第6話

 深い、深い水の底に沈んでいくような感覚。

 全ての音が遠くなり、体の感覚が曖昧になって、冷たい静寂だけが私を優しく受け入れてくれる。

 このまま、どこまでも沈んでいけたら、どんなに楽だろうか。そんなことを、ぼんやりと考えていた。

 けれど、不意に、遠くで私の名前を呼ぶ声がしたような気がした。それは、あの最後の瞬間に聞いた、彼の声に似ていた。

 その声に引き寄せられるように、私の意識は、ゆっくりと、しかし確実に、重たい水の底から浮上を始めた。


 最初に感じたのは、背中に触れる、ごつごつとした硬い感触と、ぱちぱちと何かがはぜる、穏やかな音。そして、湿った土と、乾いた木が燃える匂い。

 ゆっくりと瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れない洞窟の、ごつごつとした岩の天井だった。天井の低い場所では、小さな焚き火がオレンジ色の光を放ち、私たちの周りの暗がりをわずかに照らし出している。

 どうやら私は、岩肌に寄りかかるようにして、横になっていたらしい。体の上には、誰かのものだろうか、少し大きな制服の上着が、毛布のようにかけられていた。


 何が、起こったんだっけ。

 霞がかかったようにぼんやりとする頭で、必死に記憶をたどる。そうだ、妖精の泉で、ダリウスたちの罠が発動して……彼が、私を庇って……。

 はっとして、私は勢いよく上半身を起こした。


「ノアキス様は!?」


 その瞬間、ずきり、と全身の関節が痛んだ。体中から力がごっそりと抜け落ちてしまったような、ひどい倦怠感。これが、生命力を無理やり引き出した代償なのだろう。


「騒ぐな。傷に障る」


 すぐそばから、落ち着いた低い声がした。

 見ると、焚き火の向こう側で、彼が壁に背を預けて座っていた。その手には、どこで手に入れたのか、木の枝を鋭く削って作った、即席の槍のようなものが握られている。

 彼は、私のことではなく、洞窟の入り口の暗がりに、鋭い視線を向け続けていた。見張りをしていてくれたのだ。


「あの……お体は、もう、よろしいのですか?」


 おずおずと尋ねると、彼は一瞬だけこちらに視線をよこした。その紺碧の瞳は、いつもと同じように、何の感情も読み取らせない、静かな色をしていた。


「見ての通りだ。問題ない」


 彼は、まるで何事もなかったかのように、そう言い放った。その言葉通り、彼の顔色に悪いところはなく、呼吸も穏やかだ。私の治癒魔法は、どうやら成功したらしい。

 良かった。本当に、良かった。

 全身の力が抜けるような安堵感に、私はその場にへたり込みそうになる。


「それよりも、お前だ。丸一日、目を覚まさなかったぞ」

「え……? 一日も……?」


 そんなに長く、私は意識を失っていたのか。自分のことながら、驚いてしまう。


「あの治癒魔法……あれは、禁術の類だろう。自らの生命力を削るなど、愚かな真似を」


 彼の声には、かすかに、責めるような響きがあった。


「……申し訳、ありませんでした」


 私は、俯いて、消え入りそうな声で謝った。彼に心配をかけてしまったこと、そして、彼を危険な目に遭わせてしまったこと。その全てが、私の罪のように思えた。


「ですが……あのままでは、貴方が……」

「それでもだ」


 私の言葉を遮るように、彼が言った。


「二度と、あんな真似はするな。お前が倒れれば、それこそ本末転倒だ」


 その言葉は、命令口調で、有無を言わせない響きを持っていた。けれど、不思議と、その奥にある感情が、私には分かったような気がした。

 彼は、怒っているのではない。心配、してくれているのだ。私のことを。

 その事実が、じんわりと胸の奥に広がっていく。


「……はい」


 私は、素直に頷いた。

 しばらく、気まずい沈黙が、私たちの間に落ちた。聞こえるのは、焚き火の音と、洞窟の外から聞こえてくる、ぽつ、ぽつ、という微かな水音だけ。どうやら、外は雨が降っているらしい。

 私が最後に意識を失う直前、彼の声を聞いたのは、夢ではなかったのだろうか。『助かった』と言ってくれた、あの声。確かめたいけれど、もしそれが私の聞き間違いだったらと思うと、怖くて尋ねることができない。

 そんな私の葛藤を見透かしたかのように、彼が、ぽつりと言った。


「……この洞窟は、俺がお前を運んできた。幸い、泉からそう遠くない場所に見つかったからな。雨がやまぬうちは、ここにいた方が安全だろう」


 やはり、彼が、ここまで。意識のない私を、一人で。


「ありがとう、ございます……。重かったでしょうに……」

「礼を言う必要はない。俺のためでもある」


 彼は、ふい、と顔をそむけてしまった。その横顔が、焚き火の光に照らされて、少しだけ赤く見えたのは、きっと気のせいではないだろう。

 彼のぶっきらぼうな態度は相変わらずだけれど、その根底にあるものが、以前とは明らかに違ってきているのを、私は感じていた。


 雨は、その後も降り続き、私たちは洞窟の中で、静かな時間を過ごすことになった。

 私の体力は、まだ完全には回復していなかったけれど、彼が分けてくれた保存食を食べ、泉の水を飲むと、少しずつ体に力が戻ってくるのが分かった。


 会話は、相変わらず、途切れ途切れだった。けれど、以前のような息が詰まるほどの気まずさは、もうどこにもなかった。

 彼は、手慰みに木の枝を削り続け、私は、鞄の中に残っていた薬草の整理をする。時折、目が合うと、どちらからともなく、気恥ずかしそうに視線をそらす。そんな、穏やかで、少しだけ甘い時間が、ゆっくりと流れていった。

 雨足が少し弱まってきた午後、動けるようになった私は、何か他に使えるものはないかと、洞窟の中を調べてみることにした。彼は、そんな私の行動を、特に止めようとはしなかった。ただ、何かあればすぐに声をかけろ、とだけ言って、入り口の見張りを続けている。


 洞窟は、思ったよりも奥に長く続いていた。湿った岩壁を伝い、私はゆっくりと先へ進む。

 焚き火の明るさが届かない場所は、完全な暗闇だったけれど、私の指先に意識を集中させると、小さな光の玉を生み出すことくらいはできた。

 生命力を削るような大魔法はもう使えないけれど、これくらいなら、体への負担も少ない。

 光の玉が、前方をぼんやりと照らし出す。洞窟の行き止まりは、もうすぐそこだった。

 特に、変わったものはない。ただの、ありふれた洞窟だ。そう思って、引き返そうとした、その時だった。

 壁の一部分が、他とは少しだけ違うことに、私は気がついた。


 周囲の壁は、自然が作り出した、ざらざらとした荒々しい岩肌をしている。

 けれど、その一角だけ、まるで人の手で磨き上げられたかのように、表面が妙に滑らかなのだ。苔が一面に生えていなければ、気づかずに通り過ぎてしまっただろう。


「これは……?」


 私は、壁に近づき、その表面を覆う苔を、そっと手で払いのけてみた。

 現れたのは、一枚岩のように見える、けれど、よく見ると、極めて細い線で、長方形に区切られている、石の扉のようなものだった。自然にできたものとは、到底思えない。


「ノアキス様!」


 私は、洞窟の入り口に向かって、大きな声で呼びかけた。

 すぐに、彼の足音が、暗闇の向こうから近づいてくる。


「どうした」

「これ、を……ご覧になってください」


 私の指さす先を見て、彼の紺碧の瞳が、すっと細められた。彼は、私と同じように、その壁が人工物であることに、一瞬で気づいたようだった。

 彼は、黙って壁の前に立つと、その滑らかな表面に、ためらうことなく、そっと右手を触れた。

 その瞬間だった。

 彼の掌が触れた場所を中心に、壁の表面に、青白い光の線が走り始めた。光は、まるで生き物のように、壁全体に広がり、複雑で、見たこともないような、古代の魔法文字を、次々と描き出していく。


「これは……古代の封印魔法……!」


 彼が、驚きを隠せないといった口調で呟いた。

 魔法文字が、全て描き切られた、その時。

 ゴゴゴゴゴ……という、重たい石が擦れるような、低い地鳴りが、洞窟全体に広がった。

 目の前の壁が、ゆっくりと、内側に向かって沈み込んでいく。そして、やがて、一人の人間が通れるくらいの、黒々とした通路が、その姿を現したのだ。

 通路の向こう側からは、ひんやりとした、そして、何百年、いや、何千年もの間、誰にも触れられていない、古く、乾いた空気が、私たちの頬を撫でた。

 それは、この試練の地図には、どこにも記されていない、未知の空間への入り口だった。


 隠された通路を前にして、私たちは、しばらく言葉を失っていた。

 洞窟の奥に、こんな場所が隠されていたなんて。この通路は、一体どこに続いているのだろう。

 危険だ。それは、火を見るよりも明らかだった。学園が公式に用意したルートではない。ここから先に何が待ち受けているのか、誰にも分からない。もしかしたら、二度と戻ってこれないような、恐ろしい罠が仕掛けられているかもしれない。

 常識的に考えれば、引き返すべきだ。学園の定めたルールに従い、この試練を安全に終えることだけを考えるべきなのだろう。


 けれど。


「……行くぞ」


 有無を言わさない様子で、彼が静かでありながらも、揺るぎない声で言った。


「危険かもしれん。お前はここに残っていてもいい」


 私を気遣っての言葉だと分かっていた。けれど、私は、静かに首を横に振った。


「いいえ。私も、参ります」


 彼が、少しだけ意外そうな顔で、私を見た。


「貴方が行くところに、私も行きます。それは、もう決めたことですから」


 私は、彼の目を、まっすぐに見つめ返して言った。

 もう、私は、彼に守られるだけの、弱い存在ではない。

 彼が背負う宿命を、ほんの少しでも、共に背負いたい。

 彼の隣で、彼の支えになりたい。それが今の私の、偽らざる気持ちだった。


 彼は、私に向かって、すっと手を差し出した。

 驚いて、彼の顔と、差し出された手とを、交互に見つめる。


「はぐれるなよ」


 ぶっきらぼうな、彼らしい言葉。

 私は、一瞬だけ躊躇った後、その大きな手に、自分の手を、そっと重ねた。

 彼の掌は、ごつごつとしていて、硬かったけれど、とても、温かかった。

 彼は、私の手を、力強く握り返すと、迷いのない足取りで、暗い通路の奥へと、一歩、足を踏み入れた。私も、彼に引かれるようにして、その後に続く。


 通路は、緩やかな下り坂になっていた。壁も、床も、天井も、全てが寸分の狂いもなく切り出された、巨大な石材で造られている。壁には、松明を掲げるための燭台が、等間隔に設置されていたけれど、そこに火はなかった。

 私たちの進む道筋を照らすのは、私の手のひらに浮かべた、小さな光の玉だけ。その頼りない明かりが、悠久の時を物語る石造りの回廊を、ぼんやりと照らし出していた。

 ひんやりとした空気が、肌を撫でる。私たちの足音だけが、しん、と静まり返った空間に、やけに大きく反響していた。

 どれくらい、歩いただろうか。

 やがて、通路は、開けた空間へと繋がった。

 そこは、巨大な神殿の内部のような、広大な広間だった。高い天井は、暗くて見えない。何本もの太い石柱が、天井を支えるようにして、林立している。

 そして、その壁という壁には、びっしりと、精緻な壁画や、レリーフが刻み込まれていた。

 私たちは、まるで、この世のものではない場所に迷い込んでしまったかのような、不思議な感覚にとらわれていた。


 ここは、一体、何なのだろう。

 アストライア魔法学園の、すぐ近くに、こんな巨大な古代遺跡が、誰にも知られずに眠っていたなんて。

 この遺跡は、きっと、学園の創設よりも、もっとずっと古い時代に造られたものに違いない。


 握られた彼の手の力が、少しだけ、強くなった。

 私たちは静寂の神殿へと、ゆっくりと、足を踏み入れていった。

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