第2話
「……ん?」
色々考えながら歩いていると、ふと、気配を感じて顔を上げた。
まだ日も射し込まない早朝、回廊の所に
日中や夜は、あそこで彼の姿を見ことは今までにもあるのだが、こんな明けきらない早朝に郭嘉を見るのは実は非常に珍しい。
昼下がりまであの男が外に出て来ることは、
回廊に佇んで、庭の方を見ている。
珍しい姿になんとなくそこで遠くに見上げていると、前と同じように一人の女が部屋から回廊に出て来た。
呼ばれたように郭嘉が振り返り、二人で何かを話している。
最初は静かに話していたが、そのうち女の方が感情が昂ぶりだして、何かを郭嘉に懸命に言い募っていた。
郭嘉の気配は、ひたすら静かだ。
静かに女に対して話しかけている。
そもそも郭嘉が女に対して怒ったり声を荒げるところを、見たことがない。
その時も最終的に、女を落ち着かせようとしたのか両腕を広げて、おいで、というような仕草を見せたが、ゆっくり近付いていった女は郭嘉と見つめ合って、何か二、三言葉を交わしたあと、突然郭嘉の顔に平手打ちをした。
(おっと)
郭嘉が女に叩かれてるのを初めて見た。
女は郭嘉を叩いて、その場から泣きながら駆け出して行った。
郭嘉は女に常に囲まれている男だが、
つまり極端に情の濃い女はおらず、皆、素直に郭嘉から声が掛かるのを待っているし、彼を独占しようと足掻くような女は滅多にいない。
そういう女を郭嘉が選んで側に寄らせているのか、それともそうではない女を、女達が自然と淘汰し、郭嘉に近付けないようにしているのかは分からなかったが、とにかく無分別に不特定多数の女と戯れてるように見えても、実際かなり統率が取れているのだ。
ああいう女はとても珍しいなと思って賈詡はつい、もっとちゃんと女の顔を見ておけば良かったと思った。
一瞬のことで、あまり覚えていない。
ふと女を見送った郭嘉が、回廊の柱に背を預けるのが見えた。
額に手を当て、少し天を仰ぐような仕草を見せた。
賈詡は歩き出す。
なんとなく、自分がひどく無粋な
郭嘉。
司馬懿。
人間というものは本当に様々な事情を抱えているものだなと思う。
曹操は曹丕に自分の手勢を持つことを求めていて、皇太子ではなく一軍の将としての扱いに終始していた。
曹丕はそういう自分の扱いに、一切文句を言ったことがない。
曹操に逆らったこともない。
ただ時折じっとあの氷色のような目で、こちらを見てない父親を睨みつけていることがあった。
皇太子に指名されながらも、一度もそのような扱いを受けてない曹丕に、中には少し同情するような人間もいたほどだ。
しかしそういう人間が擦り寄ることも曹丕は嫌った。
彼は自分自身が曹操に毛嫌いされていることは受け入れられても、他人の余計な振る舞いで父親との間に不和が生じることは非常に嫌っていた。
そういうことをする人間は曹操の判断に不満を持っていると報告することすらあり、いつしか曹丕の境遇に哀れみを感じながらも、誰も何も言わなくなった。
「戦死するのを待っているんだろう」
曹丕の境遇に同情を寄せる人間の中に、
これは非常に珍しいことで、曹操の行うことに荀彧が不満を隠さないことは滅多にない。
「普段はそういうことがあっても荀彧殿は隠す。
殿を信じているからね。殿からの自分の信頼も信じてる。
考え方が違うことはあの二人にもあるんだよ。
でも荀彧殿は賢いから殿を理解できる。
だから歩み寄れる」
曹丕の扱いには、歩み寄れなかったということだろうと
「つまり皇太子にあんな扱いをすれば、結局は曹操殿の為にもならないということか」
「そう。だから殿のために荀彧は曹丕殿を気にかけている」
決して公ではない場所で荀彧が曹丕と二人だけの時に、曹操の貴方への扱いは間違っていると思うから、自分から少し助言しようと思うのだがと彼に声をかけているのを郭嘉と居合わせて、偶然聞いたことがある。
「私には分からないのです……。貴方を皇太子として認めず、今の扱いならまだしも、殿は結局貴方を皇太子とお認めになった。
認められた以上はそのように扱わないと、『何故なのだ』と臣下達に思われる部分が増えてくる。それは
貴方は、父上が皇太子として自分の補佐を任されたり側で教えを受けることを――拒まれるような方ではありませんね?」
「私は
曹丕の答えは荀彧を頷かせた。
「立派な御覚悟だと思います。
私が分からないのは殿の方です。
何故、貴方を今更一軍の将としてなど、使おうとなさるのか……」
曹丕が短く返した。
『戦死するのを待っているんだろう』
そう言われた時の荀彧の顔が、賈詡は忘れられない。
(あいつが論破されるのを初めて見た)
荀彧とて、考えればそれが分かったはずだ。
消去法でも「何故」を突き詰めれば。
しかしあの時は本当に驚いた顔を見せた。
父親が息子の戦死を願って戦場に送り込むという、その発想が醜すぎて考えるのを潜在的に拒否していたのだ。
自分の不条理な扱いや人生をあれほど静かに達観出来るのであれば、王としても、広い視野で物事を捉えられるだろうと思ったのだ。
曹操があまりに曹丕を嫌うので、見込みがない若造なのかと思い込んでいたが、賈詡は自分の目で決してそうではないと判断した。
「荀彧を黙らせるとは。
郭嘉は去って行く曹丕の姿を見送ってから、静かに呟いた。
「……でもあれでは
そう言って慰めて来る、と歩き出した。
可哀想なのはむしろ父親から厳しい愛すら与えられてない曹丕の方ではないか、と賈詡は思ったのだが、珍しく肩を落として立ち尽くしていた荀彧に近付いていくと、静かに声をかけ背に手を当てて、慰めてやるように優しく撫でて肩を抱き寄せてやっているその姿に、
自分と郭嘉の本質の違いを見た気がするのだ。
つまりあそこで荀彧の何が可哀想なのか、分からないのが曹丕や自分や、曹操なのだ。
例えば司馬懿は分かるのだろうか?
あの優しげな副官、
時期を突然早めたが、この涼州遠征は予想以上に混沌とした状況を作り出すかもしれない。
賈詡にはそんな予感がした。
(だが結局俺達は戦が商売だ)
振り返ると、しばし立ち止まっていた郭嘉が回廊の向こうへと歩き出す背が見えた。
(いつまでも三国で馴れ合ってるわけにはいかない。
いずれ動き出さなきゃならんのなら、今動いたって同じだ)
どんな痛みや、苦労や、躊躇いがあっても、
自分達は歩き出すのだ。
魏軍の、
――魏の、誰よりも早く。
(そうだろ、先生)
賈詡は歩み出した郭嘉を見届けて、自分も反対の方向へと歩き出した。
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