第31話自分を責める声

 夜十時すぎ。

 外は静かな風が吹き、遠くで電車の走る音がかすかに聞こえてくる。

 カラン、とドアベルがやさしく鳴いた。

 マスター小鳥遊はカウンターでサイフォンを温めていた手を止め、柔らかく微笑む。


「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ。」


 入ってきたのは、四十代くらいの男性。

 スーツの肩は少しよれていて、ネクタイも緩められている。

 カウンターに腰を下ろすと、両肘をついて額を押さえ、しばらく無言のままだった。


「……コーヒーはお好きですか?」

 マスターの問いかけに、彼はかすれた声で答えた。


「……苦いやつを。……濃いめで。」


「かしこまりました。フレンチローストを。」


 サイフォンの湯がふつふつと音を立てる。

 やがて、彼はぽつりと話し始めた。


「……部下を守れなかったんです。

 若い子が、会社でミスをして……俺がフォローするつもりだったのに……気づいたときには、もう追い詰められて辞めてしまって……。」


 マスターは手を止めず、静かに耳を傾ける。


「……“自分のせいじゃない”って、みんなは言います。

 でも、俺はあの子にもっとできることがあったはずだって……毎晩考えてしまうんです。」


 カップに注がれた深いコーヒーから、ほろ苦い湯気が立ちのぼる。

 マスターはそれを差し出し、やさしい声で語りかけた。


「――あなたは、とても優しい方ですね。」


 男性はかすかに笑い、しかしすぐに目を伏せる。

「……優しくなんかないですよ。結局、何もできなかったんですから。」


「いいえ。

 “何もできなかった”と悔やむ人は、すでに誰かを思って動いていた人です。」


 マスターはゆっくりと続ける。

「守れなかったと自分を責めるのも、あなたが本気でその部下を大切に思っていたから。

 でも、過去を責め続けることは、その思いを止めてしまいます。」


 男性はコーヒーを一口すすり、目を閉じた。

 胸の奥に広がる苦味と温かさが、少しだけ張り詰めた糸を緩める。


「……じゃあ、どうすればよかったんでしょうね。」


「答えは簡単には見つかりません。

 でも、あなたがこれから出会う部下や後輩に、その思いを活かすことはできます。

 “あのときもっとこうしていれば”――その悔しさを、次の誰かを守る力に変えてください。」


 男性はしばらく黙り、やがて小さく笑った。

「……そうですね……その子が残してくれたものだと思えば……。」


「ええ。あなたが悔やむ分だけ、きっと次に出会う誰かは救われます。」


 男性はカップを飲み干し、深く頭を下げた。

 カラン、とドアベルが鳴り、夜風がそっと頬を撫でる。

 その背中は、さっきよりもわずかにまっすぐに見えた。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターは静かにカップを拭きながら、

 窓の外を見やり、そっとつぶやく。


「――過去を悔やむ優しさは、未来を照らす優しさにもなれる。」


 そしてまた、次のお客様を待ちながら、

 やさしくミルのハンドルを回し続けた。

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