第3話
翌日、不安を抱えながら登校した僕を待っていたのは昨日までと何一つ変わらない、退屈で平凡な学校の日常だった。
資料準備室の前には立ち入り禁止のテープが張られているわけでもなく教師たちが慌ただしく行き来する様子もない。生徒たちの間でもあの部屋に関する噂話一つ流れてこなかった。もし本当にあんな場所で誰かが命を絶っていたとしたら、この学校がこれほどまでに静まり返っているはずがない。
僕は自分の席に着くとそっと安堵の息を漏らした。あのとき、僕が資料準備室で目撃したものは、やはりただの勘違いだったのだ。あの時は夕暮れの校舎という非日常的な空間と数日前に聞いたばかりの同級生の自殺という出来事が、僕の精神に妙な影響を与えていたに違いない。暗闇とそこに雑然と置かれた古い備品が偶然にも人の形に見えてしまった。それだけのことだ。僕はそう結論付け、無理やり自分を納得させた。僕の日常はまだ壊れてなんかいない。あの平坦で灰色の一本道はまだ僕の足元に続いている。そう信じたかった。
けれども、しかしその信念は僕が思っていたよりもずっと脆いものだったのだろう。僕の世界に生じた最初の亀裂は僕が気づかないうちに静かに、そして着実に広がり始めていた。その兆候は本当に些細なことから始まった。
午後の古典の授業中、教師の抑揚のない声がまるで子守唄のように教室に流れていた。僕は退屈しのぎにぼんやりと窓の外に視線を送っていた。運動場では体育の授業を受けている別のクラスの生徒たちが点のように小さく見えた。青い空には白い雲がゆっくりと流れていく。どこにでもある平和な昼下がりの光景だった。
その時だった。視界の本当に隅っこの方で何かが黒いものがすっと縦に流れた。
僕ははっとして視線をそちらに向けた。だがそこには何もなかった。相変わらず青い空と白い雲が広がっているだけだ。
鳥かあるいは虫か。窓ガラスに付着した小さなゴミが風で動いただけかもしれない。僕はすぐにそう結論付けて、再び授業に意識を戻そうとした。しかし一度気になり始めるとどうにも集中できなかった。
数分後またそこだ。今度は先ほどよりも少しだけはっきりと。視界の右端で黒い線のようなものが上から下へと一瞬だけ姿を現して消えた。まるで目の前に垂らした一本の髪の毛がふっと揺れたかのような。
僕は眉間にしわを寄せた。目の疲れだろうか。昨夜あの出来事のせいであまりよく眠れなかったのは事実だ。睡眠不足が視覚に異常をきたしているのかもしれない。僕は何度か強く瞬きをしこめかみを指で軽く押さえた。大丈夫だ。気のせいだ。そう自分に言い聞かせ無理やり黒板の文字をノートに書き写す作業に没頭した。
しかし、その黒いちらつきは一度きりでは終わらなかった。
その後も授業中、そして、スマホを弄っているとき、食事をしている時。ふとした瞬間に僕の視界のどこかでそれは現れるようになった。最初は本当に一瞬の出来事で気のせいだと片付けられる程度のものだった。
しかし、それは時間を追うごとに頻度を増していった。そしてその形も徐々に僕の最も見たくないものを連想させる輪郭を帯び始めていた。
それはただの黒い線や点ではなかった。細長い胴体のような部分から手足らしきものが伸び、その上には頭部を思わせる丸い塊が乗っていた。そしてそれは決まって何もない空間にぶらりとぶら下がっているように見えるのだ。
資料準備室で見たあの光景。
首を吊った人間のシルエット。
僕の脳はその酷似性を認識することを必死に拒絶した。これは幻覚だ。疲労とストレスが見せているただの悪い夢のようなものだ。時間の経過とともにこの幻覚は消え去っていくはずだった。
しかし、この状況は一向に改善されなかった。むしろ僕が抗えば抗うほどその黒いシルエットは僕を嘲笑うかのように、より頻繁に僕の前に姿を現すようになっていった。それはもはや白昼夢と呼ぶにはあまりにも生々しい存在感を持っていた。
その現象が決定的な形で僕の日常を侵食し始めたのは、ある日の放課後のことだった。
その日、僕はいつもと同じように一人で帰路についていた。学校を出て住宅街を抜ける見慣れた道。夕暮れ時で空はオレンジ色と紫色が重なったような複雑な色合いに染まっていた。
僕は母校である中学校の横を通り過ぎようとしていた。高い金網のフェンスが校庭と道路を隔てている。そのフェンスに何かが引っかかっているのが見えた。
黒い布のようなものだろうか。誰かの忘れ物かもしれない。僕は特に気にも留めずにそのまま通り過ぎようとした。
しかしその黒い塊に近づくにつれて僕の足は自然と速度を落としていた。何かがおかしい。
それはただの布切れではなかった。
僕は思わずその場で立ち止まった。
フェンスの一番上からそれはぶら下がっていた。夕日を背にして完全な黒い物体が見えた。そしてそれは紛れもなく人の形をしていた。だらりと垂れた手足。そして首の部分が不自然に折れ曲がりフェンスの頂点に固定されている。
あの時と同じだ。資料準備室で見たあの光景と全く同じ。
時間が止まったかのような感覚。周囲のざわめきがほんの一瞬遠のいたような気がした。
僕の視界にはその黒い人型だけが焼き付いたように存在していた。風もないのにそれはほんのわずかに左右に揺れているように見えた。
けれども、道行く人々は誰もそちらを見ようとしない。自転車で通り過ぎる主婦も犬の散歩をしている老人も楽しそうに話しながら歩く小学生の集団も、誰一人としてその異常な光景に気づく様子はなかった。まるでそれが僕にしか見えていないとでもいうように。
僕の喉がごくりと音を立てた。
幻覚だ。これも幻覚だ。
僕は震える手で自分の頬を強くつねった。鈍い痛みが走る。そう、これは夢ではなく現実だった。
再度、僕はためらいがちに再びフェンスの方を見た。
そこには何もなかった。
ただ夕日に照らされた冷たい金属のフェンスが続いているだけだ。あの黒い人型は跡形もなく消え去っていた。まるで最初からそんなものは存在しなかったかのように。
僕はその場にしばらく立ち尽くしていた。背中を冷たい汗が伝っていくのが分かった。
もう気のせいや目の疲れで片付けられる段階はとっくに過ぎていた。僕の身に何かが起きている。僕にしか見えない何かが僕の世界に干渉し始めている。その事実を認めざるを得なかった。
その日から僕の安息の地はどこにもなくなった。
家に帰ってもそれは現れた。
自分の部屋で机に向かって本を読んでいるとふと視線を感じるのだ。窓の外から誰かにじっと見られているようなそんな感覚。僕はゆっくりと顔を上げて窓の方を見る。しかしカーテンの隙間から見える外の景色に人の姿はない。当たり前だ。僕の部屋は二階にある。道の向こう側からでなければ部屋の中を覗くことなどできない。
だが『見られている』という感覚は消えない。それは僕の皮膚に直接突き刺さるような粘着質で悪意に満ちた視線だった。
僕はその視線の主が誰なのか分かっていた。いや分かりたくなかったが理解してしまっていた。
あの黒い塊だ。
道の向こう側。電信柱の根本あたりにそれはいる。立っているのか座っているのか、それともまたどこかにぶら下がっているのか。それは分からない。しかしそこにいて虚ろな目で僕の部屋を僕自身をじっと観察している。その確信だけが僕の中にあった。
僕は耐えきれなくなって椅子から立ち上がると勢いよくカーテンを閉めなおす。
厚い遮光カーテンが外の世界と僕の部屋を完全に遮断する。部屋の中は一瞬で薄暗闇に包まれた。
これでもう見られることはない。
そう思ったはずなのに僕の背筋を走る悪寒は一向に消えなかった。カーテン一枚隔てた向こう側でそれがまだこちらを見続けているのが分かるのだ。物理的な視線ではない。もっと別の僕の認識に直接作用する何か。
僕は部屋の壁に背中を預けてその場に座り込んだ。膝を抱え小さく体を丸める。
どうして僕なんだ。
僕が何かしたというのか。
僕はあの自殺した女子生徒とは何の関わりもなかったはずだ。いじめていたわけでもなければ親しい友人だったわけでもない。ただ同じ学年にいるというそれだけの間柄だ。それなのになぜ僕だけがこんな目に遭わなければならないのか。
理由が分からない。原因が特定できない。
それこそが何よりも恐ろしいことだった。因果関係が見えない恐怖は人の理性を少しずつしかし確実に蝕んでいく。
その日から僕の部屋のカーテンが開けられることはなくなった。太陽が出ている昼間でも僕は電気をつけ薄暗い部屋の中で過ごすようになった。外の世界が怖かった。いつどこであの黒いシルエットが姿を現すか分からない。窓の外を見るのが怖かったからだ。
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