第26話届かない手の、その先で
夜九時過ぎ。
静かな雨が舗道を濡らし、街灯がしっとりと光を反射している。
カラン、とドアベルが鳴いた。
マスター小鳥遊はカウンターで豆を挽く手を止め、穏やかに目を向けた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ。」
入ってきたのは、三十代半ばほどの男性。
スーツはきちんと着こなされているが、肩が少し落ち、表情に疲れがにじむ。
カウンターに腰を下ろすと、名刺入れを握ったまま深いため息をついた。
「……マスター、ここって……相談、いいんですか。」
「ええ、もちろん。コーヒーは何を?」
「……深煎りで。苦いやつをください。」
サイフォンの湯が小さく踊り始める。
男性は視線を落としたまま、ぽつりと語りだした。
「……僕、銀行の融資担当なんです。
毎日、色んな人が来ます。
夢を語る人、家族を支えたい人、小さな店を立ち上げようとする人……。
でも、審査や規定で……ほとんどの人に“申し訳ありません”って言わなきゃならなくて。」
マスターは黙って耳を傾ける。
「……力になれたらいいのに、って思うんです。
でも現実は、数字や条件がすべてで……。
帰り道、時々思うんです。――俺、何のためにこの仕事してるんだろうって。」
カップに注がれた深煎りのコーヒーが、ほろ苦い香りを放つ。
マスターはそれを差し出し、静かに語りかけた。
「――人の夢に触れるお仕事をされているんですね。」
男性はカップを見つめたまま、かすかに笑った。
「……でも、その夢を叶えられないなら、意味がないですよ。」
「いいえ。」
マスターはゆるやかに首を振った。
「夢を語る人が、その夢を言葉にできる場所を作っている。
それだけでも、あなたは確かに力になっています。」
男性の手が、わずかに震えた。
「……でも……融資を出せなきゃ……」
「融資は、叶えられる力のひとつです。
けれど、たとえ融資を出せなくても――
あなたが親身になって話を聞き、現実の厳しさを伝えることで、
その人は次の一歩を考えるきっかけを得ているのかもしれません。」
男性は深く息をつき、カップを手に取った。
苦味と香りが、胸の奥に静かに染みていく。
「……そう、なんでしょうか。」
「ええ。力になれないように見えるときでも、
あなたの言葉や姿勢は、きっと誰かの未来に小さな種を残している。
それを芽吹かせるのは、もしかしたら明日かもしれません。」
男性はしばし黙り、そして微笑んだ。
「……ありがとうございます。
なんだか、少し胸が軽くなりました。
……明日からも、ちゃんと話を聞いてみます。」
「ええ。あなたの耳と、その優しさが、きっと誰かの力になりますよ。」
男性は立ち上がり、深く頭を下げるとドアの向こうへ。
カラン、とドアベルが鳴り、夜の雨音に混じって消えていった。
カウンターの奥で、小鳥遊マスターはゆっくりとカップを拭きながら、
窓の外を見やり、静かに呟く。
「――届かないと思っても、その想いはきっと誰かの心に届いている。」
そしてまた、次のお客様を待つように、
やさしくミルのハンドルを回し始めた。
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