第43話鏡の向こうの自分

 夜十時。

 街の灯りがぽつぽつとにじみ、風がカーテンをやさしく揺らす。

 カラン、とドアベルが鳴いた。

 マスター小鳥遊はサイフォンを温めていた手を止め、やわらかな目で迎えた。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ。」


 入ってきたのは、四十代後半くらいの女性。

 上品な服装だが、どこかしら自信をなくしたような歩き方。

 カウンターに腰を下ろすと、鏡代わりのスプーンを眺めて小さくため息をついた。


「……コーヒーをお願いします。優しい味のやつを。」


「かしこまりました。カフェオレを。」


 サイフォンの湯がぽこぽこと音を立てる。

 やがて、女性はぽつりと話しはじめた。


「……最近、鏡を見るのがいやになって……。

 老眼が出てきて、小さな文字が読めなくなって……。

 目の下のしわや、疲れやすい体に気づくたび、

 “私も歳をとったんだな”って思ってしまうんです。」


 マスターは黙って耳を傾ける。


「……昔は、自分の顔や姿に少しは自信があったのに。

 今は写真に写る自分を見て、ため息ばかりで……。

 こんな自分で、これからどうやって生きていけばいいのか……。」


 カップに注がれたカフェオレから、やさしい湯気が立ちのぼる。

 マスターはそれを差し出し、ゆっくりと言葉を選んだ。


「――あなたは、きっとたくさんの時間を大切に生きてこられたのでしょう。」


 女性はカップを見つめ、首を横に振る。

「……そんなこと……」


「しわや疲れやすさは、頑張ってきた証拠です。

 老眼は、それだけ長く本や景色を見てきた証拠です。

 そのひとつひとつが、あなたの物語になっています。」


 女性は小さく息をのんだ。

「……物語、ですか……?」


「ええ。若さだけが美しさではありません。

 その歩んできた時間が、あなたにしかない魅力をつくっています。

 どうか、それを恥じるのではなく、誇りに思ってください。」


 女性はカフェオレを一口すすり、温かさに目を細めた。

「……そう言われると、少しだけ……肩の力が抜けますね。」


「ええ。

 これからのあなたは、もっと自由に自分を楽しめます。

 歳を重ねたからこそ見える景色が、まだまだたくさんありますよ。」


 女性はそっと笑みをこぼし、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます。

 ……少し、自分を大切にしてみます。」


 マスターはやさしく頷いた。

「――それが、これからのあなたをいちばん輝かせるでしょう。」


 カラン、とドアベルが鳴り、夜風がやさしく店内を撫でていく。

 その背中は、来たときよりも少しだけまっすぐで、軽やかに見えた。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターはカップを拭きながら、

 窓の外を見やり、静かに呟いた。


「――時間を重ねたからこそ、見つかる美しさがある。」


 そしてまた、次のお客様を待ちながら、

 やさしくミルのハンドルを回し続けた。

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