第12話 危機との遭遇・2

巡宙艦〈ブルージェイ〉は全長四百メートルの艦だ。

艦内は広く、用途ごとに複数のセクションに分けられている。


「離水時は多少揺れます。固定ベルトをしっかりと締めてください」


ウィグナー警部の声に従い、学生たちはそれぞれ自分の座席に腰を下ろし、慎重にベルトを締めた。

艦長の合図が送られ、量子エンジンの唸りが高くなった。


「ブルージェイ、離水を開始します」


航海士のアナウンスが艦内に響く。

重く張りついていた水の感触がふっと消え、次の瞬間、艦は斜めに上昇を始めた。

民間船とは比較にならぬ加速が続き、やがて大気圏を抜けて宇宙空間へと進んでいった。


「慣性酔いした方がいたら申告してくださいね。

一.五Gを超えたあたりで突然負荷が消えてしまうので、身体が混乱しがちなんですよ」


ウィグナー警部のアナウンスが流れた。

現行の慣性制御装置は、一.五Gを下回る加速には反応しない。

そのため、離水直後には一瞬だけ身体に重力がのしかかる。

初期モデルではこの“遊び値”が三Gもあり、比べれば現在の技術は格段に洗練されているものの、完全な相殺にはまだ至っていない。

この“慣性酔い”は、視覚から得る情報と三半規管からの信号が噛み合わずに生じるもので、三Dシアターで気分が悪くなる現象と原理は同じだ。

視覚情報を遮断するのが最も効果的な予防法であるが、そんな勿体ない真似ができる学生はいなかった。

ナイジェルとフレデリコは周囲を見渡し、自分たちが平気だと確認すると、さりげなく視線を交わして笑った。

「さあ。そろそろ船内を回りましょう」


ウィグナー警部の一声で、学生たちは艦内見学へと移った。

警部自らが案内役を務めることもあって、艦橋から順に、ブルージェイの主要な設備が紹介されていく。


艦橋には操縦席、通信席、各種の計器類が整然と並び、ここが艦の中枢であることを誰の目にも明らかにしていた。

全乗員が警察官で構成されているため、艦橋は会議室や待機室の機能も兼ねており、宇宙軍の艦艇に比べて明らかに広々としている。

指揮座の後方には、客席のようなスペースが設けられていた。今回のように臨時の乗員が同行する際は、このスペースがそのまま待機所として使われるという。


「警視庁の巡宙艦は、宇宙軍の旧型巡宙艦を転用したものです。ですから、推進力や航続距離など基本性能に大差はありません。ただし、内部の区割りは完全に別物ですね」


男子学生たちはというと、向学心というよりは、少年時代の冒険心を引きずったような目つきで、興奮気味に艦内を見回していた。


「巡宙艦は、いわば動く警察署のようなものです。

単独で活動することもありますし、警備艇の母艦としての役割も果たします」


警部が格納庫の方向へ歩を進めた、その瞬間――

艦内に硬質なベル音が鳴った。

瞬時にウィグナー警部の表情が引き締まる。

歩みを止め、壁際の艦内電話に手を伸ばすと、鋭い声で応答した。

緊急時には、艦内通信は無線より有線が優先される。

外部からの傍受を防ぐための措置であり、指揮官に直接通話が求められる場合には、通常とは異なるベル音が設定されている。

今鳴った音は、その中でも特に重い意味を持つ――『緊急』の信号だった。


「警部。M十三方位より、首都星に麻薬密輸容疑の貨物船が第五惑星軌道線内に侵入したとのタレコミが入りました。第一艦隊からです」

「それはタレコミというより、連絡事項じゃないか」


ウィグナー警部は小さく苦笑した。


「……“タレコミ”とあちらが仰ったので」


その言い回しに、ウィグナー警部はある人物の顔を思い浮かべた。

彼女が知らせてくる以上、すでに裏は取れている。

多少強引に動いても、後から問題になることはまずないだろう。


「了解した。とはいえ、かなり拙いな」


首都星周辺は、常に艦船でごった返している。

ひとたび紛れ込まれれば、捜査の難易度は一気に跳ね上がる。

第四惑星軌道に到達される前に、何としても取り押さえねばならなかった。

宇宙の貨物船は、湖に放たれた小魚のようなものだ。

一度見失えば、再び網にかけるのは至難の業である。

巡宙艦の出動が要請されたのは、警察庁の顔を立てる意図もあろうが、

それ以上にこの艦の捜索能力を見込まれてのことだろう。

何しろ、〈ブルージェイ〉の改造を施したのは、情報を寄越した彼ら自身なのだから。


「警備艇を出す。各隊、準備にかかれ!」


ウィグナー警部の命令が艦内に通達され、一斉に乗組員たちが動き始めた。


「皆さん。申し訳ありません。ちょっとしたトラブルが発生しました。体験搭乗は中止です。

ですがこのまま帰港できない状況ですので、ぜひ警備艇の出撃を見学していってください」


警部の声が消えるや否や、誰かが小さく「マジかよ」と呟き、別の学生が半笑いで座席に駆け戻った。

ナイジェルは口を引き結びながらも、どこか興奮を隠せずにいた。

周囲では次々に指示が飛び交い、乗組員たちの足音が忙しなく行き交う。

何が起きているのかは分からない。ただ、切迫感が漂っていた

彼らは自然と、擬似窓として設けられたサイドモニターに目を向ける。

〈ブルージェイ〉は、捜索・追跡・接舷といった任務を日常的に担う巡宙艦であり、その性質上、外部の視認性を重視した改装が施されている。

サイドモニターは、実際の窓のごとく、宇宙空間の映像を高精細に映し出していた。

やがて艦が大きく旋回し、画面の隅で首都星フェヴァルがみるみる遠ざかっていくのが見えた。


「第一艦隊が見つけたってことは、もう外には逃げられない。

こちらは“頭”を押さえればいい。首都星には近付けるな!」


ウィグナー警部が艦長に命じると、即座に力強い返答が返ってきた。


「了解。警備艇、出動します!」


指示を終えたウィグナー警部は学生たちの方へ向き直り、先ほどまでとは打って変わった、あくまで案内役としての口調で話し始めた。


「現在、麻薬密輸の容疑船に対する捕捉作戦を遂行中です。

警備艇が現場に急行しているので、運がよければその一部始終をご覧いただけるかもしれません」


敵船の接近方位はすでに特定されている。あとは、こちらの網に飛び込んでくるのを待つだけだった。

学生たちはじりじりとした心持ちで、サイドモニターに釘付けになる。

そうして約三十分後、ついに警備艇からの報告が入った。


「発見しました! 貨物船を視認!」


声がスピーカーから響くと同時に、艦内の空気が一変した。

誰もが一瞬息を呑み、次の指示を待つ。


「よし。そのまま追跡を継続。発砲は許可しない、接近を優先しろ!こちらも現場に急行する」


ほどなくして追いついた〈ブルージェイ〉は、周囲を囲む警備艇たちが貨物船に接近していく様子を監視していた。


「あの貨物船が、問題の船か……皆さん、危険はないと思いますが、座席からは動かないでください」


ウィグナー警部の声に、ナイジェルとフレデリコは顔を見合わせ、強張った面持ちのまま固定ベルトに身を預けた。


「ブルージェイはこれより貨物船を追跡し、停止を要求します。もし逃走を図るようであれば、必要な措置を取ります」


そう言い終えた直後、〈ブルージェイ〉が急加速を始め、学生たちの体がぐっとベルトに引き寄せられる。

窓の外では星々の光が流れ、宇宙の景色が目まぐるしく変化していった。


「警部!貨物船が反転、こちらに――」


通信士の声に被せて、警部はモニターを睨みつけた。


「……待て。これは貨物船じゃない、武装商船だ。艦体を偽装している」


運び手ではなく、護衛用の戦闘船だったということだ。

艦内の空気が一変した。学生の中から「ひっ」と小さく悲鳴を上がる。

ナイジェルはシートベルトを握りしめ、モニター越しに映るその船を凝視する。

平凡な貨物船の船体両舷に小型砲塔が露出していた。


「武装商船が麻薬密輸に関与とは……かなり大々的だな。もっと息を潜めるものだが、」


ウィグナー警部の表情は厳しく引き締まり、すぐさま艦内マイクを手に取って指示を飛ばす。


「警察庁本部へ緊急連絡!

武装商船の存在を報告、応援を要請せよ……第一艦隊の動きは?」


その問いかけに通信士が即座に反応する。


「あと三分、“見張ってくれ”だそうです」


この一言に、ウィグナー警部は確信した。

――第一艦隊はすでに潜航モードで接近し、包囲網を完成させつつあるのだ。


「警備艇に待避命令を出せ――武装商船の射程外まで、すぐに!

いいか、逃げ回って時間を稼ぐんだ!」


どうやら自分たちの任務は武装商船の検査ではなく、“狼煙”役らしい。

戦闘は門外漢だ。ここは素直に第一艦隊の到着を待つのが最善であった。


「ウィグナー警部、貨物船が接近してきます!」


通信士の声に応じて、艦長が即座に〈ブルージェイ〉を反転させる。

急旋回で押しつけられた学生たちの体が座席に沈み込み、視界の端が揺れる。

喉の奥で、抑えきれない悲鳴がかすかに震えた。

フレデリコは唇を結んだまま、胸元で両手を組む。

言葉にならぬ祈りが、指先の震えに滲んでいた。

ナイジェルは窓越しに迫る武装商船を見据える。

胸の奥で脈打つ鼓動が、全身の感覚を塗り替えていく。


(……二分経ったぞ、ジークリンデ!)


ウィグナー警部は焦燥感を押し殺しながら、内心で短く叫んだ。

次の瞬間、武装商船のレーザーが〈ブルージェイ〉の防御力場に直撃した。

青白く弾ける中和光がメインスクリーンを覆い、学生たちの顔に恐怖を浮かび上がらせる。


「第一艦隊から通信! “あとは任せろ”とのことです!」


通信士が強張った静寂を破った。

声を張り上げたのは、学生たちを安心させる意図もあったのだろう。

〈ブルージェイ〉とすれ違いざまに、ステルスを解除した駆逐艦群が姿を現した。

刹那、武装商船に向けて一斉に加速。

慌てたように放たれた砲撃が駆逐艦に降り注ぐが、散発的な攻撃では軍用艦の防御力場を貫くことはできない。

そもそも、想定している被弾の威力に雲泥の差がある。

駆逐艦の精密砲撃が防御力場を穿ち、砲塔を一つずつ無力化していく。

無駄弾は一発もない。まさに職人技だった。

一方的な蹂躙がスクリーンいっぱいに展開され、

ナイジェルとフレデリコはただ、その光景に圧倒された。


すべての砲塔が、的当てゲームのように順番に狙い撃たれて沈黙した後、武装商船に降伏を示す灯火がともる。

牙を剥いた過去があるなら、武装を根こそぎ奪うまで手を緩めない。

それが、辺境艦隊の冷徹な生存本能だった。



「警部、航保卿から通話要請です。」

「ジークリンデか。繋いでくれ」


ウィグナー警部の命に応じ、メインスクリーンに銀髪の佳人が映し出された。

右肩のエポレットにかけられた紫のサッシュが、彼女の身分をはっきりと示している。

ジークリンデ・シュレディンガー航保卿、その人である。


「…あら、ニールだったんですか。一隻逃げたのが武装商船だなんて、思いもしなかったわ。遅くなってごめんなさいね」


一隻だけ逃げたということは、第一艦隊が主力をすでに捕らえており、この一隻だけが取り逃がされたか、意図的に逃がされたと考えるべきだろう。

いずれにせよ、真っ先に護衛役の武装商船が逃げ出すとは、ジークリンデにとっても誤算だったに違いない。


「お詫びにこっちで捕まえた分も引き渡してあげるから、許してくれる?

八隻ほどいるのだけれど……動力部を破壊してしまって、曳航が面倒なんです。」


いかにもジークリンデらしい物言いだった。

鹵獲船の引き渡しまで口にするのは、本気で焦っていたようだ。

普段と変わらぬ無表情の奥に、安堵とも後悔ともつかない気まずさが見え隠れしていた。


「助かったよ。こちらの武装商船は動力部を破壊してくれたかい?」


ジークリンデがわずかに扇を揺らすと、スクリーンの映像が切り替わった。

宙域に静止する八隻の鹵獲船が一覧で表示され、それぞれに識別コードとステータスが添えられている。引き渡しに先立ち、データを送信してきたのだ。


「曳航が面倒だから、今のは装甲兵に占拠してもらいました。

もしかして、壊したほうがよかった?」


ジークリンデは少しだけ視線を伏せ、それから思い出したように言葉を継ぐ。


「ああ、もちろん遅れた理由はあるのよ」

「そのままで構わない。動かせるなら、その方が楽だ。……何があった?」


幼馴染の気安さか、焦燥から解放された緩みからか、ジークリンデの口調からは当主らしい威厳が行方不明となっていた。


「誘拐されたっぽいお嬢さんを盾にされて、少し制圧に手間取ってしまったの。だから……」


いつもは淀みなく言葉を紡ぐジークリンデが、珍しく口を濁す。

らしくもない態度が、かえって事態の深刻さを物語っていた。


「制圧の際に、彼らの“パーツ”がいくつか欠品状態になりまして。

生存者は確保していますので、取り調べは可能です。

もちろん、お嬢さんに外傷はありませんよ。

照合したところ、彼女には男爵家から捜索願が出ていました」


部下の安全を優先し、ジークリンデは手加減抜きの白兵戦を命じた。

ただのごろつきにとって、精強な陸戦兵は死神に等しい。

きっと脅迫の言葉を口にする前に、喉を撃ち抜かれ、腕を切り飛ばされたに違いない。

航保では人質『かもしれない』人間の安全は優先度が低いから――

さておき、頭や腕や脚を「パーツ」呼ばわりするな、と心の中で突っ込みながら、ウィグナー警部は片手を上げて応じた。


「わかった。こちらで責任を持って対処する。ありがとう、ジークリンデ」

「取り調べの結果は、こちらにも送ってくださいね。

……それにしても、ずいぶん人口密度が高いような。もしかして、何かのイベント中でした?」


ジークリンデはスクリーン越しにブリッジ内を見回し、ほんのわずかに眉を上げた。


「大学の特別講義さ。学生が船に乗っているんだ」

「あら……それはなんとも災難でしたね」


(武装商船との遭遇――貴重な体験かもしれないが、彼らにとってはやはり災難だ)

ニールは学生たちを見渡しながら、この状況が彼らにとって決して良いものではないことを理解していた。

彼らの想像を超えた、現実の危険が目の前にあったのだから。


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