第30話ひとりじゃない夜

 夜八時半。

 雨上がりの路地はしっとりとした空気に包まれ、遠くで誰かの笑い声がかすかに響く。

 カラン、とドアベルがやさしく鳴いた。

 マスター小鳥遊はカウンターでサイフォンを温めていた手を止め、微笑んだ。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ。」


 入ってきたのは、三十代前半ほどの女性。

 コートの裾には雨のしずくが残り、肩からはくたびれたトートバッグ。

 カウンターに腰を下ろすと、しばらく無言でバッグの紐を握りしめていた。


「……コーヒーはお好きですか?」

マスターの問いに、彼女は小さな声で答えた。


「……少し甘いのをください……。」


「かしこまりました。カフェモカを。」


 サイフォンの湯がぽこぽこと音を立てる。

 やがて、彼女はぽつりと話し始めた。


「……今日は、子どもを母に預けて……ここに来たんです。

 ……私、シングルマザーで……毎日、仕事して、帰ったら家事して、夜中に子どもの相手して……。

 ……もう、どうしたらいいのか分からなくて……。」


 マスターは手を止めず、静かに耳を傾ける。


「……頑張ってるつもりなのに……すぐ怒っちゃって、後で自己嫌悪して……。

 ……このままだと、私……おかしくなっちゃうんじゃないかって思うんです。」


 カップに注がれたカフェモカが、ほのかに甘い湯気を立ちのぼらせる。

 マスターはそれを差し出し、やわらかい声で語りかけた。


「――あなたは、とても頑張っていらっしゃるんですね。」


 彼女はカップを見つめ、目を潤ませたままかすかに笑った。

「……頑張ってるのかな……」


「ええ。ここに座っているだけで、それがわかります。

 毎日を回すのは、並大抵のことではありません。」


 彼女は唇を噛んで、肩を震わせた。

「……でも、もう少しで……全部投げ出しそうで……」


「だから、ここに来られたんですね。

 子どもを預けて、少しのあいだだけ、自分を取り戻す時間を作った。

 それは、とても大切な選択です。」


 彼女の目からぽろりと涙がこぼれた。

「……こんな母親でいいのかな……」


「いいんです。

 泣いて、疲れて、また立ち上がる――それも母親です。

 完璧じゃなくていい。

 あなたがこうして自分を見つめ直していることが、

 子どもにとって一番の優しさになります。」


 カフェモカを一口すすり、彼女はふっと息を吐いた。

 ほんの少し、肩の力が抜けたように見えた。


「……ありがとうございます……少し、楽になりました。」


「ええ。帰る前に、もう少しゆっくりしていってください。」


 カラン、とドアベルが鳴るのは、まだしばらく先。

 カウンターの奥で、小鳥遊マスターはコーヒー豆をゆっくりとミルに入れながら、

 湯気の向こうに座る彼女を見つめ、静かに呟いた。


「――母親が自分を大切にするとき、きっと

子どもも幸せになれる。」


 そしてまた、次のお客様を待ちながら、

 やさしくミルのハンドルを回し続けた。

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