第5話 小さな刺激
公園までの道のりは、距離にして2.5km。
だいたい30分といったところだ。
だが、昨日の記憶とは違い、とても近く感じた。
それはそうだ。
診断結果を聞きにカウンセリングに行くだなんて、足取りが重くなるのは当然だろう。
それに比べて今朝は、靴底にバネでも仕込まれているのかと疑うような軽やかなステップを足が勝手に刻んでいる。
ポジティブな感情は期待を伴い、前へ前へと進む推進力になるものだ。
道すがら、周囲を見ながら歩いていたが、ベビーカーを押す人は誰もおらず、興味を惹くトラブルも無く、フラフラと歩く迷子の子猫もいなかった。
おかげで11時前には、昨日と同じベンチに腰掛けることが出来た。
あの女性は、すぐ隣の遊歩道を通って来たはずだ。
振り返って公園の入口付近を見てみたが、まだそれらしい人影は無い。
では、先に公園に入って散策でもしているのか?
森の近くにでもいるのか?
キョロキョロと周囲を見回していると、俺自身が怪しげな人物に思えてきて、わずか数分で自重することになった。
目に前あるのは、昨日、嫌というほど眺めた噴水だ。
さすがに2日連続眺めていても仕方が無い。
おもむろにバッグからスケッチブックを取り出した。
続いて、ペンケースから鉛筆を1本取り出して、芯先を眺める。
全てが電子化され、1家に複数台のメイドロボが当たり前の世の中というは、便利過ぎて半世紀前のような生活には戻れない。
反面、何でも自動化されて心が休まるタイミングが少ないのも、また事実である。
そんなきっちりした世界に、昔のような緩さや癒やしを取り入れようと新懐古主義——ネオノスタルジアが、富裕層を中心に流行しているは当然なのかもしれない。
不便を楽しめるのも財力があればこそなんだろう。
おかげで油彩、水彩、素描などの絵画は、昔ながらの画材が好まれるし、金持ち相手の商売だから価格設定だって高く出来る。
そう思っていたんだが、金持ちのクライアントを得られた画家に限った話だったのは、俺の5年間が物語っている。
芯先がしっかり尖っていることを確認し、さらさらと昨日の光景を描き始めた。
どれくらいの時間が過ぎたんだろうか。
ふと顔を上げると、いつのまにか日が傾いていた。
夕方になるまで夢中になって描いたのは、ずいぶん久しぶりだ。
スケッチブックには、ベビーカーに並んだ赤ちゃんと子猫をはじめ、10枚ほどエスキースが仕上がっていた。
今日は、あの女性に会うことこそ叶わなかったが、久しぶりに手応えを感じることが出来た有意義な1日だった。
ここ数年で最高傑作は、この中から生まれることになるだろう。
上手く行けば、俺の代表作と呼ぶべきものになるかもしれない。
あの女性か、雇用主が高く買い上げてくれないだろうか。
身なり、態度、雰囲気を見る限り、大企業の重役以上だろうから期待出来るかもしれない。
「さ、帰るか」
帰宅したら、もう19時近かった。
ホームノイドに夕飯を用意させ、サッと済ませる。
あとはアトリエ部屋に篭もって準備開始だ。
まずはエスキースを見返して、キャンバスサイズを決める。
続いて、下地を作り始めた。
本来は石膏や白亜を使いたいところだが、今回は乾燥が速い上に強固で、地の目が細かいクイックファンデーションを使う。
塗り終わったら紫外線で処理し、ひと晩置くだけで描き始めらられる手軽さは他に代えがたい。
1枚1枚色味を変えつつ5枚終わったところで時計を見たら、もう深夜半過ぎだった。
明日から本格的に制作開始だ。
翌朝、カーテンを開けたら雨が降っていた。
低く垂れ込めた雲は黒々としており、GATEニュースを見るまでもなく、しばらく止みそうにない。
それならそれで構わない。
今日は1日制作を進めるまでだ。
昔ながらの油彩は楽しい。
下描きはせず、昨日描いたエスキースを見ながら、バランスを調整しつつ下色を置いていく。
ペインティングナイフでザクザクと形を取っていくこの工程が一番好きだ。
立体を面で理解し、盛り上げ、固有色を置いてゆく。
もったりとした重み、筆を滑らせた時のヌルッとした抵抗感。
これら全てが筆から指先に伝わり、濃厚な油絵の具の匂いと相まって、五感を刺激する。
爺さんも画家だったが、爺さんが若い頃にデジタルが出始めたそうだ。
絵の具を使わず、タブレット端末だけで描いたという。
今風に言うと、Vertual Vertical Projection つまり、Vプロのミニ手元端末といったところか。
垂直に投影された仮想ディスプレイ空間に自由に描けるVプロは、現代画家の必須ツールといっても過言ではない。
絵の具代が不要だし、筆だって消耗せず、いつでも新品同様だ。
しかし、使い込んだ筆の描線が醸し出す味わいは、現代技術を持ってしても再現出来るものではない。
それより何より、俺のような感覚で描く画家にとって仮想空間は、創作意欲が刺激されず、モチベーションが上がらないのだ。
だけど、爺さんが若い頃のタブレット端末で描いた作品というのも作品として面白いかもしれない。
隣の部屋に積まれたガラクタ箱の中に1つくらいは実機が残ってるはず。
お金に余裕が出来たらレストアしてもらおうかな。
制作、展示、プロモーションという名の広告宣伝活動、売り込み、営業、また取材して制作。
この繰り返しが画家の日常だが、漫然と過ごしていると刺激が足らず、良い作品を描くことは出来ない。
白痴化と聞いて落ち込んでいたが、今はどうでもいいと思い始めていた。
そうだ、すっかり忘れていたが、俺に足りなかったのは刺激だったんだ。
無駄な思考を挟みつつ、作品制作を進めて1日が過ぎて行った。
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