第7話 聖女の巧妙な罠と絶望の婚約
聖女セレスティーナの焦りは、もはや臨界点に達していた。エリオットがリオンに注ぐ歪んだ執着は、彼女の完璧なシナリオを打ち砕き、彼の視線を永遠にリオンから引き剥がせないことを悟らせた。彼の愛を独占するためには、もう生ぬるい手段など通用しない。
(あの、醜い悪役令息が……私のエリオット様を惑わすなど、許さない!)
彼女の瞳から、慈愛の輝きは完全に消え失せていた。そこに宿るのは、凍てつくような冷酷な光。聖女の仮面の下には、獲物を狙う猛禽の顔が隠されていた。リオンを公の場で完全に失墜させ、もはやエリオットですら手出しできない「悪」として裁かせる。その上で、自分が「光の乙女」としてエリオットの前に立つ。それが、彼女の最終計画だった。
聖女が選んだのは、この国の信仰の根幹を揺るがす、極めて悪質な計略。それは、学園のシンボルであり、王国にとって最も神聖な場所である**「聖なる泉」の聖水汚染**だった。その清らかさが失われることは、国家に対する冒涜に等しい大罪。誰もが、その報いを恐れるほどの、忌まわしい罪だった。
学園祭の準備期間、生徒たちの活気が満ちる中、その事件は起こった。
「大変だ! 聖なる泉が、汚されている!」
誰かの悲鳴のような声が、学園中に響き渡った。駆けつけた生徒たちは、信じられない光景に息を呑んだ。清らかなはずの泉の水が、濁った泥水のように変色し、異臭さえ放っていたのだ。
教師陣は顔色を変え、王室直属の騎士団までが調査に乗り出す大騒動となった。現場は厳重に封鎖され、生徒たちは恐怖と不安にざわめいた。
そんな中、聖女セレスティーナは、泉の前に立ち尽くし、祈りを捧げていた。その姿は、穢された聖水を嘆き悲しむ、慈悲深い乙女そのものだった。その傍らには、エリオットが心配そうに寄り添う。
「なんてことでしょう……聖なる泉が、こんなにも穢されてしまうなんて……。私の力が及ばず、心が痛みますわ……」
聖女の声は震え、その瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。その姿は、周囲の生徒たちの同情を誘い、犯人への憎悪を一層募らせた。
そして、数日後。調査の結果が、学園長によって全校生徒の前で発表された。
学園長の硬い声が、広場に響き渡る。
「この度、聖なる泉を汚した犯人が、判明いたしました。フェルゼン公爵家次男、リオン・フェルゼンである!」
発表された名前に、学園中が凍り付いた。
「まさか……! あの悪役令息が、ついに国の信仰まで冒涜したのか!?」
「信じられない! 彼はどこまで腐りきっているんだ!」
「これは許されない大罪だ! 公爵家といえど、厳罰に処すべきだ!」
怒号と非難の声が、嵐のようにリオンに降り注ぐ。現場に残された物的証拠は、巧妙に偽装されていた。泉の傍からリオンの私物が発見され、彼が泉の近くにいたという複数の証言(聖女の信奉者たちが仕組んだものだ)が相次いだ。そして何よりも、彼のこれまでの「悪役令息」としての悪評が、彼を犯人だと断定する決定的な証拠として扱われた。
リオンは身に覚えのないことで、学園中の生徒たちから白い目で見られた。教師たちも彼を避けるようになり、友人など一人もいない彼には、弁明の機会も、味方もいなかった。
(また、僕が……この世界は、僕をどこまでも「悪役」に仕立て上げるつもりなのか……!)
公爵家からも厳しい叱責を受けた。父からは、血の気が引くほどの怒声が飛んだ。
「リオン! お前は、フェルゼン家の名に泥を塗った! このままでは、王宮からの追放、家の地位剥奪も免れないだろう! 何という恥知らずなことをしてくれたのだ!」
父の怒声は、リオンの心を深く抉った。彼は完全に孤立し、逃げ場を失っていることを痛感した。このままでは、彼は本当に公爵家から追放され、社会から抹殺されてしまうだろう。
唯一、彼に執着するエリオットだけが、奇妙な笑みを浮かべてその状況を見つめていた。
「リオン、困っているのかい? 君がそんな顔をするのは珍しいね」
エリオットは、誰も近づかないリオンの傍に、いつものように当然の顔で立つ。その手が、リオンの髪をそっと撫でる。
「だが、君は僕がいないとすぐにこうなる。だから、僕がずっと君の傍にいてあげなければならないだろう? ねえ、リオン」
エリオットの言葉は、リオンを助けるものではなく、追い詰めるものだった。彼の庇護は、リオンの他の選択肢を全て奪い、彼を自身の檻に閉じ込めるためのものだったのだ。
リオンは絶望の淵に立たされていた。このままでは、彼は全てを失う。そして、そうなれば、エリオットの執着はさらに過激になり、彼を完全に支配下に置くだろう。
だが、それだけではなかった。聖女セレスティーナは、自身が「慈悲深い聖女」として振る舞いながら、同時に水面下で巧みに世論を操作していた。 学園の生徒や下級貴族の間には、こんな囁きが広まり始めた。
「いくらノヴァリス様が慈悲深いとはいえ、あの悪役令息に構いすぎではないか?」
「聖なる泉を汚すような不届き者と、親しくしているとは……殿下の品位を落としかねないぞ」
「もしや、ノヴァリス様が監督不行き届きなのでは……と王宮でも囁かれているらしいぞ」
完璧な王子エリオットへの尊敬と崇拝は厚い。だが、その完璧さに僅かなでも「傷」がつくことを、多くの人々は望まない。聖水汚染という国家に対する冒涜という大罪を犯したリオンに甘い顔を見せてきたエリオットの立場は、明らかに危うくなっていた。 彼がリオンに執着すればするほど、その名声に影が差し、ひいては王族としての評価にまで影響が及びかねない。エリオットは自分に執着するあまり、他の全てを犠牲にしかねない男だ。彼の名誉が傷つくことは、リオンの望むところではなかった。
(エリオット……お前まで、この泥沼に引きずり込むわけにはいかない……!)
自分自身の破滅は受け入れられても、エリオットが傷つくのは違った。 彼の完璧な世界が、自分のせいで崩れるのは耐えられなかった。リオンの心には、いつの間にか、エリオットへの深い「情」が芽生えていた。それは、歪んだ形で与えられた愛情だったが、孤独なリオンにとっては、唯一の光だった。彼にだけ見せるエリオットの「弱さ」や、彼だけを特別視する視線が、リオンの心を確実に侵食していたのだ。彼の存在を、これ以上傷つけたくない。その強い思いが、リオンの心を突き動かした。
絶望と、そしてエリオットへの秘めたる情が交錯する中、一筋の「光」が差し込んだかのように、聖女セレスティーナがリオンの前に現れた。彼女は、その場に集まっていた生徒たち、そして教師や公爵家の人間たちの前で、ゆっくりとリオンに歩み寄った。
「皆様、どうかお待ちください!」
聖女の声が、静まり返った学園の広場に響き渡る。その声には、悲痛なほどの慈愛が込められているように聞こえた。
「私は、リオン様が真に悪しき心の持ち主だとは信じません。きっと、何かの間違いがあったのですわ。彼の心を蝕む『闇』を、私が光で癒して差し上げたい……!」
周囲の生徒たちは、聖女の言葉にざわめいた。
「聖女殿下は、まさかあの悪役令息を庇うのか!?」
「なんてお慈悲深いお方なんだ……!」
聖女は、その非難の声にも動じず、リオンの前に跪き、彼の冷たい手を取った。その姿は、まさに慈悲深い聖女そのものだった。その瞳の奥に、わずかに勝利の光が宿っているのを、リオンだけが感じ取った。
「リオン様。貴方は今、大変な苦境に立たされています。誰一人として、貴方を信じようとしない。このままでは、貴方は全てを失ってしまうでしょう。しかし、私は貴方を信じたい。貴方を、このまま見過ごすことはできません」
彼女は、涙を浮かべながら、しかしその瞳の奥には揺るぎない決意を宿して、リオンを見つめた。その声は、広場の隅々まで届くように響き渡った。
「私と、婚約してくださいますか? もし貴方が私の婚約者となれば、私が聖女として、貴方の潔白を証明し、貴方を救ってみせます。そして、貴方が二度とこのような過ちを犯さないよう、私が心を込めて導きましょう。貴方を、私の光で包み込みますわ」
その言葉は、まるで青天の霹靂だった。聖女が、この「悪役令息」の俺に、婚約を提案する? 周囲のどよめきが、嵐のように大きくなる。人々は聖女の「慈悲深さ」に感動し、中には涙を流す者さえいた。彼女の「犠牲的な愛」に、広場は熱狂した。
(この女は……僕を利用して、エリオットの気を完璧に引き、さらには公衆の面前で「悲劇のヒロイン」を演じようとしている……! その上で、僕を完全に社会から抹殺するつもりだ……!)
リオンには聖女の思惑が手に取るように分かった。聖水汚染の件も、全て彼女の仕業だろう。彼女は、自分を「悪役」として利用し、婚約破棄という名の断罪の舞台を整えようとしているのだ。
だが、リオンの脳裏に浮かんだのは、苦しげに顔を歪めるエリオットの姿だった。このままでは、自分だけでなく、エリオットまでもが、聖女の策略によって泥を被るかもしれない。エリオットのあの歪んだ執着は、彼の完璧な名声をも傷つけかねないものだった。
自分自身の破滅は受け入れられても、エリオットが傷つくのは違った。彼の完璧な世界が、自分のせいで崩れるのは耐えられなかった。 何故なら、彼は、紛れもなくリオンの「光」だったのだから。
聖女との婚約は、エリオットを聖女の直接的な狙いから遠ざけ、彼をこれ以上、自分の「悪役」の道に巻き込まないための、唯一の方法に思えた。それは、自ら「悪魔」と契約し、愛するエリオットを守るために、更なる地獄へと身を投じることだった。
リオンは、聖女に取られた手のひらの冷たさを感じながら、静かに、しかし決然と、顔を上げた。その瞳には、諦めと、そして新たな覚悟が宿っていた。
「……分かりました」
俺は、震える声で答えた。その声は、彼の決意を、彼の胸の奥で燃えるエリオットへの情を、確かに含んでいた。
「婚約、お受けいたします。この身が、貴女の光によって清められるのならば……」
聖女の顔に、完璧な勝利の笑みが浮かんだ。それは、慈愛に満ちた聖女の表情の裏に隠された、冷酷な捕食者の顔だった。彼女はすぐに立ち上がると、リオンの手を高く掲げ、集まった人々に向けて高らかに宣言した。
「皆様! この度、私セレスティーナ・アークライトは、フェルゼン公爵の次男、リオン・フェルゼン様と婚約いたしました! 私は、彼を信じ、光の道へと導くことを誓います!」
その声は、学園中に響き渡り、生徒たちは歓声と興奮に包まれた。誰もが、聖女の慈悲深さを称え、リオンの幸運を口々に話した。彼らは、リオンが「救われた」のだと信じていた。
だが、その時、広場の端に立っていたエリオットの表情が、一瞬で凍り付いたのを、リオンは見逃さなかった。彼の完璧な笑顔は消え失せ、瞳の奥に燃え盛るような怒りの炎が揺らめいているのがはっきりと見えた。それは、自分だけの獲物を奪われた捕食者の、純粋な激怒と、焦燥だった。
(これで、お前は、この泥には染まらない……。僕の愛しい、エリオット……)
エリオットから逃れるためでもあったが、彼の名誉を守るために選んだ道は、聖女という、また別の「悪魔」との契約だった。この婚約が、俺をどのような運命へと導くのか、俺にはまだ知る由もなかった。だが、少なくとも、愛するエリオットをこれ以上、自分の暗い運命に巻き込まないための、彼なりの決断だった。
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