第5話 悲劇のヒロイン計画と聖女の焦り

スポーツフェスティバルでの準備室。あの密室でエリオットがリオンの肌に触れ、甘い言葉を囁き、そして聖女セレスティーナがその光景を目撃した瞬間から、学園内の空気はかすかに、だが確実に変わり始めていた。


リオンは、自分の周囲に張り巡らされたエリオットの視線網から逃れられずにいた。彼の執着は、まるで網の目を日に日に細かくしていく猟師のようだった。廊下を歩けば、どこからかエリオットが声をかけてくる。食堂で食事をしていれば、自然と隣の席に座ってくる。図書館で本を開けば、いつの間にか向かいの席に気だるげに座り、熱い視線を送ってくる。周囲の生徒たちは、完璧な王子エリオットが「悪役令息」のリオンに異様に構う姿を見て、好奇と畏怖の混じった視線を送るだけだった。彼らにとって、それは単なる「ノヴァリス様のお優しい一面」であり、リオンの立場がより奇異なものになるだけだった。


(このままでは、本当にあの男の檻の中に閉じ込められてしまう……)


心の奥底では、エリオットの歪んだ愛情にわずかな「特別扱い」の心地よさを感じてしまう自分がいることも、リオンを深く苛んだ。嫌悪しているはずなのに、唯一自分を見つめるその視線が、孤独な心を僅かに溶かすような錯覚に陥るのだ。


そして、もう一人、リオンを巡る新たな影が動き出していた。聖女セレスティーナだ。準備室で目撃した光景は、彼女の「光の乙女」としての完璧な仮面の下に、激しい嫉妬の炎を灯していた。彼女にとって、エリオット・ノヴァリスは幼い頃から夢に見た「白馬の王子様」そのものだった。清らかで、強く、全てを包み込むような輝きを持つ存在。そんなエリオットが、なぜ「悪役令息」と名高いリオン・フェルゼンに執着するのか、彼女には到底理解できなかった。


(あの醜い悪役令息が、どうしてエリオット様の隣に……!?)


セレスティーナは、エリオットの関心をリオンから引き剥がし、自分に向けさせるため、ある計画を思いついた。それは、リオンを利用して「悲劇のヒロイン」を演じ、エリオットの同情や保護欲を煽ることだった。


最初の「事故」は、午後の授業が終わった直後の、廊下で起こった。生徒たちが一斉に次の教室へ移動する、ごく自然な時間帯だった。リオンは、いつものように人波に紛れるようにして歩いていた。その時、前方を歩いていた聖女セレスティーナが、突然、わずかに足元を滑らせたように見えた。


「きゃっ……!」


聖女の可憐な悲鳴が響き渡る。彼女はちょうど、リオンの数歩前を歩いており、その身体がバランスを崩して、まるでリオンにぶつかるかのように倒れ込んだのだ。リオンは咄嗟に身をかわしたが、聖女のドレスの裾が、彼の革靴にわずかに触れた。それだけの接触だった。だが、周囲の生徒たちは、その瞬間をはっきりと見ていた。


「聖女殿下!?」

「リオン様、何をするんですか!」

瞬く間に、数人の生徒が聖女に駆け寄り、リオンを非難する声が上がった。

聖女はゆっくりと身を起こすと、膝を軽く擦りながら、痛みに耐えるように顔を歪めた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。


「わ、私、は……大丈夫ですわ。リオン様も、悪気があったわけでは……」


彼女の言葉は、リオンを庇っているように聞こえるが、その実、彼の粗暴さを暗に示唆していた。周囲の生徒たちの視線が、一斉にリオンに突き刺さる。彼らは聖女の言葉に「やはり悪役令息は野蛮だ」と確信したかのような顔で、リオンを睨みつけた。


(また、僕のせいにするのか……!)

リオンは何も言い返せなかった。聖女の芝居があまりにも巧妙で、彼の行動を弁護する言葉が見つからなかったからだ。


その時、人混みをかき分けて、一人の影が近づいてきた。

「セレスティーナ殿下、大丈夫かい?」


エリオットだ。彼は聖女の元へ駆け寄ると、優しくその腕を取り、心配そうに顔を覗き込んだ。

「お怪我はないかい? 君が傷つく姿を見るのは、僕も辛いよ」


彼の言葉は、慈愛に満ちていた。聖女はエリオットの優しさに頬を染め、か弱い声で答える。

「ええ、エリオット様……。少し、足を捻ってしまったようです。でも、大丈夫ですわ、これくらい」


聖女がエリオットに甘えるように寄り添う姿を見て、周囲の生徒たちはさらに聖女への同情と、リオンへの反感を強めた。しかし、エリオットの視線は、その間もわずかに、リオンへと向けられていた。彼の唇は聖女に優しい言葉を紡いでいるが、その瞳の奥には、リオンへ向けられた、満足げな光が揺らめいているように見えた。


(……僕に構ってほしくて、こんな芝居を? 全てお見通しだというのに、僕をこんな風に利用するとは。可愛らしいね、セレスティーナ殿下)


エリオットは聖女に寄り添いながら、さりげなくリオンの前に立ち、彼を人目から隠すように身体を向けた。それはまるで、リオンを「自分のもの」として守っているかのような、無言の誇示だった。


聖女の「悲劇のヒロイン」計画は、その後も続いた。


ある日の昼食時、食堂で。リオンはいつものように、人から離れた席で静かに食事をしていた。聖女セレスティーナは、生徒たちの中心で、朗らかな笑い声を響かせている。その時、彼女は手に持っていたスープの皿を、まるで手元が狂ったかのように傾け、温かいスープが床にこぼれた。それも、リオンの席のすぐ近くに。


「ああ、ごめんなさい! 私、なんて不器用なのかしら……」

聖女は困ったように眉を下げ、すぐに給仕係が駆け寄って片付け始めた。その間、聖女はリオンの席に謝罪の視線を送る。

「リオン様、申し訳ありません。お食事中でしたのに、汚してしまって……」


彼女の謝罪は、周囲の生徒たちの間で「聖女殿下は本当に優しい」と評判になった。しかし、リオンの目には、その謝罪の裏に隠された、満足げな悪意が見え隠れしていた。リオンの衣服にはスープのしみがついていた。


「まったく、セレスティーナ殿下。君は本当にうっかりさんだね」

その声が聞こえると、食堂の空気が一瞬で引き締まる。エリオットだ。彼はいつの間にかリオンの隣に立っていた。

「リオンも、君の服は僕のハンカチで拭いておくといい。汚れたままだと、風邪をひいてしまうだろう?」


エリオットは、何の躊躇いもなく、自分の胸ポケットから真っ白なハンカチを取り出すと、リオンの服についたスープのしみを拭き始めた。その指先が、リオンの身体に必要以上に触れる。まるで、恋人の衣服を整えるかのような、親密すぎる仕草だった。周囲の生徒たちは、息を呑んでその光景を見つめている。


聖女セレスティーナの笑顔が、微かに引き攣った。エリオットが、自分を慰めるどころか、リオンに過剰なまでに構い始めたからだ。彼女の「悲劇のヒロイン」計画は、全てがエリオットの「リオンへの執着」を強める結果になっていた。彼女の狙いはエリオットの関心を自分に向けることなのに、むしろエリオットがリオンをより強く囲い込もうとしている。そのことに、聖女は焦りを感じ始めていた。


(なぜ……なぜ、あの悪役令息にばかり……!? 私が、こんなに完璧に演じているのに……!)


リオンもまた、エリオットの行動に混乱していた。聖女の巧妙な嫌がらせに苦しめられながらも、エリオットが自分を「守ってくれる」たびに、奇妙な安堵を覚えてしまうのだ。嫌悪しているはずの彼の触れる指先が、まるで自分を孤独から引き上げてくれる唯一の救いであるかのように錯覚してしまう。これは、健全な感情ではない。しかし、常に誰からも避けられてきた自分にとって、エリオットの歪んだ執着は、彼を「唯一の存在」として見つめる光でもあった。


放課後。リオンは、学園の裏手にある、普段は生徒があまり立ち入らない古い温室へと向かった。埃っぽいガラス張りの温室には、手入れのされていない植物が雑然と生い茂り、湿った土と花の香りが入り混じった独特の空気が漂っていた。ここは、彼の秘められた隠れ家だった。誰にも邪魔されず、一人で思考を巡らせる場所。


だが、その静寂は、すぐに破られた。


「リオン。こんなところで、一体何を隠れて楽しんでいるんだい?」


エリオットの声が、背後から聞こえた。振り返ると、温室の入り口に、彼の完璧な姿が立っていた。閉められたはずの扉が、いつの間にか開いている。彼は、温室の湿った空気をものともせず、優雅な足取りでリオンに近づいてくる。その手には、一輪の真紅の薔薇が握られていた。温室の中に似つかわしくない、完璧な美しさだった。


「貴方には関係ない」

俺は答えるが、エリオットは気にした様子もなく、リオンの目の前に立つ。彼の視線は、リオンの顔、首筋、そして開かれたシャツの胸元へと滑っていった。


「そうかい? でも、僕は君とこうして二人きりでいるのが、一番好きなんだ」


エリオットは、手に持っていた薔薇を、リオンの頬にそっと押し当てた。冷たい花弁が肌に触れる。薔薇の甘く濃厚な香りが、リオンの鼻腔をくすぐった。

「今日の君は、随分と冷たいね。僕に触れられても、そんなに熱くならないのかい?」


彼の指が、リオンのシャツの襟元に滑り込み、ボタンを一つ、また一つと開いていく。リオンは息を呑んだ。人目のない温室。この男は、何をしようとしているのか。恐怖が身体を支配するが、なぜか抗うことができない。


「僕が傍にいないと、君はすぐに危ない目に遭う。セレスティーナ殿下のように、君を陥れようとする者もいるだろう」

エリオットは、リオンの開かれた胸元に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。彼の熱い吐息が、リオンの肌を粟立たせる。

「ああ、君のこの身体、全てが僕のものだ。他の誰にも渡さない」


彼の唇が、リオンの首筋に触れ、そのまま吸い付くように痕をつけた。リオンは、全身に電流が走ったような衝撃を受け、小さく息を漏らした。羞恥、嫌悪、そして、どこかにある抗えない快感が、彼の思考を鈍らせていく。


「君の居場所は、僕の隣だけだよ。リオン。僕だけが、君を正しく理解し、守ってあげられる」


エリオットの言葉は、甘く、そして支配的だった。彼はリオンの身体をゆっくりと抱き寄せ、その頬に自分の頬を擦りつける。リオンは、彼の体温と香水の匂いに包まれ、まるで繭の中に閉じ込められたかのような感覚に陥った。この歪んだ愛情が、彼をどこまでも絡め取り、逃がさない。


(僕は、この男から、本当に逃れられないのか……?)


リオンの心臓は、激しく鼓動していた。エリオットの存在は、もはや彼にとって嫌悪の対象だけではなかった。それは、孤独な世界に唯一差し込んだ、歪んだ光であり、同時に彼を飲み込み、壊そうとする闇でもあった。


その頃、聖女セレスティーナは、自室で苛立ちを募らせていた。


「なぜ、エリオット様は私に振り向いてくださらないの……? 私が、あんなに完璧に演じているのに……!」


彼女の足元には、数輪の花が、乱暴に引きちぎられて散らばっている。エリオットがリオンを庇い、さらに執着を深めるたびに、彼女の心に醜い焦燥感が募っていった。リオンを貶め、自分を悲劇のヒロインに見せることで、エリオットの関心を独占するはずだった。だが、結果は真逆だった。エリオットは、まるでリオンをさらに囲い込むように、彼の隣に張り付いている。


(このままでは、エリオット様は永遠に、あの悪役令息から目を離さない……!)


聖女の瞳に、これまでの慈愛に満ちた輝きはなかった。そこにあるのは、冷徹な計算と、リオンへの深い憎悪、そしてエリオットへの狂おしいほどの執着だけだった。


「もう、こんな生ぬるいやり方では駄目だわ……」


彼女の唇が、ゆっくりと弧を描いた。それは、聖女の仮面の下に隠された、もう一つの顔だった。リオンを貶め、エリオットの保護欲を完璧に独占するための、もっと決定的な方法。それは、リオンを公の場で完全に失墜させ、その後に自分が「救いの手」を差し伸べるという、極めて大胆な計画だった。


(リオン・フェルゼン。貴方を、私の完璧なエリオット様を手に入れるための、最高の舞台装置にしてあげるわ……!)


彼女の心の中で、次の、より大きな「悲劇」の脚本が、静かに紡がれ始めていた。そして、それは、リオンの運命を決定的に変える、残酷な一幕となるだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る