第3話 図書室での秘め事

氷の壁に囲まれた俺の世界は、決して揺らぐことはないはずだった。

生まれた時から敷かれたレールの上を、無表情でただ歩き続けてきた。感情を露わにすれば「公爵家の恥」と糾弾され、人々の好奇と嘲笑の目に晒される。その孤独が、いつしか俺の唯一の安息になった。誰も踏み込めない、触れられない、絶対的な安全地帯。

だが、その平穏は、まるで静止した水面に小石が投げ込まれたかのように、あっけなく破られた。エリオット・ノヴァリス。あの完璧な王子様は、俺の固く閉ざした扉を、甘い言葉と歪んだ笑みで、容赦なくこじ開けようとしてくる。彼の存在は、俺を「悪役令息」として蔑む周囲の視線を、さらに際立たせる。救いか、破滅か。俺の世界は、彼によって、ゆっくりと、しかし確実に侵食され始めていた。


(この男は、何を企んでいる……? ただの気まぐれにしては、あまりにも執拗すぎる)


エリオットは、朝、教室に入れば、俺の隣の席に当たり前のように座る。昼食は、どんなに遠回りしても俺のいる庭園までやってきて、隣に腰を下ろす。放課後、俺が図書室へ向かえば、いつの間にか後ろに立っている。その執拗なまでの接触に、俺の神経はすり減っていく一方だった。


「やあ、リオン。今日も読書かい? 珍しい趣味だね」

そう言って、エリオットは俺が読んでいる本のページを、指先でぞんざいに撫でた。その指先が、不意に俺の手の甲に触れる。ぞわりと、肌が粟立った。まるで、何か汚れたものに触れられたような嫌悪感が、胸の奥からこみ上げた。


「……貴方には関係ない」

俺は努めて冷静に本を閉じる。彼との距離を保ちたいのに、彼は常にその境界線を踏み越えてくる。


「そうかい? でも、君といると、僕の世界が少しだけ鮮やかに見えるんだ」

エリオットは顔を近づけ、俺の耳元で囁いた。彼の甘い吐息が、俺の首筋をくすぐる。甘い香水の匂いが、肺腑を満たす。その不意の接近に、俺の身体は硬直した。


「おい、離れろ……!」

俺は思わず声を荒げたが、エリオットは楽しげに笑うだけだ。

「そんなに嫌がらなくてもいいだろう? 僕は君に興味があるんだ。君の、その氷のような顔の下に、どんな熱を隠しているのか、もっと知りたいんだよ」

彼の指が、俺の顎に触れ、ゆっくりと撫で上げる。その指の動きは、まるで獲物を品定めするようだった。


(な、なんだ……この男は……!? 冷たくて、甘くて……嫌悪感しかないのに、なぜ、こんなにも身体が……!?)


今まで感じたことのない、内側からこみ上げてくるような熱と、拭い去れない嫌悪感が混ざり合い、俺の身体を支配する。羞恥に、顔が熱くなるのを感じた。


俺は、エリオットの手を払いのける。

「触れるな! 不愉快だ!」

俺の声は、予想以上に震えていた。その感情の露呈に、エリオットの目が、さらに愉しげに細められる。


「ふふ、そんなに感情を露わにするなんて、珍しいね。もっと見せてほしいな、君の本物の表情を」

彼の言葉は甘いのに、その瞳の奥はどこまでも冷酷だ。まるで、俺の感情を弄ぶことを心から楽しんでいるかのようだ。


俺は、過去の記憶がフラッシュバックする。幼い頃、一度だけ、俺は自分の感情を露わにしてしまったことがあった。その時、周囲の大人たちは皆、俺を気味悪がり、まるで汚いものでも見るかのような目で俺を見た。特に、**俺のちょっとした癇癪を「公爵家の恥」と糾弾し、感情を表に出すたびに、汚いものに触れるかのように体を硬くしたあの使用人たちの顔が、脳裏にちらつく。**それ以来、俺は心を閉ざし、完璧な無表情を貫くようになったのだ。

誰にも理解されない。誰にも寄り添ってもらえない。触れられることさえ、恐怖でしかない。それが、俺の定めなのだと。


(この男も、結局は同じだ……僕を理解するフリをして、ただ面白がっているだけだ……! 僕に触れるな……汚い!)


「もう、俺に近づくな……っ!」

俺は椅子を引いて立ち上がり、図書館を出ようとエリオットを避けて歩き出した。しかし、彼は俺の動きを予測していたかのように、俺の前に立ちふさがった。


「どこへ行くんだい? まだ話は終わっていないだろう?」

エリオットは、俺の腕を掴んだ。その指が、俺の脈打つ手首をしっかりと捉える。

「離せ!」

俺は振り払おうとするが、彼の力は予想以上に強く、ビクともしない。


「そんなに慌てなくてもいい。別に誰も見ていない」

そう言って、エリオットは俺の身体を引き寄せ、図書館の奥にある、滅多に人が来ない書棚の陰へと押し込んだ。背中が冷たい壁に打ち付けられ、目の前には、エリオットの完璧な顔が迫る。周囲からは、書棚に隠れて、俺たちの姿は見えない。密室だ。


甘い香水の匂いが、さらに強く俺を包み込む。彼の瞳が、俺の顔をじっと見つめる。獲物を捕らえた捕食者のように。


「どうしたんだい? そんなに怯えた顔をして。君のその顔、僕にしか見せない顔だね。すごく、そそられる」

エリオットの声は、囁くように甘く、しかしその内容は、俺の心を深く抉った。彼の視線は、俺の顔から、ゆっくりと首筋、そして喉元へと滑っていく。その視線の軌跡に、ぞわりと悪寒が走る。


「……っ、やめろ……っ!」

俺はかろうじて声を出したが、喉はカラカラに乾いていた。彼の瞳の奥には、明確な性的な熱が宿っている。それは、今まで俺が見たことのある、どの人間の目とも違っていた。


エリオットは、片手を壁に突き、俺の逃げ場を完全に塞いだ。彼の顔が、さらに近づく。

彼の指が、俺の制服の襟元に滑り込み、薄い布越しに鎖骨のあたりを辿る。ぞくりと、背筋に痺れるような快感が走った。同時に、激しい嫌悪感が込み上げる。

「君は、僕がいないとダメだろう? 君のその孤独は、僕が満たしてあげる」

彼の指先が、俺の制服のボタンに触れる。そして、ゆっくりと、一つ、二つと、ボタンを外していく。


「何を……! やめろ!」

俺は必死に抵抗しようと身体を捩るが、エリオットはびくともしない。

「大丈夫、誰も見ない。君の全ては、僕だけのものだからね。それに、君はもっと、僕に触れられたいと願っているはずだ」

そう言って、エリオットは俺の首筋に顔を埋めた。熱い吐息が、肌を撫でる。

「ああ、この独り占めできる香り……最高だね。僕だけのものになってほしい」


俺の心臓は、警鐘を乱打していた。恐怖、混乱、激しい嫌悪感、そして、どこか抗えないような、微かな期待。彼の行動は、俺のプライドを、そして身体の境界線を、完全に侵犯していた。しかし、同時に、その歪んだ執着が、凍てついた俺の心を、わずかに溶かし始めているような、そんな錯覚に陥っていた。


(この男は、僕を壊すのか……? それとも、僕を……僕をこんなにも揺さぶる、お前は、一体……!)


エリオットの存在は、俺の完璧な無表情と孤独な世界を、根底から揺るがし始めていた。彼の吐息が、開かれたシャツの隙間から、俺の肌を焦がすように熱く撫でた。

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