第4話

 自室は僕にとって最後の聖域だったはずだ。厚いカーテンが外界からの光も音も、そしてあの粘つくような視線も完全に遮断してくれる、安全な箱庭。しかし、その壁の内側にまで、あの得体の知れない不安は、じわりと染み出してきている。


 僕は椅子に座り、ただぼんやりと机の上を眺める。教科書、ノート、参考書。それらは僕の日常を構成する、見慣れたはずの道具たち。しかし今の僕の目には、それらが放つ無機質な存在感そのものが、言いようのない不快感となって突き刺さってくる。それはまだ、何かが具体的におかしいというわけではない。だが、この部屋の空気に溶け込んだ微量の毒のように、僕の精神を内側から静かに蝕んでいくように感じた。 この聖域は、僕の精神が作り出した脆いガラス細工に過ぎないのかもしれない。その内側から、僕自身の不安がひびを広げているのだ。ただ、それでも僕は、ここを安全だと信じたかった。

 この異様な感覚は、僕の精神が作り出した妄想などではない。僕の内側に根を下ろし始めた、もっと根源的な恐怖の現れだった。そしてその原因は、はっきりと分かっていた。あの黒い人型だ。


 たしかに最初は視界の隅をよぎるだけの些細な異常だった。目の疲れだ、気のせいだと自分に言い聞かせることでなんとか日常の体裁を保つことができた。しかしあの帰り道中学校のフェンスで目撃してしまった、あまりにも生々しい幻覚。そしてこの部屋の窓の外から感じた粘つくような視線。僕の世界は外側から少しずつしかし確実に侵食されつつあった。

 だから僕は外の世界を遮断した。カーテンを閉め窓を見ないようにした。そうすれば少なくともこの部屋の中にいる間だけは平穏でいられるはずだと信じたかった。


 僕の精神は水を含んだ土壁のように脆く崩れやすくなっていた。ほんの少しのきっかけで均衡が崩れ、全てが崩落してしまうような、そんな危うい状態だと分かっていた。しかし、それ以外の方法をただの学生である僕には取りようもない。


 不意に今日の授業で配布されたプリントのことを思い出した。

 確か数学の課題だったはずだ。提出は明後日。やらなければならない。そうやらなければ。学生としての本分である日常の勉学をこなすこと。それが僕が正気でいられるための唯一の処方箋のような気がした。決められた無機質な日常を繰り返すことで僕は僕自身がまだ正常なのだと証明しなければならなかった。


 僕は重い体を持ち上げ壁際に置かれた学生カバンへと手を伸ばした。ナイロン製のごくありふれた鞄だ。毎朝これを肩にかけ学校へ向かい、そして夕方これと共に帰宅する。僕の退屈な日常の忠実な伴侶。

 床に置かれたカバンのファスナーに指をかける。ジジジ…、という無機質な音が静まり返った部屋に小さくこだました。僕はカバンの中に手を差し入れた。


 まずは一番手前にある教科書やノートを取り出す。ざらついた紙の感触、硬い表紙の角。いつも通りの慣れ親しんだ感触だ。僕はそれらを順番に机の上に積み上げていく。数学、英語、化学。僕の日常の断片たち。

 目的のプリントはおそらく一番奥の方に他のプリント類と一緒くたになっているはずだ。僕はさらに深くカバンの底へと指を這わせた。指先がファイルケースの滑らかなプラスチックに触れノートの金属リングに当たり、そしてくしゃくしゃになったレシートのような紙片をかすめる。

 もう少し奥か。僕は体を傾けるようにして腕をさらに押し込んだ。指先がカバンの最も深い暗い領域に到達する。

 その瞬間だった。


 何かに触れた。


 それは紙でもプラスチックでも金属でもなかった。

 冷たい。ぞっとするほどに体温がなくそれでいてどこか湿り気を帯びている。ぬるりとでも表現すればいいのだろうか。指先にまとわりつくような不快な感触。それは明らかに僕のカバンの中にあるべきではない異質なものだった。


 僕の動きがぴたりと止まった。

 なんだこれは。

 思考が一瞬だけ白紙になる。頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響いていた。危険だ。それに触れてはいけない。すぐに手を離せ。理性がそう叫んでいる。

 しかし、この触れているものを知らなければならない。その恐怖よりも強い脅迫的な観念。その衝動が僕の指を突き動かしていた。僕の指は異物から離れようとしなかった。この部屋は安全な聖域である。ここが聖域であることを確認するため、という欲求に突き動かされ僕はその物体の正体を探ろうとしていた。


 指先でそっと表面をなぞる。


 それは滑らかでありながら微細な凹凸があった。まるで人間の肌のようだ。いや肌そのものだ。きめ細かくそして生気というものが全く感じられない死人の皮膚。

 その肌の感触をたどっていくとやがてごわごわとしたもっと粗い感触に行き当たった。束になった太くて硬い何本もの糸。


 これは、髪の毛だ。

 そう認識した瞬間全身の皮膚という皮膚が粟立った。体の末端から急速に熱が奪われていく。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように喉がひきつってただ、か細い空気の漏れる音だけがした。


 これはなんだ。一体僕のカバンの中に何が入っているんだ。

 僕は衝動的に手を引き抜こうとした。だが遅かった。僕の指はその物体のある部分に触れてしまっていた。

 わずかに開いた湿った隙間。その奥にある柔らかく弾力のある何か。


 唇だ。

 そしてそのすぐ上にある硬い突起。鼻。さらにその上には二つの窪み。

 僕の脳はそれらのパーツを瞬時に組み立て一つの結論を導き出してしまった。


 これは人間の顔だ。


 僕の体全体が見えない力で強打されたかのような激しい衝撃を受けた。全身が硬直し動けなくなる。

 僕はゆっくりとカバンから手を引き抜いた。指先がまだあの不快な感触を記憶している。冷たく湿った死の感触。


 僕は自分のカバンから視線を外すことができなかった。

 それは僕が毎日使っているただの学生カバンのはずだった。しかし今は違う。それは得体の知れない何かを内包した禍々しい物体と化していた。


 僕は自分の意思とは無関係にゆっくりとその箱の中を覗き込もうとしていた。見てはいけない。見たらもう二度と元には戻れない。頭のどこかで最後の理性が必死に警告を発している。

 だが僕の体はその警告を無視した。もしかしたら、勘違いかもしれない。この目で、この正体を確認しなければ、僕の精神はここで終わってしまう。そんな破滅的な確信に突き動かされて、僕の頭はカバンの開口部へと少しずつ近づいていく。

 カバンの内側は暗い。教科書やノートが壁のように立ち塞がり奥の方は完全な闇に閉ざされている。

 僕はその闇のさらに奥を凝視した。

 そして見てしまった。


 闇の中からこちらを見つめているものがいた。


 それは教科書とノートのわずかな隙間から半分だけ顔を覗かせていた。

 長く濡れたように黒い髪がその顔に張り付いている。血の気を失い蝋のように白い肌。そしてその中央に二つの黒い穴が空いていた。


 瞳だった。

 その瞳には何の光も宿っていなかった。感情も意思も生命の輝きさえもそこには存在しない。ただ物理的にそこにあるだけのガラス玉のような虚ろな球体。それは僕を見ているようで何も見ていなかった。ただその黒い穴がまっすぐに僕の方向を向いている。それだけのことだ。

 だがそれだけの事実が僕の精神を根元から揺さぶった。

 それは間違いなく人間の生首だった。

 どこかの誰かの首から上が僕のカバンの中に当たり前のように収まっていた。


 ああ。

 声にならない声が喉の奥で潰れた。


 時間が止まった。いや僕の認識する世界の流れが完全に停止した。部屋の空気はまるで固体のようになって僕の体を圧迫する。指一本動かせない。瞬きすら許されない。僕の視界はその虚ろな瞳に完全に捕らえられていた。


 逃げなければ。

 叫ばなければ。

 しかし僕の体は脳からの命令を一切受け付けなかった。恐怖という感情の許容量をとっくに超えてしまっていた。僕という人間を構成していたあらゆる機能がその活動を停止していた。僕に残されたのはただ『見る』という単純な機能だけだった。

 その生首は動かない。表情も変わらない。ただそこに在る。その圧倒的な存在感が僕の現実を少しずつしかし確実に塗り替えていく。


 あれは誰だ。

 なぜ僕のカバンの中に。

 いつからそこに。

 疑問が次々と湧き上がってくる。しかし答えなどどこにもない。この状況そのものが理不尽の塊だった。


 その時僕の視界がほんのわずかにぶれた。

 瞼が意思に反してゆっくりと落ちてくる。


 瞬きだ。

 ほんの一瞬闇が僕の視界を覆いそして再び光が戻る。

 そのコンマ数秒にも満たない時間。

 僕が再び目を開けた時そこには何もなかった。


 カバンの隙間から覗いていたはずのあの白い顔は跡形もなく消え去っていた。

 後に残されているのはいつも通りの教科書とノートの背表紙だけだ。

 僕は呆然とその光景を見つめていた。


 幻覚?

 また幻覚だったというのか。


 僕は信じられない思いでもう一度カバンの中を覗き込んだ。手を入れ中身をかき混ぜる。教科書の硬い感触、ノートのざらつき。何度探っても指先に触れるのは見慣れた学用品の感触だけだった。あの冷たく湿った肌の感触はどこにもない。

 僕はカバンの中身を全て床の上にぶちまけた。

 教科書、ノート、筆箱、ファイルケース、くしゃくしゃのプリント類。それらが無秩序に床に散らばる。


 その中に人間の生首などあるはずもなかった。

 僕はその場にへなへなと座り込んだ。背中を冷たいものが流れ落ちていくのが分かった。呼吸がようやく戻ってきた。浅く速い呼吸を僕は何度も繰り返した。


 幻だ。あれも僕の脳が見せただの幻だ。

 僕は必死に自分にそう言い聞かせた。資料準備室で見た首吊りの人型。中学校のフェンスにぶら下がっていた黒いシルエット。そして今このカバンの中で見た生首。その全てが僕の精神が作り出した悪質な幻影なのだと。そうだ。そうでなければ説明がつかない。


 僕はそう結論付けようとした。そう信じ込むことでこの狂いかけた現実から逃れようとした。

 だが。

 僕の右手の指先がまだあの感触をはっきりと記憶していた。

 冷たく湿り気を帯びた死人の皮膚の感触。

 ごわごわとした髪の毛の束。

 そしてわずかに開いた生々しい唇の柔らかさ。

 あの感触はあまりにもリアルだった。幻覚などという曖昧な言葉で片付けられるようなものでは断じてなかった。

 僕は自分の右手を目の前にかざした。指が小刻みに動いている。この指が確かにあの顔に触れたのだ。


 現実と幻覚。

 その境界線が僕の中で音を立てて崩れ始めていた。


 もう何が真実で何が僕の作り出した嘘なのか分からない。僕の五感はもはや信頼に値しない。僕が見ているこの世界も僕が感じているこの感覚も全てが虚構なのかもしれない。

 外の世界だけではなかった。

 僕のすぐそばに僕の日常の中にあの黒い何かはすでに侵入していたのだ。この部屋に置かれたカバンという場所に。


 安全な場所などもうどこにもない。

 カーテンを閉め切ったこの部屋でさえもはや僕を守ってはくれない。

 僕は床に散らばった教科書とノートの山をただなすすべもなく見つめていた。静寂が部屋を支配している。しかし僕の頭の中では無数の声が叫び声が反響していた。


 助けてくれ。

 誰か助けてくれ。

 その声は誰にも届かない。僕の精神は確実に崖っぷちに立たされていた。あと一歩でも踏み間違えれば二度と戻れない場所へと転落してしまう。そして、その崖の下には深く暗い虚無の口が大きく開いている。


 僕は膝を抱えて体を丸めた、まるで胎児のように。

 それは僕にできる最後のそして最も無力な防御姿勢だった。

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