第28話止まるべきか、進むべきか

 夜八時半。

 街の灯りがにじむ雨上がり、歩道を行き交う人の足音が遠くに響く。

 カラン、とドアベルが鳴いた。

 マスター小鳥遊はカウンターでカップを拭く手を止め、穏やかに声をかける。


「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ。」


 入ってきたのは、三十代前半ほどの男性。

 スーツの肩は少し濡れていて、営業カバンを持つ手に力が入っている。

 カウンターに腰を下ろすと、ため息をついてネクタイを緩めた。


「……マスター、相談……いいですか。」


「ええ、もちろん。コーヒーはいかがなさいます?」


「……苦めのを……お願いします。」


 サイフォンの湯がゆるやかに湧き上がり、店内に静かな音が満ちる。

 男性は視線を落とし、ぽつりと語りだした。


「……毎日営業で、色んな企業を回ってるんですけど……全然契約が取れなくて。

 数字を追われて、上司に詰められて……。

 このままじゃダメだって分かってるのに、結果が出ないんです。」


 マスターは手を止めず、静かに耳を傾ける。


「……もう、自分には営業が向いてないのかなって。

 転職した方がいいのか……でも、何をやりたいかも分からなくて。

 毎晩考えては、答えが出ないまま……。」


 カップに落ちた深煎りのコーヒーが、ほろ苦い香りを放つ。

 マスターはそれを差し出し、やさしく言葉をかけた。


「――お悩みなんですね。

 でも、その悩みは“逃げたいから”ではなく、“続けたい気持ちがまだあるから”ではないでしょうか。」


 男性はカップを見つめ、目を瞬いた。

「……続けたい、気持ち……?」


「もし、完全に営業をやめたいなら、迷わず転職を決めているはずです。

 それでも迷うのは――まだ、やり残した想いがあるからかもしれません。」


 男性はカップを両手で包み、苦笑した。

「……たしかに、取れたときの契約……あれが嬉しくて……。

 もっとやれるはずだって思って、続けてきました。」


「その気持ちは、あなたの財産です。

 ただ、成果が出ないなら、やり方を見直す時間が必要かもしれません。

 転職するのではなく、まずは“今の場所で変えてみる”――

 上司に相談したり、先輩にコツを聞いたり、自分なりの作戦を立てるのもひとつの道です。」


 男性はしばらく黙り、そして深く息を吐いた。

「……そうか……俺、やめるか続けるかの二択しか考えてなかった。

 やり方を変える、って道もあるんですね。」


 マスターは静かに微笑んだ。

「ええ。迷うのは、まだ前を向いている証拠です。

 どの道を選んでも、あなたの想いがあれば、きっと前へ進めますよ。」


 男性はコーヒーを飲み干し、カバンを持ち直した。

「……ありがとうございます。もう少し、踏ん張ってみます。」


「ええ。その気持ちが、きっとあなたの力になります。」


 カラン、とドアベルが鳴り、夜風が店内をそっと撫でる。

 男性の背中が、少しだけ力強く見えながら街へ消えていった。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターはカップを拭きながら、

 窓の向こうを見やり、静かに呟く。


「――道を選ぶとき、迷いは決して悪いものではありませんね。」


 そしてまた、次のお客様を待つように、

 やさしくミルのハンドルを回し始めた。

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