第9話
上映後。劇場の外は、もうすっかり寒くなっていた。
人の波に流されながらも、梓の隣を歩く。まだ、彼女の指先の感触が手に残っている。
なんだろう、この不思議な余韻は。映画のラストよりも、彼女の手の温もりの方が強く焼き付いてる。
「映画、面白かったね」
梓がぽつりと呟く。
その声に我に返る。俺は頷きながら、ポケットの中のスマホに指を滑らせた。
「ねえ、このあと、少し寄り道してもいい?」
「えっ?」
「ちょっと行ってみたい店があって。梓も甘いもの好きだったよな?」
自分で言っておきながら、どこか緊張していた。断られたらどうしよう。変に思われたら、そんな不安が胸の奥でざわつく。
「うん。特にフルーツ系のパフェとか、チョコも好き。なんで?」
その答えに、心の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ、ぴったりかも。実はさちょっと前に、梓が好きそうなカフェ見つけて、今日のために予約しておいたんだ」
俺はスマホ画面を見せた。抽選当選と書かれているが、実際は何度もキャンセル待ちを狙って粘った末、ようやく取れた席だった。
この日を、梓と一緒に過ごすって決めてた。だからこそ、ちゃんと準備したかった。
「へぇ、伊吹って、そういうの、ちゃんと調べてくれるんだ?」
「うん。どうせなら、梓が喜んでくれるところがいいなって思ってさ」
本心だった。でも、そう口にするだけで顔が熱くなる。
一瞬だけ驚いた顔をした梓だったけれど、すぐに柔らかく笑って頷いた。
「うん。行ってみたい」
その笑顔に、すべてが報われた気がした。
カフェは映画館から少し歩いた場所にある、ガラス張りの静かな店だった。
SNSに映えるように計算された内装は、非日常の気配を纏っている。
まるで時間の流れが、ここだけゆっくりになるような空間だった。
中に入ると、窓際の二人席へ案内される。向かい合わせではなく、自然と隣に座る配置だった。
この距離、やばいかもしれない。近すぎて、呼吸の音まで聞こえそうだ。
「こういう席、ちょっと照れるね」
梓が頬を染めながら笑う。その照れ笑いが、俺の鼓動を跳ねさせる。
「でも、ここは景色もいいし、いい雰囲気だね」
「そうだね。伊吹君がこんなおしゃれなカフェにエスコートしてくれるなんて、ちょっと意外かも!」
「いや、たまたま見つけたってだけ」
「ふふっ、ありがと。でも、嬉しいよ!」
どうしてこんなに、梓の言葉は胸に沁みるんだろう。
俺はフルーツパフェ、梓はチョ子レートパフェを注文し、それぞれが運ばれてきた。
季節のフルーツがあしらわれたパフェは、見た目も華やかで、スマホを向けたくなるほどだった。
「すごっ。可愛い!」
梓の目が輝く。そのきらめきが、パフェよりもずっと綺麗に見えた。
「一口、食べてみる?」
「え、いいの?」
スプーンを差し出す。心臓の鼓動が早まるのを感じながら、静かに息を整えた。
ほんの少しだけためらってから、梓が口を開く。
「あーん」
小さく口に含んだ彼女が、ふわっと笑う。
「おいし、甘すぎなくて、好きかも」
ああ、やばい。今、世界で一番かわいいものを見た気がする。
その表情があまりにも無防備で、思わず視線をそらしてしまった。
「じゃあ、伊吹君にもお返しだね」
小声で呟いた梓が、スプーンをお返しにそっと差し出してくる。
「はい、あーん」
彼女の声もどこか遠くに聞こえる。恥ずかしすぎて、その後、自分がどのようにしたのか、覚えていない。
あーんが終わって、ひと段落ついたころ、彼女が呟くように言った。
「今日はカフェも含めて楽しかったよ。ありがとね、誘ってくれて」
「うん。俺も、来てよかった」
言葉にするのは、まだ少しだけ怖い。だけど、今この瞬間の感情には、嘘がない。
これが、恋の魔法なんだろう。
このカフェのことも、スプーンを差し出すことも。
ノートにはそんな指示、なかったはずだ。
映画のときと同じ。俺はまた、自分の意思で行動した。
それが、なんだか誇らしかった。
「変わってきてるのかもな」
「え?」
「あ、いや、こっちの話」
誤魔化すように笑う俺に、梓が小さく首を傾げた。
その仕草すら、愛おしいと思ってしまった。
「伊吹君ってさ、変わったね」
「え?」
「前はもっと、距離を取ってる感じだったのに。今は、ちゃんと目を見て話してくれる」
そう言って、そっと俺の目を覗き込む。
その瞳に映っているのは、今の俺だろうか。
「うん、やっぱり。今回の伊吹君は、ちゃんと優しい」
「今回って、なに?」
「え? あっ、なんでもないよっ!」
でも、梓は笑っていなかった。
ほんの一瞬。口元は笑っているのに、目だけがどこか遠くを見ていた。
胸の奥が、ひやりと冷える。
店を出た頃には、夜の帳が降りていた。
梓がそっと俺の袖をつかむ。
「もうちょっと、ゆっくり歩こっか」
「うん」
柔らかな灯りが揺れる帰り道。梓の横顔はどこか、夢を見ているみたいに静かで、綺麗だった。
こんな時間が、いつまでも続けばいいのに。
「今日は、ありがとね。伊吹と一緒だと、世界が少しだけ、優しく感じる」
「そう言ってもらえると、なんか、救われる気がするよ」
何気ない会話。でも、その優しさの裏に、何か大事なことが隠れている気がして。
ノートがあっても、なにも見えない。
だけど、その手のぬくもりだけは、確かに感じていた。
最新話まで読んで戴きありがとうございました。
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