第5話
昨夜、僕の部屋で起こった出来事は果たして現実だったのだろうか。
朝、目を覚ました僕の頭を最初に支配したのはその疑問だった。床に散乱していたはずの教科書やノートはいつの間にか僕自身の手でカバンの中に収められており、部屋は昨夜の惨事を微塵も感じさせないいつもの静けさを取り戻していた。まるで何もかもが悪質な夢だったとでも言うように。
だが僕の右手の指先に残るあの記憶。冷たく湿った肌の感触とそれに触れた瞬間の、内側から体を凍らせるような感触は夢という言葉で片付けるにはあまりにも鮮明すぎた。
僕はほとんど眠ることができなかった。布団の中で目を閉じていても瞼の裏にあの虚ろな瞳が浮かび上がり僕を凝視し続けるのだ。それはもう外からの侵食ではなかった。僕の内側に、僕の記憶の中に、それは確固たる巣を作ってしまった。
それでも僕は学校へ行かなければならない。日常という名のレールから外れてしまえば僕の精神はそれこそ際限なく崩壊していくだろう。いつもと同じ時間に家を出ていつもと同じ道を通って、いつもと同じように教室の席に着く。その反復作業こそが僕が正気を保つための最後の命綱だった。
カバンを肩にかける。そのずしりとした重みが昨夜の出来事を思い出させ背筋に冷たいものが走った。この中に本当にあれはもういないのだろうか。僕はカバンの中を確かめる勇気もなくただその不快な重みに耐えながら玄関のドアを開けた。
学校という場所は僕にとってもはや安全な場所ではなかった。以前は周囲の喧騒をガラス一枚隔てた水槽のように感じ自ら望んで孤立することで平穏を保っていた。しかし今は違う。そのガラスには無数のひびが入りそこから得体の知れない何かが絶えず染み出してきている。絶えず僕は全身の神経を張り詰めさせていた。そうだ、あれがどこからいつ現れるか分からない。
昇降口に着き自分のくつ箱へ向かう。周囲ではクラスメイトたちが楽しげに言葉を交わしながら靴を履き替えている。その光景は以前の僕なら何とも思わなかったはずのありふれた日常の一コマだ。だが今の僕にはまるで別世界の出来事のように映った。彼らのいる世界と僕のいる世界はもはや同じ次元にはない。
僕は自分のくつ箱の扉に手をかけた。その時だった。
視界の端すぐ隣にある別の生徒のくつ箱。その扉がほんのわずかに数ミリほど開いていた。普通なら気にも留めない本当に些細な隙間だ。
その隙間の奥の暗がりから。
こちらを覗いているものがあった。
昨夜僕のカバンの中にいたあの瞳だった。
感情のないただ黒いだけの穴。それが金属の扉のわずかな隙間からじっと僕の動きを見つめていた。
体の中心部が冷たい手で掴まれたようにきゅうっと収縮するのを感じた。
僕は息をすることを忘れ、体がその場で石になったかのように固まる。周囲の生徒たちの笑い声がすうっと遠のいていく。僕の世界には僕とあの瞳だけが存在していた。
どれくらいの時間そうしていたのだろう。隣で靴を履き替えていた生徒が不意に「邪魔だぞ」と僕の肩を軽く押した。その衝撃で僕ははっと我に返った。
慌てて、もう一度隣のくつ箱の隙間に目をやる。
そこにはただの暗い空間が広がっているだけだった。あの瞳は跡形もなく消えていた。
幻覚だ。やはり幻覚だ。
僕は自分にそう言い聞かせながら、震える手でなんとか自分の靴を取り出し急いで上履きに履き替えた。
教室へ向かう廊下を僕は壁際を歩いていく。できるだけ周囲のものを視界に入れないように。特に隙間という隙間を僕は無意識のうちに避けていた。開いたままの教室の扉、教室の窓ガラス、掲示板のポスターのわずかなめくれ。その全てがあの瞳の覗き窓になり得るのだ。
僕のクラスの教室が見えてきた。扉は誰かが開けたのか半開きになっていた。僕はそこを通り抜けるのに一瞬のためらいを覚えた。
意を決して中へ足を踏み入れようとしたその時。
開いた扉の向こう側教室の中、そこにある机と椅子が作り出す複雑な暗がり。その一角からまたしてもあの瞳が覗いていた。今度は一つではなかった。二つ三つ。いやもっと多くの瞳が暗がりの中から一斉に僕を見つめている。
それはまるで闇の中に巣食う巨大な蜘蛛の複眼のようだった。
僕はその場に立ち尽くした。教室の中へ入ることができない。あの視線の集中砲火を浴びながら中へ進むことなど到底不可能だった。
後ろから来たクラスメイトが僕の横をすり抜けて何事もなかったかのように教室へ入っていく。彼の目には何も見えていないのだ。この恐怖はこの光景は僕だけに用意された特別な地獄なのだ。
僕は何度か深呼吸を繰り返し目を固く閉じた。そして再び目を開ける。
教室の中はいつも通りの朝の喧騒に満ちていた。あの無数の瞳は消えていた。
僕はまるで罪人のように俯きながら自分の席へと向かった。席に着き椅子に深く腰掛ける。もう何も見たくなかった。何も感じたくなかった。
◇
一限目の授業は現代文だった。教師が教科書の特定の箇所を読むように指示する。僕は言われた通りにノートと教科書を開いた。
僕が使うノートはごく一般的な大学ノートだ。表紙に大学名が印刷された味も素っ気もないもの。昨日の授業の続きから新しいページを開く。
そのページを見た瞬間僕の思考は再び停止した。
真っ白なはずのページが黒い文字で埋め尽くされていたのだ。
それは僕の筆跡だった。いや僕の筆跡に酷似していた。しかしそこには僕が書いた覚えのない狂気に満ちた文字列がのたうつように並んでいた。
『たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて』
『なぜわたしだけなぜわたしだけなぜわたしだけなぜわたしだけなぜわたしだけ』
『ここにいるよずっとここにいるよここにいるここにいるここにいるここにいる』
『いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい』
文字はページの上から下まで隙間なくびっしりと書き込まれていた。そのどれもが強い筆圧で書かれているせいで紙がよれ裏のページにまで跡が残っている。その文字の羅列はまるで絶望の淵から絞り出された声にならない叫びそのもののようだった。
僕の指先が冷たくなっていく。
いつこれを書いた?
僕が?
記憶にない。全くない。昨日の夜カバンから教科書を出すことはあってもノートに何かを書き込むようなことは絶対にしていない。
ではその前か?
しかし昨日授業でこのノートを使った時にはこのページは確かに白紙だった。
では一体誰が?この僕の筆跡で?僕のノートに?
僕ではない、だが、これは僕の筆跡だ。だとすれば、僕の手を使って、僕ではない『誰か』が、その絶望を書きつけている。
ぞっとした。
「――では次の段落、読んでみろ」
教壇からの教師の抑揚のない声が、はっ、と僕の思考を現実へと引き戻した。
隣の席の生徒が、教師に言われた文章を音読し始めた。
幸い、僕が教師に当てられたわけではなかった。僕はほっとしながらも、再び、ノートへと視線を落とした。
そこには、何事もなかったかのように、ただの白紙があるだけだった。
あれほどびっしりとページを埋め尽くしていたはずの、狂気に満ちた文字は跡形もなく消え去っていた。
幻覚?また、幻覚だったというのか?
僕は混乱する頭のまま、その真っ白なページを意味もなくめくり、新しいページを開いた。もちろんそこは空白だった。
ただ、気を紛れさせるためにも、僕は黒板に書かれた文字を書き写し始めた。だが僕の書く文字はミミズが這ったように乱れ、まともな形を成さなかった。自分の書く文字さえもはや自分のものとは思えなかった。
◇
休み時間になると教室の空気は一気に弛緩していた。生徒たちはそれぞれのグループで楽しげに談笑を始める。僕はいつものように誰と話すでもなくただ自分の席でその喧騒が過ぎ去るのを待っていた。
それが僕の日常だった。しかし今はその孤独さえもが僕を苛んだ。この今の以上な状況では、周囲の楽しげな会話が僕の孤立を、僕の異常性をより一層際立たせているように感じられた。
ただ、他にすることも無く、ぼんやりと机の木目を眺めていたその時だった。
前の席に座っている特に親しくもないクラスメイトが不意にこちらを振り返った。彼はどこか怪訝な表情を浮かべて僕にこう言った。
「なあ、おい。お前さっきから何かブツブツ言ってないか?」
僕は彼の言葉の意味が一瞬理解できなかった。
「え?」
「いやだから独り言。なんかずっと小声で何か言ってるように聞こえるんだけど」
僕はかぶりを振った。
「いや何も言ってないけど」
僕の言葉に彼はますます不思議そうな顔をした。
「そうか?でもさ、確かに聞こえたんだが。『もう誰も信じられない』って、繰り返し、壊れたみたいに言ってただろ?」
その言葉を聞いた瞬間僕の全身の血が逆流するかのような感覚に襲われた。
『もう誰も信じられない』
それはまるで。
遺書にでも書かれていそうな絶望に満ちた言葉。
僕がそんなことを言ったというのか。
全く記憶にない。口を開いた覚えさえない。それなのに彼は確かにそれを聞いたという。
「言ってない。人違いだ。俺じゃない。」
僕はなんとかそう答えるのが精一杯だった。声が自分でも驚くほどかすれていた。
「……そうかよ。まあ、いいけど。マジで気味悪かったぜ。もうやめろよ。」
あまり納得していない様子だったが、彼はそう言うと興味を失ったように前を向いてしまった。
僕はその場に一人取り残された。
自分の口が自分の知らないうちに勝手に言葉を発する。
自分の手が自分の知らないうちに勝手に文字を書き連ねる。――いや、ノートの文字は幻覚だったはずだ。だが、この耳で聞いたクラスメイトの証言は、紛れもない現実だ。
そして僕の目が僕にしか見えない恐ろしい幻覚を見せる。
もう何が僕自身の現実なのか分からなかった。
現実と幻覚の境界線はすでに融解し区別がつかなくなっていた。僕が今見ているこの教室の光景もクラスメイトたちの姿も全てが僕の脳が見せている巧妙な幻覚なのかもしれない。
あるいは本当の僕はすでにあの資料準備室の暗闇の中で首を吊っているのかもしれない。
そして、今この教室でこうして思考している『僕』こそが実体のないただの幻影なのではないか。
自分が自分でなくなっていく。
もはや、書く手も、話す口も、もはや僕のものではない。
では、この僕という身体の運転席に座り、僕を内側から乗っ取ろうとしている『誰か』とは――。
資料準備室で自ら命を絶ったというあの女子生徒か。
僕の脳裏にその可能性が雷のように突き刺さった。
彼女の苦しみが彼女の絶望が僕という器を借りてこの世界に再び現れようとしているのだろうか。彼女の最後の言葉を僕の口が代弁し彼女の最後の思いを僕の手が幻覚として書き記す。
なぜ僕なんだ。
その疑問が再び僕の頭の中で虚しく反響した。僕と彼女の間には何の接点もなかったはずだ。僕は彼女をいじめていたわけでもなければその傍観者でさえなかった。ただ無関心だった。それだけだ。
その無関心という罪が僕をこの地獄に引きずり込んだとでもいうのだろうか。
分からない。何も分からない。
僕はなすすべもなくただ椅子に座っていた。
教室の喧騒、教師の声、窓から差し込む光。その全てが僕にとってはもはや現実味のない遠い世界の出来事だった。僕の現実は僕の内側で静かにしかし着実に崩壊していくこの感覚だけだった。
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