第27話別れの痛みと向き合う

 夜十一時過ぎ。

 外は静かな雨、街灯が濡れた舗道をやわらかく照らしている。

 カラン、とドアベルが小さく鳴った。

 マスター小鳥遊はカウンターで豆を挽いていた手を止め、やさしい眼差しを向ける。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ。」


 入ってきたのは、二十代前半の女性。

 制服の上にカーディガンを羽織り、名札を外したポケットからは折れたメモ帳が覗いている。

 カウンターに腰を下ろすと、しばらく何も言わず、膝の上で手を握りしめていた。


「……コーヒーはお好きですか?」

マスターの問いに、彼女はか細い声で答えた。


「……あまり苦くないのを……お願いします。」


「では、ミルクを多めにしたカフェラテを。」


 サイフォンの湯がゆるやかに揺れ、店内に穏やかな音が満ちる。

 やがて、彼女はぽつりと口を開いた。


「……私、病院で看護師をしています。

 今日……初めて、患者さんを看取りました。」


 マスターは手を止めず、耳を傾ける。


「……すごく優しい方で……毎日、私に声をかけてくれて……。

 もっと元気になってほしくて、笑顔を見せてほしくて……。

 でも、最後……私が手を握っている時に、息を引き取って……。」


 彼女の目が潤み、言葉が震える。

「……もう、つらくて……。

 次にまた誰かが亡くなったら、私……耐えられる自信がなくて……。

 でも、この仕事は……続けたいんです。」


 カップに注がれたやさしいカフェラテから、ほんのり甘い湯気が立ちのぼる。

 マスターはそれを差し出し、深くもやわらかな声で語った。


「――人の命と向き合うお仕事を、あなたは選ばれたんですね。」


 彼女はカップを両手で包み、肩を震わせながら小さくうなずく。


「……でも、私……弱いです。」


「いいえ。

 つらさを感じるあなたは、弱いのではなく、人を大切にできる人です。」


 マスターはゆっくりと続けた。

「看取るということは、誰かの最期を見届けるということ。

 それは決して簡単な役割ではありません。

 だからこそ、あなたがその患者さんに向けた優しさや笑顔は、

 その方の最後の時間を、きっと温かくしていたはずです。」


 彼女の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。


「……そう、でしょうか……。」


「ええ。あなたが悲しむのは、その方を大切に思った証。

 そしてその痛みは、これから出会う患者さんたちを、もっと深く支える力になるでしょう。」


 彼女はカフェラテをひと口飲み、ふっと息をついた。

 胸の奥で重く沈んでいた何かが、少し溶けるような感覚。


「……ありがとうございます。

 ……私、この仕事、やっぱり続けます。

 あの人に恥ずかしくない看護師になれるように……頑張ります。」


「ええ。

 あなたがこれから出会う人たちにとって、その優しさはきっと希望になりますよ。」


 彼女は深く頭を下げ、立ち上がる。

 カラン、とドアベルが鳴り、夜の雨音に溶けていく。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターはカップをそっと拭きながら、

 窓の外を見やり、静かに呟いた。


「――命を想う心がある限り、その人はきっと良い看護師になれる。」


 そしてまた、次のお客様を待つように、

 やさしくミルのハンドルを回し始めた。

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