第24話言えなかったごめん

 夜十時半。

 街路樹が風に揺れ、ネオンの明かりがぼんやりと路地を照らす。

 カラン、とドアベルが鳴いた。

 マスター小鳥遊はカウンターでカップを磨いていた手を止め、静かに顔を上げる。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ。」


 入ってきたのは、二十代前半くらいの女性。

 目元が少し赤く、手には小さなバッグを強く握りしめている。

 カウンターに腰を下ろすと、俯いたまま小さく声を出した。


「……ここって、相談できるんですよね。」


「ええ、もちろん。コーヒーはお好きですか?」


「……少し甘いのを……お願いします。」


「かしこまりました。カフェオレを。」


 サイフォンの湯が静かに踊る音が、店内に広がる。

 やがて女性は、握ったバッグを膝の上でぎゅっとつかんだまま、ぽつりと話し始めた。


「……さっき、彼と喧嘩してしまって……。

 私、ひどいことを言ってしまったんです。

 ……本当はそんなつもりじゃなかったのに……口が勝手に。」


 マスターは黙って耳を傾ける。


「……すぐに謝ればよかったのに、怖くて……そのまま家を飛び出して、気づいたらここにいて……。

 ……嫌いじゃないし、別れたくないのに……何て言ったらいいのか分からないんです。」


 カップに注がれたやわらかなカフェオレが、ほんのりと甘い香りを放つ。

 マスターはそれを差し出し、穏やかに語りかけた。


「――言葉が見つからないのは、相手を大切に思っている証拠ですよ。」


 女性はカップを両手で包み込み、目を伏せたまま小さくうなずく。


「……でも、ひどいこと言ったのに……許してくれるでしょうか。」


「許すかどうかは、彼が決めること。

 でも、あなたが謝るかどうかは、あなた自身が決められます。」


 マスターは静かに言葉を重ねる。

「難しい言葉を探さなくてもいいんです。

 ただ、素直に――『ごめんね、あのとき言いすぎた。本当は別れたくない』と伝えればいい。」


 女性は、ハッとしたようにマスターを見つめた。


「……そんな、シンプルでいいんですか?」


「ええ。気持ちが真っ直ぐなら、それだけで十分です。」


 カップを見つめ、女性の目に涙がにじむ。

「……ありがとうございます……帰ったら、連絡してみます。」


「ええ。あなたのその気持ちが伝われば、きっと彼の心にも届きますよ。」


 女性はカフェオレを一口飲み、深く息をついた。

 ほんの少し、肩の力が抜けたように見えた。


 やがて彼女はバッグを肩に掛け、立ち上がる。

 カラン、とドアベルが鳴り、夜の空気がひやりと頬を撫でる。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターはカップを拭きながら、静かに呟いた。


「――大切な人ほど、素直な言葉が一番届くものです。」


 そしてまた、次のお客様を待ちながら、

 ゆっくりとミルのハンドルを回し始めた。

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