第6話 待ち人来たり
あの日からすでに3日が過ぎていた。
今日会えなかったらなら、綺麗さっぱり忘れよう。
社交辞令を本気にしてしまった俺が悪いだけだ。
諦め半分、スケッチブックに鉛筆を走らせていると、公園の西口からこちらに向かって、女性がベビーカーを押して来るのが見えた。
にこやかに駆け寄ろうかと一瞬血迷ったことを考えてしまったが、すんでの所で踏みとどまることが出来た。
盛大に尻尾を振って走り回っていた例の犬と、媚びを売ろうと尻尾を振る愚かしさが重なって見える気がしたからだ。
それに、敢えて気付かないふりをしてスケッチを続けていた方が画家らしいってもんだ。
「こんにちは」
初めて会った時と同じ、襟までパリッと糊の利いた淡いブルーのブラウス、OLのような黒のタイトスカートに黒いパンプス姿。
加えて、今日は、襟元にキラッと光るシルバーのペンダントが見えた。
たしか、あの時はペンダントはしていなかった。
わざわざ俺のために着けて来てくれたのかと思うほどおめでたくはないが、微かな希望を感じてしまう瞬間だ。
「どうも、こんにちは。数日ぶりですね」
自然な素振りを装って、スケッチブックをパタンと閉じ、立ち上がった。
わずか3日前に会ったばかりだというのに『印象とはこんなにも美化されるもんなんだ』と現実に引き戻されると予想していたが、そうならなかったことにかえって驚いた。
一分の隙も無い美しさとはこのことだ。
「昨日は生憎のお天気でしたね。ところで手にされてるのはスケッチブックですか?」
先日と打って変わって、気を許しているかのように、言葉だけでなく目元まで優しげに見える。
少しは信用してくれたのかもしれない。
「あ、これね。こう見えても画家でして。そういえば自己紹介もまだでしたね。坂崎翔画といいます。ご覧の通りの画家です。気分転換に外で描くこともあるんですよ」
「こちらこそ助けて頂いたのに名乗りもせず失礼いたしました。エリス利根川と申します。タチバナ波動物理研究所で秘書を務めております」
「タチバナ研!? あの有名な?」
「はい。ありがたいことに、GATE技術開発、実用化で広く名が知られております」
タチバナ研究所といえば、次元の壁がどうとかで処理速度がとんでもなく速いスーパーコンピュータを開発し、文字通り世界をひっくり返した研究所だ。
これは、とんでもない大物と知り合えたことになるぞ。
「いや、びっくりしました。時代の最先端どころか、まさに今、未来を作っている研究所にお勤めだったとは」
「私はただの秘書です。未来を作っているのは所長と、その理想を共有する研究者たちです。それより、本職の画家さんとお会いするのは初めてです。今、されていたのは風景の写生でしょうか?」
「いやいや。私が描くのは心象風景なんです。だからリアルな景色ではなくてイメージの世界。空想上の情景ってやつなんですよ。だから外で描く必要は無いんですが、閉じこもってると気持ちが滅入っちゃいますから」
「そうですね。美雪もミューキーも散歩しなかった日は機嫌が悪いかもしれません。坂崎様と同じですね」
"2人"に向け、遠くを見るように少しだけ細めた眼差しは、とても優しく、そして優雅だった。
紺色のフードが付いたベビーカーは、横に2人並んで寝かせられるタイプだ。
少子化が進んだ現代において、双子なんて極めてまれな存在だろうに。
きっと特注品なんだろう。
利根川さん自身も間違い無く富裕層、しかも思っている以上に上流階級なのかもしれない。
「美雪ちゃん、ミューキーちゃん。こんにちは、2人とも今日はご機嫌かな?」
わざとらしく手を振ってみたが、どうにも居心地悪く、そして虚しい。
美雪ちゃんが無表情だからではない。
打算的に動いている俺自身が後ろめたさを感じ、罪悪感を覚えているからだ。
「はぁ––」
思わず天を仰いでため息をついてしまった。
「申し訳ありません。最初にお伝えしておくべきでした。美雪はRare Disease –– 希少疾患を患ってまして、通常の反応は返せません」
視線を戻すと利根川さんは、深々と頭を下げていた。
「いえ、頭を上げて下さい。そうじゃない。そういう意味じゃないんですよ!」
慌てて手を振って釈明するしかなかった。
「と言いますと?」
軽く眉を寄せ、怪訝な表情で見つめられた瞬間、嘘を吐くことは裏切りだと思えた。
「違うんですよ。私の心が汚れてるなと、この子たちを見てはっきり分かったんです」
目を伏せたのは演技ではない。
本心から恥ずかしく、目を見られなかったのだ。
そして、現状を伏せてまで近付こうとした理由を包み隠さず話し始めていた。
「先ほども申しました通り、私は画家です。個展を開いてもたいして売れない貧乏画家なんです。そんな私が裕福そうな利根川さんにお会いして、親交が深まれば絵を買ってもらえるんじゃないか。そのために愛想良くしておこうか。なんて思ってしまったわけです。でもこの子達を見ていたら、心が汚れてるなと……そんなため息です。ほんとに、汚れることが大人になった証だなんて滑稽ですよね」
話し終わったら圧力弁から蒸気が抜けたかのように、急に気持ちが軽くなった気がした。
そして、利根川さんに質問されたら、何の隠し事も出来ない気がする。
「そうだったのですね。それでも先日は森の中にミューキーを探しに行って頂いてますし、疾患を持つ美雪に向ける視線も優しげでした。坂崎様には美しい部分がたくさん残っていらっしゃるんですね」
「そんな風に慰めて頂けるなんて。ありがとうございます」
「もし宜しければですが、私にスケッチブックを見せて頂けないでしょうか?」
「ええ。もちろんですとも」
あぁ、なんてことだ。
いろんな落書きも描かれてるというのに言われるままに渡してしまった。
利根川さんは、黙ってページをめくっている。
その様子を横で眺めているのは、なんとも気恥ずかしく、いたたまれない。
じっとしていると、次第に背中までむず痒くなってくる。
それでも横から口を挟まなかったのは、彼女の目が真剣だったからだ。
しばらく眺めていると、とあるページでその手が止まった。
「これは・・・」
美雪ちゃんとミューキーちゃんが、顔を寄せ合ってにこやかにしているシーンだ。
「先日お会いした時、記憶に焼きついた2人の姿を元に描いたのですが……、不快でしたかね」
「いえ、そうではありません。活き活きとした表情、とても気に入りました。早速ご相談なのですが、こちらの作品を描いて頂けませんか? 大きさ、画材、全てお任せします。もちろん、言い値でお支払いします」
「それは構いませんが––。本当によろしいんですか!?」
「この作品は、将来、2人の良い思い出になってくれるはずです」
「分かりました。ありがとうございます。それでは1ヶ月、お時間下さい。最高傑作を仕上げて研究所にお届けに伺います。もし何かありましたらこちらにご連絡頂けませんか?」
「ご丁寧にありがとうございます。私の方はこちらに。ただ、仕事柄、音声通話をしている余裕がありませんのでメッセージでお願いします」
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