第25話言えない優しさ
夜八時。
街は少し雨上がりの匂いを残し、しっとりとした空気が流れている。
カラン、とドアベルが鳴いた。
マスター小鳥遊はカウンターでサイフォンを温めていた手を止め、やさしい笑みで迎えた。
「いらっしゃいませ。お二人でどうぞ。」
入ってきたのは、二人連れ。
ひとりは二十代半ばほどの青年、落ち着いたスーツ姿だが、眉間にはうっすら疲労の影。
もうひとりは制服姿の女子高生、視線を落として兄の後ろに隠れるように立っている。
二人は並んでカウンターに腰を下ろしたが、どこかぎこちない。
やがて兄が、ぽつりと話し始めた。
「……マスター、ここって……相談を聞いてくれるんですか。」
「ええ、もちろん。コーヒーはいかがなさいます?」
「俺は……深煎りを。ブラックで。」
妹は少し迷ってから、小さな声で言った。
「……私は……カフェモカ……」
サイフォンの湯がぽこぽこと音を立てる。
兄はカウンターの木目を見つめたまま、口を開いた。
「……俺、親がいない分……妹のことをちゃんと支えなきゃって思ってて。
でも……最近、すれ違ってばかりで……どう接したらいいのか分からなくなって。」
妹が少し肩をすくめ、うつむいたまま呟く。
「……私だって、別に……嫌いになったわけじゃないよ……。
でも、うるさくて……全部決められちゃうみたいで、窮屈で……。」
マスターは黙って耳を傾けながら、カップにコーヒーを注いだ。
湯気がやさしく立ち上る。
「――お二人とも、相手を大切に思っているのですね。」
二人は同時に顔を上げ、驚いたように目を見合わせた。
「……大切に、ですか……?」
「ええ。兄としては守りたい。妹としては認めてほしい。
お互いの想いがあるからこそ、ぶつかってしまうんでしょう。」
兄はカップを両手で包み、苦笑をこぼした。
「……俺、余計なことばかりしてたのかもな。」
妹もモカを一口飲んで、小さくつぶやいた。
「……私も、もう少し兄ちゃんに頼ればよかったのかも。」
マスターは穏やかに頷いた。
「――大切な人には、つい言葉が足りなくなります。
でも、ほんのひと言でいいんです。
“ありがとう”や“心配してくれてるの分かってる”……それだけで、きっと距離は縮まります。」
二人はしばし黙って湯気を見つめ、やがて照れたように顔を見合わせた。
兄が小さく笑う。
「……帰ったら、なんか作るよ。お前の好きなやつ。」
妹も頬を赤らめて、こくりと頷いた。
「……うん。……ありがと。」
カラン、とドアベルが鳴り、夜風がやさしく流れ込む。
二人の背中が並んで外へ出ていくのを、マスターはカウンターの奥から見送り、そっと呟いた。
「――家族だからこそ、言えないことがある。
でも、その優しさはちゃんと伝わるものですね。」
そしてまた、次のお客様を待つように、
ゆっくりとミルのハンドルを回し始めた。
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