落ちこぼれな私でも、あなたの隣で
速水静香
第1話
荘厳、という言葉がこれほど似合う場所を、私は他に知らなかった。
アストライア魔法学園の大講堂。幾本もの太い円柱が大理石の床から天へと伸び、遙か高くにある天井を支えている。壁という壁を埋め尽くすのは、学園の創設史や伝説の魔法使いたちの功績を描いた巨大なステンドグラス。そこから降り注ぐ色彩は、床に複雑な模様を落とし、まるで講堂全体が魔法の宝石箱であるかのように錯覚させた。
けれど、今この場を満たしているのは、きらきらとした憧れのような空気ではない。期待と不安、それに焦りが凝縮されたような、独特の熱と張り詰めた雰囲気がそこにはあった。集まった全校生徒の視線は、一点――講堂の最も奥にある、一段高くなった壇上へと注がれている。
年に一度、卒業年次の生徒に課せられる過酷なサバイバル試験、『神託の森の試練』。そのペア発表が、もう間もなく行われようとしていた。
ごくり、と自分の喉が鳴る音がやけに大きく感じられた。ぎゅっと握りしめた手のひらには、じっとりと汗が滲んでいる。
どうか、どうか、優しい人に当たりますように。攻撃魔法が得意な、頼りになる人がいい。いや、そんな贅沢は言わないから、せめて私のような『落ちこぼれ』を見捨てないでいてくれるような、情け深い人でありますように。
心の中で、私は何度も同じ祈りを繰り返していた。
私の持つ魔法属性は、治癒や薬草学といった分野に偏っている。
四大元素のうち、攻撃の要とされる火や風の属性はからっきしで、そのせいで入学以来、ずっと学園の階級制度では最下層に甘んじてきた。
『実力主義』
それが、このアストライア魔法学園の絶対的な理念。
家柄や出自は関係なく、ただ魔法の才能のみが評価の全てを決定する。
聞こえは良いけれど、その実態は残酷なまでの実力社会だった。制服の胸元で輝く徽章の色が、生徒たちの階級を無言のうちに示していた。
金色は最上位、銀色は上位、銅色は中位、そして私のような下位の生徒は鉄色の徽章を身につけている。
上位の生徒たちは皆、誇らしげにそれを輝かせ、私たち下位の生徒たちには侮蔑の視線を向ける。
その視線を向けられるたび、私は自分の存在が、まるで道端の石ころにでもなったかのような心細さを感じるのだった。
この『神託の森の試練』は、そんな学園の在り方を最も色濃く反映した行事だ。
二人一組で凶暴な魔獣がうろつく森を生き延びるという、課題をこなさなくてはならない。
そして、最も恐ろしいのは、成績下位のペアは学園から『追放』処分になる、という掟だ。
『追放』
その言葉が持つ重く冷たい感触が、私の足元から地面の感覚を奪っていくようだった。
だからこそ、パートナー選びは文字通り、私たちの運命を左右する。誰と組むかによって、天国と地獄が決まってしまうのだ。
ちらり、と周囲を見渡す。自信に満ちた表情で談笑しているのは、いずれも上位階級の生徒たちだ。
彼らにとってこの試練は、自らの力を誇示するための絶好の機会なのだろう。
一方で、私と同じように顔をこわばらせ、落ち着きなく指を弄んでいる生徒たちも少なくない。
その誰もが、私と同じ祈りを捧げているに違いなかった。
やがて、講堂の全ての扉が重々しい音を立てて閉ざされ、生徒たちのざわめきがぴたりと止んだ。しん、と静まり返った空間に、壇上へと向かう一人の足音だけが広がる。
穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと歩みを進めるのは、この学園の頂点に立つ人物――学園長その人だった。
白銀の髪と髭を蓄えた、温厚そうな老人。彼はいつも、私たち生徒一人ひとりを慈しむような、優しい眼差しで見守ってくれる。
「親愛なるアストライアの若人たちよ。今年もまた、試練の時がやってきた」
彼の声は、決して張り上げるようなものではないのに、不思議と講堂の隅々にまで明瞭に行き渡った。
「この試練は、君たちの魔法技能を測るだけのものではない。困難に立ち向かう精神力、仲間と協力する協調性、そして何より、生き抜こうとする強い意志。それら全てが問われることになる。君たちがこの試練を乗り越え、一回りも二回りも大きく成長してくれることを、私は心から信じている」
学園長の言葉に生徒たちから熱のこもった拍手が送られる。
けれど、私の心には少しも響かなかった。協調性だなんて、綺麗事を並べているだけで、実際には弱肉強食の世界だ。
そんな私の冷めた思考をよそに、学園長は厳かに両腕を掲げた。
「では、これより、『神託の森の試練』のペアを発表する!」
その宣言を合図に、壇上の背後にあった空間が、まるで水面のように揺らめいた。
そして、そこから眩い光の粒子が溢れ出し、講堂の中央、高い天井のすぐ下に集まっていく。光は渦を描き、やがて巨大な魔法陣の形を成した。
生徒たちの間から、ごくりと息をのむ気配が伝わる。発表は、この魔法陣に光の文字で名前が映し出されることで行われるのだ。
最初に浮かび上がったのは、二人の男子生徒の名前だった。どちらも火の魔法を得意とする、学園でもトップクラスの実力者だ。
彼らは互いに顔を見合わせ、にやりと笑って拳を突き合わせた。周囲からは、羨望のため息が漏れる。
続いて、また二人の名前が浮かび上がる。今度は男女のペアだ。どちらも風の魔法の使い手で、彼らもまた、満足げな表情を浮かべていた。
次々と、魔法陣に名前が映し出されては消えていく。そのたびに、講堂のあちこちで安堵の息や、あるいは落胆の声が小さく上がった。
一人、また一人とパートナーが決まっていくたびに、私の不安は雪だるまのように大きく膨れ上がっていく。
お願い、お願いだから。私を見捨てないでくれる人を……。
ぎゅっと目を閉じ、両手を胸の前で固く組む。自分の鼓動が、まるで警鐘のように頭の中で鳴り続けていた。
もう、何組のペアが発表されただろうか。残っている生徒の数も、ずいぶんと少なくなってきたはずだ。私の名前は、まだ呼ばれない。もしかしたら、忘れられているんじゃないだろうか。そんなあり得ないことまで考えてしまうほど、私の心は追い詰められていた。
その、時だった。
魔法陣がひときわ強く輝き、全ての生徒の視線が再びそこへと吸い寄せられる。光の粒子が寄り集まり、一つの名前を形作った。
――ルティアナ・メイフィールド。
私の、名前。
はっと息をのんだ私の隣で、もう一つの名前が、ゆっくりと姿を現し始める。どうか、どうか。祈るような気持ちで、私はその光の文字を見つめた。
最初に現れたのは、『ナ』の文字。次に『イ』、そして『ト』……。
一文字ずつ、その名前が紡がれていく時間が、永遠のように長く感じられた。そして、ついにその全ての文字が、揺るぎない輝きを放って宙に固定される。
――ノアキス・ナイトレイ。
その名前が持つ意味を、私の頭が理解するのに、数秒の空白が必要だった。
ノアキス・ナイトレイ。
学園始まって以来の天才と称されながら、他者との交流を一切拒み、常に孤高を貫く青年。王国でも屈指の名門であるナイトレイ公爵家の嫡男であり、入学前から王国中にその名が知れ渡っていた彼。本来なら魔法学園ではなく、宮廷での特別教育を受けるべき立場だったと聞いていた。それなのに、なぜ、この魔法学園に入学したのか?その素性を自ら語ることは決してない、謎めいた人物だった。
――そして、何よりも。
誰と組むこともなく、たった一人で全ての課題をこなし、入学以来、圧倒的な実力を見せつけ続ける、最強の一匹狼。
一瞬、講堂は水を打ったように静まり返った。誰もが、信じられないものを見たかのように、魔法陣に浮かぶ二つの名前を凝視している。
やがて、その静寂を破ったのは、誰かのくすり、という忍び笑いだった。それを皮切りに、さざ波のようにどよめきが講堂全体に広がっていく。
「嘘だろ……」
「よりによって、相手があの『落ちこぼれ』のメイフィールドだって?」
「あれじゃあ、ナイトレイが可哀想だわ」
ひそひそと交わされる言葉が、容赦なく私の耳に突き刺さる。嘲笑、憐れみ、好奇心。あらゆる種類の悪意ある視線が、私の全身に絡みついてくるようだった。
頭が真っ白になって、何も考えられない。どうして。何かの間違いじゃないの? 学園長が、ペアは魔法によって公平に選ばれると言っていた。けれど、こんな組み合わせが、公平なはずがない。
私は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。周りのざわめきが、まるで分厚い壁の向こう側から聞こえてくる音のように、どこか遠くに感じられる。私のささやかな願いは、ガラス細工のようにあっけなく、そして無慈悲に打ち砕かれてしまったのだ。
その混乱の中心に、一本の道がすっと開かれた。
生徒たちの囁き声がぴたりと止み、誰もが息を殺して、その人物の登場を見守っている。講堂の後方にいたはずの彼が、ゆっくりと、しかし一切の迷いない足取りで、こちらへ向かって歩いてくる。
夜の闇を溶かし込んだような、艶のある黒髪。その下からのぞくのは、射るように鋭い紺碧の瞳。寸分の乱れもなく着こなされた制服は、彼の端正な顔立ちと相まって、近寄りがたいほどの威圧感を放っていた。
ノアキス・ナイトレイ。
彼が近づいてくるにつれて、周囲の空気が張り詰めていくのが肌で感じられた。生徒たちは、まるで王族の行進でも見るかのように、彼の進む道を左右に分かれて開けていく。
やがて、彼は私の目の前でぴたりと歩みを止めた。
見上げるほどの長身。彼の大きな体でステンドグラスからの色彩が遮られ、私の足元は薄暗くなった。
何の感情も映さない、静かな紺碧の瞳が、私をじっと見下ろしていた。その瞳に映る私は、きっとひどく怯えた、哀れな顔をしているに違いない。何か言わなくては。パートナーになるのだから、挨拶くらいは……。
そう思うのに、喉の奥が氷で塞がれたように、声が出てこない。ただ、彼の視線から逃れることもできず、金縛りにあったようにその場に立ち尽くしていた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。彼が、ゆっくりと薄い唇を開いた。
「足手まといは置いていく」
その声は、彼の瞳と同じように、一切の温度を感じさせない、平坦な響きを持っていた。まるで、道端の石にでも話しかけるかのような、無機質な声。
「そのつもりでいろ」
それだけを言うと、彼は私に興味を失くしたかのように、すっと視線を外した。そして、くるりと背を向けると、今来た道を同じように、迷いのない足取りで戻っていく。
彼の背中が、ざわめきを取り戻した生徒たちの群れの中へと消えていくのを、私はただ見送ることしかできなかった。
置いていく。その言葉が、頭の中で何度も何度もこだまする。
分かっていたことだ。彼のような天才にとって、私のような存在は、まさしく足手まとい以外の何者でもないのだから。それでも、直接突きつけられた現実は、想像していたよりもずっと、ずっと冷たくて鋭い刃となって私の心をえぐった。
膝から、力が抜けていく。このまま、この場に崩れ落ちてしまいそうだった。
ああ、もう駄目だ。私の学園生活は、今日で終わるんだ。追放されるんだ。
絶望が、冷たい水のように私の全身を満たしていく。
ゴォォォォン……。
その時、講堂全体を揺るがすような、重く、腹の底にまで届く鐘の音が鳴り響いた。
それは、全てのペア発表が終わり、これから始まる過酷な試練の開始を告げる、合図の鐘。
その厳粛な音色を聞きながら、私は、これからたった一人で踏み出さなければならない、暗く深い森のことを思っていた。
絶望的な状況下で、試練の開始を告げる鐘の音が、学園中に、そして私の心の中に、重々しく、そして容赦なく、鳴り渡っていた。
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