第6話 秘めたる情と歪んだ日常

聖女セレスティーナの巧妙な画策は、一時的に静寂をもたらした。彼女は次の手を練っているのだろうが、その間、リオンの日常は、エリオットの揺るぎない執着によって完全に支配されていた。


学園では、エリオットは以前にも増してリオンの傍を離れなくなった。まるで、リオンを学園という舞台から切り離し、自分だけの視界に収めようとしているかのようだった。授業中は常に隣の席に座り、休憩時間には他の生徒を牽制するようにリオンの肩に腕を回したり、耳元で囁いたりする。食堂では、リオンが何を言おうと当然のように向かいに座り、彼の皿から食べ物を取ることもあった。その全てが、周囲の生徒たちからは「完璧なノヴァリス様が、なぜあの悪役令息にそこまで?」という奇異の目で見られ、リオンの孤立は深まるばかりだった。


だが、リオンの心には、嫌悪感だけではない、奇妙な感情が芽生え始めていた。

(……僕のために、そこまでするのか?)

エリオットの執着は、彼自身の完璧な評判をも危うくするほどだった。リオンに構うことで、エリオットを崇拝する者たちからの嫉妬や、時に向けられる不審の視線さえも、彼は意に介さない。その一途なまでの感情は、リオンがこれまでの人生で一度も向けられたことのないものだった。誰からも疎まれ、常に独りだったリオンにとって、エリオットの歪んだ愛情は、まるで渇いた大地に染み込む水のように、抗い難い引力を持っていた。


ある日の午後、リオンは中庭の片隅にある、忘れ去られたような東屋で本を読んでいた。そこは、学園の喧騒から隔絶された、彼の唯一の安息の地だった。だが、もちろん、そこにもエリオットは現れた。

「こんなところで、こっそり僕を待っていたのかい、リオン」

悪戯っぽい、しかしどこか甘えたような声だった。エリオットはリオンの隣に、いつものように自然に座る。身体が触れ合うほどの距離に、リオンの心臓は小さく跳ねた。もう、この至近距離にも慣れてしまった自分がいた。


「待ってなどいない。勝手に来たのは貴方だ」

リオンはぶっきらぼうに答えるが、エリオットは微笑むだけだった。彼はリオンの手に触れることなく、その指先が、リオンが持つ本のページをそっと撫でた。

「この物語の結末は、君の望むものだろうか?」

エリオットは、珍しく回りくどい言葉で問いかけた。その瞳の奥には、いつもリオンに向けられる激しい執着とは異なる、どこか憂いを帯びた光が揺らめいているように見えた。


リオンは、無意識のうちにエリオットの顔を見上げていた。いつも完璧な笑顔を貼り付け、全てを掌握しているように見えるこの男が、時折見せる、僅かな隙。それが、リオンの心をざわつかせた。

「僕の望む結末など、あるはずがない」

リオンは吐き捨てるように言った。

「悪役は、最後には必ず断罪される。それが、この世界の道理だろう」


エリオットの表情が、一瞬だけ翳った。その翳りは、リオンがこれまで彼から感じたことのない、「弱さ」のようなものだった。

「……そう決めつけるのは、まだ早い。物語の結末は、描き手次第でどうとでも変わるものだ」

エリオットはそう言うと、リオンの頬にそっと手を伸ばした。彼の指先が、リオンの肌を優しく撫でる。その触れ方は、以前のような支配的なものではなく、まるで壊れ物を扱うような、繊細なものだった。


「リオン、君は、僕が……君を、手放すと思っているかい?」

彼の声は、囁くように甘く、それでいて有無を言わせぬ響きを持っていた。リオンの身体は、彼の指先の触れる箇所から、ゆっくりと熱を帯びていく。

「君が何を望もうと、僕が君を諦めることはない。それは、君が誰に何を言われようと、誰とどこへ行こうと、決して変わらない」

エリオットは、リオンの指に自分の指を絡め、その手の甲にそっと唇を押し当てた。その瞬間の熱が、リオンの全身を駆け巡った。


(なんだ、この感情は……)

リオンの心臓が、激しく、不規則なリズムで跳ねた。嫌悪と、戸惑い。だが、それだけではなかった。彼が向けられる、異常なまでの「特別扱い」が、リオンの孤独な心を、確実に満たし始めていたのだ。この男は、彼の全てを受け入れ、彼の全てを求めている。それがどんなに歪んでいようと、その事実は、リオンにとって甘美な毒だった。


その日以来、リオンはエリオットの存在を、以前ほど「耐え難いもの」とは感じなくなっていた。むしろ、彼の視線が自分から外れると、わずかな寂しさを覚えることさえあった。彼が隣にいれば、他の生徒からの悪意ある視線や囁きも、遠いものに感じられた。エリオットという「光」が、彼を囲む「闇」を、別の闇で塗りつぶしているかのようだった。


ある夜、リオンは自室で、エリオットから贈られた本を読んでいた。それは、珍しい植物図鑑で、エリオットが温室で彼に語りかけた時と同じ、深く美しい薔薇の絵が描かれていた。その本には、彼の手書きで記されたメモがいくつかあった。


『この花は、君の瞳の色に似ている』

『枯れることのない美しさを、君に』


そのメモを目にするたび、リオンの頬はわずかに熱を持った。エリオットの言葉が、ただの支配欲ではなく、彼なりの「情」を込めて発せられているのだと、リオンは気づき始めていた。彼は完璧な王子でありながら、リオンにだけ見せる、どこか危うく、それでいて純粋な一面。それは、リオンの心を揺さぶるに十分だった。


(僕が、こんなに早く……)

リオンは、自分の心の変化に戸惑った。冷酷な悪役令息として生きてきた自分が、こんなにも簡単に、一人の男の歪んだ愛情に囚われていくとは。それは、まるで自身の物語が、エリオットによって書き換えられているかのようだった。


しかし、その穏やかな(そして歪んだ)日常は長くは続かなかった。


学園の片隅では、聖女セレスティーナの苛立ちが頂点に達していた。エリオットとリオンの関係は、彼女の予想をはるかに超えて深まっていた。彼女の「悲劇のヒロイン」計画は、全てがエリオットのリオンへの執着を強める結果に終わったのだ。


「これでは、いつまで経ってもエリオット様は私を見てくださらない……! あんな汚らわしい悪役令息なんかに、どうして……!」


彼女の足元には、無残に引きちぎられた花びらが散乱している。これまでの甘い芝居では駄目だと、彼女は悟った。エリオットを完璧に独占するためには、リオンを公の場で完全に失墜させ、もはやエリオットですら庇いきれない「悪」として裁かせるしかない。そして、その後に自分が「光」として、再びエリオットの前に立つ。


彼女の瞳に、慈愛の輝きは完全に消え失せ、冷酷な光が宿った。それは、聖女の仮面の下に隠された、真の「悪魔」の顔だった。彼女の唇が、ゆっくりと弧を描いた。


(リオン・フェルゼン。貴方を、私の完璧なエリオット様を手に入れるための、最高の舞台装置にしてあげるわ……)


彼女の心の中で、次の、より大きく、そして巧妙な「悲劇」の脚本が、静かに紡がれ始めていた。それは、リオンの運命を決定的に変え、エリオットの立場をも危うくする、残酷な一幕となるだろう。

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