第7話
時間の感覚が僕の中から抜け落ちていた。
僕の頬に触れた彼女の指先は雪解け水のように清らかでそしてわずかに冷たかった。しかしそれは僕がカバンの中で感じたあの生命を拒絶するような陰惨な冷たさとは全く異なるものだった。むしろ熱に浮かされた額に乗せられた濡れタオルのように僕の昂ぶりきった神経を穏やかに鎮めてくれる心地よい冷涼感。その指がそっと離れていくと名残を惜しむかのように僕の皮膚にほんのりとした感触だけが残った。
僕を苛み続けていたあの忌まわしい幻影の数々。廊下の突き当たりで僕自身の死に様を見せつけられた直後のあの精神が沸騰するような狂乱状態がまるで嘘だったかのように僕の内側で静まっていく。
嵐が過ぎ去った後の静かな水面。そこに彼女の姿だけがくっきりと映り込んでいる。
「……どうして」
ようやく僕の喉から絞り出されたのはそんなか細い声だった。僕の頭の中には無数の疑問しかなかった。この女子生徒は誰なのか。なぜここにいるのか。なぜ僕の状況を知っているのか。そして何より、なぜ僕を助けてくれるのか。それらの言葉が喉元まで出かかっているのにうまく形にならない。
彼女はそんな僕の混乱を見透かしたかのようにもう一度穏やかに微笑んだ。その表情は僕の取り留めのない問いの全てをすでに理解しているとでも言いたげだった。
「ええ、あなたが一人、苦しみに苛まれていることは知っています」
その言葉は僕の胸の奥深く誰にも触れられたことのない最も柔らかい場所に静かに染み渡った。そうだ。僕はずっと一人だった。誰にも打ち明けることができず自分自身の正気さえも信じられなくなる中でただ一人この名状しがたい何かに蝕まれ続けてきた。その孤独という名の病を彼女はたった一言で言い当ててみせたのだ。
「少し落ち着ける場所へ行きましょう。ここで立ち話もなんですし」
彼女はそう言うと僕に背を向け中庭の隅に設置された古びたベンチの方へ音もなく歩き始めた。その純白のセーラー服が雑然とした植え込みの緑の中でひときわ鮮やかに目に映る。僕はまるで飼い犬が飼い主についていくかのように、彼女の後を追った。彼女のそばにいれば安全だ。その根拠のない確信だけが僕の足を動かしていた。
ベンチは長年風雨にさらされたせいで表面の塗装は剥げ落ちところどころに染みが浮いていた。しかし彼女がその隣に腰を下ろすよう目で促した時僕には何の躊躇もなかった。僕たちが並んで座ると周囲の喧騒がさらに遠のいたように感じられた。この中庭の一角だけが世界から切り離された特別な聖域になったかのようだった。
ふわりと彼女から再びあの甘い香りがした。それは特定のどの花の香りとも違うもっと清らかでどこか懐かしいような匂い。夏の早朝のまだ誰も足を踏み入れていない森の空気。あるいは遠い昔に訪れた神社の静謐な境内で感じた香り。そんな清澄な気配が彼女の全身から発せられている。
彼女は僕が口を開くのを静かに待っていた。その大きな切れ長の瞳は僕をじっと見つめている。しかしそこには僕を値踏みするような好奇心も憐れむような同情の色もない。ただ深く澄み切った湖の水が全てをありのままに映し出すように僕という存在を静かに受け止めている。その視線に促され僕はようやく自分の身に起きた一連の出来事を語り始める決心がついた。
「……いつからだったか」
僕はぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。それは誰かに聞かせるための整理された話ではなかった。僕自身の頭の中でさえまだ混沌としている恐怖の記録。それをただありのままに吐き出すことしか僕にはできなかった。
「多分三日前……いやもっと前だ。同級生の女子が自殺したって話を聞いたあの全校集会の後から。何かがおかしくなったんです」
僕はあの日の放課後忘れ物を取りに戻った学校の夕暮れの廊下の光景を思い出しながら語った。静まり返った校舎。やけに大きくこだまする自分の足音。そして廊下の奥から感じたあの奇妙な気配。
「資料準備室でした。普段は使われていない物置みたいな部屋。その扉が少しだけ開いていて……僕はなぜか中を覗き込んでしまったんです」
あの瞬間の全身の血が凍り付くような感覚がありありと蘇る。暗闇の中に浮かび上がった首を吊った人間のあの黒い輪郭。
「もちろん幻覚だったはずです。翌日学校は何事もなかったし誰もその話はしていなかった。僕の勘違いだ疲れてるんだって必死に自分に言い聞かせました。でも……」
彼女は黙って僕の話に耳を傾けている。相槌を打つでもなく表情を変えるでもなく、ただ真摯に。その静かな態度が僕にさらに言葉を続けさせた。
「それからなんです。視界の端に黒い何かがちらつくようになって。最初は本当に一瞬のことで気のせいだって思えた。でもだんだんその形がはっきりしてきて……あの時資料準備室で見た人の形に見えるようになってきたんです」
帰り道の中学校のフェンスで見たあまりにも生々しい幻影。自分の部屋の窓の外から感じた粘つくような視線。僕はその時の情景を小刻みに動く声で説明した。
「怖くなってカーテンを閉め切って部屋に閉じこもるようになった。でも無駄でした。それは僕の一番近くにまで入り込んできたんです」
昨夜の出来事。学生カバンの中に手を入れた時のあの冷たく湿った感触。教科書の隙間から覗いていた虚ろな瞳の生首。僕はその光景を思い出すだけで吐き気を催しそうになるのを必死でこらえた。
「それだけじゃない。僕のノートには書いた覚えのない文字がびっしりと……僕の筆跡で書かれていたんです。『たすけて』とか『なぜわたしだけ』とか……。それに休み時間にはクラスのやつに言われました。僕が『もう誰も信じられない』って呟いていたって。でも僕にはそんなことを言った記憶が全くないんです」
自分の体が自分の意思とは関係なく勝手に動いている。自分の口が勝手に言葉を発している。その自分が自分でなくなっていくような根源的な不安。
「そしてさっき……廊下で見てしまったんです。首を吊っている僕自身を」
そこまで一気に語り終えた時僕は自分が激しく息を切らしていることに気づいた。全身が冷や汗でじっとりと湿っている。自分の恐怖を言語化するという行為は僕が想像していた以上に精神を消耗させる作業だった。
僕はうなだれた。もうこれ以上話す力も残っていない。僕のこの狂ってしまった世界の全てを彼女の前にさらけ出してしまった。軽蔑されるだろうか。それともやはり僕の頭がおかしくなったのだと憐れまれるのだろうか。
沈黙が僕たちの間に流れた。中庭の木々が風に揺れてさわさわと葉擦れの音を立てている。それがやけに大きく聞こえた。
やがて彼女が静かに口を開いた。
「……なるほど。そうですか。その状況は分かりました」
その声には僕が恐れていたような拒絶や侮蔑の色は微塵も含まれていなかった。むしろその逆だった。そこには僕の体験した全ての苦痛を完全に理解し受け止めたという深い共感が込められていた。
「あなたが見ているもの感じていること。それはあなたの心が作り出した幻などではありません。全て紛れもない『事実』です」
事実。
その一言が僕の混乱しきった頭に強い光を投げかけた。僕は弾かれたように顔を上げた。
「じゃああれは一体……」
「あなたを苛んでいるあの黒い塊のようなもの。それはおそらく強い無念や苦しみを抱いてこの世を去った誰かの想いの残滓なのでしょう」
彼女の言葉は淡々としていた。しかしそこには霊的な現象に対する深い知識と理解が裏打ちされているのが僕にも分かった。僕が漠然としかし確信に近い形で感じていたことを彼女は明確な言葉で示してくれたのだ。
「ですが」と彼女は続けた。その瞳が僕の目をまっすぐに射抜く。
「問題の根はもっと深いところにあるのです」
「深いところ……?」
「ええ。この学校が建っているこの土地そのものに何か特別な謂れがあるのかもしれないということです。古くから土地にはそれぞれの性質というものがあります。清浄な場所もあればそうでない場所もある。人の想いが溜まりやすい場所というのも存在するのです」
土地。僕の意識はこれまで完全に自殺した女子生徒の霊という個人に向けられていた。しかし彼女はもっと大きな視点からこの現象を捉えている。
「もしあなたがこの状況から本当に抜け出したいと願うのであれば、その根源を探る必要があります」
「根源……」
「はい。そしてその手がかりは案外身近な場所にあるかもしれません」
彼女はふっと視線を上げ校舎の方を見た。その視線の先にあるのはおそらく僕らが普段使っているあの建物だろう。
「学校の図書室へ行ってみてください。郷土史のコーナーがあるはずです。この土地の古い地図や昔の出来事を記した資料が残されているかもしれません。そこから、今のあなたが知るべきものの正体が分かるでしょう」
図書室。郷土史。それは僕がこれまで全く考えもしなかったアプローチだった。恐怖から逃げることばかりを考えていた僕に彼女は初めて「戦う」ための具体的な武器を与えてくれたのだ。
僕は彼女の言葉を一つ一つ噛みしめるように聞いていた。彼女の洞察力と知識は僕にとって暗闇の中で見つけた唯一の道しるべのように思えた。
「それからもう一つ」
彼女は少しだけ間を置いてから言葉を継いだ。その声のトーンがわずかに低くなったような気がした。
「あなたが見ているその黒い塊……。それが現れ始めたのは最近この学校でとても悲しい出来事があった後からなのでしょう?」
僕は息を詰めた。彼女はあの女子生徒の自殺のことを知っている。いやそれだけではない。その出来事と僕の体験とを明確に結びつけている。
「……はい。そうです」
「だとしたらやはり無関係ではないのでしょうね。人の強い死の想いは時に土地に眠っていた古い記憶を呼び覚ましてしまうことがあるのですから」
土地の記憶。彼女の口から紡ぎ出される言葉はどれも僕の知らないしかし不思議な説得力を持つものばかりだった。僕が体験しているこの理不尽で脈絡のないように思えた怪異が彼女の言葉によって一つの巨大でしかし筋の通った物語として再構築されていくような感覚。
そうだ。この人なら。この人なら本当に僕を救ってくれるかもしれない。
僕の心に数週間ぶりに確かな希望の光が差し込んできた。それはまだか細く頼りない光かもしれない。しかし僕を支配していたあの底なしの暗闇を照らすには十分すぎるほどの明るさを持っていた。
「ありがとうございます……」
僕がようやくそれだけを言うと彼女は満足そうに小さく頷いた。
「私は道を示しただけ。その先へ進むか、ここで朽ち果てるかは、あなた次第なのです」
その言葉は優しくしかしどこか僕を試すような響きも持っていた。
ふと僕の心にある不安がよぎった。
彼女は一体何者なのだろう。
これほどまでに物事の真理を見通し的確な助言を与えてくれる。その美しさはまるでこの世のものとは思えないほど完璧すぎる。そして彼女の存在そのものが放つあの清涼感。それは僕がこれまで感じてきた生身の人間の持つ温かさや生々しさとはどこか異質なもののように感じられた。
もしかしたら彼女もまた。
僕にしか見えない存在なのではないか。
僕の精神が救いを求めるあまりに作り出してしまった都合のいい幻。
その考えが一度頭をもたげるとそれは冷たい小さな棘のように僕の心に突き刺さった。しかし僕はすぐにその考えを振り払った。違う。そんなはずはない。彼女は確かにここにいる。僕の涙を拭ってくれたあの指の感触は本物だった。彼女の言葉は僕に確かな希望を与えてくれた。それを疑うことなど僕にはできなかった。したくなかった。
彼女は僕の最後の拠り所なのだ。
僕は心の中で強く自分に言い聞かせた。
「……分かりました。行ってみます。図書室へ」
僕がそう決意を告げると彼女は初めて心の底から嬉しそうな華やかな微笑みを見せた。それはまるで固く閉ざされていた蕾が一気に花開くようなまばゆいほどの笑顔だった。
「ええ。そうしてください」
その時、予鈴のチャイムが校舎の方からぼんやりと聞こえてきた。昼休みがもうすぐ終わる。
彼女はその音を聞くと、すっとベンチから立ち上がった。
「もう行かなくては」
「あ……」
僕は思わず彼女を引き留めようとして言葉を失った。もっと聞きたいことがあった。あなたの名前は?また会えるのか?しかしそんな言葉は僕の口からは出てこなかった。
彼女はそんな僕の気持ちを察したかのように振り返って、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「大丈夫。また会えますよ」
その短い約束だけを残し、彼女は再び僕に背を向け、中庭の奥へと歩き始めた。その足取りは来た時と同じように音もなく滑らかだった。僕はただその後ろ姿をなすすべもなく見送っていた。
彼女の白いセーラー服の姿が、木々の間に吸い込まれるようにしてやがて見えなくなった。
後に残されたのは僕一人と、まだ彼女の甘い香りがほのかに残る静かな中庭だけだった。僕はしばらくの間、彼女が消えていった方向をぼんやりと見つめていた。
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