第4話

 あの夜、彼の苦しげな声を聞いてから、私の中で何かが変わった気がした。

 翌朝、目を覚ました彼は、すでにいつもの彼に戻っていた。無表情で、口数が少なくて、他者を寄せ付けない冷たい空気をまとっている。けれど、私の目には、その完璧な仮面の下に、昨夜垣間見た深い悲しみの痕跡が見えるような気がしてならなかった。

 リアナ。彼がうわ言で呼んだ、その名前。

 それは、彼の妹君の名前だろうか。それとも、かつての恋人? 私には知る由もないけれど、その名前が、彼の心の最も柔らかい場所に、癒えない傷として残っていることだけは確かだった。

 私たちの間に、相変わらず会話はほとんどない。けれど、昨日までとは明らかに違う、奇妙な一体感のようなものが生まれ始めていた。朝、火をおこして簡単な食事の準備をする彼に、私は自然と水筒の水を差し出す。森を歩き始めるとき、彼は黙って、荷物の重い方を自分の肩にかけ直す。言葉にはしないけれど、私たちは互いの存在を前提として、行動するようになっていた。

 私たちは、試練の三日目にして、最初の課題が課せられた場所、『妖精の泉』を目指していた。学園から渡された古びた羊皮紙の地図には、森の東側にその泉が記されている。そこで何をするのかは、現地に着かなければ分からない。

 森の様相は、昨日までとは少しずつ変わってきていた。薄暗く、湿っぽかった森は、次第に明るさを増し、足元には背の低い、色とりどりの花が咲いているのが見える。


「こちらの道の方が、少しだけ近道かもしれません」


 私は、地図と目の前の景色を比べながら、そう進言した。私が指さした脇道には、魔獣が嫌うとされる『銀葉草』が群生していたからだ。危険な遭遇を避けられる可能性が高い。

 彼は、私の言葉に何も答えなかったけれど、黙って私が示した道へと足を踏み入れた。彼が、私の知識を、少なくとも無視はしなくなった。その小さな事実が、私の心にささやかな自信を与えてくれる。

 リアナ、という名前の謎。彼が手加減する理由。そして、彼が一人で背負っているもの。知りたいことはたくさんあったけれど、今の私にできるのは、ただ自分の知識を最大限に活かして、この試練を生き延びることだけだ。それがきっと、彼にとっても一番助けになるはずだから。

 そう信じて、私たちは歩き続けた。


 やがて、木々の隙間から、水の流れる音が聞こえ始めた。それまで私たちの耳に届いていた不気味な静寂とは違う、清らかで心地よいせせらぎ。森を抜けた先には、陽光を浴びてきらきらと輝く、美しい泉が広がっていた。

 まるで、磨き上げられた青い宝石のような、澄み切った水。泉の底にある白い砂利の一つ一つまで、はっきりと見ることができる。泉の周囲は、柔らかな苔の絨毯に覆われ、そこには見たこともないほど珍しい、淡い虹色に輝く花々が咲き乱れていた。

 ここが、『妖精の泉』。その名の通り、本当に妖精が水浴びをしにやってきそうな、幻想的な場所だった。数日ぶりに見る開けた景色と、清浄な空気に、私は思わず深く息を吸い込む。

 けれど、そのつかの間の安らぎは、すぐに打ち破られた。

 泉のほとり、最も見晴らしの良い場所に、先客がいたのだ。

 二人の男子生徒。その片方は、私にも見覚えがあった。燃えるような赤毛を傲慢に逆立て、着崩した制服の胸元には、最上位階級を示す金の徽章がこれみよがしに輝いている。

 ダリウス。確か、高名な侯爵家の嫡男で、その家柄と強力な火の魔法を笠に着て、学園では常に尊大な態度をとっている人物だ。彼の隣にいる、体格の良い男子生徒は、確か彼の取り巻きの一人だったはず。

 最悪の相手に会ってしまった。そう思った瞬間、ダリウスがこちらに気づき、嫌悪感を隠そうともせずに、その唇を歪めた。


「これはこれは。一体誰かと思えば、万年落ちこぼれのメイフィールドじゃないか。お前のような奴が、よくもまあ、ここまでたどり着けたものだな」


 彼の声は、ねっとりとした侮辱の色を含んで、私の全身にまとわりつくようだった。その言葉に、彼の取り巻きも、げらげらと下品な笑い声を上げる。

 悔しさに、きゅっと唇を噛む。けれど、言い返す言葉は見つからない。彼らの言う通り、私がここまで来られたのは、ほとんど隣にいる彼のおかげなのだから。

 私は、思わず俯いてしまった。しかし、私の隣に立つノアキスは、ダリウスの挑発などまるで意に介していないようだった。彼は、ダリウスたちに一瞥もくれず、泉の中央に立てられた、古びた石碑へと視線を向けている。その石碑に、きっと課題の内容が記されているのだろう。


「おい、聞いているのかナイトレイ!」


 完全に無視されたことが、ダリウスのプライドをいたく傷つけたらしい。彼の声が、一段と甲高くなる。


「まさかとは思うが、お前、本気でそこの落ちこぼれをパートナーとして認めているわけではあるまいな? 天才殿も、出来の悪い子供の介護はさぞかし大変だろう!」


 その言葉は、私だけでなく、ノアキスをも侮辱するものだった。けれど、彼はやはり、表情一つ変えなかった。ただ、その紺碧の瞳が、すうっと細くなる。


「……道を開けろ。邪魔だ」


 ノアキスが、初めて口を開いた。その声は、凍てつく冬の湖面のように、静かで冷たかった。


「なっ……!」


 ダリウスの顔が、怒りで真っ赤に染まる。


「この俺に向かって、邪魔だと!? いいだろう、ナイトレイ! 貴様がどれほどのものか、ここで試してやる! その落ちこぼれが足枷になって、自慢の攻撃魔法もろくに使えまい!」


 そう叫ぶと、ダリウスは右手を高々と掲げた。彼の掌に、みるみるうちに、バスケットボールほどの大きさの火の玉が形成されていく。周囲の温度が、一気に上昇した。


「覚悟しろ!」


 掛け声と共に、灼熱の火球が、轟音を立てて私たちめがけて飛来する。

 咄嗟に、身を固くする私。けれど、その衝撃が私を襲うことはなかった。

 いつの間にか、ノアキスが私の前に立ちはだかり、片手を軽く前にかざしていた。彼の目の前に、薄い水の膜のようなものが現れ、ダリウスの放った火球を、いともたやすく受け止めてしまう。

 ジュウッ、という音と共に、大量の水蒸気が発生し、火球はあっけなくかき消された。


「なにっ!?」


 ダリウスが、驚愕の声を上げる。彼の得意魔法であるはずの炎が、こうも簡単に対処されるとは思っていなかったのだろう。


「小賢しい真似を!」


 彼は、さらに魔力を高め、次々と火の玉を放ってくる。彼の取り巻きも、地面から鋭い岩の槍を何本も生み出し、追い討ちをかけてきた。

 けれど、ノアキスは少しも動じなかった。彼は、最小限の動きで、あるいは風の壁で攻撃の軌道を逸らし、あるいは水の盾で炎を相殺し、全ての攻撃を完璧に防ぎきってしまう。その戦いぶりは、まるで熟練の舞踏家が、決められた振り付けを踊っているかのように、洗練されていて美しくさえあった。

 しかし、彼は決して反撃しようとはしない。ただ、ひたすらに防御に徹している。

 なぜ? 彼が本気を出せば、ダリウスたちなど、一瞬で倒せるはずなのに。

 その時、私は気づいた。彼が反撃しないのは、私のことを守っているからだ。もし、彼が攻撃に転じれば、どうしても防御に隙が生まれてしまう。その隙を突かれて、私が傷つくことを、彼は恐れているのだ。

 足手まとい。その言葉が、私の頭の中で重く響いた。結局、私は彼の重荷になっているだけなのだ。私がここにいるせいで、彼は本来の力を出すことができないでいる。

 悔しさと、申し訳なさで、目の奥が熱くなる。

 ダリウスは、ノアキスが反撃してこないのをいいことに、ますます調子に乗っていた。


「どうした、ナイトレイ! 防戦一方じゃないか! 噂に聞く天才とやらも、この程度か!」


 挑発的な言葉が、泉のほとりにこだまする。ノアキスの表情は変わらない。けれど、その周りの空気が、まるで冬の朝のように、冷たく、そして鋭く凝縮していくのを、私は肌で感じていた。

 このままでは、まずい。いつか、彼の我慢の限界が来る。そうなってしまえば、きっと取り返しのつかないことになる。

 何か、私にできることはないか。この状況を、打開する方法は……。

 焦る私の視界の端に、泉の周囲に群生している、ある植物が映った。

 それは、先ほど私が美しいと感じた、淡い虹色の花だった。けれど、その花の形に見覚えがあった。薬草学の分厚い専門書で、一度だけ見たことがある。栽培が非常に難しく、特定の環境でしか育たないため、幻の花とも呼ばれる植物。

 確か、その名前は――『サイレント・ミスト』。

 その花粉や、茎から出る汁には、周囲の空間に満ちる魔力――『マナ』の粒子を、一時的に中和し、不安定にさせる効果がある。つまり、この植物が近くにある環境では、魔法が極端に使いにくくなるのだ。

 これだ。これしかない。

 危険な賭けだ。失敗すれば、ダリウスたちをさらに怒らせるだけかもしれない。けれど、成功すれば、この一方的な状況をひっくり返せる可能性がある。

 私は、覚悟を決めた。


「ノアキス様!」


 私は、彼の背中に向かって叫んだ。


「少しだけ、時間を稼いでください! そして、私の合図で、目を閉じて、呼吸を止めて!」


 彼は、ダリウスの攻撃を防ぎながら、一瞬だけ、怪訝そうな視線をこちらに向けた。けれど、私の瞳に宿る真剣な光を読み取ったのだろう。彼は何も言わずに、こくりと小さく頷いた。

 それだけで、十分だった。

 私は、彼の防御が作り出した、ほんのわずかな隙をついて、泉のほとりへと駆け出した。


「何をする気だ、あの女!」


 ダリウスが、私に気づいて叫ぶ。彼の取り巻きが、私を狙って土の槍を放とうとするが、それはノアキスが作り出した風の壁に阻まれて、私に届くことはなかった。

 私は、目的の『サイレント・ミスト』の群生地にたどり着くと、迷わず、持っていた水筒の水を、その植物たちに勢いよく振りかけた。

 そして、鞄から、護身用に持っていた硬い石を取り出すと、その石で、力任せに植物の茎や葉を叩き、すり潰していく。


「今です!」


 私が叫ぶのと同時に、ノアキスがさっと目を伏せ、腕で口元を覆った。

 次の瞬間、叩き潰された植物から、濃密なエキスが霧状になって舞い上がり、まるで白い煙幕のように、私たちの周囲一帯に、あっという間に広がっていった。植物の持つ、甘く、そして少しだけむせ返るような独特の香りが、辺りに満ちる。


「な、何だ、この霧は!?」


 突然の出来事に、ダリウスたちが混乱の声を上げた。


「こんなもので、俺様の魔法が止められるとでも思ったか! くらえ!」


 ダリウスが、再び火の玉を作り出そうと呪文を唱える。しかし、彼の掌に炎が現れることはなかった。何度か試みるが、魔法陣は途中で形を崩してしまい、魔力は霧の中へと霧散していく。


「な、なぜだ!? 魔法が、使えない……!」


 彼の取り巻きも、同じように狼狽していた。彼らの力の源である魔法が、完全に封じられてしまったのだ。


「魔法が使えなければ、ただの雑魚が!」


 私の叫び声に、ノアキスが動いた。魔法が使えないのは、彼も同じ条件だ。けれど、純粋な身体能力と戦闘技術だけでも、彼とダリウスたちの間には、絶望的なまでの差があった。

 彼は、驚くべき速さでダリウスの懐に潜り込むと、その鳩尾に、寸止めの一撃を叩き込む。呻き声を上げて崩れ落ちるダリウス。取り巻きの男も、ノアキスに腕を掴まれ、いとも簡単に地面にねじ伏せられてしまった。

 あまりにも、あっけない幕切れだった。


 やがて、白い霧がゆっくりと晴れていく。周囲に満ちていた魔力の乱れも収まり、再び魔法が使えるようになった頃には、勝負は完全についていた。

 ダリウスと彼の取り巻きは、それぞれ地面に蹲り、悔しさと屈辱に顔を歪ませながら、私たちを睨みつけていた。


「お、覚えていろ……! こんな真似をして、ただで済むと思うなよ!」


 彼らは、そんなありきたりな捨て台詞を吐くと、そそくさとその場から逃げるように去っていった。

 嵐が過ぎ去った泉のほとりに、再び静けさが戻る。

 私は、自分の独断専行が、彼にどう思われただろうかと、急に不安になった。もしかしたら、余計なことをするな、と叱られてしまうかもしれない。

 私は、彼の顔色をうかがうように、おずおずと彼の方を見た。

 彼は、何も言わなかった。ただ、じっと、私の顔を見ていた。

 その紺碧の瞳には、これまでの無関心や、侮蔑の色はどこにもなかった。代わりに浮かんでいたのは、驚きと、そして、ほんの少しの――感心にも似た、新しい光。

 彼は、私の知識が、ただの座学の産物ではなく、実践の場で、彼の魔法さえも凌駕する形で、確かな力として機能することを、認めざるを得なかったのだろう。

 やがて、彼は、ぽつりと、一言だけ呟いた。


「……お前の知識は、馬鹿にできんな」


 それは、彼が私にくれた、初めての、明確な賞賛の言葉だった。

 その一言が、私の心の中に、じんわりと温かく広がっていく。

 彼はもう、私のことを、ただの「足手まとい」としては見ていない。対等ではないかもしれないけれど、少なくとも「パートナー」として、その存在を、この力不足な私を、認めてくれたのだ。

 彼のまなざしに生まれた、その微かな変化を感じながら、私は、私たちの間にあった分厚い氷の壁が、また少しだけ、薄くなったような気がしていた。

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