第44話今夜は静かなカウンターで

今夜は静かなカウンターで」


 夜も深まり、時計の針がゆっくりと日付をまたぐ。

 カラン……と鳴るはずのドアベルは、今夜は静かなまま。

 マスター小鳥遊はカウンターの上で、サイフォンの火を小さく絞り、ひとり分のコーヒーを淹れていた。


「……今夜は、誰も来ませんか。」


 つぶやく声に、もちろん返事はない。

 店内には、やさしいランプの光とコーヒーの香りが満ちている。

 ふと視線を上げると、カウンターの隅の小さなテレビが、夜の音楽番組を映していた。


 画面の向こうで、見覚えのある青年がギターを抱えている。

 数か月前、〈ル・プチ〉で「もう一度仲間とバンドをやりたい」と悩んでいた、あの青年だ。

 結局「それぞれの人生がある」とバンドを解散したと言っていたのに……。


 画面は夜の街角を映し出す。

 街灯の下、仲間たちと肩を並べ、彼は笑顔で歌っている。

 通り過ぎる人々が足を止め、拍手が集まり、あの頃の夢が小さな輪を広げていた。


 マスターはカップを持ち上げ、画面を眺めながらふっと微笑む。


「……そうですか。

 また、歌っているんですね。

 ――あのときのあなたの悩みが、ちゃんと新しい音を紡いだんですね。」


 店内に拍手の音が届くことはない。

 けれどマスターは小さく、カップを掲げるようにテレビへ向けてそっと呟いた。


「……いい夜ですね。」


 カウンターの奥、サイフォンの炎が静かに揺れている。

 今夜はお客様が現れなくとも、

 この店で交わされた言葉が、どこかでまた、誰かの未来を灯している。


 そしてマスターは、ひとりの夜を味わうように、

 静かにミルのハンドルを回し続けた。

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