第7話 納品準備
あれから1ヶ月近くが経過した。
やっとのことで描き終り、サインを入れるこの瞬間が最も緊張する。
誤って筆を落として汚してしまったら?
手が震えて始筆がぶれてしまったら?
サインが斜めになってしまったら?
プレッシャーに押しつぶされそうになりながら、前屈みになって書き入れたサインは、いつもより上手く書けたと思う。
あとは、乾燥させ、ワニスを塗れば作品として完成する。
元来、油彩画は半年から1年かけて完全乾燥させ、ワニスを塗って仕上げるものだった。
しかし今は、乾燥時間を圧倒的に短縮出来る『乾燥Box』がある。
部屋の片隅に設置されたそれは、高さ1.5m、奥行き1.2m、厚みが20cmくらいと小型だが、50号までは乾燥出来る。
備え付けのロッドを引き出し、ワンタッチクリップにキャンバスのフレーム部分を固定する。
スイッチを『Stand By』に入れると、キャンバスがゆっくりと庫内に飲み込まれていく。
わずか10秒ほどだが、この時間があることで期待感が増幅していく気がする。
以前、乾燥Boxを使わずに短時間で乾燥させようと実験してみたことがある。
直射日光や熱風、電磁処理など何種類か試したが、数時間で絵の具にヒビ割れや剥がれが発生し、全く上手くいかなった。
それが、減圧と周波数変調させながらの光熱で上手く揮発成分を蒸発させてくれるのは感動ものだ。
ククク、カツンという、微かな機械音とともに扉が閉じた。
Box前面に4箇所あるバルブから、小さくプシュッと音を立ててエアーが抜かれ、自動でロック位置に回転する。
覗き窓から見ていると、ブルーレーザーがキャンバスを上から下へとスキャンしていく。
ほんの数秒で絵の具の厚み、乾き具合の分析が完了し、パネルに『7.0h』と表示されてカウントダウンが始まった。
これで、明日の朝まで寝て待つだけだ。
緊張が解けると同時に眠気が襲ってきたが、今夜は何も抗う必要なんて無い。
眠気に身を任せ、バタッとベッドに倒れ込むように寝転がった。
運悪く、テーブルの端に置いてあった筆が手に当たったようで、弧を書いてシーツに着地したのが音で分かった。
染みが、また1つ増えてしまったんだろう。
だけど今さら慌てたりしないのだ。
そして、シャワーは明日の朝で良いだろう。
◇
ピピッという乾燥完了のブザーで目が覚めた。
描き上げた満足感もあり、スッキリした目覚めだ。
久しぶりによく寝た気がする。
今朝も勢いよくカーテンを引き、窓を開け放つ。
いつもなら陽光を浴びつつ、日課の"現実逃避の時間"を堪能するのだが、今朝は違う。
そそくさと窓を閉めて、部屋の奥へと向かう。
乾燥Boxのスイッチを押し込んで捻り『Release』モードに切り替える。
タイマーが切れた時点で与圧は済んでおり、すぐに扉が開き、ハンガーがスライドして来る。
キャンバスの裏に手を入れ、クリップを外して作品を取り出すと、そのまま表面を手で撫でて感触を確かめた。
「あぁ、問題ない。上出来だ」
マットタイプのワニスを取り出し、絵皿に垂らす。
刷毛で掬い上げ、セオリー通り全面を縦、横、縦と腕を大きく動かして、薄くムラなく塗り上げる。
ワニスが乗った部分から乱反射が抑えられ、絵の具の色彩が前面に立ち上がって来る。
溶剤の匂いもそうだが、色の鮮度が際立つこの瞬間がたまらない。
自然に顔が綻んで来る。
あとは自然乾燥すれば完成だ。
宣言した通り、最高傑作が仕上がったと思う。
作品を入れる挿箱はクラフトショップから受け取り済みだ。
今のうちにシャワーを浴びておけば、午後には梱包して納品に伺える。
ホコリを立てぬよう、そっとキッチンの扉を開けると首だけ突っ込んで、ホームノイドに指示を与える。
「朝食を用意してくれ。今日は洋食、1時間後」
「イエス。朝食を用意します。提供時刻は10時21分です。よろしいですか?」
「あぁ。かまわない」
「時間まで待機します」
そのままシャワーを浴び、身繕いを済ませてからキッチンに戻ってきた。
しかし、まだ40分しか経っておらず、ホームノイドは待機状態のままだった。
「指示変更。今から朝食の用意を始めてくれ」
「イエス。朝食を用意します。完了予定3分5秒後です。よろしいですか?」
「OK」
「調理開始します」
無機質なロボットアームがレトルトカートリッジをホルダーから取り出し、マルチクッカーに投入している間に、別なアームがトレイ、食器などのカラトリーを用意する。
あらゆる動作が無駄なく進行する様をたまに、こうやって眺めているのだが、その心境は複雑だ。
調理や食器の準備片付けなどキッチン機能の全てが作り込まれた1m四方の空間と、その機能を最大限に活用するインターフェースとしてのホームノイド。
両方揃って初めて機能するのだが、いつ見ても一切の無駄も飾りっ気も無い、オフホワイトの空間は宇宙船の中にようで異質だ。
極限まで無駄を省いた非人間的な便利さは、人間的な無駄の積み重ねに価値を見出す画家と相入れないものだろう。
だからこそ、画家という職業が成り立っていると考えれば、必要悪なんだと割り切った見方だって出来るわけだ。
「お食事の用意が出来ました」
「ありがとう」
「どういたしまして」
このやり取りも不要だが、人間性を保つには不可欠な儀式だと思う。
やはり技術が進歩しても人ってのは急速に進化したりしないものなんだなと妙に納得していた。
おっと。ボーッとし過ぎたかもしれない。
時計を見ながら朝食を頬張ると、今朝のトースト、ベーコンは、いつより心なしか美味しく感じた。
そうか、期待が持てる1日が始まった実感こそ、俺に必要なものだったんだ。
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