第3話



 撃ち抜かれた木の的がパーンと明るい音を立てる。


「お見事です」


 曹娟そうけんが振り返ると、側で矢の行く先を見守っていた陸議りくぎが微笑んで頷いた。

 

「もうこの距離では外されませんね。

 曹娟殿は本当に弓の筋がいい。

 矢が飛ぶ軌道をもう把握されたようです」


 陸議に一礼し、曹娟が歩いて来る。

 陸議は弓を預かり、弦を軽く引いて確認をした。

 大丈夫なので、曹娟に返した。


「つい二週間前に初めて弓を持たれたとはとても思いません」

「ありがとうございます」


 曹娟はあまり普段表情の豊かな人間ではなかったが、今は表情が明るい。

 武芸には無心にさせてくれるところがあるし、同時に気と共に心も解き放つようなことも出来るため、そういう面が出て来ているのだと思う。


「槍も上達が早いですが、弓がお好きなのでは」


 曹娟は頷く。

「槍はまだまだ難しいです。何より相手がいるので、相手が何をしてくるのか、色々考えながら振らなくてはなりません。その点、弓は無心になれますから、いいですね」

 水庭に行って、布で額に浮かんだ汗を拭き、手の汚れを丁寧に落とす。

 綺麗になると四阿に行って、冷たい茶を淹れた。


「ありがとうございます」


 曹娟が茶碗を渡してくれたので、お礼を受け取った。


 庭では一面の青い竜胆りんどうが風に揺れている。


 曹丕そうひが許都に戻ったが、彼は戴冠式への色々な雑事があるので、集中したいということで許都きょとのすぐ側にある離宮に滞在している。

 甄宓しんふつは今そちらに行っているので、許都のこの城には不在だ。


 甄宓は皇后になるべきような女性だと元より思っているが、曹娟そうけんは曹丕が皇帝になることで自分の生活がどのように変わるのかなど、想像も出来なかった。

 今、甄宓は静かな生活を望んでいるから自分などが側にいられるのだろうが、皇后にもなればもっと女官を従えることになるだろうし、煩わしいことが増えそうだ。


 そう考えるとこの庭で、こうして涼やかな風に吹かれていられることがたまらなく幸せなことに思えた。


 いずれにせよ、自分には甄宓が全てだ。

 あの人にいらないと言われるまで何があっても側を離れないし、

 もしいらないと言われても直せることがあるなら何でも努力して、出来るかぎりのことをしようと思っている。


 こういう時、大嫌いだった自分に流れる曹家の血も有り難いと思える。


 少なくともいくら人が増えても、曹家は王家の血だ。

 曹丕の従妹いとこである限り、決してこの血が軽んじられることはない。


 他家に嫁した時は、その家の妻になった以上曹家の血は関わりないと、ただ夫に尽す妻であることを求められた。

 また実家の曹家の母も、元々兄妹の中で一番暗い性格をしていた曹娟を嫌っていたので、その性格のせいで離縁などされて戻ってくるなよと厳しく言われて送り出された。

 だからいくら曹娟が嫁ぎ先で軽んじられても、実家が庇ってくれるようなことはなかった。


 だがここでは曹家の血は強いから、曹丕や甄宓しんふつ以外の人間が、自分を暗いだとか醜いだとかそんな理由で排撃することは出来ない。

 それだけでも曹娟にとっては幸せなことだった。


「考えてみれば曹娟そうけん殿も曹家のお血筋。才能がおありになるのでしょう」


「才能があるなんて……小さい頃から一度も言われたことありません。

 確かに曹家には曹操そうそう殿の数多の側室の御子がおられて、その中には子供ながらに才溢れる方もいらっしゃいましたけど。

 わたしは違います」


 陸議りくぎは曹娟を見た。

 彼女は顔の火傷もそうだが、別に他者の温かい慰めを全く欲していない。

 曹家に生まれながらも決して重んじられてこなかった境遇を、もうとっくに諦めて冷静に受けとめていた。


 だからこういう言葉は、事実としてだけ淡々と伝える。


 陸議も「陸家とは疎遠だ」ということを、いつしか淡々と口に出来るようになった。

 以前は上手く行ってるように取り繕ったり「疎遠だ」と言ってしまえばその事実から逃れられないような気がして、口にしないようにしていたけど取り繕っても、疎遠ではないと言ったとしても、事実は変えられないのである。

 陸議が陸家において人望のない当主だったのは事実なので、いつしか冷静に受け止めるようになった。


 だから曹娟の気持ちは分かるのだ。

 慰めではなく、事実として言った。


「けれど、弓の上手は真実ですよ」


 微かに微笑んで陸議が言うと曹娟は一瞬こっちを見たが、頷くようにして少し視線を下げた。

「……ありがとうございます。私は甄宓様以外に誉めていただいたことがありません。

 けれど、陸議様は無駄なお世辞を言う方ではないと思いますので、そう言っていただけると嬉しいです」


 不思議な人だ、と思う。


 陸議がどこから来て、何故司馬懿しばいと共にいるのかはまだ分からない彼らの事情だ。

 ただ、陸議は司馬懿に「多大な恩義がある」らしい。

 そのために彼の側にいて、彼に命じられた仕事をしようとしているのだという。

 曹娟も曹丕が甄宓しんふつの側仕えにしてくれたことで人生が変わった。

 希望を持てるようになった。

 だからその気持ちは痛いほど分かった。

 しかし、それにしては司馬懿の様子がおかしいと甄宓は言っている。


 恩を売って己に仕えさせるなど、司馬懿からすれば使い古した手口なのだという。

 司馬懿の子飼いの密偵部隊はなんなら皆そうだ。

 だから司馬懿の密偵は曹家でもなく曹丕でもなく、司馬懿にのみ忠誠を誓っている。


 そういう者たちを司馬懿は容赦なく扱うので、陸議りくぎのように側に常に置いて、色々経験を積ませ戦場に連れて行こうとしてるのは、明らかに今までの人間とは違う扱いなのだと。


 つまり司馬懿の方も陸議を尊重していると十分に言える。

 陸議が言う、彼だけが司馬懿に一方的に恩がある状況とは少し違う。


(それに甄宓様は陸議様はきちんとした教育や躾を受けてきた人だと言っていた)


 曹娟りくぎもそれは日々感じている。

 彼女も一応、曹家の人間なので愛情は与えられてこなかったが教育と躾は受けてきた。

 陸議の所作の美しさや知性や知識、書を書く嗜みは、かなり身分の髙い家で施される類いのものだ。


(でもそのわりに……)


 一人で掃除をしたり、部屋を整えたりすることに躊躇いがない。

 そんなに身分が髙いならば、身の回りのことは世話係がやっているはずだ。

 自分で手慣れてるはずがない。


『曹娟も曹家の姫ですけど、自分のことは自分でしますわ。

 しなければ叱られたし、誰もしてくれなかったから、するしかなかったのでしょう?

 陸議さまももしかしたらそうなのかもしれないわ』


 つまり身分の高い家ではあるが陸議が外腹などの子なので、彼自身は軽んじて来られたというような、そういう事情があるかだ。


 確かにこの青年の周囲には、何かそっと潜むような影はある。

 気にならない程度の、儚い雰囲気である。


 しかし日中は、それはさほど表には出て来ない。

 曹娟は顔の傷が原因で内向的になってしまった自分を、幼い頃から隠すことが出来なかった。

 どこへ行っても暗くて可愛げのない娘だと言われた。

 陸議にはそういうものはない。

 彼は曹娟のように人から目を逸らさず、真っ直ぐに見つめて来た。

 憂うような表情は時折浮かべるが、柔らかい喋り方をし、優しく笑う。

その空気が、このように女衣を纏っていても、絶妙にその優しげな衣の色に溶け込んで、中性的な容姿も相まって、違和感のないものにしている。


 ……不思議な青年なのだ。


 曹娟そうけんはあまり陸議のような男に会ったことがない。

 彼女は大抵、王統の血に連なる気位の高く親しみに欠ける男か、女ならば男が支配していいのだと傲慢に振る舞ってくるような男しか知らなかったからである。



「涼州遠征は、十日後に?」



「はい。正式に決まりました」

「冬はあちらで過ごされるのですね?」

「なにか余程、別の戦線にないかぎりは、涼州に専念することになると思います」

「そうですか……涼州の冬は厳しいと聞きました。陸議さま、どうかお気をつけて」


「ありがとうございます。曹丕殿下の戴冠式は春か秋だと司馬懿殿が仰っていました」


「はい。私もそのように甄宓様から聞いております。

 涼州遠征でどのような成果が得られるかによるそうですよ。

 涼州りょうしゅうに残った騎馬隊をあらかた制圧出来れば、春に戴冠式を行えるそうです」


 そうですかと陸議は静かに微笑んだ。


「では私達が頑張らなくてはなりませんね」


 陸議が立ち上がった。


 陸議は確かに剣も弓もよく嗜む。

 だがどうしても曹娟は彼が戦場で敵を斬りまくって戦う姿が想像出来なかった。

 物静かで優しげな雰囲気しか、彼からは感じないからである。


(司馬懿殿ならば……他にどれだけでも戦場に似合う人材を持っていらっしゃるはず。

 何も陸議様をお連れしなくてもと思ってしまうのだけれど)


 竜胆りんどうの方へ歩いて行ってそこに佇み、風に吹かれ、一面の花を見つめている背は、何か心許なかった。

 それは決して女衣を着ているからという理由ではないと思う。



「ああ……またあの女性が来ていますね」



 しばらくして、陸議がこちらを見て言った。


「回廊にいます。誰なんだろう……こちらを窺っているんですが、何か危害を加えようとしている感じではない気がします。……誰かを探しているのではないでしょうか」


「でも……ここには本当に限られた者しかいませんわ。

 いつもおられるのは甄宓しんふつ様か私か、あとは数人の女官です」


「ではその中のどなたかに用があるのかもしれません」


「私を突然訪ねてくる者などはいないと思います」


「顔を確認出来ますか? 東の回廊の……紅葉の側におられます」


 曹娟がゆっくりと立ち上がり、水庭の側の四阿しあからそちらを見た。


 薄紫色の深衣しんいを身にまとって、一人の女がこちらを見上げている。

 女にしては少し背が髙い。明るい茶色の髪を結い上げて、藍色の飾り紐を垂らしていた。


「見覚えはありますか?」

「……やはり無いようです」

「そうですか……」


 女は曹娟達がこちらを見ているのに気付くと、また身を翻してしまった。


「悪しき気配はそんなにしないのですが、少し気になりますね。

 やはり話を聞いてきた方がいいと思います」


 陸議が追って、駆け出していった。


「お気をつけて!」


 曹娟はそこから声を掛けた。



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