第4話 侵食する影と偽りの光
図書館での出来事は、まるで夢のようであり、悪夢のようでもあった。エリオットの指が肌を這った感触、耳元で囁かれた甘い言葉、そして、開かれたシャツの隙間から感じた彼の熱。それらは全て、俺の心を深く、深く侵食していた。嫌悪と恐怖が胸を締め付ける一方で、なぜか拭い去れない奇妙な熱が、身体の奥底に残る。その残滓が、俺の思考を歪ませ、正常な判断力を奪っていくようだった。
(これ以上、僕の世界を乱さないでくれ……)
翌日、学園はいつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。だが、その日常は、一人の転入生によって、あっけなく塗り替えられる。全校集会。壇上に現れたのは、光を纏ったかのような少女だった。
「本日より、この学園に転入される、セレスティーナ・アークライト殿下をご紹介します」
教師の声が響き渡ると、生徒たちの間にどよめきが走る。セレスティーナ・アークライト。彼女こそ、この国の民が「光の乙女」と称え、崇める聖女だ。清らかで可憐な外見は、まるで絵画から抜け出してきたかのよう。微笑むたびに、周囲は彼女の輝きに吸い寄せられていく。瞬く間に、彼女は学園の人気者となった。人々は彼女を「光の乙女」と称賛し、その存在は学園に新たな輝きをもたらしたかのように見えた。
俺は他の生徒たちと同様に、最前列近くに立っていた。公爵家の嫡男であるエリオットは、その家柄から自然と最前列に陣取っていた。俺は「悪役令息」として目立たぬよう、人波に紛れて立っていたつもりだったが、彼の近くという場所は、どうしても目についてしまう。
セレスティーナの視線は、壇上から降り注ぐ光のように、まずその圧倒的な存在感を放つエリオット・ノヴァリスを捉えた。彼女の瞳に宿る、微かな熱と憧れを、俺は傍から見ていても感じ取ることができた。その完璧な横顔に、かすかに頬を染める様子は、恋に落ちた乙女そのものだった。彼女は、エリオット以外の存在には、まだ意識を向けていないようだった。
(聖女殿下が、エリオットに……)
数日後、学園では年に一度の「スポーツフェスティバル」の開催が発表された。クラス対抗で、様々な競技が行われることになる。チーム分けが行われる際、俺は案の定、周囲から露骨に避けられた。誰もが俺と同じチームになることを嫌がり、結果的に俺は、余り物としてチームの隅に追いやられる。だが、その選出を、エリオットが興味深そうに見つめていることに、俺は気づいていた。彼の口元には、いつもの完璧な笑みが浮かんでいる。
「やあ、リオン。君もリレーに出るのかい? 奇遇だね、僕もなんだ」
背後から聞こえた声に、俺は思わず身体を硬くした。エリオットだ。彼は完璧な笑顔で、俺の隣に立っていた。どういう手を使ったのかは知らないが、彼は俺と同じリレーのチームに滑り込んできたのだ。そのことに疑問を感じるよりも早く、俺の心臓は警戒の音を鳴らし始めていた。
「貴方には関係ない」
俺はそっけなく答えるが、エリオットは気にした様子もない。それどころか、俺の肩に手を乗せ、親しげに囁く。
「そうかい? でも、君と一緒なら、きっと楽しいスポーツフェスティバルになるだろうね。……それとも、僕と二人きりの方が、君はもっと楽しいかな?」
彼の言葉は、まるで俺の心を弄ぶかのようだった。周囲の生徒たちがちらりとこちらを見るが、エリオットの完璧な笑顔と、俺の無表情に、すぐに興味を失っていく。誰もが、エリオットの振る舞いを「あの優しいノヴァリス様が、悪役令息にも気を遣ってやっている」と解釈しているのだろう。その誤解が、俺の孤独をさらに際立たせる。
スポーツフェスティバル当日。学園のグラウンドは、生徒たちの熱気で溢れていた。俺はリレーの第二走者。バトンを受け取る位置で待機していると、エリオットがさりげなく隣に寄ってくる。
「緊張しているかい、リオン? 君の顔はいつもと変わらないけれど、鼓動が少し速いようだね」
彼の指先が、俺の腕に触れる。まるで脈を測るかのように。ぞわりと、全身に悪寒が走った。
「……余計なお世話だ」
俺は小さく呻いた。
第一走者の生徒がバトンを繋ぎに走ってくる。その時、視界の端で、聖女セレスティーナが、エリオットに向かって優雅に手を振っているのが見えた。彼女は笑顔を浮かべているが、その視線が、エリオットの隣に立つ俺を、僅かに射抜いたように感じた。
「さあ、リオン。君の番だよ」
エリオットは、俺の耳元で囁くと、俺の腰に手を添え、軽く背中を押した。その指先が、俺の身体を必要以上に撫でる。背後から第一走者の生徒がバトンを差し出すと、エリオットは流れるような動作でそれを受け取り、俺の手に確実に乗せた。その瞬間、彼の身体が、俺の背中に密着した。彼の胸板の熱が、薄いシャツ越しに俺の背中を焼く。甘い香水の匂いが、再び俺の肺腑を満たした。まるで、俺だけが彼の世界に閉じ込められているかのようだ。
「行こう、リオン」
エリオットの低い声が、俺の耳朶をくすぐる。羞恥と、得体の知れない熱が、俺の身体を駆け巡る。
(この男……っ! 人目がある場所で、何を……!)
俺は混乱しながらも走り出した。エリオットは、俺の走る姿を、満足げな瞳で見送っていた。
競技が終わり、休憩時間に入った。俺は人目を避けるように、体育館の裏手にある準備室へと向かった。そこは、様々な運動用具が雑然と置かれ、普段はあまり人が来ない場所だ。誰にも見られず、一息つこうとした、その時だった。
「リオン。こんなところで、何を隠れているんだい?」
背後から聞こえた声に、俺は身体を硬くした。エリオットだ。彼は入口に立ち、完璧な笑顔で俺を見つめている。その手には、冷たい水筒が握られていた。
「貴方には関係ない」
俺は冷たく言い放つが、彼はゆっくりと俺に近づいてくる。準備室の扉が、音もなく閉まる。密室だ。雑然とした空間に、俺と彼だけが取り残された。
エリオットは、俺の前に立つと、手に持っていた水筒を俺に差し出した。
「ほら、喉が渇いただろう? 汗をかいた君は、いつもよりずっと魅力的だよ」
そう言って、彼は水筒を俺の唇に押し当てた。その行為は、命令のようでもあり、誘惑のようでもあった。
「何を……っ!」
俺は拒否しようとするが、エリオットの指が、俺の顎をそっと掬い上げる。そして、水筒の縁で、俺の唇を優しくなぞった。
「今日の君は、随分と熱かったね。僕に触れられて、そんなに嬉しいかい?」
エリオットは、俺の顎を指で掬い上げ、顔を覗き込んだ。その瞳の奥には、獲物を捕らえた捕食者のような、粘着質な熱が宿っている。
「何を言う……っ! 不愉快だ!」
俺は声を荒げるが、彼の指は俺の顎を離さない。
「そんなに嫌がらなくてもいい。僕が傍にいないと、君はすぐに危ない目に遭うからね。僕が守ってあげないと」
エリオットは、水筒を置くと、俺の耳たぶに唇を寄せ、甘く囁いた。熱い吐息が、俺の肌を粟立たせる。そして、そのまま彼の鼻先が、俺の首筋に埋められた。甘い香水の匂いが、俺の理性を麻痺させる。
「ああ、君のこの肌、もっと僕に教えてほしいな。僕だけのものになってほしい」
彼の指先が、開かれた俺の制服のボタンの隙間から、するりと滑り込む。冷たい指が、熱を持つ俺の肌をゆっくりと辿った。俺の心臓は、警鐘を乱打していた。恐怖、混乱、激しい嫌悪感、そして、どこか抗えないような、微かな期待。彼の行動は、俺のプライドを、そして身体の境界線を、完全に侵犯していた。しかし、同時に、その歪んだ執着が、凍てついた俺の心を、わずかに溶かし始めているような、そんな錯覚に陥っていた。
その時、準備室の扉が、僅かに開いた。そこに立っていたのは、聖女セレスティーナだった。彼女の顔からは、完璧な笑顔が消え失せ、瞳孔が僅かに開いているように見えた。
「あら、エリオット様。こんなところで何を?」
セレスティーナの声は、普段の可憐な響きを失い、どこか硬く、冷たい響きを帯びていた。エリオットは、ゆっくりと俺から離れると、聖女に向き直った。その顔には、いつもの完璧な笑顔が戻っている。
「聖女殿下、今日のフェスティバルは素晴らしいご活躍でしたね。ところで、フェルゼン公爵の次男坊は、最近どうも僕に懐いてしまって。彼には、僕がしっかり目を光らせていないと、寂しがってしまいますからね」
エリオットの言葉は、完璧な笑顔の裏に、底知れない冷たさを隠していた。それは、聖女への明確な牽制だった。聖女の顔が、一瞬、怒りと屈辱に歪んだように見えた。その瞳の奥に、エリオットの隣に立つ俺への、隠しきれない恨めしさが垣間見えた。まるで、俺の存在が彼女の領域を侵しているとでも言うように。
俺は、エリオットと聖女の間の張り詰めた空気に、自分が彼らの間に挟まれているような奇妙な感覚を覚えた。彼ら両方から逃れられないという絶望感、そしてエリオットの歪んだ執着に囚われていく自己を自覚し、次なる展開への不安が募る。
(この男は、僕を壊すのか……? そして、この女は、エリオットを巡って僕を敵対視しているのだろうか……?)
エリオットの存在は、俺の完璧な無表情と孤独な世界を、根底から揺るがし始めていた。そして、聖女の登場は、その歪んだ関係に、さらなる波乱を呼び込むことを予感させた。
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