第42話

「よっしゃああ!」


 動かなくなった5人を見て、怜司が声を上げた。

「狙い通り引っかかってくれたぜ! やっぱり松島に血を用意しておいてもらって良かったな!」

「大変らったんれふよ……あれらへのパックに溜めるの」

 カリナがその場に座り込んだ。

「私の功績も、讃えられてしかるべきかと」

「わかってるって、羽川サン! よし、みんなで焼肉にでも行こうぜ!」


「え? 焼肉行くんですか? やったあ!」

 リビングを覗き込んだ乃亜が声を上げた。

「すごいですね、皆さん。あんなヤバそうな霊をやっつけちゃうなんて。ベランダからも逃げられないから、どうしようかと……」


「待ってください! 妙な気配がします!」

 羽川が玄関の方を睨んだ。


 玄関の渦はまだ消えていない。むしろ、いっそう勢いを増している。暗闇から、ゆっくりと影が姿を現した。



 その影は、人に似ていた。天狗の服に似た衣装を身に纏っている。しかし、皮膚の代わりに全身を覆う体毛が人ではないことを明確に物語っていた。

 剛毛に覆われた太い足がフローリングの床を踏みしめると、湿った獣の臭いがリビングに広がった。

 

 リビングの入口の暗がりに、金色の目が光る。灯火が揺れると、赤い顔が薄明かりの中に浮かび上がった。

 顔の周囲は毛に覆われ、前に突き出した口から長い歯列が覗く。その者は、口元を歪ませて嗤っていた。


「猿……?」

「まさか……こいつが郷田が言ってたカミサマか?」

 怜司達は身体を強張らせた。


「どう見ても、妖怪の類のように見えますが」

 羽川の額を汗が流れ落ちる。理屈ではなく、本能的な危険を感じていた。


『サシダセ、オマエタチモ』


 頭の中に、直接声が流れ込んできた。


「誰だよ……テメエ。一体何のつもりだ?」

 怜司が一歩前に出る。


『ヤツラハ、サシダシタ。オノレノタマシイヲ。ニンゲンノタマシイ、ウマイ。オマエラモクワセロ』


 猿は、下顎を奇妙に動かしながら語りかける。


『サスレバ、ナカマニイレテヤル。エイエンニ、モリデイキラレルゾ』


 そう言うと歯を剥き出してニヤニヤ笑った。


「困りましたね。こいつは死人とはわけが違いますよ」

「ああ……。おそらく、さっきの5人もこいつに魂を喰われたんだろう。……松島、まだ行けるか?」

「無理れす」

 カリナは、片膝をついて肩で息をしていた。


「しょうがねえな!」


 怜司が右手に力を込めると、光の刃が徐々に大きくなる。日本刀程の長さに伸ばすと上段に振りかぶり、猿に斬りかかった。


 光の刃が、猿の左肩に食い込んだ。しかし、そう思った刹那、怜司の体は大きく跳ね飛ばされた。


 次の瞬間、カリナが血にまみれた手を猿の顔に塗りつける。羽川も脇腹に札を押し当てた。

 だが、カリナと羽川の体も壁に打ち付けられた。


「痛ってぇ……松島! 羽川サン! 大丈夫か!?」

「な、何とか」

 羽川がすぐに起き上がる。カリナは返事が無かった。


「羽川サン、何とかなんないの?」

 怜司は脇腹を押さえながら言った。


「……残念ながら。今日は死人向けの準備しかしていませんし、カリナさんの血も効かないとなると、もう打つ手がありません」


『ヒレフセ、ヨワイニンゲン。アガメヨ、カミヲ』

 猿は、口元に付いたカリナの血を、長い舌で舐めとった。


『ニンゲン、ヨワイ。デモ、タマシイハウマイ。ヨワイハウマイ。ウマイハヨワイ』

 歌うような声が頭に流れ込んできた。


 呆然と見ていた乃亜の横を、奥の部屋から『手』が回転しながら、猿に向かって飛んで行く。

 空中で札が破け、中の手が露わになった。猿がその手を掴むと、リビングの中央で倒れていた自殺者達が立ち上がった。


『ソヤツラノヨウニ、エイエンノイノチヲサズケルゾ! サア、ハヤクタマシイヲサシダセ!』


 5人の自殺者達が羽川の体を押さえつけた。猿が顔を近付けると、羽川は苦悶の表情を浮かべた。

「うがっ! がああ……!」

 

「やめろコラ!」

 怜司が猿に再び切り掛かる。だが、あっさり腕を掴まれてしまった。

「クソ、この化け物が!」

 怜司と猿が睨み合う。と、怜司の視界が急にぐにゃりと歪んだ。吐き気がして、口の中のものを勢いよく吐き出す。大量の血が混じっていた。

「げえ!」

 怜司は床の上に前のめりに倒れた。



「柊木さん!」

 乃亜の声に、猿は振り返った。歯を剥き出して威嚇するような表情をする。


『オマエ、イチバンヨワソウ。サキニイタダクトシヨウ』


 足が動かない。猿の口が大きく開き、鋭い犬歯が眼前に迫った。

 しかし、寸前で何かがぶつかる音がして、猿の身体が揺れた。乃亜のすぐ前で、猿の表情が歪む。嘲笑していた口元が、怒りに震えた。


 猿の背中に、怜司が光の刃を突き立ていた。だが、刃は短刀ほどの大きさに縮んでおり、やがて光を失った。


「逃げ、ろ……。とても手に負える相手じゃねえ」

 怜司の薄れた視界に、乃亜の姿が見える。


 猿が片手で怜司の胸ぐらを掴むと、力任せに床に叩き付けた。剛毛に覆われた逞しい足で、怜司の腹を踏み付ける。

 言葉を忘れた様に、理性の無い獣の叫びを上げながら、怜司を踏み付けた。 

 

 どうしよう……。怜司を助けなければ。しかし、羽川もカリナも既に闘える状態では無い。


 怜司を痛めつけるのに満足したのか、猿が乃亜を振り向いた。先ほどまでとは違う、獲物を狙う野生動物の目が乃亜を捉えた。



 乃亜は踵を返し、奥に向かって走った。でも、何処に逃げればいい? 和室は駄目、寝室も……。

 乃亜は、廊下の突き当たりのベランダに続く扉に体を打ちつけた。


 書斎は駄目だったが、こちらの扉から外に出られないだろうか? ドアノブを強く握りしめ、激しく動かす。しかし、ドアは微動だにしなかった。

 ドアノブに掛けた紐のお守りをもう片方の手で握りしめ、何度も試したが、ドアは空間に直接固定されたように動かなかった。



 ―――もう駄目かもしれない。

 そう思った時、ドアの上部の窓から、巨大な赤い月が見えた。



 こんなに月をはっきり見たのはいつ以来だろう? 考えてみると、無意識に月を見るのを避けていたような気がする。


 そうだ、私は月を見るのが怖かったんだ。


 子供の頃に、こんな大きな月を見た。でも、その時にとても怖い事があったんだ。


 後ろから、猿が近づいてくる気配がする。振り返ると、猿がゆっくり歩いてくるのが見えた。その後ろには5人の死人が見える。逃げられないと確信しているのだろう、猿は、嘲るような笑いを浮かべて向かって来た。

 

 乃亜は不思議と落ち着いていた。

 ……子供の時も、私は死人に囲まれていた。暗い洞窟の中を歩いて、亡者に追いかけられて……その先には……。


 乃亜の脳裏に、大きな赤い門が浮かんだ。 


『手を伸ばすがいい』


 どこからか聞き覚えのある声が聞こえた。

 そうだ、私はあの日、扉を開けてウツロ様と繋がったんだ――――。


 後ろ手にドアノブを握ると、どろりとした生暖かいものが乃亜の手を包んだ。

 そのまま手に力を込めて引くと、ドアはゆっくりと開いた。ぎいい、と軋む音と共に開いた扉から、質量を持ったような闇が溢れ出て、乃亜と死人を包んだ。




 見渡す限り、辺りは闇に包まれている。猿と死人が周りをキョロキョロと見回した。

 マンションの一室にいたはずなのに、いつの間にか広い空洞に立っていた。ごつごつした岩の感触が、靴の裏を通して伝わってくる。


 乃亜は、ここがどこか理解していた。

 ここはマンションではない。あの洞窟の中だ。

 目の前には、赤い大きな門が立ちはだかっていた。そして、あの中にいる存在もわかっている。


 ウツロ様。月から堕ちてきた、巨大な首だけの神様。飲み込まれた者は、黄泉へ送られる。あの時隣りにいた人は、確かそう言った。



 猿が歯を剥いて威嚇した。

 『ナニヲシタ、ニンゲン! イマスグクッテヤル!』

 猿が指示をすると、5人の死人が一斉に乃亜に迫った。


 しかし、乃亜は怯えなかった。

 手をかざすと、巨大な赤い門がゆっくり開いていく。やがて、門の中の闇に巨大な口が姿を現した。


「こいつらを飲み込んで! ウツロ様!」

 乃亜は門に向かって叫んだ。


『……造作もない』


 巨大な口が、口角を上げて笑みを浮かべると、大きく息を吸い込んだ。洞窟の中に暴風が吹きすさび、5人の死人は抗う間も無く地面から引き剥がされ、巨大な口に吸い込まれていく。その後ろにいた亡者達も、次々に巨大な口に飲み込まれていった。



 『コシャクナ!』


 猿が足を踏みしばりながら『手』をかざすと、巨大な火炎が吹き出して門を包んだ。

 しかし、風が勢いを増し、大蛇のような炎も軽々と口に吸い込まれて行った。

 徐々に、猿の足が地面から引き剥がされる。


 『ヤメロ……ヤメロ!』


 猿は四つん這いになり地面にしがみついたが、その体躯は暴風に抗いきれなくなり、遂には宙に浮かんだ。


 『ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイィィィィィィィィィィィーーーーーーーーーーーーーーーーー!』


 猿は、獣の咆哮とともに巨大な口に吸い込まれていった。呪われた『手』も後を追う。


 全てを飲み干すと、大きなげっぷと共に門は再び閉ざされた。

 乃亜は、闇の中で気を失った。



――――――――――――――――――――――――――――


「……おい、起きろ!」

 頬を叩かれて目を開けると、窓から朝日が差し込んでいた。目の前に怜司の顔が見える。怜司の服は、血や謎の汚れにまみれてボロボロだった。


「柊木さん? 良かった……吸い込まれて無かったんですね」

 乃亜は、目を擦りながら体を起こした。寝室の前の廊下に倒れていたらしい。


「何言ってんだよ? 頭大丈夫か?」

「ちょっと、言い方! 私は大丈夫ですよ!」

 怜司が手を差し出し、乃亜を立ち上がらせる。


 リビングに行くと、羽川がキッチンの椅子に座ったカリナの手当をしていた。部屋中が壊れた家具や破れた札やらで、足の踏み場も無い。カリナの血だろうか、天井まで赤い染みができていた。


「一応、みんな無事だったようだな」

「無事じゃありあへんよ、柊木さん! 特異体質じゃなきゃ、ひんれます!」

 確かに、カリナはほぼ全身から流血していた。血まみれのタオルが傍に山のように積み上がっている。


「俺だって痛ぇんだから、我慢しろよ」

 怜司は腹を押さえながら散乱した瓦礫を靴でどかすと、床に直接尻を付けた。

「一息付いたら、仲良く病院に行こうぜ」


「あまり気が進みませんね……」

 頭に包帯を巻いた羽川が答えた。

「それにしても、我々は何で生きてるんでしょう?」

 羽川が不思議そうに呟く。


「さあな、俺も気を失う前はよく覚えてねーけど。必死で刀を振り回してたから、猿に当たって倒したんじゃねーかな」

 玲司が電子タバコを咥えて火を付ける。この部屋なら吸っても構わないと思ったのだろう。

「ひがうとおもひまふよ。柊木さん、弱いじゃないれすか」

 カリナが呆れた様に言う。


「うるせーな、俺は頭脳派なんだよ。うーん……もしかして帰ったんじゃねーか? 時間切れか何かで」

「それも考えにくいですね。あの妖は人間の魂に執着していたようですし、満月まで待っていたのに手ぶらで帰るとは思えません」

 羽川が怜司の意見を否定した。


「それに皆さん気付いてると思いますが、部屋から禍々しい気配が消えてますね。あの猿の妖が祓われたと考えるのが妥当かと」

「そうかもな……。しかし、どうして……?」


「あの!」

 乃亜が、笑いながら自分を指差した。

「……なんだよ?」

「私! 私です! 私が猿も他の幽霊も吸い込んじゃったんです!」

「はあ? どうやって?」

「えーと、口を大きく開けて、ガーッて息を吸って!」

 乃亜は自分で口を開け、身振りをして見せた。


 3人は、無言で乃亜を見つめた。

「……ちょっと信じ難いですね」

「お前、本当に頭大丈夫か? 一緒に病院行こうぜ」

「夢れも見ひゃんらないの?」

 3人は、憐れむような表情で乃亜を見つめた。


「ひどい! 本当ですってば!」

「じゃあ、もう一回やってみろよ」

「え? それは……こんな感じで扉を開けると!」


 乃亜は窓を勢いよく開いた。


 しかし、開かれた窓から夏の熱気が吹き込んでくるだけだった。


 「……暑いので閉めていただけませんか?」

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