショックを受けたらどうだ?それとも、感情が麻痺してきたのだろうか?権謀術数渦巻く王城で、長い時を過ごす内に。
実際、ギィリアの王たちで、静かな晩年を過ごせた者は数少ない。中には、アストレイヴ自身が手にかけた者も何人かいる。ただ、別に後悔はしていない。魔物の蔓延る地で人という弱い生物を存続させるには、時には非情な選択も必要だ。過去を憂う暇はなかった。
「戦争や飢饉は?」
「私が生まれてからは起こってません。たしか、100年くらい前に大きな戦があって、この廃城はその時に滅びてしまったと聞いたことがあります」
「この城には今誰も住んでないのか」
違和感があった。この地――アルデバランを管理するため、アストレイヴの他にも代理人が派遣されている。あいつらは何をしていた?ギィリアという大国が滅びるというのに、黙って見ていたとでも?
「……本当に歴史上の人物と話してるような気分になってきました……あの、あなたは誰なんですか?」
結界の端に着いたので、アストレイヴは振り返った。
「お前、名前は?」
「え、あ、私、ロゼッタです……閣下?」
ロゼッタは膝を曲げた。多分、お辞儀をしたつもりなのだろうが、履いているのが半ズボンなせいで屈伸運動にしか見えない。
「敬称もお辞儀もいい。俺はアストレイヴ。今、自分が無職だと分かったただの男だ」
「……すみません、もっと分からないです」
ロゼッタは困惑したように視線を落とした。代理人の存在すら知らないのだろうか。他の奴らが何をしていたのか、本当に気になってきた。
「俺は、星の女神リーヴェステラの代理人の一人。命じられたのは、魔物に滅ぼされることのない強靭な国を作ること。それで、見込みがあったギィリアの国家顧問を長いことやっていた」
「……へぇ」
全く納得していない返事だった。彼女が世間知らずなだけなのか、ギィリアが歴史的にもマイナーな国になってしまったのかは今の所分からない。兎に角外に出ないと。
視線を戻し、結界を解除しに取り掛かる。手をかざしながら、神力を流し込む。鍵が何重にもかかっているので、決まった方向に神力を動かしながら、一つずつ解除していく。
そういえば、彼女はどうやってここへ入った?
アストレイヴは視線を背後へやった。
彼女はそれに気付いたかのように、恥ずかしそうに手を合わせた。
「アストレイヴさん」
「何だ?」
「すみません、さっきの話とは全然関係ないんですが……外に出たら行きたいお店があるんです。ご飯はそこでもいいですか?」
「……俺はなんでもいい。それより他にも聞きたいことがある」
「何ですか?」
アストレイヴは結界から手を離した。体内では神力から電気エネルギーへの変換が速やかに進んでいる。
「どうやってここに来た?」
「寝たらここにいました。書斎の本を枕に――あ、ご、ごめんなさい!本は枕じゃないですよね……すみません……」
ロゼッタは慌てて頭を下げた。睨んでいたつもりはないが、殺意が顔に出ていただろうか。
アストレイヴは少し考えた。それから、"逃げ道"を作っていたことを思い出した。
「……あー、いや、別にいい。そんなことで魔術書はびくともしない」
アストレイヴは解除の作業に戻った。
忘れていたが、もし自分が寝ている間にまずいことが起こったら、結界の本体である魔術書を枕にして寝れば、中へ入れるということにしたのだった。
簡単な仕掛けだが、敵対している者で他者の結界の中へ入ろうと思う奴はそういないだろう。大抵は、本体の魔術書を破壊しようとするはずだ。そうすれば中身ごと壊すことができる。そちらについての対策はたっぷりしていた。
それからすぐ、彼の脳内は疑念で埋め尽くされた。国が滅ぶという緊急時に、なぜ自分を起こさなかった?非常時には何があっても叩き起こすようにと、周囲の者へ言い含めてあったのに――代理人達含め。
鍵が開いた。空間に手をかける。その手を引く前にロゼッタの存在を思い出し、振り返った。
「開いた」
「もうですか!すごい!」
「どうも。出る時は気を付けろよ、ちょっと気持ち悪くなる」
「分かりました」
裂け目を引くと、暗い天井が見えた。そこに頭を突っ込む。途端、視界が渦を巻き始め、体が内側からひっくり返るような感覚に襲われる。それはすぐに終わって、気が付くと書斎に立っていた。灯はあるが、暗すぎる。二百年のうちに照明用の魔導具がいくつか壊れたようだ。
「ゎぁぁぁあああああ!!ぐえぇ……」
本から飛び出てきたロゼッタは、床の上にへたり込んだ。吐いてないだけ上出来だ。
「大丈夫か?」
「は……入る時は、うっ、なんともなかった、のに……」
「入る時とは逆だからな、内部のものを外へ出そうとする力が働く」
「うう……」
唸りながら体を起こし、こちらを見上げた。
「あの……わたし、ここまで来るのに二日くらいかかってるんですけど、出るのにどれくらいかかりますか……?長くは歩けませんよ……」
「いや、たいした時間はかからないはずだ。少しコツがいるが」
アストレイヴはその場にしゃがむと、魔術書を閉じた。結界魔法は貴重で便利だ。この本は持っていく必要があるだろう。
周囲を見回せば、棚から引き出された本が床に放置されている。魔術書を脇に抱え、それらをもとの場所へ戻していく。それにしても散らかりすぎだ。眠りに入っている間、誰かが何か探しに来たのだろうか。
書見台に開いたままの本があるのを見つけ、「やっちまった」と呟く。あのまま、少なくとも二百年は経っている。ページがバラバラになっていてもおかしくない。
書見台に近付くと、やっとロゼッタが起き上がり始めた。
「少しは心配してください」
「え?……ああ、悪い。結界から出たやつはだいたいそうなるから、あまり深く考えてなかった。でも、もう大丈夫だろ?」
「まあ、そうですけど……」
書見台に乗っていたのは、魔素についての研究書だった。いくらか捲ってみるが、そこまで劣化していない。表紙を見ると、劣化防止の術が刻んであった。一安心して本を閉じ、本棚を見回す。どこにあったっけ。
「それ、なんの本ですか?」
「魔素。特に瘴気との関係についてだな」
「へー、それって魔法ですか?」
「え?」
振り返れば、ロゼッタが本を見ていた。
「瘴気だよ。魔物の死体をしばらく放っておくと、赤黒いもやになって消えるだろ。あれだ」
「あれって瘴気って言うんですか!知らなかった……アストレイヴさんは、魔物の研究もしてたんですね。その……国家顧問?をしながら」
「いや……どっちかというと研究者に金を出す側だ」
ロゼッタは少々尊敬したような目でこちらを見た。アストレイヴは眉を上げた。
「普段は何の仕事を?」
「あ、よく間違えられるんですが、私は冒険者ではなくて、冒険者専門誌『ジャーニージャーナル』の記者をしています。冒険者たちの権利を守るため、彼らの真実の物語を伝えるため、日々取材を重ねております。ここにも取材のために来たんです、冒険者の人たちと一緒に」
ロゼッタは自分の服を整え、何故か敬礼した。たまたま軍装だから、そういう職業だと思われているのかもしれない。
しばらく見回しているうちに空いている箇所を見つけ、本をそこに戻した。
「一人でいるのは迷子になったからか」
「……はい」
「ここはそういう作りになってるからな、無理もない。手前の部屋だけで済ませていれば……待て。冒険者専門誌の記者?」
それなのに、瘴気を知らない?俺がいた時には、既に常識だったはずなのに?
ロゼッタはやけに意思の強い目をしてこちらを見た。戦場にいるジャーナリストのような目だ。
「はい。妙に思われるかもしれませんが、冒険者はただの賞金稼ぎでも遺跡の盗掘者でもありません。私は彼らの本来の役目である魔物狩りについて――」
「ちょっと待った」
「はい?」
アストレイヴは頭に手をやった。ツッコミどころが多すぎる。
冒険者は、たしかにかつて賞金稼ぎだった。彼らは、騎士団の目の届かない僻地を放浪する浪人のような存在で、魔物を倒す代わりに退治費用をもらって生計を立てる無法者だった。それに公的な資格制度を設け完全免許制にしたのが、アストレイヴが地上へ降りてから百年は経った頃のことだった。
かなり時間がかかっているのは、冒険者は大抵無法者で、実際に前科がある者も多かったからだ。国が彼らをおおっぴらに使うのは無理だ。しばらくは、騎士団を使うしかなかった。
冒険者の資格制度を整備し、訓練場を国内の主要都市に設置。国家資格となった冒険者達のおかげで魔物は効率的に排除され、騎士団は都市内の治安維持に専念できるようになった――いや、できていた、ということらしい。
「……これは、長い話を聞くことになりそうだ」
「ご飯を奢ってくれるならいいですよ」
「悪いが金がない」
「え……でも外の部屋にいっぱいあるじゃないですか、金銀財宝が」
「あれは俺のじゃない。王家のものだ」
「――王家は、多分もういません。何度も言ったと思いますが、ここは廃城なんです」
ロゼッタは声を低くした。気を使っているのだろうか。大昔に滅びた王家に執着している、廃城の生き残りに。
アストレイヴはただ、自分の財産があるのに他人から、しかも王の財宝を盗むのは沽券に関わるような気がしていただけだった。そしてよく考えると、いま残っている自分の財産は、きっとこの書斎の本だけだ。これらは売れない、絶対に。
「……まあ、何個かもらっていったっていいだろう。俺は無職で無一文だから」
自分で言ってて現実味がない。財布は持たない主義だった。買い物をする時は、いつもカシオが――カシオ。
アストレイヴは額に手をやった。
馬鹿な。今の今まで彼のことを忘れていた。
カシオ。彼はアストレイヴの秘書であり、審判を司る神でもある。代理人に封じられた際、星の女神から賜った者だ。
彼に会えば必ず何か分かる――はずだ。
「ロゼッタ」
「は、はい!」
「お前、記者と言ったな」
「はい……い、一応……新卒一年目ですが……」
「お前の情報源が必要になりそうだ。前言は撤回する。ここにある宝物、何でも持って行け。俺が許す」
「は、や、やったー……?」
ロゼッタは右手を掲げながら曖昧に喜んだ。今はそれで良い。彼女が使えると分かったら、引き返せないほど巻き込んでやれば良いのだから。
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