SCENE#40 さよなら、メロンソーダ

魚住 陸

さよなら、メロンソーダ

第一章:夏の終わりと苦い炭酸




いつもの待ち合わせ場所、駅前の小さなカフェのテラス席。夏の強い日差しはすでに傾きかけ、オレンジ色の光がアスファルトを照らしていた。僕は少し遅れてやってきた彼女を待っていた。今日は、僕たちの付き合ってちょうど一年目の記念日。渡そうと用意していた小さなプレゼントを、鞄の中でそっと握りしめた。



「ハルキ、ごめん、待った?」



少し息を切らして現れた彼女は、いつもの明るい笑顔ではなく、どこか憂いを帯びていた。その瞬間、嫌な予感が僕の胸を駆け巡った。



「いや、今来たところだよ。どうしたの?何かあった?」



彼女は僕の隣に座らず、立ったまま俯いた。夏の終わりの熱いアスファルトの匂いが、やけに鮮明に鼻につく。



「あのね、ハルキ…」彼女はゆっくりと話し始めた。



「私たち、別れた方がいいと思うの…」



頭の中が真っ白になった。目の前の景色が滲んで、セミの声だけがやけに大きく、耳鳴りのように聞こえる。



「え…?どうして?何か僕が悪いことした?」



僕は慌てて尋ねた。喉がからからに渇いて、声がかすれる。



彼女は首を横に振った。



「違うの。ハルキは何も悪くない。ただ…」



「ただ、何?」



僕は彼女の言葉を促した。逃げていく彼女の手を掴むように、必死だった。



「もう、あなたのことを好きかわからないの…」



彼女の小さな声が、夏の終わりの空に吸い込まれていくようだった。



「そんな…急にどうしたんだよ。何かあったなら話してくれよ。僕たち、ちゃんと話し合えば…」



「ごめんね、ハルキ。もう、決めたことだから…」



彼女は僕の目を見ようとしない。その視線が、僕の存在を拒絶しているようだった。



結局、カフェに入り、二人で向かい合って座った。店内は冷房が効いていて、肌寒く感じた。彼女はいつものようにメロンソーダを注文した。グラスの中で氷がカランと音を立てる。僕は、何も喉を通る気がしなかった。



「ハルキも何か頼まないの?」彼女が気遣うように言った。



「いや、いい…」



目の前でグラスの中で緑色の炭酸が弾けているのが、まるで僕の心臓が引き裂かれる音のように聞こえた。プレゼントを渡すことはできなかった。苦いメロンソーダの味が、別れの言葉と共に僕の口の中に広がった。



「本当に、これでいいの?」最後に、絞り出すように尋ねた。



彼女は静かに頷いた。「うん。今まで、ありがとう…」



その言葉が、僕たちの関係の終わりを告げる、最後の音だった。彼女のメロンソーダは半分以上残ったままだった。





第二章:抜け殻の季節



彼女がいない日々は、まるで色を失ったモノクロームの世界だった。僕の部屋は、どこか彼女の残り香がする気がして、それがまた辛かった。一緒に聴いていた音楽、二人でよく行った映画館の薄暗さ、公園のベンチで交わした何気ない会話。街のどこを歩いても、彼女の面影がちらついて、胸が締め付けられた。




部屋に閉じこもって、ただ時間だけが過ぎるのを待つような毎日。食事もろくに喉を通らず、夜はなかなか寝付けなかった。天井のシミを数えるように、ただぼんやりと夜が明けるのを待った。




「ハルキ、最近どうしてる?元気にしてるか?」



ある日、親友のマサキから電話があった。その声は、僕が部屋に引きこもっていることを知っているようだった。




「ああ、まあね。ぼちぼちだよ…」



僕は努めて明るい声を出した。けれど、それは僕自身にも信じられない声だった。



「ぼちぼちって…お前、全然大学来てないだろ。心配してるんだぞ。俺も」



「ごめん。ちょっと、色々あってさ。まだ、頭の整理がつかなくて…」



「色々って、あいつのことだろ?無理してないか?お前、あいつのこと、ほんと大事にしてたから…」



マサキの優しい声が、かえって僕の胸に響いた。彼には、僕の全てが見透かされている気がした。



「大丈夫だよ。もう少ししたら、ちゃんと行くから」僕はそう言って、電話を切った。受話器を置く手が震えた。




あの日のカフェのメロンソーダの緑色が、どうしても忘れられない。鮮やかで、どこか残酷な色…炭酸が弾ける音はもう聞こえないけれど、あの苦い甘さが舌に残っているような気がした。冷蔵庫の奥に、彼女が好きだったゼリーが一つ残っていた。それを見るたびに、またあの日の光景がフラッシュバックした。僕はまだ、夏の終わりに置いて行かれた抜け殻のようだった。




ある夜、母が僕の部屋を訪ねてきた。ノックの音にも、僕は反応できなかった。



「ハルキ、ご飯食べれてる?顔色が悪いわよ。何かあったの?」



「うん、大丈夫。食欲ないだけ…」僕は毛布に顔を埋めたまま、小さな声で答えた。




母はそっと僕の頭を撫でてくれた。「そう…でも、ちゃんと食べないとダメよ。ハルキは一人じゃないんだから。何かあったら、いつでもお母さんに話してね」




母の温かい手が、僕の心を少しだけ溶かした気がした。でも、まだその温もりを受け止める準備ができていなかった。僕はただ、目を閉じた。




第三章:新しい風




季節は巡り、街の景色も少しずつ変わっていった。秋風が窓から吹き込み、部屋の空気を入れ替える。夏祭りの賑やかさが嘘のように、ひんやりとした秋風が吹いていた。街路樹の葉が色づき始め、僕の心を少しずつ外へといざなった。




ある日、大学の食堂で偶然、サークルで一緒だった先輩のダイスケさんに再会した。




「あれ、ハルキじゃん!久しぶり!最近見かけないからどうしたのかと思ってたよ」




ダイスケさんは以前よりもずっと明るく、楽しそうに見えた。その笑顔が、僕の凍り付いていた心を少しだけ解きほぐした。




「ダイスケさんこそ、元気にしてましたか?」




「うん、おかげさまでね。最近、地域のボランティア活動を始めてさ。それがすごく楽しくて」




カフェで近況を話すうちに、ダイスケさんはボランティア活動の話を熱心にしてくれた。子どもたちの学習支援や、高齢者の見守り活動。彼の話は、僕が失っていた「誰かの役に立つこと」の喜びを思い出させた。




「ハルキもさ、もしよかったら一度見学に来てみない?子どもたちと触れ合うの、すごく癒されるよ。新しい発見があるかもしれないぞ?」




最初は乗り気じゃなかったけれど、ダイスケさんの熱意と、少しでも今の状況を変えたいという気持ちに押されて、思い切って参加してみることにした。




「僕にできること、あるかな…」僕は不安を口にした。




「大丈夫だよ!最初はみんな未経験なんだから。大切なのは、やってみたいって気持ちだよ。それに、ハルキは絵が上手いんだろ?子どもたち、きっと喜ぶぞ」




そこで出会ったのは、様々な背景を持つ、けれど皆どこか温かい人たちだった。




「こんにちは!今日から参加させてもらいます、ハルキです」



「あら、いらっしゃい!私、田中よ。ここはみんな家族みたいなもんだから、遠慮なく何でも聞いてね」




初めての活動は、地域の公園の清掃だった。子どもたちと一緒に落ち葉を拾い、彼らの無邪気な笑顔を見た時、僕の心に小さな光が灯った気がした。




「ハルキお兄ちゃん、これ見て!こんなにたくさんの葉っぱ集めたよ!」



「うん、すごいね!上手に集められたね」




午後は、学習支援で子どもたちに絵を教えた。「ハルキくん、絵が上手だね!これ、僕が描いたの見て!」と、目を輝かせる子どもの声が、僕の胸を温かくした。




まだ時折、彼女のことを思い出して胸が痛むこともあるけれど、新しい人たちとの出会いや、誰かの役に立つことの喜びが、僕の心に少しずつ色を取り戻してくれた。メロンソーダの苦い味も、少しずつ薄れていくような気がした。





第四章:それぞれの道



ボランティア活動を続けるうちに、僕は自分の将来について改めて考えるようになった。人の役に立つことの喜びを知り、漠然としていた夢が少しずつ具体的な形を帯びてきた。




「ダイスケさん、僕、ソーシャルワーカーになりたいって思うようになりました」




ある日、活動終わりにダイスケさんにそう打ち明けた。




「へえ!そうなんだ!ハルキならきっと向いてるよ。優しいし、人の気持ちに寄り添えるから。応援するぞ!」ダイスケさんは満面の笑みで僕の背中を叩いた。




大学の授業にも以前より真剣に取り組むようになり、興味のある分野の勉強に没頭する時間が増えた。図書館で専門書を読んだり、先生や友達と議論したりする中で、新しい発見があるのが楽しかった。




「この論文、すごく興味深いですね。先生、もう少し詳しくお話聞かせてもらえませんか?」



「ああ、いいよ。ハルキくんは本当に熱心だね。何か困ったことがあったら、いつでも相談に来なさい」




過去の僕は、自分の殻に閉じこもりがちだったけれど、今は積極的に人と関わり、学ぶことの楽しさを知った。これは、彼女との別れがもたらした、思いがけない「ギフト」だったのかもしれない。




もちろん、完全に過去を忘れたわけではない。街で偶然彼女を見かけることもあるし、共通の友達から彼女の話を聞くこともある。




「この前さ、あの子とバッタリ会ったんだよ。元気にしてたよ」マサキが何気なく言った。彼の言葉に、一瞬だけ心臓がキュッと締め付けられるような感覚があった。




「そっか…」僕は少しだけ胸がざわついたが、すぐに落ち着いた。




もう以前のように心が大きく揺さぶられることはなくなった。彼女もまた、彼女自身の新しい道を進んでいるのだと思うと、そっとエールを送りたい気持ちになった。あの別れは、お互いがそれぞれの道を見つけるための、必要な過程だったのだと、今は理解できる。




カフェの前を通るたびに、あの日のメロンソーダを思い出す。でも、今はもう苦い味だけではない。あの別れがあったからこそ、今の僕があるのだという、かすかな甘さも感じるようになった。それは、過去を受け入れ、未来へ向かうための、僕なりの「大人への階段」だった。





第五章:さよなら、そして、こんにちは




あれから二年が過ぎた。僕は大学を卒業し、念願だったソーシャルワーカーとして働き始めていた。忙しい毎日だけど、充実した日々を送っている。人の笑顔に触れるたび、自分が必要とされている実感を得るたび、この道を選んでよかったと心から思う。




「ハルキさん、今日のケース、すごく助かりました。ありがとうございます。本当に頼りになります」職場の先輩が、僕に笑顔で言った。




「いえ、大丈夫ですよ。少しでも力になれてよかったです。また何かあれば、いつでも言ってくださいね」




ある週末、久しぶりにあのカフェの前を通りかかった。ふと、懐かしい気持ちに駆られて、中に入ってみることにした。店内は少し改装されていたけれど、奥のテラス席は変わらないままだった。あの日の僕が座っていた席は、今もそこに変わらずにあった。




メニューを開くと、以前と変わらずメロンソーダがあった。迷わずそれを注文した。運ばれてきた緑色のグラスを見て、一瞬、胸が締め付けられたけれど、深く息を吸い込んで一口飲んでみた。




甘くて、少し炭酸が強くて、懐かしい味がした。でも、あの時のような苦さはもう感じなかった。むしろ、爽やかな、新しい始まりの味がした。




テラス席の向かいの席に、誰かが座ったような気がした。顔を上げると、少し大人びた表情の彼女が立っていた。



「ハルキ?」




驚きで言葉が出なかった。手からグラスが滑り落ちそうになったのを、慌てて持ち直す。




「久しぶり!」彼女は少し照れたように微笑んだ。



「偶然見かけて…まさか、ここにいるなんて。元気にしてた?」



「うん…僕も、まさか会えるとは。ソラも元気にしてた?」




僕たちは、他愛のない話をした。お互いの近況を話したり、昔の思い出を少しだけ振り返ったり。彼女の口から、新しい夢や目標が語られるたびに、僕の心は穏やかだった。




「私もね、新しい仕事始めて、充実してるよ。あの頃は、色々未熟だったなって、今なら思うの。ハルキには、本当に感謝してる…」彼女は、真っ直ぐに僕の目を見て言った。




その言葉に、僕の心に残っていた最後のわだかまりが、すっと消えていくのを感じた。彼女の目は、あの頃よりもずっと穏やかで、輝いているように見えた。




別れの時が来て、カフェを出てそれぞれの道へ歩き出す時、僕は心の中でそっと呟いた。




「さよなら、メロンソーダ…」

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