第32話声の向こうで傷ついて

 夜十時。

 街はすっかり落ち着き、時おり通る車のライトが濡れた路面を照らしている。

 カラン、とドアベルが鳴いた。

 マスター小鳥遊はカウンターでカップを拭いていた手を止め、柔らかな目を向けた。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ。」


 入ってきたのは二十代半ばほどの女性。

 仕事帰りなのか、名札を外したヘッドセット用のケースがバッグからのぞいている。

 カウンターに腰を下ろすと、しばらく無言で目を伏せていた。


「……コーヒーはお好きですか?」

 マスターが問いかけると、彼女は小さな声で答えた。


「……優しい味がいいです……。」


「かしこまりました。カフェラテを。」


 サイフォンの湯がゆるやかに踊り、店内にやわらかな音が広がる。

 彼女はぽつりと語り始めた。


「……私、コールセンターで働いています。

 電話の向こうで、毎日たくさんの人と話すんですけど……最近、ひどいお客さんが多くて……。」


 マスターは手を止めず、耳を傾ける。


「……何を言っても怒鳴られて、罵られて……時には人格を否定するようなことまで言われて……。

 『お前のせいで全部ダメになった』って……。

 もう、心が折れそうで……辞めた方がいいのかなって……。」


 カップに注がれたカフェラテが、ほんのり甘い湯気を立ち上らせる。

 マスターはそれを差し出し、ゆっくりと語りかけた。


「――おつらかったですね。

 電話の向こうだからといって、何を言ってもいいと思う人がいる。

 それを毎日受け止めるのは、決して簡単ではありません。」


 彼女はカップを見つめ、涙をこらえるように唇を噛んだ。

「……でも、私が耐えなきゃ……って……。」


「いいえ。

 耐えることばかりが、あなたの仕事ではありません。

 あなたの心が傷ついてまで、その仕事を続けなければならないわけではないんです。」


 彼女はカップを両手で包み、かすかに首を横に振った。

「……でも、辞めるのも悔しい気がして……。」


「そうですね。

 辞めることも、続けることも、どちらも間違いではありません。

 大切なのは――『あなたがどうしたいか』です。

 もし、この仕事を通して誰かの役に立てる喜びがまだあるなら、その気持ちを守るための方法を探してもいい。

 でも、もう限界なら、自分を守る選択をしていいんですよ。」


 彼女の目に、かすかな光が戻る。


「……自分を守る、ですか……。」


「ええ。

 暴言を受け続けることは、あなたの価値を

決めるものではありません。

 あなたの優しさや頑張りを、どうかご自身で大事にしてください。」


 彼女はカフェラテをひと口すすり、ほっと息を吐いた。

「……ありがとうございます……。

 少し……考えてみます。辞める前に、上司に相談してみるとか……。

 ……もう一度、心を守れるやり方を探してみます。」


 マスターは穏やかにうなずいた。

「ええ。あなたの心が笑顔を取り戻せますように。」


 やがて彼女は立ち上がり、バッグを肩にかけて席を後にした。

 カラン、とドアベルが鳴り、夜風がやさしく流れ込む。

 その背中は、ほんの少しだけ、まっすぐになっていた。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターは静かにカップを拭きながら、

 窓の外を見やり、そっと呟く。


「――人の声に傷ついた心にも、どうかやさしい声が届きますように。」


 そしてまた、次のお客様を待ちながら、

 やさしくミルのハンドルを回し始めた。

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