第2話
あの重々しい鐘の音が鳴り響いた後、大講堂を支配していた張り詰めた空気は、堰を切ったように動き出した。生徒たちは一斉に立ち上がり、それぞれのパートナーと合流し、あるいは互いの幸運を祈り、あるいは不運を嘆きながら、森の入り口へと向かっていく。その巨大な人の流れの中で、私はただ一人、その場から一歩も動けずにいた。
ノアキス・ナイトレイ。彼が私に投げつけた、氷のように冷たい言葉の欠片が、まだ耳の奥で鋭い音を立てていた。『足手まといは置いていく』。それは脅しでも何でもなく、ただの事実の通告だった。彼のあの紺碧の瞳には、私の存在など初めから映ってさえいなかったのだから。
どれくらいそうしていたのだろう。周囲の喧騒が遠のき、ほとんどの生徒が大講堂から去ってしまったことに、私はようやく気がついた。残されたのは、私と同じように、絶望的な組み合わせに言葉を失った数組の生徒たちだけ。彼らの顔には、諦観と恐怖が色濃く浮かんでいた。
このままここにいても、何も始まらない。私は、まるで錆びついてしまった人形のようにぎこちない動きで、重い足を引きずるようにして歩き出した。向かう先は、皆と同じ、『神託の森』の入り口。行きたくない、と心の底から叫んでいるのに、体は学園の定めたルールに逆らうことができない。
学園の校舎を抜けると、目の前に広大な森の入り口が、まるで巨大な獣の顎のように、黒々と口を開けていた。天を突くほどの巨木が何本もそびえ立ち、その枝葉が複雑に絡み合って、空を完全に覆い隠してしまっている。昼間だというのに、森の内部は薄暗く、湿った土と腐葉土の匂いが合わさった、独特の空気が流れていた。
森の境界を示す古びた石の門の前で、生徒たちは最後の準備を整えたり、仲間と励まし合ったりしている。その喧騒の中に、私は彼の姿を見つけた。
ノアキス・ナイトレイは、誰とも言葉を交わすことなく、一人、門のすぐそばに立っていた。他の生徒たちが形成する輪から意図的に距離をとり、ただ静かに森の奥を見つめている。その横顔は、大講堂で見た時と同じように、何の感情も読み取れない、完璧なまでの無表情だった。
彼が、ふとこちらに視線を向けた。目が、合ってしまった。けれど、彼の瞳は私の姿を捉えても、ほんの一瞬たりとも揺らぐことはない。まるで、そこに転がっている石ころでも見るかのように、何の関心も示さずに、すっと視線を逸らしてしまった。
そして次の瞬間、彼は何の前触れもなく、森の中へと足を踏み入れた。
振り返ることも、待つそぶりを見せることもなく、ただ一人で。
その姿は、鬱蒼とした木々の間に、あっという間に吸い込まれて見えなくなってしまった。
本当に、置いていかれてしまった。
彼の言葉が、冷たい現実となって私の目の前に突きつけられる。
足元から、地面が崩れていくような感覚。頭の芯がじんじんと痺れ、目の前が真っ暗になりそうだった。
そうだ、もう終わりなんだ。
私のような落ちこぼれが、あんな冷徹な人と組んで、この恐ろしい森を生き延びられるはずがない。きっと、このままおいて行かれて、私は一人で死んでしまうのだ。
だとすれば、このままここに座り込んで、全てが終わるのを待っていた方が、いっそ楽なのかもしれない。
諦め、という甘い毒。それが私の思考をゆっくりと麻痺させようとしていた。
でも。
本当に、それでいいの?
脳裏に、故郷で待つ両親の顔が浮かんだ。下級貴族の我が家にとって、私がこの学園で学ぶことは、一家の誇りであり、希望だった。たくさんの期待を背負って、私はこの学園の門をくぐったはずだ。こんなところで、何もせずに終わるために来たわけじゃない。
ぎゅっと、スカートの裾を握りしめる。指先が白くなるほど、強く。
彼の言葉通り、ただの足手まといで終わるなんて、絶対に嫌だ。置いていくと言うのなら、必死でついていけばいい。彼が私をどう思おうと関係ない。私は、ただ生き延びなくてはならないのだから。
腹の底から、か細いけれど、確かな熱が湧き上がってくるのを感じた。それは希望なんて綺麗なものではなく、もっと泥臭くて、必死な、生存への渇望だった。
私は顔を上げると、彼が消えていった薄暗い森の入り口をまっすぐに見据えた。そして、最後の一組が森へと入っていくのを見届けた後、私もまた、覚悟を決めてその暗がりへと足を踏み入れた。
森の中は、想像していた以上に静かで、そして不気味だった。
一歩足を踏み入れただけで、外の喧騒が嘘のように遠ざかり、自分の足音がやけに大きく聞こえる。高く伸びた木々の葉が幾重にも重なり合って、空からの日差しをほとんど通さないため、昼間なのにまるで夕暮れ時のようだ。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、どこからか、名も知らない獣の低い唸り声のようなものが聞こえてくる。
私は、必死に周囲を見回した。彼が進んだであろう痕跡を探して。幸いなことに、森の入り口付近の地面は湿っており、他の生徒たちのものに交じって、真新しい足跡がいくつか残されていた。その中に、ひときわ大きく、力強い一人の足跡を見つける。きっと、彼のものに違いない。
私はその足跡を頼りに、ひたすら森の奥へと進んでいった。
けれど、彼の歩みは、私が想像していた以上に速かった。私は小走りになっても、なかなかその距離を縮めることができない。慣れない森の道は、木の根や石くれがあちこちに潜んでいて、何度も足を取られそうになる。スカートの裾は泥で汚れ、頬を掠めた枝で、細い切り傷ができてしまった。
ぜえ、ぜえ、と自分の荒い呼吸だけが耳につく。もう、どれくらい歩き続けたのだろう。彼の残した足跡は、だんだんと見つけにくくなってきた。地面が乾いた落ち葉で覆われている場所では、どこに進んだのかまったく分からない。
まずい。このままでは、完全に見失ってしまう。
焦りが、私の冷静な判断力を奪っていく。ただ闇雲に、彼が進んだであろう方角へと走り続けた。
その時だった。前方に、ほんの一瞬だけ、彼の黒い制服が見えたような気がした。
「待って……ください!」
思わず叫びながら、速度を上げる。けれど、その姿はすぐに木々の向こうに隠れてしまい、再び見失ってしまった。
それでも、まだ近くにいる。その事実だけが、私の心を支えていた。
私は、彼の姿を追いかけて、さらに森の奥深くへと分け入っていった。
しばらく進むと、少しだけ開けた場所に出た。そこは、他の場所よりもわずかに日の光が届くせいか、様々な植物が群生している。苔むした岩の間から、見たこともないような鮮やかな色のキノコや、可憐な花々が顔をのぞかせていた。
私は、少しだけ足を止めて呼吸を整えようとした。その時、ふと、ある植物に目が留まった。
それは、地面を這うようにして広がっている蔓性の植物で、その所々から、純白の小さな花をいくつも咲かせていた。一見すると、とても可憐で、何の変哲もない野草のように見える。
けれど、私はその植物に見覚えがあった。薬草学の授業で、何度もその危険性について教えられた植物。
――『眠り誘いの花』。
その花や葉、そして根にまで、強力な麻痺毒が含まれている。触れただけでは害はないけれど、その近くで長時間呼吸をしたり、あるいは花粉を吸い込んだりすると、徐々に体の自由が奪われ、やがて深い眠りに落ちてしまうのだ。そして、眠っている間に、森の魔獣の餌食となる。
この罠の恐ろしいところは、魔法的な探知には一切かからない、純粋な自然の毒であるということ。攻撃魔法や防御魔法に優れた生徒ほど、こうした地味な植物への警戒心は薄い。彼らは、もっと派手な、魔力を帯びた罠ばかりを警戒するからだ。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
この群生地は、かなり広い範囲にわたって広がっている。そして、道の先――彼が進んでいったであろう方向にも、この『眠り誘いの花』がびっしりと地面を覆っていた。
彼は、この花の危険性に気づいているだろうか。
いや、きっと気づいていない。彼ほどの天才なら、こんな回りくどい自然の罠など、意にも介さないに違いない。彼の関心は、もっと強力な魔獣や、他のペアとの駆け引きにこそ向いているはずだ。
このまま彼が進んでいけば、間違いなく毒の影響を受けてしまう。
知らせなければ。
その一心で、私は残っていた力を振り絞って走り出した。
「待ってください! その先は、危ないです!」
喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。けれど、私の声は弱々しく、鬱蒼とした森に吸い込まれて、彼に届いたかどうか分からなかった。
焦りばかりが募る。もっと大きな声を出さなければ。そう思った矢先、むき出しになっていた木の根に、思いきり足を取られてしまった。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に、私の体はバランスを失い、地面に強く叩きつけられる。肩にかけていた、薬草採集用の革鞄が宙を舞い、中に入れていた乾燥させた薬草や、小瓶がいくつも地面に散らばってしまった。
鈍い痛みが全身に走る。けれど、それよりも、彼に危険を伝えられなかったことへの絶望の方が大きかった。
もう、間に合わない。
そう思った、その時だった。
前方で、がさり、と葉を踏む音がして、不意に人の気配がした。ゆっくりと顔を上げると、そこに、彼が立っていた。
ノアキス・ナイトレイが、毒草の群生地のすぐ手前で足を止め、無表情なまま、こちらを振り返っていた。
私の叫び声が聞こえたのか、それとも私が転んだ音に気づいたのか。彼の紺碧の瞳が、地面に突っ伏している私と、その周りに散らばった薬草を、値踏みするように見ている。
私は、体の痛みをこらえながら、必死に上半身を起こした。
「その……お花、です」
息を切らしながら、私は精一杯の声を振り絞る。
「その白いお花には、麻痺の毒が……。長くそばにいると、動けなくなってしまいます」
私の言葉を聞いても、彼の表情は少しも変わらなかった。ただ、その視線が、私の指さす先――足元に咲く可憐な白い花へと、ゆっくりと向けられる。
彼はしばらくの間、無言でその花を見つめていた。その沈黙が、永遠のように長く感じられる。
やがて、彼はふいと顔を上げると、私に背を向けた。そして、私が警告した毒草の群生地を、大きく迂回するようにして、再び歩き始める。
最後まで、彼は一言も発しなかった。感謝の言葉も、ねぎらいの言葉も、何一つ。
けれど、彼の歩く速度は、明らかに先ほどよりも緩やかになっていた。私が、息を切らしながらも、何とかついていくことができるくらいの速さに。
それは、あまりにもささやかで、言葉にもならない変化だった。でも、私にとっては、分厚い氷の壁に、ほんの少しだけ、小さな亀裂が入ったような、そんな気がした。
私は、散らばってしまった薬草を急いで鞄にかき集めると、彼の後を追いかけて、再び歩き出した。
それから、私たちは黙々と森の中を進み続けた。
彼の歩みは、私が遅れないように、常に一定の速度に保たれている。私が木の根につまずきそうになると、彼は少しだけ歩みを止め、私が体勢を立て直すのを待っているようでもあった。
もちろん、言葉は一切交わさない。彼は決して後ろを振り返ることはなく、私はただ、彼の少し先を行く背中を追い続けるだけ。気まずい沈黙が、私たちの間に重くのしかかっていた。
それでも、私はもう、置いていかれるという恐怖を感じてはいなかった。彼が私を見捨てないと決めたわけではないだろう。きっと、私がここで倒れてしまえば、彼の評価にも関わる。ただ、それだけの、合理的な判断に過ぎないのかもしれない。
それでも、よかった。今は、それで十分だった。
やがて、天を覆っていた木々の隙間から差し込む日差しが、赤みを帯び始めた。日が傾き、森に夜の帳が下りようとしている。昼間でさえ薄暗かった森は、急速に闇の色を濃くしていく。周囲の温度が下がり、肌寒ささえ感じられた。
夜の森は、昼間とは比べ物にならないほど危険だ。夜行性の凶暴な魔獣たちが、活動を始める時間。
どうしよう。このまま歩き続けるのだろうか。それとも、どこかで野営をするのだろうか。私からそれを提案するなんて、とてもできない。
そんな私の不安を察したかのように、彼は、少し開けた場所でぴたりと足を止めた。
「ここで夜を明かす」
森に入ってから、初めて彼が私にかけた言葉だった。その声は、相変わらず感情の起伏を感じさせない、平坦な響きを持っていた。
彼はそう言うと、背負っていた荷物の中から手斧を取り出し、近くの枯れ木を慣れた手つきで切り倒し始めた。そして、乾燥した小枝や落ち葉を集めると、魔道具も使わずに、火打ち石だけで器用に火をおこしてしまう。
私は、ただ呆然と、その手際の良さを見つめているだけだった。私に手伝えることは、何もない。彼の行動には一切の無駄がなく、一人で生き抜くための技術が、その全身に染みついているようだった。
やがて、パチパチという音を立てて、小さな焚き火が燃え上がった。オレンジ色の炎が、私たちの周りの闇をわずかに払い、二人だけの小さな空間を作り出す。
彼は、火の番をするように、そのそばにどかりと腰を下ろした。そして、私の方を一瞥すると、「お前も座れ」と、顎で地面を示した。
私は、言われた通り、彼と炎を挟んだ反対側に、そっと腰を下ろした。
再び、沈黙が訪れる。
会話はない。聞こえるのは、薪がはぜる音と、森の奥から聞こえてくる、得体の知れない生き物の鳴き声だけ。
燃え上がる炎が、彼の無表情な横顔を照らし出していた。その紺碧の瞳は、ただじっと、揺らめく炎を見つめている。彼が何を考えているのか、私にはまったく分からなかった。今日の出来事について、どう思っているのだろう。私のことを、やはり邪魔な足手まといだと感じているのだろうか。
何か、話さなければ。この気まずい空気を、どうにかしなければ。
そう思うのに、どんな言葉をかければいいのか、まったく見当もつかなかった。
ありがとう、と伝えるべきだろうか。でも、彼はそれを求めていないような気がする。ごめんなさい、と謝るべきだろうか。でも、何に対して謝ればいいのか分からない。
結局、私は何も言えないまま、ただ膝を抱えて、炎を見つめることしかできなかった。
疲労と緊張が、どっと体にのしかかってくる。焚き火の温かさに、こわばっていた体の力が、少しずつ抜けていくのを感じた。
明日も、この森での過酷な一日は続く。そして、この気まずい沈黙も。それでも、今はこうして、魔獣に襲われることなく、火のそばにいられる。それだけでも、幸運なことなのかもしれない。
眠気が、重たいまぶたをゆっくりと押し下げてくる。意識が遠のく中で、私は、彼が静かに立ち上がるのを見た。彼は、焚き火に薪を数本くべると、森の闇に向かって、鋭い視線を向ける。まるで、眠っている私を守るかのように、見張りを始めたその大きな背中を、私はぼんやりとした視界の端で捉えていた。
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