第3話

 どれくらいの時間、眠っていたのだろうか。

 焚き火の温かさと、一日中歩き続けた疲労に誘われるように、私の意識は深い泥の中に沈んでいたはずだった。それなのに、ふと、何かがおかしいと感じて目が覚めた。

 理由は分からない。けれど、さっきまでの穏やかな空気はどこかへ消え去り、森全体が息を殺しているような、嫌な静けさが満ちていた。いつもなら聞こえているはずの、夜行性の虫の音や、遠くで鳴くフクロウのような鳥の声も、今はぴたりと止んでいる。風が木々の葉を揺らす音だけが、やけに乾いて聞こえた。

 はっとして、炎の向こう側へと視線を向ける。そこには、岩に背を預けて浅い眠りについているはずの彼の姿はなかった。

 代わりに、私のすぐ目の前に、大きな背中があった。

 ノアキス・ナイトレイが、私と炎を背にするようにして、森の闇の奥をじっと見据えて立っていた。その手には、いつの間にか抜き身の剣が握られている。炎の光を受けて鈍くきらめくその切っ先は、微動だにしていない。彼の全身から、張り詰めた糸のような緊張感が発せられているのが、背後からでもはっきりと分かった。

 何が起きているの?

 尋ねようと口を開きかけた、その時だった。


 グルルルルル……。


 地の底から響いてくるような、低い唸り声。それは、昨日聞いたような、遠くで鳴く獣の声とは明らかに違っていた。もっと近く、もっと敵意に満ちた、獰猛な響き。

 そして、それは一匹ではなかった。

 森の暗がり、木々の隙間から、次々と赤い光点が灯り始める。一つ、二つ、三つ……。その数は瞬く間に増えていき、最終的には十を超えていた。二つで一組の、燃えるような赤い光点。それは、紛れもなく、闇に潜む捕食者の目だった。

 全身から血の気が引いていくのを感じる。体が石になったかのように、動かない。声も出ない。恐怖という名の冷たい手で、喉を強く締め上げられているかのようだった。

 赤い光点が、ゆっくりと、私たちを取り囲むように動き出す。やがて、闇の中から、そのおぞましい姿がぬらりと現れた。

 狼に似ているけれど、その体躯ははるかに大きく、全身が硬そうな漆黒の体毛で覆われている。口からは、鋭い牙が何本も剥き出しになっていて、涎が絶えず地面に滴り落ちていた。魔獣――『ナイトハウル』。夜の森で群れをなして狩りを行う、凶暴な肉食獣だ。一体一体はそれほど強くないと聞くけれど、これだけの数に囲まれたら、熟練の魔法使いでも逃げ切るのは難しいと言われている。

 終わった。もう、逃げられない。

 絶望が、私の思考を完全に停止させた。


「俺の後ろから離れるな」


 不意に、彼の低い声が鼓膜を打った。それは命令口調で、相変わらず冷たい響きを持っていたけれど、不思議と私の心を落ち着かせる力があった。彼の広い背中が、まるで揺るぎない城壁のように、私と魔獣たちの間に立ちはだかっている。

 一匹のナイトハウルが、痺れを切らしたように、低く唸りながら地面を蹴った。それを合図に、残りの魔獣たちも一斉に、私たちめがけて襲いかかってくる。

 その瞬間、彼の周りの空気が、ぐっと密度を増した。

 彼は、手に持っていた剣を地面に突き立てると、ただ静かに右手を前方へと掲げた。詠唱も、魔法陣の展開もない。けれど、彼の指先には、見る見るうちに、燃え盛る炎が集まっていく。


「――炎槍」


 呟きと同時に、彼の掌から放たれたのは、一本の巨大な炎の槍だった。それは、唸りを上げて空中を駆け、先頭を走っていたナイトハウルの一匹に寸分違わず命中する。悲鳴を上げる間もなく、その魔獣は炎に巻かれて吹き飛ばされ、地面を転がって動かなくなった。

 けれど、魔獣たちの勢いは止まらない。左右から、残りの群れが、牙を剥き出しにして殺到してくる。

 それに対して、彼は眉一つ動かさなかった。


「風刃」


 今度は、何もない空間から、無数の鋭い風の刃が生み出される。それは、まるで彼の意志を持っているかのように、一匹一匹の魔獣を正確に狙い、その四肢を浅く、しかし的確に傷つけていく。動きを封じられた魔獣たちは、次々と体勢を崩し、地面に倒れ伏した。

 圧倒的、だった。

 学園で、彼の魔法の実力がずば抜けているという噂は何度も耳にしていた。けれど、こうして目の当たりにする彼の戦いは、私の想像をはるかに超えていた。一つ一つの魔法の威力もさることながら、その行使の速さと正確さは、もはや芸術の域に達しているようにさえ思える。

 まるで、流れる水のように、彼の動きには一切の淀みがない。次々と襲い来る魔獣の群れを、彼はたった一人で、まるで邪魔な虫でも払うかのように、淡々と無力化していく。

 これが、学園最強と謳われる天才の実力。私のような落ちこぼれとは、住む世界が違う。改めて、彼との間に横たわる、決して埋めることのできない力の差を痛感させられた。

 でも、その戦いを食い入るように見つめているうちに、私はある奇妙な違和感に気づいた。

 彼の魔法は、どれも魔獣を殺してはいないのだ。

 炎の槍は、急所である頭や心臓を的確に外し、衝撃で気を失わせているだけ。風の刃も、動きを封じるために、腱や筋肉を狙って浅く傷つけているに過ぎない。彼の力をもってすれば、この程度の魔獣の群れなど、一瞬で殲滅できるはず。それなのに、彼はわざわざ、一匹ずつ戦闘不能にするという、回りくどい方法をとっている。

 どうして? 冷酷で、合理的で、無駄を嫌う彼が、なぜこんな手加減をするのだろう。

 私の疑問をよそに、戦いは終盤を迎えていた。残る魔獣は、あと一匹。群れのリーダー格なのか、他の個体よりも一回り大きなナイトハウルが、仲間たちが倒れていく様をみて、激しく威嚇の声を上げていた。

 その魔獣が、最後の力を振り絞るように、猛然と彼に飛びかかった。

 彼は、それを冷静に見据え、これまでと同じように、迎撃の魔法を放とうと手を構える。

 しかし、その一瞬。飛びかかってきた魔獣の動きが、不規則に変化した。それは、彼が放った風の魔法の名残が作り出した、小さな空気の渦に体勢を乱されたせいだったのかもしれない。

 彼の魔法が、わずかに狙いを外れる。そして、魔獣の鋭い爪が、彼の伸ばした右腕を深くえぐった。


「あっ……!」


 思わず、小さな声が漏れる。

 それでも、彼は顔色一つ変えなかった。腕から血が流れるのも構わずに、体勢を立て直した魔獣の首筋に、強烈な手刀を叩き込む。ぐえ、と蛙が潰れたような声を上げて、最後の魔獣もその場に崩れ落ちた。

 こうして、悪夢のような襲撃は、終わりを告げた。


 戦闘が終わると、森には再び、重苦しい静寂が戻ってきた。

 彼の周りには、倒れ伏した魔獣たちが転がっている。そのどれもが、まだ浅い呼吸を繰り返しており、命に別状はないようだった。

 彼は、何事もなかったかのように、地面に突き立てていた剣を引き抜くと、倒した魔獣たちを一瞥もせずに、焚き火のそばへと戻ってきた。そして、無言のまま、火が消えないように新しい薪を数本くべる。

 その、あまりにも落ち着き払った様子に、私は先ほどの激しい戦闘が、まるで幻だったかのようにさえ感じられた。

 けれど、それは幻ではない。

 彼の制服の右腕。その袖は、魔獣の爪によって無残に引き裂かれ、そこから覗く白いシャツを、鮮やかな赤色がじわじわと染めていた。裂かれた傷口からは、ぽたり、ぽたりと、血の雫が地面に落ちて、小さな染みを作っている。


「あの、腕を……怪我、なさったのでは……」


 私は、おずおずと声をかけた。


「問題ない」


 返ってきたのは、予想通りの、短く冷たい答えだった。彼は、傷ついた腕を気にするそぶりも見せず、ただじっと炎を見つめている。

 でも、問題ないはずがない。あれだけ深く裂けているのだから、きっと痛みもひどいはずだ。それに、この森の中で傷を負うことが、どれほど危険なことか。傷口から悪い菌が入れば化膿してしまうし、出血が続けば体力も奪われる。

 このまま放っておくわけにはいかない。

 でも、私に何ができるだろう。彼に拒絶されるのが怖かった。足手まといだと思われている私が、彼の助けになろうとすること自体、おこがましいのではないか。そんな考えが、私の足をすくませる。

 逡巡する私の目の前で、また一滴、彼の腕から血が滴り落ちた。

 その赤い雫を見た瞬間、私の心の中で、迷いが消えた。

 ここで何もしなければ、私はきっと後悔する。攻撃魔法は使えなくても、私には、私にしかできないことがあるはずだ。私の唯一の取り柄は、薬草学の知識なのだから。

 私は、自分の革鞄を引き寄せると、中からいくつかのものを取り出した。一つは、止血効果の高い『月見草』の乾燥させた葉。もう一つは、化膿を防ぎ、傷の治りを早める『癒しの軟膏』の入った小さな壺。これは、学園の温室で私が育てた薬草を使い、自分で調合したものだ。

 私は、それらを手に、静かに立ち上がった。そして、彼の前に進み出ると、深く、頭を下げる。


「僭越ながら、手当てを、させてください」


 彼は、ゆっくりと顔を上げて、私を見た。その紺碧の瞳が、怪訝な様子でわずかに細くなった。


「いらんと言っている。お前の手を煩わせるまでもない」


 その声には、明確な拒絶の色が浮かんでいた。彼の周りの空気が、ぴりぴりと張り詰める。近寄るな、と全身で語っているようだった。

 普通の生徒なら、ここで引き下がっただろう。けれど、今の私には、彼の言葉に怯んでいる余裕はなかった。


「いいえ、いらなくありません」


 私は、顔を上げて、彼の目をまっすぐに見つめ返した。自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。


「その傷を放置すれば、この森では命取りになりかねません。それに……貴方が万全の状態でなければ、私も困りますから」


 最後のは、とっさに出てしまった本音だった。けれど、その言葉が、彼の心をわずかに動かしたのかもしれない。


「……勝手にしろ」


 彼は、小さなため息と共にそう呟くと、ふい、と顔を逸らしてしまった。それは、許可というにはあまりにもぶっきらぼうだったけれど、拒絶ではないことだけは確かだった。

 私は、「失礼します」と小さく断ると、彼の隣に膝をついた。

 まず、水筒に残っていた綺麗な水で湿らせた布で、傷口の周りの汚れを優しく拭っていく。彼の腕は、見た目以上にがっしりとしていて、硬い筋肉に覆われていた。その腕に刻まれた痛々しい傷跡を見るたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。

 彼が、ぴくりと肩を動かした。傷に触れられた痛みか、あるいは、他人に触れられることへの不快感か。私は、なるべく彼の負担にならないように、できるだけ優しく、丁寧に作業を進めた。

 次に、月見草の葉を指で細かく砕き、傷口に直接振りかける。そして、その上から、癒しの軟膏をたっぷりと塗り込んだ。薬草の持つ、少しだけ青臭い、けれど清涼感のある香りが、ふわりと立ち上る。

 最後に、鞄に入れていた清潔な包帯で、傷口をきつく締めすぎないように、丁寧に巻いていく。

 その間、彼は一言も話さなかった。ただ、時折、息を詰めるような気配が伝わってきて、彼が痛みをこらえていることが分かった。

 手当てが、終わる。


「……これで、大丈夫です。明日には、痛みも少しは和らぐはずです」


 私がそう言うと、彼は、包帯が巻かれた自分の腕を、どこか不思議そうな目で見下ろした。

 そして、ぽつりと、呟く。


「……お前、治癒魔法は使えないのか」

「え?」

「これだけの薬草の知識があるなら、簡単な治癒魔法くらいは使えるだろうと思っただけだ」


 彼の言葉に、私は俯いた。


「お恥ずかしながら……私の場合、魔法で直接癒すよりも、こうして薬草の力を借りる方が、性に合っているんです」


 それは、紛れもない事実だった。私の技量では生命の力を活性化させることはできても、傷そのものを塞ぐような、直接的な奇跡を起こすことはできない。仮に魔法を使用するための詠唱や杖という補助を使用したとしても、同じだ。だから、私は魔法使いとしては、落ちこぼれなのだ。

 きっと、彼も呆れているに違いない。そう思うと、急に恥ずかしくなって、顔が上げられなくなった。

 どれくらい、そうしていただろうか。

 不意に、頭上から、彼の声が降ってきた。


「……悪くない」

「……え?」

「この軟膏だ。悪くない」


 私は、驚いて顔を上げた。彼は、相変わらず炎を見つめたままだったけれど、その横顔は、心なしか少しだけ和らいで見えた。

 それが、彼なりの感謝の表現なのだと気づいた時、私の胸の中に、じんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。


 その後、私たちは見張りを交代し、今度は私が火の番をすることになった。彼は、私が先ほどまでいた場所に横になり、すぐに静かな寝息を立て始めた。よほど、疲れていたのだろう。

 夜は、静かに更けていく。倒れていた魔獣たちは、いつの間にか意識を取り戻し、ほうほうの体で森の闇へと逃げ帰っていったようだ。

 私は、時々薪をくべながら、眠っている彼の横顔を、そっと盗み見た。

 こうして見ると、彼の顔立ちは、本当に人形のように整っている。長い睫毛が、頬に柔らかな線を描いていた。いつもは鋭く尖っている雰囲気も、今は鳴りを潜めている。

 本当に、不思議な人。冷たくて、近寄りがたくて、何を考えているのか分からない。けれど、魔獣を殺さなかったり、私の拙い手当てを、素直に受け入れてくれたりもする。

 彼はいったい、どんな人なのだろう。

 そんなことを考えているうちに、私の意識も、再び睡魔の波にさらわれていく。

 うとうとと、船を漕ぎ始めた、その時だった。


「……リアナ……」


 眠っているはずの彼の口から、苦しげな声が漏れた。

 はっとして、彼の方を見る。彼は、眉間に深い皺を寄せ、何か悪い夢でも見ているかのように、うなされていた。その唇から、もう一度、その名前が紡がれる。


「……リアナ……行くな……」


 それは、聞いたことのない名前だった。けれど、その響きには、今まで彼から感じたことのない、深い悲しみと、何かを失ったことへの、痛切な悔恨がにじみ出ていた。

 いつも冷静沈着で、鉄の仮面を被っているかのような彼が、初めて見せた弱さ。

 私は、彼の閉ざされた心の扉。その固く閉ざされた隙間から、ほんの少しだけ、彼の抱える暗く、そして深い闇を垣間見てしまったような気がした。

 彼は、ただ冷たいだけの人ではないのかもしれない。何か、とても重たいものを一人で背負って、戦っているのかもしれない。

 そう思うと、彼のことが、もっと知りたくなった。

 夜の森の静寂の中、私は、彼の苦しげな寝顔を見つめながら、そんなことを考えていた。

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