第29話最後の夜じゃなく、次の夜へ
深夜0時を少し回った頃。
人通りもまばらな裏通りは、雨上がりの匂いをまとっていた。
カラン、とドアベルが静かに鳴く。
マスター小鳥遊はカウンターでカップを拭いていた手を止め、顔を上げた。
「いらっしゃいませ。遅い時間に……どうぞ、こちらへ。」
入ってきたのは、二十代後半ほどの男性。
傘も差さずに歩いてきたのか、髪や肩が少し濡れている。
目は赤く、深い疲労と虚しさを湛えていた。
カウンターに腰を下ろすと、しばらく黙ったまま、ただ指先でテーブルをなぞる。
マスターは急かさず、静かな声をかけた。
「……コーヒーは、お好きですか?」
「……甘いの……お願いします。
……なんか、今日は……苦いのは、飲みたくなくて。」
「かしこまりました。ミルクを多めに。」
サイフォンの湯がゆらゆらと揺れ、店内にやさしい音が満ちる。
男性はぽつりと呟いた。
「……なんか、もうどうでもよくて。
仕事も、家族も、友達も……なんか全部、俺じゃなくてもいい気がして……。
……さっきまで……死のうって思って、歩いてたんです。」
マスターは手を止めず、ただ彼の声を聞いている。
「……でも、歩いてたら、この店の灯りが見えて……。
……なんで入ったのか分からないですけど……
最後に一杯くらい飲んでもいいかなって……。」
カップに注がれたカフェオレが、ほのかな温かさを放つ。
マスターはそれを差し出し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「――ここに入ってくださって、ありがとうございます。」
男性はカップを見つめ、かすれた声で笑った。
「……こんな俺が来てよかったんですか。」
「ええ。どんなあなたも、ここではお客様ですから。」
男性はカップを両手で包み込み、しばらく黙ってから、またぽつりと言った。
「……何もかも、俺じゃなくてもいいんですよ。
誰も困らないんですよ。俺がいなくても。」
マスターはゆっくり首を横に振る。
「――あなたがいなくて困らない、と思っているのは、今のあなた自身ではないですか?」
男性は目を見開き、言葉を失う。
「この世界は、誰かにとってあなたでしか埋まらない場所が、きっとあります。
でも、つらさや孤独が深いとき、人はそれを見失ってしまうんです。」
男性の瞳に、かすかな光が揺れた。
「……俺、そんな場所……あるんですかね。」
「ええ。もしかしたら、明日、出会えるかもしれません。
だからこそ――今夜、その場所を諦めてしまうのは、もったいない。」
男性はカフェオレを一口すすり、ふっと小さく笑った。
温かさが喉を通り、胸に広がっていく。
「……明日も、歩いてみようかなって……ちょっと思いました。」
マスターはやわらかく微笑んだ。
「ええ。あなたの歩幅で、ゆっくりでいいんです。」
やがて男性は立ち上がり、深く頭を下げた。
カラン、とドアベルが鳴り、夜風がひやりと頬を撫でる。
その背中は、ほんのわずかだが、先ほどよりも軽く見えた。
カウンターの奥で、小鳥遊マスターは静かにカップを拭きながら、
窓の外に消えた影を見やり、そっと呟く。
「――灯りを見つけてくれて、ありがとう。
どうか、明日もその足で。」
そしてまた、次のお客様を待ちながら、
やさしくミルのハンドルを回し始めた。
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