第10話

「ねえ、伊吹くん。ちょっとだけ、うちに寄っていく?」


 何気ないようで、あまりにも破壊力のあるその一言に、思考が一瞬で真っ白になった。


今、なんて?


 帰り道。カフェで笑い合って、映画を観て、今日はいつもより少しだけ距離が近かった。それだけで、十分すぎるくらい幸せな一日だったのに。


 そんな完璧な日の終わりに、まさか彼女の家へ行けるなんて。


「え、あ、うん。いいよ」


 情けないくらいしどろもどろな返事だった。それでも、止められなかった。心臓の高鳴りが。


 期待と緊張。

 そして、なにか決定的なものが訪れる予感。


 それを悟られたくなくて、俺は少しだけ彼女との距離を取って歩いた。


 梓の横顔は、なぜか遠くを見ているように見えた。


 彼女の部屋に入った瞬間、足が止まる。


 無音。


 いや、音だけじゃない。

 色も、匂いも、温度も、感情さえも感じられなかった。


「なんか、ミニマリストって感じの部屋だね」


 気を遣ったつもりだった。でも、聞こえてきた自分の声がやけに浮いていた。


 白い壁、無地のカーテン、必要最低限の家具。

 ポスターも、写真も、本も、何もかもが少ない。


 生活感がないというより、「何か」を消したような部屋。


「えっと、引っ越しが多いから。荷物は最小限にしてるんだ」


 本当に、それだけが理由なのか?


 そう思った。でも、怖くて聞けなかった。


 この部屋があまりにも異質で。

 彼女自身が、今にも崩れてしまいそうで。


 重たい沈黙。


 鞄の中にある、ヒロインの攻略ノート。

 その存在が、俺の心を縛る。


 指先で、ノートのページをなぞる。

 そこには、こう書かれていた。


『20時には自宅にいろ』


 つまり、今はここで何も起こすべきじゃない。ただ帰れ、と。


 ノートの指示は、いつだって正しかった。


 でも。


 俺は、ここにいる。

 自分の意思で、彼女の隣に。


 ノートの通りに動けば、間違わずに済む。傷つかずに済む。


 でも、それって、本当に生きてるって言えるのか?


 このままじゃ、何も伝えられないまま、全部ノートのせいにして終わる。


(壊れそうな彼女を、無視して帰るなんてできない)


 だったら、たとえ嫌われても。

 たとえ、それが正解じゃなかったとしても


(彼女の、本当の声を聞きたい)


 心の奥で、何かがはじけた。


「梓」


 震える声が漏れる。


 ゆっくりと顔を上げた彼女の目には、怯えと、ほんの少し、期待が混じっている気がした。


「ずっと考えてたんだ。どう動けばうまくいくのか、失敗しない方法は何かって。そればかりを、ずっと」


 手のひらに、じっとりと汗が滲む。けれど、言葉は止まらなかった。


「でも、それだけじゃきっと君には届かない。どんなに慎重に選んでも、本当に大切なことは、計算じゃ決められないから」


 目を逸らさずに続ける。たとえ声が震えても、視線だけは外さなかった。


「たとえこの選択が間違いだったとしても、俺は自分の気持ちで、君に向き合いたい」


 一呼吸、置いて。


「俺は、梓が好きだ。

 子どもの頃は、ずっと君の背中を追いかけてた。

 でも今は、君の隣に立って、一緒に歩いていきたいと思ってる」


 沈黙が、すべての音を呑み込む。


 梓が、口元に手をあて、そっと視線を伏せた。


 肩が、ふるりと揺れる。


「ごめんね、伊吹くん」


 涙の混じった声だった。


 拒絶の言葉以上に、彼女の悲しそうな涙が、胸を締めつける。


「そっか……」


「今のままじゃ、ちゃんと向き合えないの。私、自分のことも、伊吹のことも、まだ何ひとつ……」


 涙をぬぐう仕草が、不器用だった。


 彼女の声は、まるで誰かに台詞を読まされているかのように、どこか平坦で。


(これは拒絶じゃない)


 その確信が胸を貫いた、その時。


 視線が、机の端に吸い寄せられる。


 黒いノート。


 どこかで、見たことがあるような。

 無地の表紙。ヒロイン攻略ノートと酷似していた。


(まさか)


「あれって……」


 言いかけた声を、梓の手がそっと遮った。


 まるで、それ以上近づくなと言わんばかりに。

 そのまま、ノートを静かに隠す。


 異様なまでに、静かな動作。


 そしてそこには、はっきりとした拒絶の意志があった。


 横顔をそむける梓の表情は、悲しげで。

 どこか、諦めているようにも見えた。


(やっぱり……)


 彼女も、俺と同じものを抱えてる。


 いや、もっとずっと前から、それに苦しめられてきたんだ。


「なあ、梓……」


 言葉を探して、一度だけ息を呑む。


「もしさ。もし、未来に予言みたいなものがあって、それに従う必要があるとしたら」


 彼女は、少し驚いた顔をした。


「君なら、どう行動する?」


 そっと問いかけるように、言った。


 その問いに、彼女は答えなかった。


 でも、きっとそれが始まりなんだ。

 彼女と、本当の意味で向き合うための。

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