第7話

 握られた彼の手のひらは、ごつごつとしていて硬かったけれど、不思議なほどに温かかった。

 その温もりが、この未知の空間で唯一、私が現実と繋がっている証のようだった。私の小さな光の玉だけでは、この広大すぎる空間の全容を照らし出すことは到底できない。

 私たちの足音は、しん、と静まり返った場所に吸い込まれては、遙か高い天井の暗がりに消えていく。ひんやりとした空気は、まるで何千年もの間、澱んでいたかのように重く、私たちの肌にまとわりついた。


 ここは、一体。

 アストライア魔法学園の、目と鼻の先に、こんな巨大な古代遺跡が、誰にも知られることなく眠っていたなんて。通路の様子からしても、この遺跡が学園の創設よりもずっと古い時代に造られたものであることは、想像に難くない。

 私たちは、まるで悠久の時の流れに迷い込んでしまったかのような、不思議な感覚に捉われていた。握られた彼の手の力が、少しだけ強くなる。彼もまた、この遺跡が持つただならぬ気配に、何かを察しているのだろう。私たちは、これからこの場所で、何を知ることになるのだろうか。

 期待と、そして未知なるものへの、言いようのない怖れ。その二つの感情が胸の中でせめぎ合うまま、私たちは、静寂が支配する神殿へと、ゆっくりと足を踏み入れていった。


 光の玉を少しだけ高く掲げると、私たちの目の前に、巨大な石の柱が林立しているのが見えた。その一本一本が、大講堂にあったどの柱よりも太く、そして古びている。表面には、細かな蔦の模様のようなものがびっしりと刻まれていた。私たちは、まるで巨人の森に迷い込んだ小人のように、その柱と柱の間を、慎重に進んでいく。

 やがて、私たちは広間の壁際へとたどり着いた。そして、そこに描かれているものを目にして、私は自分の呼吸が止まるのを感じた。

 壁一面に、巨大な壁画が描かれていたのだ。それは、ペンキや絵の具で描かれたものではない。様々な色の石を巧みに埋め込み、一つの大きな絵として完成させた、モザイク画のようなものだった。気の遠くなるような時間と労力が、この壁画のためだけに費やされたことが、一目で分かった。


「これは……」


 隣で、彼が低い声を漏らした。私も、彼と同じものを見ていた。

 壁画は、どうやら物語になっているらしく、右から左へと、時の流れに沿って描かれているようだった。私たちは、自然と、一番右端の絵の前へと歩み寄る。

 そこに描かれていたのは、生命力に満ち溢れた、豊かな森の姿だった。天を突くほどの巨木が生い茂り、その木々の間を、見たこともないような動物たちが駆け回り、色とりどりの鳥たちが楽しげに飛び交っている。絵の中心には、ひときわ大きく、そして神々しいまでの輝きを放つ一本の霊木のようなものが描かれており、その根元からは、清らかな泉が湧き出ていた。

 その光景は、どこか、私たちが試練のために足を踏み入れた『神託の森』を思わせた。けれど、壁画に描かれた森は、私たちが知っている森よりも、もっとずっと、力強く、そして生命の輝きに満ちている。まるで、この世の全ての生命の源が、この森にあるのだと主張しているかのようだった。

 私たちは、壁に沿って、ゆっくりと左へと移動する。

 次の壁画には、その平和な森に、人間たちが足を踏み入れる様子が描かれていた。彼らは、簡素なローブのようなものを身にまとい、その手には杖や、古めかしい魔導書のようなものを持っている。どうやら、彼らは魔法使いの一団らしい。彼らは、森の豊かさに驚き、霊木に向かって、敬意を払うかのように、深く頭を下げていた。


「学園の創設者たち、だろうか……」


 彼がぽつりと呟いた。私も、きっとそうだろうと思った。アストライア魔法学園は、この『神託の森』のほとりに、偉大なる魔法使いたちによって築かれたと、学園の歴史の授業で習ったことがある。この壁画は、その始まりの瞬間を描いているのかもしれない。

 さらに、その隣の壁画へと進む。そこには、人間たちが、森の木々を切り拓き、石を運び、巨大な建物を築き上げている様子が描かれていた。その建物の形には、見覚えがあった。白亜の壁、天に伸びるいくつもの尖塔。間違いなく、アストライア魔法学園の校舎だった。

 壁画の中では、人間と森の精霊のようなものたちが、手を取り合って、共に学園を建設している。それは、とても微笑ましく、理想に満ちた光景に見えた。公に伝えられている、学園の創設史そのものだ。自然と共存し、その叡智を学ぶために、この学園は作られた。私は、ずっとそう信じてきた。

 けれど。

 次の壁画を見た瞬間、私の心の中に、小さな、しかし無視できない違和感の棘が刺さった。

 壁画に描かれた学園は、見事に完成していた。その校舎全体が、まばゆいほどの魔法の輝きに包まれている。それは、学園が強力な結界によって守られていることを示しているのだろう。

 問題は、その輝きの源だった。

 壁画中では、学園の地下から、幾筋もの光の根のようなものが伸びて、森の中心にある、あの霊木の根元へと繋がっていたのだ。そして、霊木が放っていた神々しい輝きは、以前の絵に比べて、明らかに弱々しくなっている。その代わりに、森から吸い上げた力を受けて、学園が輝いている。まるで、学園が、森の生命力を吸い取って、自らの力にしているかのように、私には見えた。


「……ノアキス様」


 私が呼びかけると、彼もまた、険しい表情で、その壁画を凝視していた。


「この絵は……公に伝えられている歴史とは、少し、違うようですね」

「ああ……。これでは、まるで学園が、森を食い物にしている寄生木のようだ」


 彼の言葉は、私の感じた違和感を、的確に表現していた。共存などではない。これは一方的な搾取の構造だ。学園は、その存続のために、『神託の森』から膨大な魔力を吸い上げ続けている。その事実が、この古代の壁画にはっきりと記されていた。

 どうして、こんな壁画が、誰にも知られずにここに残されているのだろう。学園にとって、これは絶対に知られてはならない、不都合な真実のはずだ。

 私の鼓動が、嫌な音を立てて速まるのを感じる。私たちは、知ってはいけない秘密の、ほんの入り口に立ってしまったのかもしれない。

 私たちは、無言のまま、最後の壁画へと歩を進めた。

 描かれていた光景は、これまでのものとは、明らかに異質だった。

 場所は、森の奥深く。どこか、祭壇のような場所だった。その中央には、禍々しいほどの闇の魔力を湛えた、巨大な魔法陣が描かれている。そして、その魔法陣の上に、何人もの人間が、まるで捧げもののように、横たえられていたのだ。彼らの体からは、魂のような青白いものが引き抜かれ、それが、祭壇のシステムを通じて、学園の方へと送られていく様子が描かれている。

 壁画に描かれた、魂を抜かれる人間たちの顔は、苦痛に歪んでいた。けれど、それを見下ろす、学園の創設者らしき魔法使いたちの顔は、何の感情も浮かんでいない、能面のような無表情だった。

 ぞわり、と全身の肌が粟立った。これが、一体何を意味するのか。

 私は、壁画から少し離れた場所に、何枚かの石版が置かれているのを見つけた。壁画とは別に、何かを記録するために作られたものらしい。その表面には、壁画と同じくらい古く、そして複雑な古代文字が、びっしりと刻み込まれていた。


「……これを、読めれば……」


 彼が、悔しそうに呟いた。彼の専門は、攻撃魔法や魔法理論だ。こうした古代言語の解読は、専門外なのだろう。

 私は、そっと石版の前に膝をついた。幸いなことに、この文字は、私が個人的に勉強していた、古代薬草学の文献で使われていた文字と、よく似ていた。全てを完全に理解することは難しいかもしれない。けれど、いくつかの単語なら、拾い読みすることができるはずだ。

 私は精神を集中させ、石版に刻まれた文字を、一つ一つ、慎重に指でなぞっていく。ひんやりとした石の感触が、指先から伝わってくる。

 最初は、意味のある言葉として認識することができなかった。けれど、何度も、何度も、繰り返し文字の羅列を目で追っているうちに、いくつかの単語が、私の意識の中に、ぽつり、ぽつりと浮かび上がってきた。


 ――『アストライア』。

 ――『大いなる結界』。

 ――『魔力供給』。


 やはり、私の推測は間違っていなかった。この遺跡は、アストライア魔法学園の、魔力供給システムに関する、何らかの秘密を記しているのだ。

 私は、さらに読み進めていく。そして、次の単語を見つけ出した瞬間、私は、自分の指先が、氷のように冷たくなっていくのを感じた。


 ――『贄』。


 にえ。生贄。神への捧げもの。

 その、あまりにも不吉な言葉が、私の頭の中で、重く、そして嫌な響きをもって反響した。

 生贄、どうして、ここに。

 震える指で、さらに文字を追う。私の目が見つけ出した次の言葉は、その疑念を、恐ろしい確信へと変えるのに、十分すぎるものだった。


 ――『魂の循環』。

 ――『若く、強い魔力を持つ魂』。

 ――『儀式による選別』。


 もう、それ以上、読み進めることはできなかった。

 点と点が、線で結ばれていく。

 学園を維持するための、膨大な魔力。それを森から吸い上げるための、触媒。

 若く強い魔力を持つ魂を、必要とする、ということ。

 その魂を、儀式によって選別する、ということ。

 年に一度、卒業年次の全生徒に課せられる、過酷なサバイバル試験。

 成績下位のペアが、『追放』されるという、恐ろしい掟。


 ああ。

 ああ、ああ、ああ。


 まさか。

 そんな、馬鹿なことが。

 私の頭の中に、一つの、あまりにもおぞましく、非人道的な仮説が形を結び始めていた。


 『追放』

 それは、ただ学園から追い出されるだけの、単純な処分ではないのかもしれない。


 もしも、あの『神託の森の試練』が、生贄を選び出すための、儀式だったとしたら。

 もしも、『追放』された生徒たちが、この遺跡の壁画に描かれていたように、その魂を、学園の魔力源として、捧げられていたのだとしたら。


 考えたくもない。信じたくもない。

 けれど、目の前にある壁画と、石版に刻まれた言葉が、その恐ろしい可能性を、静かに、そして雄弁に物語っていた。

 私は、自分の顔から、血の気が引いていくのを感じた。立っていられなくなり、その場にへたり込みそうになる。


「どうした。何か、分かったのか」


 私の様子がおかしいことに気づいた彼が、私の肩に、そっと手を置いた。その手の温かさが、今は、ひどく遠いもののように感じられる。

 私は、ゆっくりと顔を上げた。彼の紺碧の瞳が、心配そうに、私を見つめている。

 私は、彼に、伝えなければならない。この、あまりにも残酷な、私たちの学び舎の真実を。

 けれど、言葉が、出てこない。喉の奥が、恐怖で凍り付いてしまったかのようだった。

 私の唇が、か細く、意味のない音を紡ぐ。


「追放された生徒たちは……」


 その言葉を口にした瞬間、彼の顔つきには深刻さが増した。おそらく、彼の脳裏にもまた、私と同じ恐ろしい推測が芽生え始めていたに違いない。

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