第6話
昼休みを告げるチャイムの音が聞こえた。授業中らしく、静まり返っていた教室が一瞬にして生命を吹き込まれたかのように騒がしさに満たされる。
あちこちで机が動かされ昼食を食べるために移動をする音や、どこか楽しげな会話が飛び交う。
ただ、その全てが僕の神経をやすりで削るように苛んだ。
僕はもうこの教室にいることができなかった。
僕が席を立つと周囲の生徒たちの視線が一瞬だけ僕に集まったのが分かった。しかしその視線はすぐに逸らされる。彼らの目には好奇心よりももっと冷たいものが含まれていた。理解不能なもの関わり合いたくないものを見る目。僕が発した覚えのない言葉。それは僕が思うよりもずっと速くクラスの中に広がっていたのだろう。
以前の僕が望んでいた孤立は他者への無関心という僕自身の選択の結果だった。しかし今のこの孤立は違う。それは僕という存在が共同体から『異物』として認識され排除されつつある証拠だった。彼らは僕を避けている。まるで触れれば伝染する病原菌か何かのように。
僕は逃げるようにして教室を出た。弁当を食べる気力などとうの昔に失せていた。ただこの息の詰まるような空間から一秒でも早く解放されたかった。
廊下に出ると教室の喧騒が少しだけ遠のいた。しかし安息は訪れない。廊下もまた僕にとっては危険地帯だった。行き交う生徒たち開け放たれた窓、壁に貼られたポスター。その全てがあの虚ろな瞳の潜む『隙間』になり得るのだ。
僕はできるだけ視線を落とし足元だけを見つめながら歩いた。誰とも目を合わせないように。何も見ないように。
だがそれは無駄な努力だった。
廊下のちょうど中間あたりまで来た時だった。
不意に空気が変わった。周囲のざわめきがほんの一瞬遠のいたような気がした。僕は嫌な予感を覚えながらおそるおそる顔を上げた。
廊下の突き当たり。
僕が向かっている方向のその先。
大きな窓から差し込む昼の強い光が床に明るい四角形を描き出している。そのあまりにも明るい空間のちょうど真ん中に。
それはぶら下がっていた。
天井の何もないはずの空間から一本のロープが垂れ下がりその先端に黒い人型がくくりつけられている。
これまでの幻覚とは比較にならないほどそれは鮮明だった。だらりと垂れた手足の輪郭。不自然に折れ曲がった首の角度。そしてそれが僕のよく知るこの学校の男子生徒の制服を着ていることまではっきりと見て取れた。
違う。
あれは制服じゃない。
僕が着ているこの服だ。
天井からぶら下がっているのは僕自身だった。
ああああああああああああああああああ。
声にならない叫びが喉の奥で詰まった。全身の筋肉が恐怖で収縮し体が弓なりに反る。目の前の光景がぐにゃりとねじれて色彩を失っていく。
逃げろ。
脳がそれだけを命令していた。
僕は踵を返し今来たばかりの廊下を猛然と走り出した。
「うわっ!」
「危ねえな!」
何人かの生徒にぶつかったかもしれない。誰かの怒鳴り声が聞こえたような気もする。しかし僕にはそんなことを気にしている余裕はなかった。後ろを振り返ることが怖かった。振り返ってしまえばあの首を吊った僕自身の幻が追いかけてくるような気がしたのだ。
階段を足をもつらせながら駆け下りる。一階へ外へ、とにかくこの校舎という箱の中から外へ出なければ。
昇降口を抜け僕は外へと飛び出した。むっとするような生温かい空気が僕の体を包む。僕はそれでも足を止めなかった。どこへ向かうという当てもない。ただ衝動のままに校舎から離れるように敷地の奥へと走った。
やがて僕の足は中庭と呼ばれる場所にたどり着いた。
校舎の裏手に位置する忘れられたような空間。手入れのされていない植え込みが雑然と広がり隅の方には、塗装が剥げたベンチがいくつか置かれているだけだ。昼休みだというのにここにはほとんど人の気配がなかった。
僕はようやく足を止め近くの壁に手をついて激しく肩で息をした。肺が焼けつくように熱い。酸素を求めて口が勝手にはくはくと動く。全身から汗が噴き出していた。
しばらくの間、僕は壁に寄りかかったまま動けなかった。荒い呼吸を繰り返しながら閉じた瞼の裏に焼き付いて離れないあの忌まわしい光景を必死に振り払おうとしていた。
僕が首を吊っている。
あれは何かの暗示なのだろうか。僕がいずれああなるという未来の光景なのだろうか。
もう限界だった。僕の精神はもうこれ以上の恐怖に耐えられない。緊張の糸がぷつりと切れてしまったかのように僕の体から全ての力が抜けていく。
僕はその場にずるずると座り込みそうになった。
その時だった。
ふと人の気配を感じて僕は顔を上げた。
中庭の中央あたり。一番大きな木のその根元に誰かが立っていた。
僕はびくりとして身を固くした。
またあれか。
黒い塊。あるいは僕自身の死の幻。
恐怖で体が動かない。声も出ない。ただその一点を凝視することしかできなかった。
しかしそれは僕が恐れていたような黒々としたものではなかった。
逆光になっていてその輪郭は少しぼやけている。だがその人物が白い服を着ていることだけは分かった。
僕が目を細めその正体を確かめようと神経を集中させる。
やがて目が慣れてくるにつれてその姿が徐々にはっきりとしてきた。
それは一人の少女だった。
白いセーラー服。僕の通う学校の制服とはデザインが少し違っている。もっと古風で清楚な印象を与える夏らしい純白のセーラー服だった。
その少女はただ静かにそこに立ちまっすぐに僕の方を見つめていた。
僕は思わず息を止めていた。
美しいと思った。
その言葉以外に彼女を形容する言葉を僕は知らなかった。
すらりとしたしなやかな体つき。長い黒髪が風にさらさらと優しく揺れている。そして何よりも僕の目を引いたのは彼女の肌の白さだった。まるで上質な陶器のように滑らかで透き通るような白い肌。その白さが彼女の存在をどこかこの世のものとは思えないほど幻想的に見せていた。
長い睫毛に縁取られた大きな切れ長の瞳。その瞳は僕がこれまで見てきたどの幻覚の瞳とも違っていた。虚ろでも無機質でもない。そこには深く澄み切った湖の底のような静かな色が広がっていた。その瞳に見つめられていると不思議なことに僕の心のささくれだった部分が少しずつ癒されていくような感覚があった。
彼女は僕が彼女を認識したことに気づくとその薄い唇の端をわずかに持ち上げた。
微笑みだった。
その微笑みは僕が抱いていた全ての恐怖や警戒心を一瞬で溶かしてしまうような不思議な力を持っていた。
彼女がゆっくりと僕の方へ歩み寄ってくる。その足取りはまるで水の上を滑るかのように音もなく滑らかだった。
僕の目の前で彼女は立ち止まった。
ふわりとどこか懐かしいような甘い香りがした。
彼女は僕の顔をじっと覗き込むようにしてその澄んだ瞳を僕に向けた。そして鈴が鳴るようなしかしどこか年上のような落ち着きをそなえた声でこう言った。
「『あれ』に、ずいぶんと気に入られてしまったのね」
その一言が僕の心の固く閉ざされていた扉をいとも簡単にこじ開けた。
僕の苦しみを僕の恐怖をこの人は分かってくれている。
そう思った瞬間僕の目から熱いものがこみ上げてきた。みっともないとは思ったがそれを止めることはできなかった。
僕が何も言えずにただ俯いていると彼女はさらに言葉を続けた。その声はまるで傷ついた子供をあやす母親のように優しさに満ちていた。
「もう大丈夫よ。すべてを、あるべき場所に戻すだけだから」
大丈夫。
その言葉を僕はどれほど聞きたかっただろう。
この数週間僕はずっと一人だった。誰にも理解されない恐怖の中で僕の精神は確実にすり減っていった。僕がおかしいのか世界がおかしいのか。その答えも出ないまま、ただ崩壊していく自分を内側から見つめていることしかできなかった。
そんな暗闇のどん底にいた僕にとって彼女の言葉は何よりも強い救いの光だった。
僕はようやく顔を上げた。涙で彼女の顔が少しだけぼやけて見える。
彼女はそんな僕を見てもう一度優しく微笑んだ。その瞳には深い慈愛のようなものがたたえられているように見えた。
「私が、あなたをその苦しみから解放してあげる」
苦しみからの解放……。
その言葉は、単なる救い以上に絶対的な響きを持って、まるで神の啓示のように僕の心に深く深くしみわたっていった。
そうだ。この人なら。
この人間離れしたほどに美しい神秘的な少女なら僕をこの悪夢から救い出してくれるかもしれない。
何の根拠もなかった。彼女が何者でなぜ僕の状況を知っているのかそんなことはどうでもよかった。僕にはもう彼女にすがるしか道は残されていなかったのだ。
僕が何かを言うよりも先に彼女はそっと僕の頬に手を伸ばした。
その指先は少しだけひんやりとしていた。しかしそれは僕がカバンの中で触れたあの死人のような冷たさとは全く違う。むしろ心地よい清涼感のある冷たさだった。
彼女の指が僕の涙を優しく拭う。
そのほんのわずかな接触だけで僕の体から余計な力がすうっと抜けていくのが分かった。あれほど僕を支配していた恐怖が嘘のように和らいでいく。
これが希望というものなのだろうか。
僕がとうの昔に捨ててしまったはずのその感情が今僕の心の中で小さなしかし確かな灯火となってともり始めていた。
僕はただ彼女のなすがままにその場に立ち尽くしていた。
彼女の存在そのものがこの狂ってしまった世界の中で唯一信じることのできる確かなもののように思えた。
この出会いは偶然ではない。
僕がこの地獄から抜け出すために彼女が僕の前に現れてくれたのだ。
僕は心の底からそう信じることができた。
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