第5話

 彼の口からこぼれ落ちたのは、驚くほど素っ気ない、けれど紛れもない賞賛の言葉だった。その一言が、私の心の中にするすると染み渡っていく。まるで、乾ききった大地に降った、最初の優しい雨粒のように。

 私の知識は、馬鹿にできない。

 その言葉を、私は胸の中で何度も何度も反芻した。熱くなった頬を隠すように、少しだけ俯く。彼が私にかけてくれた、初めての肯定的な言葉。それは、これまでずっと『落ちこぼれ』と蔑まれ、自分自身でさえそう思い込んでいた私の固い殻を、内側からそっと溶かしてくれるような、不思議な温かさを持っていた。

 もう、私は彼の隣に立つことを、ただ申し訳なく思うだけの存在ではないのかもしれない。攻撃魔法は使えなくても、彼とは違うやり方で、彼の力になれるかもしれない。そんなささやかな希望が、心の中に小さな灯火となってともるのを感じた。


「あの……それで、課題なのですが」


 私は、このむず痒いような空気を変えるように、泉の中央に設えられた石碑を指さした。ダリウスたちが去った今、本来の目的を早く果たしてしまわなければならない。

 彼は、こくりと一つ頷くと、私に先んじて石碑へと歩み寄った。私も、慌ててその後を追う。

 古びた石碑には、苔むした表面に、古代の文字が深く刻み込まれていた。課題の内容は、この『妖精の泉』の水を汲み、それを石碑に刻まれた特定の紋様の上に注ぐ、というものらしい。紋様は複雑な幾何学模様をしており、一見しただけでは、どこに水を注げばいいのか分からない。


「これは……」


 私が石碑の文字を解読しようと顔を寄せた時、彼が低い声で言った。


「こっちだ」


 彼が指さしたのは、紋様の中でも特に複雑に線が入り組んだ、中央の一点だった。どうしてそこだと分かったのだろう。私が不思議に思って彼を見上げると、彼は少しだけ面倒くさそうに説明してくれた。


「この紋様は、魔力の流れを模したものだ。全ての線は、この中央の一点に魔力が集束するように描かれている。泉の聖水は、この森の清浄な魔力を凝縮したものだからな。それを注ぐべき場所は、ここ以外に考えられない」


 その淀みない解説に、私はただ感心するしかなかった。薬草学や古代文字の解読なら私も多少はできるけれど、こうした魔法理論に基づいた洞察力は、彼には到底及ばない。やはり、彼は本物の天才なのだ。

 私は、自分の水筒に残っていたわずかな水を捨てると、泉のほとりに膝をつき、透き通った水を丁寧に汲み入れた。ひんやりとした水の冷たさが、革の水筒を通して心地よく伝わってくる。

 石碑の前に戻り、彼に水筒を手渡そうとすると、彼は「お前がやれ」と、顎で石碑を示した。


「え? でも……」

「お前の知識がなければ、俺たちはあの二人組に余計な手間を取らされていただろう。この課題くらい、お前が達成したという形にしても罰は当たらん」


 その言葉は、ぶっきらぼうな響きの中に、確かな配慮が隠れているように感じられた。私は、少しだけ躊躇った後、彼の言葉に甘えることにした。


「……では、失礼します」


 私は、水筒の口をそっと傾け、彼が示した紋様の中央に、ゆっくりと水を注いでいく。

 清らかな水が石碑の表面に触れた、その瞬間。

 石碑全体が、淡い青色の輝きを放ち始めた。注がれた水は、まるで意志を持っているかのように、紋様に刻まれた溝に沿って流れ、複雑な模様を青い光の線で描き出していく。やがて、全ての線が輝きで満たされると、石碑はひときわ強く輝き、その光が天に向かって真っ直ぐに立ち上った。

 それは、課題の達成を学園に知らせる合図の光なのだろう。しばらくして、輝きは静かに消え、泉のほとりは元の穏やかな空気に包まれた。


「終わった、みたいですね」


 安堵の息をつきながら、私が振り返った、まさにその時だった。


 ゴゴゴゴゴ……ッ!


 不意に、私たちの足元から、地響きのような低い音が鳴り響いた。それは、先ほどの石碑の輝きとは全く質の違う、不吉で、暴力的な揺れ。


「きゃっ!」


 突然の出来事に、私は体勢を崩して、その場にへたり込んでしまった。何が起きているのか分からない。地震? いや、違う。この感覚には覚えがあった。魔法が発動する直前の、空気がねじれるような、独特の圧迫感。

 私の視線の先、ノアキス様がさっきまで立っていた場所。そこには、禍々しい赤黒い輝きを放つ、巨大な魔法陣が浮かび上がっていた。

 罠……!?

 誰かが、あらかじめこの場所に、魔法の罠を仕掛けていたのだ。課題を達成した者が、油断した瞬間を狙って発動するように。

 ダリウス。彼らの仕業に違いない。自分たちが負けた腹いせに、こんな卑劣な置き土産を残していったのだ。


「危ない!」


 ノアキス様の鋭い声が飛ぶ。けれど、もう遅かった。

 魔法陣の中心から立ち上った禍々しい赤い光が、空中に巨大な魔法陣を描き出す。その空中の魔法陣から、無数の鋭い岩の槍が、まるで巨大な獣の牙のように、恐ろしい勢いで真上から降り注いでくる。その槍先は、一直線に、座り込んでいる私を目がけて落下してきていた。

 時間が、まるでゆっくりと引き延ばされたかのように感じられる。

 死ぬ。

 その一言が、頭の中を支配した。体が、重たくて動かない。恐怖で、声も出ない。迫りくる岩の槍が、私の瞳の中で、どんどん大きくなっていく。

 もう、駄目だ。

 私が、諦めて固く目を閉じた、その瞬間。

 ドンッ、と強い衝撃と共に、私の体が横に突き飛ばされた。


「え……?」


 何が起こったのか分からず、数メートル先で地面に転がった私は、呆然と顔を上げた。

 そして、信じられない光景を目にする。

 ノアキス様が、私のいた場所に立っていた。

 いや、違う。彼は、私を庇うようにして、その身を投げ出していたのだ。

 そして、彼の背中には、空から降り注いだ、太く鋭い岩の槍が、何本も、深く突き刺さっていた。

 彼の制服が、見る見るうちに、どす黒い赤色に染まっていく。

 ガシャァァン、というけたたましい音を立てて、役目を終えた岩の槍が砕け散り、空中の魔法陣と共に消え去っていく。

 けれど、彼の背中に開けられた、おびただしい数の深い傷は、消えることなく、そこにあった。

 辺りに、鉄の錆びたような、生臭い匂いが立ち込める。


 時間が、止まった。

 私の頭は、目の前で起こった出来事を、正しく認識することを拒絶していた。どうして。どうして、彼がここに倒れているの。どうして、彼の背中から、こんなにたくさんの血が流れているの。


 私の、せいだ。

 私が、あの場所にいたから。私を庇って、彼は……。

 全身の血の気が、さっと引いていく。指先が、氷のように冷たくなっていくのを感じた。


「しっかり、なさって……! 今、手当てを……!」


 私は、もつれる足で、彼のそばに駆け寄った。震える手で、彼を仰向けにしようとする。けれど、彼の体は、見た目以上に重く、ぴくりとも動かない。


「ノアキス様! 聞こえますか!?」


 呼びかけても、返事はない。ただ、荒く、苦しそうな呼吸が、彼の口から漏れているだけだった。その顔色は、紙のように白く、額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。

 傷を見なければ。早く、止血をしないと。

 私は、パニックに陥りそうな頭を必死で働かせながら、鞄の中から、ありったけの薬草と包帯を取り出した。月見草、癒しの軟膏、私が持っている全てのもの。


 彼の体を傷つけないように、慎重にうつ伏せにする。そして、彼の背中の傷口を見た瞬間、私は言葉を失った。

 ひどい、なんてものではない。

 制服の布は、裂け目から流れ出た血でぐっしょりと濡れ、その下の傷は、いくつもが深く、筋肉まで達しているように見えた。そこから溢れ出す血は、薬草を振りかけるだけでは、到底止められそうにない。まるで、壊れた器から水が漏れ続けるように、彼の命そのものが、赤い液体となって、どんどん失われていっているようだった。


 どうしよう。どうすればいいの。

 薬草では、間に合わない。このままでは、彼は、出血多量で死んでしまう。

 私のせいで。私のせいで、彼が死ぬ。

 その考えが、冷たい楔となって、私の思考を打ち付けた。全身が、がたがたと小刻みに揺れ始める。視界が、涙で滲んで、彼の姿がはっきりと見えなくなった。


 嫌だ。死なないで。お願いだから。

 彼がいなくなってしまったら、私は、この森で一人で生きていくことなんてできない。それだけじゃない。彼に、死んでほしくない。まだ、何も知らない、この人を、失いたくない。


 その時、ふと、脳裏にある記憶がよみがえった。

 それは、薬草学の授業とは別に、個人的に読んでいた古い文献に記されていた、一つの記述。

 治癒魔法の、原初にして、禁忌とされた術。

 それは、術者の生命力そのものを魔力に変換し、他者の傷を癒すというものだった。通常の治癒魔法が、周囲のマナを借りて奇跡を起こすのに対し、この方法は、自らの命を直接削って、相手に分け与える。だからこそ、成功すれば、どんな重傷でも癒すことができるけれど、失敗すれば、術者も、そして癒される側も、共に命を落としかねない、危険な賭け。


 私の魔力は、生命の力を活性化させることに特化している。それは、植物の声を聞き、その成長を促すことができる、特殊な性質。もしかしたら、この力を使えば……。

 怖い。自分の命を削るなんて、考えただけでも、足がすくむ。

 けれど、目の前で、彼の呼吸が、どんどん弱々しくなっていく。その顔から、血の気が失われ、唇が青紫色に変わっていく。

 迷っている時間はない。

 私は、涙をぐいと手の甲で拭った。

 もう、彼に守られてばかりの、足手まといの私でいるのは嫌だ。


 今度は、私が彼を守る番だ。


 私は、彼の傍らに深く膝をつくと、目を閉じて、精神を集中させた。ざわめいていた心が、少しずつ、静かな水面のように落ち着いていく。

 自分の体の内側、その中心にある、温かい生命力の源泉を探る。それは、いつもは、ほんのりと温かい、小さな灯火のようなもの。けれど、今は、彼の命を救うために、この全てを燃やし尽くす覚悟が必要だった。

 私は、震える唇で、古の言葉を紡ぎ始める。それは、誰に教わったわけでもない。私の魂が、ずっと昔から知っていたかのような、自然な祈りの言葉だった。


「わが血潮を聖なる滴に、わが魂を癒しの光に……」


 詠唱と共に、私の両方の手のひらが、淡い、金色の輝きを放ち始めた。それは、これまで私が使ってきた、どんな魔法とも違う、力強く、そして温かい輝き。

 自分の体の中から、何かがごっそりと引き抜かれていくような、奇妙な感覚。全身の力が抜け、目の前が一瞬、暗くなる。けれど、それに反比例するように、私の手のひらの輝きは、どんどん強さを増していく。

 私は、その輝きを放つ両手を、彼の背中の、最も傷の深い場所へと、そっとかざした。

 温かい輝きが、彼の体に触れた瞬間、奇跡が起こった。


 輝きは、まるで意思を持っているかのように、彼の傷口へと吸い込まれていく。そして、見る見るうちに、裂けていた皮膚が繋がり、どくどくと溢れ出ていた血が、ぴたりと止まったのだ。

 けれど、彼の傷は、あまりにも深く、そして広範囲に及んでいた。一つの傷が塞がっても、また別の場所から血が滲み出す。


 もっと、もっと力が必要だ。

 私は、歯を食いしばり、さらに多くの生命力を、魔力へと変換していく。自分の体温が、急速に失われていくのが分かった。視界が霞み、耳鳴りがひどくなる。まるで、冷たい水の中に、どんどん沈んでいくような感覚。

 それでも、私は手を止めなかった。

 金色の輝きが、彼の背中全体を、柔らかな光の繭のように包み込んでいく。その温かい光景の中で、私は、彼の苦しげな呼吸が、少しずつ、穏やかなものに変わっていくのを感じていた。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。


 意識が朦朧としてきた、その時。

 輝きの中で、彼の唇が、かすかに動いた。


「……リアナ……すまない……」


 それは、あの夜、彼がうわ言で呼んでいた、あの名前。

 けれど、今度の声は、あの時よりも、もっとずっと切実で、胸が張り裂けそうなほどの痛みに満ちていた。


「俺が……もっと強ければ……お前を、守れたのに……」


 途切れ途切れの言葉。それは、意識が混濁した彼が、心の奥底に押し込めていた、本当の叫び。

 彼の閉ざされた心の扉の向こう側。そこにある、深い悔恨と、自らを責め続ける、癒えることのない悲しみ。その一片に、私は、はっきりと触れてしまった。

 ああ、この人は、ずっと、こんなにも重たいものを一人で背負って、生きてきたんだ。

 彼の冷たい態度の裏にあった、悲痛なまでの覚悟。その本当の意味を、私は、ようやく理解した気がした。

 私の胸の奥から、彼への想いが、止めどなく溢れ出してくる。それは、ただの同情ではない。もっと、温かくて、そして強い感情。

 この人を、助けたい。この人の心を縛り付けている、悲しい過去の呪縛から、いつか、解き放ってあげたい。

 その強い想いが、尽きかけていた私の力に、最後の火をともした。


「……癒えて」


 私の唇から、祈りのような言葉が漏れる。

 その瞬間、金色の輝きが、ひときわ強く、そして眩しくきらめいた。彼の背中にあった、全ての傷が、その輝きの中に、完全に飲み込まれていく。


 やがて、輝きは、ゆっくりと、その勢いを弱めていった。

 まるで、燃え尽きたろうそくの炎が消えるように、私の手のひらの輝きも、静かに消えてなくなる。

 彼の背中には、もう、あの痛々しい傷跡はどこにもなかった。引き裂かれた制服の下に見える肌は、まるで初めから、何もなかったかのように、滑らかで、綺麗になっていた。

 彼の呼吸は、すっかり穏やかな寝息に変わっている。

 良かった。助かったんだ。

 そう認識した瞬間、私の体を支えていた、最後の糸が、ぷつりと切れた。

 全身から、力が完全に抜け落ちる。視界が、真っ暗に塗りつぶされていく。

 私は、彼の体に寄りかかるようにして、その場に崩れ落ちた。


 意識が、遠のいていく。

 もう、指一本、動かせない。

 ああ、でも、良かった。彼が、無事で……。

 完全に意識を手放す、その直前。

 誰かに、そっと、肩を抱かれたような気がした。


 そして、耳元で、かすかな声が聞こえた。


「……助かった」


 それは、いつもの彼からは想像もつかないほど、穏やかで、そして、心の底からの響きを持った、初めて聞く、素直な言葉。

 その一言が、暗闇に沈んでいく私の意識の中に、最後の温かい光となって、優しく、そして深く、染み込んでいった。

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