第18話上司と部下のはざまで

 夜八時。

 仕事帰りのサラリーマンたちが通りを急ぐ中、〈ル・プチ〉の柔らかな灯りが小さく滲んでいる。

 カラン、とドアベルが鳴った。

 マスター小鳥遊はカウンターでカップを磨く手を止め、やさしい目で来客を迎える。


「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ。」


 入ってきたのは、男女ふたり。

 スーツ姿の男性は四十代半ばほど、落ち着いた雰囲気だがどこか険しい表情。

 隣に立つ女性は二十代後半くらいで、緊張した面持ちでバッグを抱えている。


 二人は並んでカウンターに腰を下ろすと、男性がためらいがちに口を開いた。

「……マスター、相談を……してもいいですか?」


「ええ、もちろん。お好きなコーヒーを。」


「俺は、苦めの深煎りで。」


「……私は……カフェラテでお願いします。」


 サイフォンの湯がふつふつと音を立てる。

 二人は視線を合わせず、しばし沈黙した後、男性が先に言った。


「……こいつの上司をしてます。

 最近、俺が叱りすぎてるのか、部下から距離を置かれてる気がして……。」


 女性は少し視線を下げて、小さな声で続ける。

「……私、頑張ってるつもりなんですけど……。

 上司の期待に応えられないと、いつも怒られて……。

 でも、怖くて……相談できなくて。」


 マスターは黙って二人の言葉を聞き、カップにコーヒーを注ぎながら静かに話し始めた。


「――上司と部下。どちらも、立場は違えど、同じ人間です。

 上司は導く人であり、部下は学ぶ人。

 ですが、その間に必要なのは、“伝え合う勇気”です。」


 男性が眉を寄せる。

「……伝え合う……?」


「あなたが叱る理由を、ただ“できてないから”と伝えるのではなく、

 “ここを伸ばせば、もっと良くなる”と伝えてあげてください。

 それが部下にとっての希望になります。」


 女性は小さく瞬き、マスターを見つめた。

「……希望……」


「そしてあなたも。

 怖くて黙ってしまうと、上司はあなたがどう感じているかわからない。

 叱られてつらいときは、言葉にしてもいいんです。

 “もっとこういう指導をしてほしい”と。」


 二人はしばし沈黙し、カップを手に取る。

 湯気の向こうで、互いの顔を少しだけ見た。


 男性がふっと笑った。

「……俺、ただ怒るだけになってたのかもしれないな。

 もう少し、理由をちゃんと伝えるよ。」


 女性も目を細め、かすかに笑った。

「……私も、怖がらずに相談してみます。

 怒られるのが嫌で黙ってばかりじゃ、伝わらないですもんね。」


 マスターはやわらかく微笑んだ。

「――仕事も、人と人。

 言葉を交わすことで、きっと互いの見え方が変わりますよ。」


 二人はコーヒーを飲み干し、並んで席を立つ。

 カラン、とドアベルが鳴り、夜風が店内をやさしく撫でた。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターは新たな豆をミルに入れながら、

 窓の外を見やり、静かに呟く。


「――立場が違うほど、言葉を交わすことは難しい。

 けれど、その一歩が、人をつなぐ橋になる。」


 そしてまた、次のお客様を待つように、

 ミルのハンドルをゆっくりと回し始めた。

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