予備準備日:

【第9章】予備準備日: 1/6 ~エンゾの婚約者との出会い~

2024年11月1日(金)


今日から、パリ郊外にある「シャルロット・ド・フランス・センター」での予備準備が始まる。

この施設は、SNAL志望者も対応している数少ないセンターのひとつであり、日本での任務に向けた適性や能力を測るテストを受けることになる。


受付には赤毛の若い女性が待っていた。

彼女は軍服に身を包み、階級章がついている。だがその意味はわからない。

もしかして、すごく偉い人? 少なくとも、怒らせたくないタイプだ。


「こんにちは。ケン・デュラン・タナカです。日本向けのSNAL予備準備で呼ばれました」


「ご足労ありがとうございます。SNALに興味を持っていただけて嬉しいです」


彼女は丁寧な笑顔で握手してくれた。


「私は中尉のカトリーヌ・マルタン。予備準備中のあなたの担当になります。開始前に何か質問はありますか?」


——中尉が付きっきり? 少し大げさじゃないか?

でも、ちょっと嬉しい。


「すみません、マルタン中尉、他の参加者はいますか?」


「いいえ、他の候補者はキャンセルまたは延期しました。そのため、SNALの準備には今日あなただけです。ただし、今日はSNOの新兵入隊の日でもあり、センターはいつもより混雑しています。そのため、士官の同行が必要です。」


「ありがとうございます。招集状には最大3日と記載されていましたが、実際の訓練期間はどのくらいですか?」


「それはあなたのテスト結果と施設の空き状況によります。通常は2〜3日程度です」


彼女はしばらくの間、美しい緑色の目でじっとこちらを見つめた。


「ケン・デュラン……とおっしゃいましたね。エンゾ・デュラン・カルツォーネと親戚関係にありますか?」

「はい、彼は僕の兄です」


その一言で、彼女の態度が一変した。厳しそうだった雰囲気が和らぎ、優しいお姉さんのような笑顔に変わる。

そして彼女は婚約指輪を見せてきた。


「ということは、私はあなたの未来のお義姉さんってことになるわね」


驚きで言葉が出なかった。

お義姉さん?

ガエルとのことはどうなったのかもわからないのに、今度は新たな婚約者が……?


「驚いているのね……安心して。私も彼に『好きだ』って言われたときは、あなたと同じくらい驚いたのよ」


彼女は情熱的に指輪を見つめながら言った。


「さて、無駄話はこのくらいにして、今日の目的に戻りましょう……

あなたはラッキーよ、今日、新入隊員の『洗礼』を見ることができるわ。

それはSNOの入隊スピーチよ。

最初から目標を明確にすることが必要なの。」


日当たりの良い中庭には、すでに百人ほどの男性が待っており、その数は刻一刻と増えていった。

小さなグループを作って話し込んでいる者もいれば、目立たないようにしている者も多い。

私にとっては、中学校の校庭の休み時間の雰囲気と大して変わらなかった。


「多くの男の子にとって、SNOは、結果を気にせずに女の子と楽しむための1年だと考えられがちだけど……」


フレデリックのおかげで、それだけではないことは知っている。

カトリーヌの声が少し柔らかくなった。


「義弟くん、あの人たちを見て、何が見える?」


「背の高い人、低い人、がっしりした人もいれば、やせた人もいます。服装もまちまちで、ひとりぼっちの人も多いです」


「彼らは南から来た人もいれば、北や東から来た人もいる。セレブの息子もいれば、農家の息子もいる。あなたのように移民の家庭出身もね」


——そうか、そこまで考えていなかった。


「これから1年間、彼らは一緒に暮らし、共に経験を積んでいく。別れの日が来たとき、彼らはどうすると思う?」


何を言いたいのか、すぐに理解できた。


「連絡を取り続けると思います」


「その通り。SNOがなければ、出会うことのなかった人たちよ」


私は頷いた。


「SNALも同じ。人間関係だけでなく、文化の違いにも出会えるわ」


彼女の言葉にうなずいた。【Arbre-yuzu】とのやり取りを通じて、文化の違いを実感しているから。


「わかってくれたようね。じゃあ、“歓迎のスピーチ”を見に行きましょうか」


彼女の口ぶりには皮肉が混じっていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


11:55 訓練ホール(収容人数900名)


インストラクターたちが簡易ステージへ向かい、制服を着たスタッフたちがテーブルに食器を並べていた。


赤いベレー帽をかぶった女性が、知らないメロディーを口笛で吹きながら歩いてくる。


隣のカトリーヌが苛立った表情を浮かべ、小声でつぶやく。


「また目立とうとしてるわ……」


二人の女性が壇上に上がり、他の者はその前に整列する。

小柄でがっしりした女性がラッパを吹き、ベレー帽の女性はラベリアマイクを調整した後、壇上でまっすぐ立ち尽くす。

彼女のベレー帽から覗く金髪は短く、軽くカールしている。その顔には年輪が刻まれ、おそらく40代だろう。


彼女は目を閉じ、まるで舞台に立つアーティストのよう に微笑む。


「私はマルタン大尉」


彼女は身を乗り出し、制服のボタンを3つ挑発的に外し、首元と軍用ドッグタグのついた2本のチェーンを露出させる。


「……または、恋人にはカリーヌと呼ばれてるわ」


彼女はドッグタグの一つにキスを落とし、アイドルのように挑発的なポーズで観衆に投げキスを送る。


歓声が上がり、顔を赤らめる者も多い。


「……でも、その呼び名を期待しないで。自分の価値を勘違いしないでね。あなたたちはまだ子どもよ。せいぜい、私を『マダム・ママン』と呼ぶこと!」


彼女は腰に手を当て、鋭い視線を向ける。


カトリーヌは「ママン」という言葉に眉をひそめた。


若者たちは唖然としている。ニキビのある少年もいれば、無理に大人びた髭を生やした者もいる。家を出るのは初めてかもしれない。


彼女は非難するように指を突きつけながら皆を見据えた。


「SNOはお前たちを男にする。

本物の、女性を満足させられる男にだ。

さあ、言ってみな。

今まで母親が飯を作り、洗濯をし、ベッドまで整えてくれてただろう?

でも、もうそれで終わりだ!」


ざわつきと反発の声が上がるが、大半は否定できない様子だ。

彼女は満足そうに微笑み、指の間から口笛を吹いた。


「だから、この食事を味わっておけ。

これが“誰かが作ってくれる最後のご飯”だ!

次からはお前たちが自分で食事を作るんだ。

ここでは、母親がしてくれたことの全てを学び、理解するんだ!」


呆然とする青年たち。


「は? 何その間抜け面!

ベッドでダメなら、せめてキッチンで活躍しろ。

女と違って、この社会は男に大したことは求めていない。

女たちは働いて家に金を入れてるんだ。

お前たちはせめて感謝を示して、家事をやれ!

全部学ばなきゃいけないんだ! 質問は?」


ざわめきの中、ムッとした声が上がるが、甲高い、声変わり前の声が騒ぎの中で目立つ。


「女の子にはいつ会えるんですか?」


「ほう、何も分かってないガキが偉そうに?

女の子に何するつもりだ?

甘やかしてくれって頼むのか?

それにはまだ早いぞ、小僧!

まず女の体を知ることから始めなきゃ、『本番』には入れないよ!」


彼女は嘲るようにニヤリと笑う。


「今のお前じゃ、泣かせるだけだ。

自分がどうしていいか分からなくて泣くし、相手は特別な何も感じられなくて泣く!」


それはもはや軽口じゃなく、言葉のビンタだった。


誰も反応できないほどの衝撃。

多くの者は女の子と楽しい時間を過ごせると思っていたのに、SNOが複数のパートナーに甘やかされる休暇じゃないと知った。

現実は彼らの想像と違っていた。

パートナーを尊重し、世話することを学ばなきゃならない。

それは、与えられることに慣れた者には受け入れがたい事実だった。


やがて、部屋中に抗議の叫び声が響き渡る。


大尉はポケットからホイッスルを取り出し——


ピイイイイイイイ!!


——その場の空気が一瞬で静まり返る。


「遊び時間は終わりだ、子どもたち! 今日から、自分を証明し、見た目にも気を遣うんだ。

少なくとも未来のパートナーへの敬意としてな!

そのために、毎日体力トレーニングとバランスの取れた食事がある。

夜のアクティビティ?

それはお前次第だ!」


状況を楽しみながら、彼女は去る前に付け加える。


「男はよく女を泣かせる。

だが、女を幸せの涙で泣かせられるようになったら、その時初めてお前を男と認めるよ……

それまでは、食事を楽しめ。

ボナペティお召し上がれ!」


◆◇◆


若者たちが席に着く中、マルタン大尉が静かに壇上から降り、私たちのもとへやって来る。


「マルタン中尉、なぜこの新兵は列を外れているのですか?」


「マルタン大尉、この者はSNALの早期準備プログラムで来ているデュラン=タナカです」


二人の女性が同じ「マルタン」という姓で呼ばれるのを聞いて、関連性に気づく。

近くで見ると、(未来の)義姉とどこか似ている。

眼差しや鼻筋、目に宿る燃えるような力強さはそっくりだ。

尊敬を誘うその眼光に圧倒される。


「大尉、彼はあなたの未来の義理の息子の弟でもあります」


カリーヌは片眉を上げ、口元に小さな笑みを浮かべた。


「ふーん、エンゾの弟か。なるほどね。

なら、勤務時間外なら私を『カリーヌ』と呼んでいいよ。

食事の時間も含めてね」


私は彼女の顔をじっと観察した。特に気になったのは眉の上にある古い傷跡だった。

大尉という階級からしても、きっと危険な場面を何度もくぐり抜けてきたのだろう。


彼女は少し間を置き、続けた。


「さあ、士官食堂で家族みたいにランチをしながら話しましょう。

お互いをもっと知るために」


心臓がドキドキと高鳴る。

二人の女性士官と食事をし、しかも大尉を名前で呼ぶ許可まで得た。

しかもその食事は士官専用のものだ。


まるでVIP扱いだ。


これはエンゾがカトリーヌと結婚するからなのか?

それとも私が男だからこんな名誉を与えられたのか?

状況が理解しきれなかった。

フレデリックも知らない舞台裏の話が聞けるかもしれないと期待した。


だが、小さな部屋に入る直前、「お互いを知る」が二重の意味を持つかもしれないと気づいた。

私は今、影響力を持つ二人の女性と、何も知らないまま二人きりになろうとしているのだ。

しかも、何かあっても周囲には助けを求められる人はいない……

自分の無防備さを少し後悔し始めていた。

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